第四話:響くは水の声 岩魚坊主と川の王(2)
「……え?」
その声が聞こえた瞬間、多摩村の視界が奇妙に歪む。
続けて、子供の頃に高熱を出した時を思い出させる、体が宙に引っ張られるような浮遊感。思わず踏ん張って姿勢を立て直そうとするが、それは叶わなかった。
「な、何だ、これ!?」
気が付けば、多摩村は宙に浮いていた。
どうやら、厳密には本当に空を飛んでいる訳ではないらしい。自分の真下に目をやると、驚いた事に表情を失い立ち尽くしている多摩村自身の姿が見える。
要するに幽体離脱というやつか。
もしこれが日常の中で起きたハプニングだったならば、多摩村も、この状況を少しは楽しんだかもしれない。しかし今、彼にそんな余裕はまったくなかった。混乱している間に、先程のあの音が再び川面を轟かせ始めたのだから。
何かが、何かが近付いてくる。
やがてせり上がる水面を引き裂き、滝のように盛大な飛沫を撒き散らしてそれは現れた。
「──ォオオオオンン!!」
「ひ、ひぃいっ!?」
咆哮が大気を揺らす。意識だけの霊体にも関わらず、思わず大きな石の陰に隠れる多摩村。だがそれも無理のない事である。
それは怪物としか言いようが無かった。
サメ? ワニ? 恐竜? 様々な生物の名前が、多摩村の脳裏を過っては消えていく。巨大なトカゲに似た大顎。脚は無く、代わりに身体を支えているでかいヒレ。全身は甲殻と鱗にびっしりと覆われており、その傍らではもう一頭、一回り小さい怪物がでかい怪物にすり寄っていた。だが小さい方でも六メートルはあるのではないだろうか。とにかく、こんな怪物に襲われたらひとたまりもない。
──襲われたら? 待てよ。俺は、今、幽体離脱しているんだぞ。俺の姿は見えないはず。ここに隠れてこのままやり過ごせば──嗚呼、いや、駄目だ!
肉体の方は、怪物のすぐ目の前で棒立ちになっている。あれでは食ってくれと言っているようなものではないか。意識しかないのに血の気が引いていく。もし今、肉体が死んだら、幽体はどうなる? その可能性に気付き、多摩村は慌てて飛び出した。
肉体に戻ろうとするが、どうすればいいかまるでわからない。いくら触れても、その手はすり抜けるばかりだ。
「おい! 何で、何でだよ!」
石を投げて気を逸らすか? 駄目だ、石も掴む事すら出来ない。どうすれば、どうすればいい。どうすれば……。
と、その焦燥が最高潮に達した時だった。怪物に目を向けた瞬間、多摩村はふとある事に気が付いた。
目と目が、合っている。
いや、まさか、そんな。意識だけが浮いている状態の、今の俺が見えている筈がない。しかし多摩村の考えとは裏腹に、目の前の捕食者は二頭とも視線を逸らす事なくじっとこちらを見据えている。すぐ傍の身体には、目もくれずに。
「お……おい……やめろ……!」
冷たいものが背中を駆ける。
こいつの獲物は、肉体ではなく、幽体だ。明確に自身が獲物であると気付いた事で、多摩村は唐突に理解してしまった。逃れられぬ被食者の恐怖を。ただの餌としか見られていない事への絶望を。そして、突然の見知らぬ襲撃者に対応出来なかった、無力な獲物の末路を。
「やめろ、おい……よせ! やめろぉおあああああぁあっ!!」
怪物こと鮭の大助が、哀れな悲鳴ごと、一口で獲物に喰らい付く。
多摩村は、命の灯が消えた後も悲惨な末路を辿ることになった。隣に寄り添っていた大助の妻、鮭の小助に脚をくわえられ、その幽体は真っ二つに引き裂かれて喰われる事になったのだ。
持ち主を失った多摩村の肉体は、ぷつりと糸が切れたように水中へと倒れてしまい、そして二度と起き上がる事はなかった。
*
「──やれやれ。しっかし、時代も変わったもんだ」
一連の顛末をじっと見つめていた僧侶が、ぽつりと呟く。その視線の先では、食事を終えた鮭の大助が鮭の小助を伴って悠々と川を上流へと泳いでいく。
その後ろ姿に笠を脱いだ僧侶の顔は、魚を彷彿とさせる異形。これが、この川の上流を治める主であり、数百年を生きた大イワナが化けた僧侶の素顔であった。
「キヒヒヒヒヒ。そもそも岩魚坊主ちゃんくらいのイワナも、今じゃほとんど見なくなっちゃったしね……おっとと」
河原に響く笑い声。岩魚坊主と呼ばれた僧侶が横を見ると、隣ではいつの間にか少女が、彩夏が釣竿を垂らしている。
どうやら大物が食いついたらしい。ぐんっと釣竿を引いて獲物を釣り上げると、岩魚坊主は哀しげな声をあげた。
「またか。まったく、嫌だねぇ。ちょっと前なら、ここらじゃ美味いアユが沢山釣れたってのによ」
彩夏の手元には、五十センチもありそうな大魚が下がっている。鎧のような鱗に覆われたナマズといった風体は、見るからにこの国に元々棲む魚ではない。セルフィンプレコと呼ばれる南米原産の大ナマズだ。恐らくペットとして飼われていたのを、多摩村のように何処かの無責任な飼い主が逃がしたのだろう。
「まったく──時代は変わっちまったんだな」
岩魚坊主がそう言うのも無理はない。
彼は、先代の主の話を川に棲む妖怪共からよく聞かされたものだった。
川に毒を流して獲物を一網打尽にしようとした残虐な人間を、人に化け、言葉で説き伏せようとした先代。だがその説法は届かず、結局は先代もまた毒にやられて仕留められてしまった。
それ以来、二代目の主となった彼は、殺生をし過ぎる人間を先代以上に容赦なく追い払ってきたのだ。今回、彩夏から鮭の大助の力を借りたように、時には他の妖怪の力を借りながら。先代に比べるとやり過ぎる事も多かったが、川の環境を守るためと心を鬼にしたものだ。
それが、一体いつからだろう。
「魚を捕り過ぎる人間」ではなく、「魚を逃がす人間」を襲うようになったのは。
実害が出なければ、人間共に脅しが効かなくなったのは。
「キヒヒ、良くないよね。人間はいっつもバランスを崩したがる。私もこんな事したくないんだけど、しょうがないよね! で、この川の外来種はどうするの? 結構増えたみたいだけど。滅ぼすのは大変だよねー」
無邪気に言う少女に苦笑いする。
何を今更。か弱い人間の少女の姿をしているが、所詮は一河川の主に過ぎない自分に比べると途方もない力を持つ魔王級の妖怪の癖に。でなければ、川魚の王である鮭の大助を容易に使役など出来るものか。
その気になれば、この川を元の姿に戻す事など造作もないだろう。だが、そこまで力を借りては主として立つ瀬がないというものだ。多摩村の死体を横目に見ながら、岩魚坊主が応じる。
「ま、土左衛門が見つかったとなりゃ人間共もしばらくはここに近付かねぇだろ。その間になるべく元に戻すさ。こいつらも意外と美味いしな」
「キヒヒ。さっすが! じゃあさじゃあさ、手始めに今夜はこのナマズで一杯やる? 何なら、もう何匹か釣ってこうか!」
「お! 良いのかい? 手伝ってくれた礼だ、良い酒を用意しとくぜ。それじゃあ亥の刻にまた会おうや」
巨大なイワナに姿を変え、上流へと帰っていく岩魚坊主。その姿を見送りながら、彩夏は再び釣糸を川面へと放る。
「……キヒヒヒ、お酒なんて久しぶり。楽しみだなぁ!」
酒を楽しみに肴を釣る。その姿は、誰が見ても年頃の少女の言動としては極めて異様である。だが、これが山源彩夏の実態の片鱗でもあるのだ。
水面には、四方に伸びる闇の如き巨大な影が映っていた。
登場妖怪解説
【岩魚坊主】
大イワナなどの魚が人間に化けて現れ、人間の殺生を咎める話は日本各地に残っている。様々な内容があるが、大イワナが仕留められ腹を捌かれた時に、人間に化けていた際に振る舞われた食事が出てきて正体が判明するという話の流れが多く共通している。
【鮭の大助】
川魚の王と呼ばれる妖怪。一年の中で決まった日に妻の鮭の小助と共に海から川をのぼる。その時「鮭の大助、今、のぼる」と大声を張り上げるが、その声を聞いた者は死んでしまう。そのため、鮭の大助が川をのぼる時期には漁を休む村もある。