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魔放少女あやかしアヤカ  作者: 本間鶏頭
第三章 魔包少女の妖怪入門
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第三十話:焦熱 来たる旋風の悪龍(1)

 人間たる者、誰でもその行動や理念、心理には、一本の通った筋があるものだ。


「──おい!」


 書類に目を通しながら、部下を呼ぶこの男──折ヶ上(おりかがみ)善礼(よしなり)にとって、その指針たるものは、ずばり「礼儀」であった。


 かれこれ十数年、彼は都内に拠点を構えるこの商社で身を粉にし働いてきた。今は管理職と呼べるポストに就いているが、それは何も、長年働き続けてきたからというだけの単純な理由ではない。中途入社の同期の中でも、この立場にいるのは善礼だけだ。


 これは偏に、「礼儀」を重んじた賜物。

 それこそが、善礼の信じる理念である。


 例えば。

 上司から仕事を割り振られた時。素直に従えば良いのだが、それができないという輩は多い。彼の周囲にも、失敗を恐れ確認を取ったり疑問を呈したりする人間は、少なからずいた。

 しかし、彼は違う。上司の、目上の人間に対する返事は、何はなくとも先ず「はい」だ。仕事を任せてもらえるという事は、それだけでありがたいのだから。


 当然、分からない事は聞く。


 しかしながら、多くの上司はこう言うのだ。何でもかんでも聞くな、教えられて当然と思うな、少しは自分で考えろ──と。


 そんな言葉を返されていた他の社員が、集まって愚痴をこぼしているような姿を見る時、善礼は「馬鹿だな」と思う。


 どう考えても、非があるのは教えてもらえないヤツである。


 態度や人間関係は、鏡だ。

 礼儀を以て接すれば、それは自分にも返ってくる。自ずと人間関係は円満になる。「上司が教えてくれない」のではない。「教えてもらえる部下になれていない」のだ。


「おい、おい!」

「え、あ。私ですか?」


 部下を呼びながら考える。

 最近の社員は、みなこうだ。呼んでもすぐに来ず、返事すらしない。

 俺の若い頃など、誰かを呼ぶ声は全て自分に向けられていると思うほどに、気を張っていたものだが。


「何でしょうか」

「何でしょうか、じゃないんだよ。言われる前に、ほら、動く!」


 空っぽになったコップを押しやる。上司のコップが空になったら、お茶を汲みに行く──礼儀を弁えていれば当然であるはずの仕事だが、最近の社員はどうも注意力が足りていない。こうして教えてやらないと気付かず、こんな簡単な事もできないと来た。


 溜息をひとつつき、自分の仕事に向き直る。無論、部屋の部下達がさぼったりなどしていないか、眼を光らせながら。


 ──そうして退勤時間が近付いた頃。

 彼は、ふと一通のメールに気が付いた。


 それは、彼よりも少し上の人間からのメール。内容は、業務の進捗についての催促であった。

 しまった。研修用資料の作成を抱えていたのを、すっかり忘れていた。


 期限は今週の金曜日……今日は火曜日だ。全力で取り掛かれば、悠々と間に合うだろう。

 だが、自分は管理する立場である。一日をこんな事務作業にかける余裕はない。それに管理職たる者、後続の成長にも気を配る必要がある。それならば──。


「おい!」


 先程とは別の部下を呼び止める。勤めて二、三年目の転職組だったか。声も小さく礼儀に欠ける事も多い、頼りない男だが、大学を出ているだけはあり事務作業はそれなりに(・・・・・)速い。


「は、はい」

「お前、これ用意しとけ」

「え、あの。何を、ですか」

「メールは今送った。今度ウチで取り扱う商材の、研修用の資料作成だ。明後日まで(・・・・・)な」


 割り振った期日は、敢えて本来の期日よりも前の日とする。内容の確認だってしなければならないのだし、不測の事態に備えるのは当然だ。


「あ、明後日ですか!?」

「あ?」

「む、無理ですよ!」


 だが、そんな配慮も分からないのだろう。仕事を振られたばかりの部下は、早くも泣き言を漏らし始めた。


「……何で?」

「今日はもうじき定時ですし、明日は……その、自分はアポイントが何件かありますので……明後日までというのは」

「それなら残ってやればいい。明日は戻ってきてからやればいい。やる前から無理と判断しない、ほら!」


 そんな泣き言は一蹴する。

 上司への返事は、先ず「はい」だ。そんな礼儀もないようでは、こちらも相応の態度を示さねばならない。手伝いなど以ての外だ。また、本人のこれからを思えば、自分でやらなければ成長も何もない。これは言わば、愛の鞭というやつである。

 ……尤も、この部屋には「自分も手伝う」と名乗りを上げる、気概のあるやつもいないようではあるが。


「ん、もう五時だな。それじゃあ今日もお疲れさん。明後日までだからな、忘れるなよ!」


 釘を刺すのを忘れず、席を立つ。


 無駄な残業をせず定時で帰る、それも仕事ができる会社員、下に示すべき見本というものだ。

 目を光らせれば、部下の中には定時で帰ろうという者はいないらしい。仕事を残している事自体はマイナスだが、殊勝な心掛けと言えよう。上司より早く帰ろうなど、それこそ礼儀がなっていない。


 善礼は満足げな笑みを浮かべながら、会社を後にした。


 今日も一日、良く働いた。

 大通りを歩きながら考える。一日のご褒美に、どこかで軽く呑んでから帰ろうか。部下を付き合わせても良かったが、生憎と今日は連れるに足る働きをした者はいなかったからな。コミュニケーションのための酒の席は大切だが、一人でゆっくりと呑むのも悪くない。そして、そういう時には、馴染みの居酒屋やチェーン店というのは面白くない。


 裏路地でおでんか焼き鳥か、何か屋台でも探してみるか。


 夕暮れの中、大通りを外れて人通りの少ない路地へと足を踏み入れる。

 途端、すっと、影が降りたように辺りが暗くなった。


「……やけに暗い道だな……うん、良い感じじゃないか」


 こういう所にこそ、良い赤提灯が無いものか。

 奥へ、奥へと歩んでいく。だがしかし、なかなかお目当てのものには出会えない。それどころか、どうも視界はさらに暗さを増しているようだ。


 善礼は、気付いていない。


 この闇は、単に裏路地という空間が持つ薄暗さが原因ではない。逢魔時に差し掛かったからでもない。


 善礼は、未だ気付いていない。自分自身の周囲に、靄が如く、暗い闇が漂っている事を。


「いや、何だか……気味が悪いな。引き返すか……」


 やっぱり、普通のチェーン店でも冷やかす事にしよう。

 そう思い立ち、振り返ろうとした時だ。


「……!?」


 足元に伸びる、自分自身の影。

 そこから間欠泉か何かのように、真っ黒な靄が噴き出してきたではないか。


「は!? な、何だッ、これ……!?」


 何が、何が起きている。酒に酔ったか。いや、これから(・・・・)呑もうとしていたのだ、そんな筈はない。なら、これは現実か……?


 混乱する善礼を中心に、渦巻く黒い靄は次第にその姿形を変えてゆく。


 何本ものバラけた藁が結われて一本の縄になるように、次第に、太く、長く、形作られていくその姿。先端には、乱杭歯が如く鋭い牙が蕪雑に生え、ぎょろりとした丸い眼球が見開かれた。生き物だ。


「は……はは……は……?」


 大蛇──否。その頭頂には二本の角が伸びており、身体の途中には鋭い爪を有する脚も生えている。


 日本人ならばこの姿から連想するモノはただひとつ。


 龍だ。蛇でも、トカゲでもない。三メートル程はあろうかという漆黒の龍が、黒雲のように靄を纏い、善礼の周囲をぐるぐると渦巻くように飛び回っているのだ。


 立ち上る旋風に、咄嗟に善礼は腕で顔を覆う。


「痛っ……痛、痛ッ!?」


 次の瞬間、突如として腕に激痛が走る。

 松笠のようにささくれ立った龍の鱗が、腕を掠めたのだ。


「な、あ痛たただだだ!?」


 逃れようとする善礼の必死な叫びを余所に、龍はその身体を次々にぶつけてくる。腕に、足に、背中に、頭に。容赦無く、絶え間無く。


 だが不思議な事に、善礼の身体から血は一滴も流れていなかった。肌も、服も裂けていない。物理的に(・・・・)傷付けられては(・・・・・・・)いない(・・・)のだ。


 それにも関わらず、確実な激痛は彼の五体に襲い掛かってくる。

 まるで、錆びた鉋で、その肉を削り取られているかのような。下ろし金で、骨の髄を搔き毟られているかのような。そして、焼けるように、熱い。言い様の無い激痛は、熱を帯び、まるで彼の魂に直接殴りかかってきているかのようだ。


 彼自身、自分の身体に何が起きているのか理解できていなかった。ただ分かるのは、何だかよく分からない、得体の知れないバケモノが、自分に危害を加えている。ただそれだけである。


「ぎゃああああああああああっ!?」


 普通の、生身の人間が、そんな責苦に耐えられるはずもない。


 龍が巻き起こす旋風の中、精神に耐え難い痛苦をもたらされ、肉体が意識を手放そうとする。楽になりたいと、全身の細胞が救いを求めて暴れまわる。


「あああああああああっ! ごめんなさい! ごめ、がッ! ごぇん、な、ざあああああああああああああ!!」


 だが、彼が気を失う事はなかった。気絶しようと思っても、出来ないのだ。逃げる事も出来ず、ただただ喉を裂くような絶叫を上げるしかない。恐怖と絶望に心が塗り潰されながら、赦しを請う。自分の人生で、何が悪かったのか、それを考える暇もなく。


 彼に出来るのは、それだけであった。


「──わああああっ!」


 その時だ。

 悲鳴にも似た声と共に、少女が「龍」を目掛けて、空から降ってきたのは。


 彼女は、魔包少女。

 今宵も火野典子は、自分の信じる思いに従い、人を害する妖怪へと戦いを挑もうとしていた。

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