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第一章 あの夏への並木道

 欅の緑がギラついていた。木陰で一息つけるようなレベルではない。地球温暖化などという話にどれほど妥当性があるのかどうか、彼女は判断をつけかねていたが、この陽射しはどこか狂っている。まるであの夏のようだ。

 欅並木が続いていた。彼と会うのは久しぶりだ。

 無論あの夏以来というわけではないが、もう随分会っていない気がする。

 部屋を出る前つけていたテレビが例のカルト教団幹部たちの死刑執行を報じていたが、そのことがまた彼女に、ある季節が一巡したのだという感慨を抱かせた。

 一九九九年第七の月。恐怖の大王。ハルマゲドン。石油資源が枯渇するのがちょうどその頃になるだろうなどと、まことしやかに語るビリーバーたちがいた。その癖バブルのお祭り騒ぎだけは永遠に続くと思っていたのだから、狂っていたのは何も、あのカルトの信者たちばかりではない。

 少し前に起きたソ連の原発事故が僅かに影を落としてはいたが、声高に原発反対などと叫ぶことはヨガによる空中浮遊を信じることよりよほど、狂気の沙汰だった。あるアニメの劇場版第二作の受け売りで、本当に誰もが、胡蝶の夢の話をしていた。

 ではあの時代はもう終わったのか? 再び近代科学と西洋民主主義と宗教からの目覚めの時代がやってくるのか?

 そんなことはないだろう。地球温暖化なんて所詮誰かの陰謀だし、引用されるデータにだって無限の解釈が常に可能だ。そもそも最新のビッグデータをヒトは直接扱うことができない。AIのディープラーニングに頼るしかない。そしてやがて恐怖の大王の代わりに、技術的シンギュラリティが降ってくるだろう。

 桂木美知。伊東吾一。

 彼女も彼も時代から浮いた存在だった。そしてこれからも多分ずっと、彼らのものではない誰かの時代が続いていくのだろう。

 だが取り敢えず、待ち合わせ場所の喫茶店には着いた。美知は無造作に、お待ち合わせですかと訊いてきたウェイトレスを無視していた。もう眼が自然に、吾一のことを探している。

 窓際の席で自分だけの世界を作って、彼は相変わらず、文庫本を読んでいた。先のウェイトレスに非礼を詫び、同時に彼のほうへ一歩踏み出す。

「早いのね? 何飲んでんの?」

「コーラフロート。あっ、アイスが溶けて濁っちゃってる」

 ちょうどオーダーを取りにきたウェイトレスに、

「私はホットコーヒー。彼にはそれ、お代わりね」

 と告げた。彼は「勿体ないよ。まだほとんど飲んでない」などと不満顔だったが……。

 互いに合わないでいた時間を一気に飛び越えた、などと表現すると何やら恋愛ドラマのカップルのようだが、まったくそのような二人ではない。

 美知のほうは美人なのだ。自分でいうのもなんだが、などと思いつつも、鏡を見れば一目瞭然だった。また今この瞬間にも、他の席の男たちが彼女のことをチラ見していて、その向かいの女たちから顰蹙を買ったりなどしているのだった。服は地味なワンピースなのに……。もう五十路のおばさんなのに……。あり得ないほど艶やかな黒髪をしている。強い眼ヂカラとやや驕慢な感じの鼻梁を、僅かに丸い頬から顎にかけてのラインが、やわらげている。

 吾一のほうは中肉中背。ただのオッサンだ。コーラフロートが妙に似合っている点を、可愛いと取るべきか、どこか不気味だと取るべきかによって、総合的な評価にばらつきがでそうな感じだが……。

 二人が出会ったのはあの狂騒の時代。一九八八年。場所も東京郊外の三流私大のキャンパス内で、まさに時代のサンプルのようなシーンだった。あらゆる楽しみが溢れていて、祭りが延々と続いていて、それでも誰もが、どこかで何か、捌け口のようなものを探していた……。

 英正大学桜ケ丘キャンパス。

 巷では写真週刊誌やテレビのワイドショーが世相を転がしつつ転がされていたが、同大学のマスコミ研も、今でいうマスゴミの走りのようなそうしたメディアのトレンドに忠実だった。女性学の講座が新たに開講される一ぽう、学祭のミスコンなどは悪ノリの絶頂期で、美知はエントリーなどしていないのにいきなりそのマスコミ研に呼ばれ、『エイセイ・トリビューン』などというご大層な誌名の学生新聞の撮影があるので、明日は水着をなん着か用意し、中央線の吉祥寺駅まできてくれ、などといわれた。

「馬ッ鹿じゃないのっ! ふざけんなっ!」

 そう怒鳴りつけ校友会室の一遇にあった同研究会の席を蹴って出たのだが、翌週配られた同誌のミスコン特集ページには、彼女の学生証のコピーが載っていた。さすがに学籍番号やアドレスなどは黒く塗り潰されていたが……。主な新聞に掲載されている「首相動静」をもじった「女王動静」などというコーナーも始まってしまった。番記者などというものもついて、トイレの前まで追い回された。

 真剣に退学を考えた。とはいえ裁判などはもってのほかだ。なぜ? 美知は気の強い女だったし、やられたらやり返す主義でもあったのだが、彼女には目立ってはいけない理由があったのだ。

 ばば様……。

 故郷の村を出るとき唱えさせられた誓いが、頭のなかでぐるぐる回った。

 一、決して正体を知られてはならない。

 一、不用意にひとと親しくなってはならない。

 一、できるだけ普通の食事をしなければならない。

 一、もしもひとの精をいただく場合は、決してそのひとを死に至らしめてはならない。

 一、以上のことが守れない場合は、学業の継続を諦め、この村へ帰ってこなければならない。

 ある期間以上村を出たことがある大人たちに訊くと、外のひとたちはこうした言葉から、大抵の場合吸血鬼を連想するのだという。そしてそれは、ある意味間違ってはいないのだった。美知たちの種族はヒトの精を吸うのである。そして吸血鬼も血液を介して、ヒトの精を吸うのである。さらに、ヒトを殺してその肉を食べなければ命の恵みにあずかることができない、人狼などの種族もあった。皆古い種族だった。

 ところで美知たちの種族なのだが、彼女らに関してはむしろ、自らの息を吹きかけることによって、ひとびとを死に至らしめるのだという話が伝わっている。彼女らの息を浴びたヒトは、カチカチに凍って死んでしまうのだ。そう。彼女らは一般に、雪女と呼ばれていた。

 彼女らがヒトの精をもらうとき、まず自らの息を吹きかけ、その相手を眠らせるということは確かにあった。無論相手の殺害を意図し、息を吹きかける場合もあっただろう。とはいえ多くの場合、彼女らもまた吸うのだった。ただし美知は村を出て以来一度も、ヒトの精を吸ってはいないのだった。

 とはいえ彼女も、マスコミ研のメンバーらに関しては、その殺害を考えないわけではなかった。吸うのではない。ただ殺すのだ。さすがに記事にはされなかったが、例の番記者はダイバーズウォッチのストップウォッチ機能で、彼女のトイレの所要時間まで記録していたようだ。もしもそんなものが公表にされたら! 彼女の怒りはギリギリのレベルにまで達していた。

 だが幸いなことに当時の文系学部は、年明け後のスケジュールなどあってなきがごとしだった。彼女は文学部史学科で、ミスコンがあった文化祭は一〇月。三ヶ月弱の我慢で取り敢えず逃げ切ることができた。四月からの新年度はそうした騒ぎもある程度収まり、あの番記者もあまり現れなくなっていた。もっともとき折り五食などでランチを取ると、例の「女王動静」に、「三日。A定、並盛りだが完食」などと書かれてしまうのだが……。

 さてそういうわけで、彼女はキャンパス内にシェルターを求めていた。ある日のこと、四四一号室(四号館四階の第一号室)はその建物の最上階だと思っていたのだが、階段だけはさらに上まで続いていることに気づいた。例えその先が行き止まりでも、そこに隠れてあの番記者をやり過ごすことができるのではないか? そう思って登ってみた。

「あっ……」

 思っていたより幸運だった。その場所は階下の四四一号室と同じく、仕切りを持たない広いスペースだったのだが、机も椅子もなくガランとしていた。床はコンクリートに水色の上薬のようものが塗られていて、一応すべすべだった。

 多分あまりいい仕事ではない耐震補強の結果なのだろう。窓際にコンクリートの柱がなん本も立っていて、それらの柱でできた四角形の対角線をなぞる形で、同じような柱が斜めに渡されていた。そのため不格好な三角形が幾もつできている。結果外光の取り入れが不十分になり、部屋全体が薄暗くなってしまっていたのだが、とはいえシェルターを求めていた彼女にとっては、それはむしろ歓迎すべきことだった。

 だが残念なことに先客がいた。吾一だった。

 彼は耐震補強の斜めの柱に様々な形で身を預けながら、いつも文庫本を読んでいた。

 あの場所にいってみる。彼がいる。そっと立ち去る。そんなことをなん度か繰り返した。ある日、またそっと消えようとしていた美知の背に、声がかかった。

「ここ、君の場所だった?」

 自分の想いとシンメトリーになる質問だなと思った。それで彼女は振り返り、

「いえ。君のほうが先。ちょっといい場所だなって思ってたけど……」

 といった。

「えーっ、ここがーっ?」

 彼がそういって笑ったので、彼女は思わず、

「だったらさ、君こそなんで?」

 といい返していた。

「いやこの学校、隠れ家になるようなとこ、あんまないじゃん? それでしょうがなくて……」

「そんなことないよ、五食とかさっ。なんも注文しなくてもずっといられるし、現に交際サークルのひとたちなんか、バック並べて、しっかり場所取りしちゃってんじゃんっ」

「だからさっ、僕みたいな奴には入りにくいんだよ……」

 妙なことで熱い応酬が始まってしまった。

「なんでっ? 逆に自意識過剰な感じでやだなっ」

「いや実際、あの手のサークルのひとたちって、ここひとくるんで済みませんが、なんていってくるんだよ」

「だからってどくことないじゃんっ。君が先にいたわけでしょ? 大体さっきだってさっ、君の場所だった? とか、なんかヘンだよ!」

 最初の会話はそんな感じになってしまったのだが、二人はそこで、しばしば合うようになった。美知がちょっと釘を刺したのだ。

「私にこの場所譲るとかって、そんな嫌味なこと、考えないでね! ちゃんと確認にくるからね!」

 吾一は妙なことも識っていた。美知が「君もサークル入ればいいじゃん」といったときのことだ。

「うん、入ってるよ。でもこの学校、文化会は基本、部室なしじゃん。五限から空いてる教室借りて活動するわけだけど、それまでは居場所、なくってさ。そんでここに……」

「ふーん、でもどうして?」

「文化会の部室のこと? 学生運動の煽りだよ。学生の左傾化断固阻止っての? 大学も痛い目に遭ったからね。ポスト全共闘の新設校では、割り合いある話だって聞いたけどね」

 またこんな話もした。

「どうしてそんな無理な姿勢で、斜めの柱に座ってんの? 本だって読み難いでしょ」

「床に座ると冷えちゃうんだよ。桂木さんは大丈夫なの?」

 美知は雪女だ。

 そういえばいつの間にか、アドレスを交換していた。が、彼から電話がかかってくることはなかった。また彼のほうは神奈川県下の自宅住まいだったので、彼女のほうからはかけ難かった。

 彼のほうの気持ちは不明だが、少なくとも美知にとっては、おそろしく気が合う相手だった。そして実に安らげる相手でもある。しかしそれは彼女にとって、容易ならざる事態でもあった。自分が古い種族の末裔であることは、決して忘れてはならないことだ。もしもそれができないなら、ここを離れ、再びあの村へ帰っていくしかない。

 あるとき吾一が小泉八雲の『怪談』などを読んでいて、美知は一瞬、ドキッとした。しかしそんな気持ちは抑え、

「雪女はもう読んだ?」

 と訊いた。

「いや、まだ。でもあの話、あんま好きじゃないな。子供用の名作全集で読んだことあるんだけど、あれってただの、面食い女じゃんっ」

 軽く落とされてしまった。いや、本当に軽くだったか? 彼女には異例なことだったが、自分ではその点に気づかず、ちょっとしつこく食い下がってしまった。

「だって彼らは禁を犯したんだよ? 不用意に境界を越えてしまって……。自業自得じゃんっ?」

「でもいい男のほうは助けちゃうんだよっ。やっぱ面食いじゃん」

「それは多分、顔だけの話じゃないんだよ。それにさ、主犯従犯って問題もあるでしょ? 確か殺されたほうが歳上なんだよね?」

 今にして思うと、その小泉八雲が発端だったのだ。それ以降彼の読書が、水木しげる、小松和彦、柳田國男などと続いていった。

 一、決して正体を知られてはならない。

 一、不用意にひとと親しくなってはならない。

 彼は何かに気づいているのか? 不安ではあったが、いっそ真実を打ち明け、彼の精を少し吸わせてもらおうか? などと思った。ばば様にバレたら大変だったが、あとで彼の記憶を消すことだってできる。

 だが事態はさらに切迫していたのだ。

「呪われた村?」

「そう。まあ会長はフィールドワークだとかいってたけど、そんな上等なもんじゃないよね。泊りがけの肝試しだよ。メンバーの一人の郷里の話でね。もの凄く閉鎖的な村だったのに、村長さんとこに電話したら、なぜか空き家を貸してくれるんだってさ」

「ねえその話、止めるなり抜けるなりできないの? 雪女出るかもしんないよ?」

「まさか、ハハハ……。僕も悪ノリし過ぎだとは思うんだけど、なんかみんな、妙に盛り上がっちゃっててね」

「じゃあさ、吾一君。私もついてっていい?」

「それってうちのサークル入りたいってこと? でも馬鹿なサークルだよ? もともとSF研のメンバーだったのに、スティーブン・キングはSFかなんて話でコアな連中と揉めちゃって、そんでそこから分かれたんだ」

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