第三十一話:悲憤の夜鶴 絶つ鳥咎を赦さず(1)
ある日の昼下がり。
夏も終わり、このところは暑過ぎず寒過ぎず、過ごしやすい気温の日が続いている。程好い陽気に誘われて、公園では子供たちが元気よくはしゃぎまわっていた。
「……ちっ」
その様子を煩わしそうに、恨めしそうに睨み付ける一人の男。
微笑ましい公園の風景とは対照的に、彼はわざとらしく、大きな溜め息と舌打ちをこぼしていた。
すると、男の舌打ちが聞こえたのだろうか。子供たちを見守っていた母親のうち一人が、自分の娘に駆け寄っていく。そして振り向き様、母親もまた、男を睨み返した。
柔和な女性とは思えぬ、鋭い眼光が男を貫く。
男は何かを言いたそうに口を開きかけたが、しかし何も言わず、空のアルミ缶を握る手に力を込めた。
勢いに任せてアルミ缶を握り潰す。それをゴミ箱に無造作に放り投げるが、ゴミ箱の口はさも当然の如くアルミ缶を弾き返す。辺りには、乾いた音のみが響き渡った。
その音の中に、まるで自分を嘲笑う声が聞こえたような気がして、男はそそくさと公園を離れていく。
彼は、どこにでもいる平凡な男であった。
人口比率の上から数えた方が早いありふれた名字と、日本人的で珍しくもない名前。偏差値の高くない高校を卒業した後、特に目標もなく目に入った求人に応募して社会人に。そして十年も働いた頃、部署の異動で偶然再会した同期入社の女性と交際に至り、結婚した。
やがて子供が産まれる頃には、彼はどこにでもいる男でありながら、しかし家庭を想う善き夫、善き父親であろうとした。
まず、妻には家庭に入ってもらう事にした。口では働きたいと言っていた妻だが、世の女性の多くが専業主婦になりたがっている事は、男にも判っていた。何より、愛する妻にはキツい仕事ではなく家事に専念し、楽をしてもらいたかった。
その上、家事は妻に任せるのではなく、自分も積極的に行った。出勤時にはごみ捨てを率先して行い、休みの日には夕飯に腕を振るう。たまに材料が足りない時なども、妻を責める事などせず、黙って買い物に行ったものだ。
子供の名前については、悩みに悩んで名前を付けた。平々凡々な自分の物とは違う。むしろ、そうなってはほしくない、そう思い沢山の願いを込めた。多才に、健康に、国際的に、個性的に。
そして子供には、自分と同じようになってほしくない気持ちを込め、厳しく接した。敢えて突き放し、我が儘は許さず、逆境に立ち向かえるように育て上げた。
だが、厳しいだけではないようにも努めた。子供の悩みも、妻の愚痴も、真摯に耳を傾けた。そして、いつでも明るく笑い飛ばした。この家庭には、俺がいるんだ。頼りになる、大黒柱。そんな小さな悩みなんて些細なことだと、安心して過ごしてほしかった。
威厳ある、それでいて時には優しさを垣間見せる、そんな父親になろうとした。
「……」
なろうと、したのだ。
「…………」
──アンタなんて父親じゃ──
「……ちっ……」
いつから、だろうか。
努力はしたのだ。善き夫、善き父親、男とは斯くあるべし。そう意気込んで努力し、自身の間違いを疑ったことはなかったのに。
男の努力は、そのあらゆる面が裏目の結果となった。
その結果が今だ。
離婚届に判を押し、子供からは拒絶されて。会社にも居られなくなり、安月給の仕事で稼いだ日銭を慰謝料と養育費とに取られ続ける日々。今となっては、この世の全てがどうでも良いとさえ思えてくる。
「…………」
街を歩きながら、すれ違う家族連れを睨み付ける。
なんだ、どいつもこいつも、呑気な面しやがって。そこの若いの、騙されるなよ。女なんてのはな、どれだけ俺達が献身的に尽くしても、自分と意見が違うってだけで簡単に罵るんだ。それで子供を味方に付けて、ある日突然糾弾してくる。養育費だ慰謝料だと、金を毟り奪っていく。嗚呼、そこのお前らもだ。仲良く手なんか繋いでいるけどな、そんなのは今だけだ。もう数年もしてそいつが小学校、中学校にでもなってみろ。結局、父親の事なんざ、金づるとしか見ていないクソガキに育つだろうよ。
心の中で、精一杯の悪態を吐く。
だが、誰に届くはずもない心の声に、耳を貸す者などない。反応する者などいない。
ベビーカーの子供が、ふと泣き声をあげる。
だが、それをあやす父親は幸せそうだ。
通りすがる親子連れも、互いに仲睦まじく笑い合っている。
そして、ある母親の抱っこしていた乳幼児の視線が、男と交錯する。
その乳幼児は、男に屈託のない無垢な笑みを向けていた。
「……!」
それが堪らなく不愉快で、どうしようもなく情けなくて──男は、すれ違いざまに、ふと手を伸ばす。
その眼には、しっかりとしたどす黒い悪意が渦巻いていた。
*
「──危ない!」
人混みに響く鋭い声。
素早く二本の手が伸ばされ、母親に抱かれていた赤子をしっかりと受け止めた。
急な動きにも関わらず、優しい力加減の手のひらが、赤子の背中と頭とをしっかり支えている。
「わ、え!? あ、あああ! ありがとうございます!」
一瞬何が起きたか分からず、しかしそれを理解した瞬間、母親は物凄い勢いで頭を下げてお礼を述べ始めた。
その前面に下がる抱っこ紐は、結び部分が解かれていた。
「いえいえ……大変だと思いますけど、気を付けてくださいね」
そっと赤子を母親へ返し、自分は何て事ないとばかりはにかんで言葉を返すのは、運音。
「……さて。こんな事したやつは……」
親子を人混みに見送ると、運音はそっとその場からかき消える。そして同じく人混みに紛れながら、その全身の眼球を展開した。
ぎょろり。
先の男は立ち去ってしまったらしく、すでに近くにはいないようだ。
さらに眼を凝らし、近くを、遠くを、満遍なく凝視する。
ぎょろり、ぎょろり。
「──見つけた」
自身の過ちを省みずに周りを呪い、自分より弱い者に危害を加えようとし、あまつさえその命を奪うまでの事をしでかそうとした男。
かける慈悲はない。
何せ、この男が同じことを繰り返したのは、これで三度目なのだ。
その度に運音が助けに入ったから、何事もなかったものの、彼女がいなかったら、どうなっていた事か。
運音は、これまでにないほどの敵意を込めた目で、男の背中を睨み付ける。その気持ちに呼応するかのように、彼女の上空に現れた何かが、大きな日陰を形成する。
仏の顔も三度まで。
いや……人道に外れた行為を二回も見逃されていた事こそ、運が良かっただけなのだ。その事を、この後、男は知ることとなる。




