第四話:響くは水の声 岩魚坊主と川の王(1)
「よっ……と……」
夕暮れに空が赤く染まる頃、社会人三年目になる多摩村は河原を一人歩いていた。
両手には、一抱えもある大きめの衣装ケース。しかしその中は衣服ではなく、水でなみなみと満たされていた。
「うん、ここら辺でいいか……」
「──やめとけ、そこの兄さん」
辺りに誰もいないのを確認し、衣装ケースを傾け中の水を川へ注ごうとする。だが、誰もいなかったはずの河原で突然背中から声を掛けられ、多摩村はぴたりと動きを止めた。
「……誰だ?」
振り返り、多摩村は思わずぎょっとしてしまった。
漫画でしか見たことのないような、旅装に身を包んだ僧侶が大きな石に腰かけていた。
突然の非日常的な人物に、衣装ケースを取り落としそうになってしまう。何だ、この男。誰もいなかったはずなのに、どうしてこんなところに。薄闇な上に深く被った笠で顔が見えない事もあり、その姿はどことなく不気味であった。
「な、何だ、アンタ」
「ただの旅の坊主だよ。そう警戒すんな、若ぇの」
「ぼ、坊さん? 何だって坊さんがこんなとこ──」
「いやいや、俺の事はどうだっていいさ。それより兄さん、今、何をしようとしてたんだい?」
ずいと杖を向けられ、多摩村は言葉に詰まる。別に後ろめたさなどは今更ないが、流石に今自分がしようとしている事が世間ではあまり良い事ではないという自覚はあった。
それを得体の知れない相手に教えるというのも、気持ちが悪い。何より、第三者に勝手に咎められるというのは、あまり気持ちの良いものではなかった。
しかしそんな心情を余所に、僧侶は多摩村にずけずけと近付いてくる。まずい、と思った時には、僧侶は既に衣装ケースの中を覗き込んでいた。
「ほぉ、随分とハイカラなナマズじゃねぇか」
「…………」
「……で? これを、この川に放そうってのか?」
チッ。見られてしまった。
確かにこの僧侶の言う通り。多摩村は今、この三十センチ余りのレッドテールキャットをこの川に逃がそうとしたところだったのだ。
だが、それがどうしたというのだろう。考えてみれば、警察ならともかく、ただの気味悪い僧侶に咎められたところで罪になる訳でもあるまい。
「何だよ、アンタには関係ねえだろ」
「まぁ……確かに、そうかもしれねぇな。だけどよ? そういうのは、巡り廻って自分に悪ぃ事がハネ返ってくるかもしれねぇぞ。だから、居合わせたから忠告したまでの事よ」
僧侶の講釈を聞き流す一方で、多摩村の中ではイライラが募っていく。得体の知れない相手の気味悪さよりも、仕事でもないのにクレーム対応をさせられているような面倒くささが上回ってきたのだ。
「それにしてもこいつ、何でも喰っちまいそうだな。この川に元々いる魚が根こそぎ喰われちまうんじゃねぇか? アユだのフナだのがいなくなっちまうぞ。そしたら困るだろうが。それはやめといた方がいいぜ、今ならまだ神様仏様も見逃してくれんだろ」
いやいや。この坊さん、何様だってんだ。
大体、悪いのはあのペットショップの店員だ。
毎日毎日仕事の人間関係に疲れ、癒しを求めて魚でも飼ってやろうかと考えたのが半年前。どうせなら、安くて楽で多少珍しいのがいいとこれを薦められたのに、飼ってみたらどうだ。たった半年でこの大きさである。
しかも店に問い質したら、一メートルを軽く超えるというではないか。確かに少し大きくなるみたいな事を言っていたような気もするが、こんなにすぐ馬鹿でかくなるなら最初からはっきりそう言えという話である。
水槽を買い換えるのも金がかかるし安い衣装ケースに放り込んでおいたのだが、やはり置場所が邪魔であった。そうして捨てに……もとい逃がしに来たのに、どこの誰とも知れぬ不気味な坊さんに見咎められて。どうして俺がこんな面倒な目に合わなければならないのだろう。
僧侶を無視し、そのまま逃がしてしまおうと衣装ケースを再び傾けた、その時だった。
「……本当に、やんのかい?」
今までの饒舌さとはうって変わって、僧侶が冷たく呟く。
ふと顔を上げると、僧侶と目が合ったような気がした。
本当は、相変わらずその顔はまるで見えないのだ。しかし、ガラス玉のような、魚の目のような、そんな無感情で丸い目が見えたような感覚が拭えず、多摩村はぞわりと肌が粟立った。
「……うるせぇな!」
吐き捨てるように言い、衣装ケースを抱えたまま車へと引き返す。別に説法が響いたとか、そんな事はない。ただ単純に、今逃がしたらこの得体の知れない僧侶に何をされるか分かったものではない、その恐ろしさから一度退散しようと考えただけである。
「……それで良い、それで。良いな、二度とそんな事すんじゃねぇぞ」
「うるせぇって!」
背後から投げ掛けられる安堵したかのような僧侶の御託を、一瞥もせずに歩き続ける。
一度だけ水音が聞こえたような気がしたが、多摩村が振り返る事はなかった。
──だが、その一週間後。
多摩村は再びこの川を訪れていた。
数日前、夜中に急に魚が跳ねたのだ。
あまり跳ねない魚のはずだが、それでも三十センチにもなる魚がいざ跳べば力強い。蓋を簡単に押し退け、辺りに生臭い水を撒き散らしながら跳ね回るナマズに、いよいよ多摩村は逃がす事を固く固く決意した。
今度の休みで、あの日からは丁度一週間になる。もうあの坊さんに会う事も無いだろうと、再び衣装ケースを抱えて夕方の川へ向かったのである。
「よし、今日は誰もいないな……」
しっかり周りを確認すると、衣装ケースを傾ける。
やがてばしゃっという盛大な音を立てて、大きな影が川へと飛び込んだ。影はそのまま悠々と泳いでいく。飛沫を一つだけあげて二度と戻ってはこなかったが、それを最後まで見届ける事もなく、多摩村は早々にその場を立ち去ろうと振り返る。
その瞬間、多摩村の視界に信じられないものが飛び込んできた。
「……よう、ご苦労さん」
先週の僧侶が、そこに立っていた。
「ま、またアンタか」
相変わらずの格好だが、よく見るとどういう訳かその裾からは水が滴り落ちている。声は以前より抑揚が少なく、虚ろな瞳でじっとこちらを睨み据えているらしい。
先週の比ではない気味悪さが沸き立ったが、それを圧し殺して精一杯の虚勢で怒鳴り返した。
「な、何だよ。魚なら、もう逃がしちまったからな。もうどうしようもねぇからな!」
「……そう、か。なら仕方ねぇな」
諦めたような、何かを決意したような、そんな声。何かされる! 思わず手に持っていた衣装ケースで身構える多摩村だったが、次なる動きは思わぬところから訪れた。
「──ォオオオオンン──」
「な……何だ……?」
川下から、音が響いてくる。
水音か? いや、それよりもっと重い。もしこれが水ならば、ダムの放流に匹敵する勢いの音だ。それがどんどん大きく──つまり、こちらに近付いてくる。
ようやく噴き出してきた恐ろしさに、多摩村の足が震え出す。逃げ出したいが、体が動かない。そうしている間にどんどん謎の音は近付いてくる。どんどん、どんどん──。
その瞬間、ふっと音が消えた。
否、消えたのではない。別の音に切り替わったのだ。その音は、静かな河原に、そして立ち尽くす多摩村の鼓膜に確かに響き渡った。
しわがれながらも明瞭な、鋭い声となって。
「──鮭の大助、今のぼる──」