第三十一話:悲憤の夜鶴 絶つ鳥咎を赦さず(2)
「……は……?」
次の瞬間、男の身体は宙を舞っていた。
「えっ? あ、はぁ!?」
意味が、分からない。
親子連れを見るのも憎たらしく、むしゃくしゃして抱っこ紐を外してやった母子からは悲鳴のひとつも聞こえず。男は行き場のない苛立ちを落ち着けようと、人気のない公園へと足を伸ばしていた。
そして、はしゃぐガキ共を睨み付けて追い払い、ベンチを陣取って、コンビニで買った発泡酒の五百ミリ缶を空けた、その瞬間だった。
「……痛っ!?」
混乱の中、肩に激痛を感じた彼は、上も下も分からぬままに肩を見る。そこにあったのは、自分が放り出してしまった酒の缶と同じほどの大きさ、鋭く巨大な鉤爪であった。
そんな鉤爪が何本も生えた、巨大な脚。
それが両肩をがっちりと掴み、彼を上空へと拐おうとしているのだ。
「ひっ!?」
上ずった悲鳴を気にもかけず、その鉤爪の主は大きな翼を羽ばたかせる。
鱗に覆われた脚。ふっくらとした、白と赤の斑模様の羽毛に覆われた胴体。それらを持ち上げる、巨大な翼。鉤のような嘴を持つ、面を思わせる特徴的な顔。全体的な印象はフクロウに近い。だがその目は白目と黒目とがくっきりと分かれ、じっと男の顔を見つめている。どこか人間のものに似たその眼光に晒され、男は厭にぞっとするものを感じていた。
まさしく、それは怪鳥と呼ぶに相応しい、巨大な猛禽であった。
「な、何だこの……は、離せ! 離せッ……!? い、いや、やめろ! 離すな、離……お、降ろせ!」
支離滅裂な叫びは、無理もない。
呆気に取られている数秒の間に、男を抱えた怪鳥はぐんぐんその高度を上げていた。すでに公園の木々よりも高くなっている。今、脚を離されては、打ち所が悪ければ即死も有り得る高さである。
「ふふふ……」
必死に考えを巡らす男の耳に、妖艶な女性の笑い声が聞こえてくる。
お、女? 一体どこに──いや、見ているならとっとと助けを──!
「よーしよし、良い子良い子……」
「痛っ、ぐあッ!」
肩の鉤爪に、さらに力が込められる。服が皺になる、どころではない。鬱血していそうな痛みに、男は叫び声を我慢できなかった。
「さあ、良い子だから暴れないで、ほぅら……」
慌てて辺りを見渡す男の耳に、今度はくっきりと、優しく子供に語りかけるような声が聞こえてきた。
──彼の頭上から。
「なッ!?」
「どうしたのかしら。ああ、お腹が空いたのかな。少し待ってね、よーしよーし……」
「ひっ、ぎゃぶっ!」
まるで子供をあやすように言うや否や、怪鳥は急降下し、地面すれすれでその脚を離す。地べたに放り出され、男は情けない悲鳴と共に転がり落ちた。身体のあちこちに出来た擦過傷を庇うように立ち上がろうとするが、足に力が入らない。もしかすると、ヒビでも入ったのかもしれない。
「さぁ、お食べ……グ、ガ、ゲエェッ」
「う、うわっ! ひぃ!」
這う這うの体で逃げようとする男の頭を、怪鳥ががっちりと掴む。そして怪鳥は、彼の眼前に何かを吐き出した。
赤黒くなった、溶けかかった物体。黄色みがかった白い棒状のモノ。こびりついた、黒っぽい、灰色っぽい毛皮。
それが、多くの猛禽が行うように吐き戻された何らかの獲物──獣だ──の成れの果てであると理解した瞬間、堪らず男もまた、胃の中のものを戻さずにはいられなかった。
その様子を不思議そうに眺め、怪鳥は小さく首を傾げて見せる。
「う、うっ……はぁ、はぁ……」
「あら? ご飯じゃないのかな。じゃあ……よしよし、遊んであげましょうね、ほーらいくよー」
「わ、何ッ!? ひ、ひい!」
両肩に鉤爪が食い込み、男は痛みに悲鳴を上げる。
男の身体は、再び一瞬で上空へと持ち上げられた。
「ほーら、よーしよし……それーっ」
「や、やめ……ぎゃあっ!?」
怪鳥はぐんぐんと高度を上げ、まるで男を空中で引き摺るかの如く飛び回る。公園から離れ、住宅街へ、市街地へ。眼下の景色が移り変わっていくが、それを楽しむ余裕などあるはずもない。
幼子をあやすように男を揺さぶっていた怪鳥であったが、次の瞬間、ばっとその場で一回転をしてみせる。視界の天地がぐるりと回転したかと思うと、不気味な笑みを湛えた怪鳥と目が合った。
男は、曲がりなりにも父親である。
腐っても、子育てを経験した人間である。
だからこそ理解してしまった。
この怪鳥は、親だ。子を育てる、親なのだ。
子供が癇癪を起こした時、自分はどうした?
──暴れるなと注意した。痣ができるほど、強く腕を掴んで。
子供が泣いた時、自分はどうした?
──腹が減ったんだな、そう思った。そして、離乳食でもない、自分が食べていた食事を分けてやろうとした。それを、当然ながら食べようとしない子供を、不思議に思いながら。
──それに、色々な所へ腕を引っ張り連れていった。気分転換にと。きっと、子供も楽しいだろうと。だが、当の子供はどうだったのか……。
そしてこの、空中をぐるぐると振り回される動き。
ああ、これは……「高い高い」だ。
男はここに至り、自らの「親」としての振る舞いを省みる事となった。だがそれは、少しばかり遅きに失したと言えよう。
何せ彼は──越えてはならない一線を、既に越えてしまったのだから。
「──……いらない」
その、ぞっとするような冷たい呟きは、静かな一言ながら、男の耳にも届いていた。
「え……?」
「いらないわ、貴方。貴方みたいな子、もういらない」
鉤爪に込められていた力が、ふっ、と抜ける。
続いて襲い来る、強烈な浮遊感と、風の音、重力……。
あまりにも唐突な事に、男の理解は追い付かない。
地面が近付き、男はその身を空中で放り出された事に気が付いた。だが成す術もなく──それこそ、抱っこ紐を外された赤子がそうなるのと同じが如く──男の四肢は地面に叩き付けられる。
意識を失う直前、彼の視界の遠くには、いつか離れた妻と子供の姿が見えていた。だがそれが現実であったのか幻であったのか……それは、今となっては知る由もない。
響き渡る悲鳴、そしてサイレンの音。
街は見る間に喧騒に包まれていくが、それを引き起こした大きな鳥の影は、すでにその場にはいなかった。
*
その怪鳥──姑獲鳥は、今、大空を舞いながら、地上の人間どもの営みを悠然と眺めている。
父親に抱かれる幼子。母親に手を引かれる子供。ベビーカーに乗り、こちらを不思議そうに見上げている赤子。そんな子供たちを見ると、姑獲鳥はどこか安らかな笑みを浮かべ、再びぐんと遠くへ飛び去っていく。
こんな人外の姿をとる彼女もまた、歴とした神野百姫が率いる百姫夜行の一人である。
人が転じた妖怪は、須く人の姿をしている、訳ではない。
この姑獲鳥は、元は妊婦であった。科学も医療も発達していない時代では、出産はおろか妊娠そのものがひどく危険を伴う事もある。彼女もまた、運悪く飢饉の頃に子を孕み、満足な栄養を得られない中、追い討ちを掛けるように難産となり……我が子と共に自身の命をも失った、そんな何処にでもいる母親であったのだ。
そしてその、子を抱きたいと最期まで願い、生き延びようとした執念が、やがて姑獲鳥と言う怪鳥と成り果てたのである。
姑獲鳥は、嘆いていた。
自分は、愛する子を抱けなかったのに。我が子に出逢うことさえ出来なかったのに。
何故、人間どもは、折角出逢えた我が子を顧みずにいられるのか。余所の子とは言え、未だ非力で庇護されるべき存在を、手に掛けようと出来るのか。
だから、我慢できなかった。
あの男を見た瞬間、猛烈な怒りと悲しみと──自分も子を育てたい、戯れたい、そんなヒトとしての歪んだ欲が綯交ぜとなり、身体を突き動かしたのだ。
結果、彼女の心は今、一時の充足を得るに至る。
「ふふ、ふふふ……」
嗚呼、そう言えば。
自分を喚び出した若い百々目鬼。まだ子供だったわね。そうだ。今日の夕飯には、彼女を招待してあげよう。そうと決まれば、材料を──。
家族が待つ巣へと飛んでいく、狂気を湛えた慈愛の鳥。
彼女は間違いなく人の理を外れた妖であり──しかし、並の人々より子を想う心を持った、美しい母親であった。
登場妖怪解説
【姑獲鳥】
「コカクチョウ」とも呼ばれる怪鳥。元は中国に伝わる存在であり、人の子を拐って育てる、子供や子供の服に自らの血を付けて目印とする、羽毛を脱ぐと女体となり、羽毛を着ると鳥の姿になるといった性質を持つ。一方、日本では難産で亡くなった妊婦が化けたとする「産女」と呼ばれる怪異が存在したが、こちらは鳥ではなく、元々は血に染まった腰巻きを纏い赤子を抱いた女性の霊の姿であった。姑獲鳥は「酉陽雑俎」では死んだ妊婦が化けたとする記載もあり、こうした類似点から江戸時代初頭頃から日本では「姑獲鳥」と「産女」とが混同され、「妊婦の霊が化けた子を拐う怪鳥」としての怪異が成り立っていったものと考えられる。




