第三十話:焦熱 来たる旋風の悪龍(1)
人間たる者、誰でもその行動や理念、心理には、一本の通った筋があるものだ。
「──おい!」
書類に目を通しながら、部下を呼ぶこの男──折ヶ上善礼にとって、その指針たるものは、ずばり「礼儀」であった。
かれこれ十数年、彼は都内に拠点を構えるこの商社で身を粉にし働いてきた。今は管理職と呼べるポストに就いているが、それは何も、長年働き続けてきたからというだけの単純な理由ではない。中途入社の同期の中でも、この立場にいるのは善礼だけだ。
これは偏に、「礼儀」を重んじた賜物。
それこそが、善礼の信じる理念である。
例えば。
上司から仕事を割り振られた時。素直に従えば良いのだが、それができないという輩は多い。彼の周囲にも、失敗を恐れ確認を取ったり疑問を呈したりする人間は、少なからずいた。
しかし、彼は違う。上司の、目上の人間に対する返事は、何はなくとも先ず「はい」だ。仕事を任せてもらえるという事は、それだけでありがたいのだから。
当然、分からない事は聞く。
しかしながら、多くの上司はこう言うのだ。何でもかんでも聞くな、教えられて当然と思うな、少しは自分で考えろ──と。
そんな言葉を返されていた他の社員が、集まって愚痴をこぼしているような姿を見る時、善礼は「馬鹿だな」と思う。
どう考えても、非があるのは教えてもらえないヤツである。
態度や人間関係は、鏡だ。
礼儀を以て接すれば、それは自分にも返ってくる。自ずと人間関係は円満になる。「上司が教えてくれない」のではない。「教えてもらえる部下になれていない」のだ。
「おい、おい!」
「え、あ。私ですか?」
部下を呼びながら考える。
最近の社員は、みなこうだ。呼んでもすぐに来ず、返事すらしない。
俺の若い頃など、誰かを呼ぶ声は全て自分に向けられていると思うほどに、気を張っていたものだが。
「何でしょうか」
「何でしょうか、じゃないんだよ。言われる前に、ほら、動く!」
空っぽになったコップを押しやる。上司のコップが空になったら、お茶を汲みに行く──礼儀を弁えていれば当然であるはずの仕事だが、最近の社員はどうも注意力が足りていない。こうして教えてやらないと気付かず、こんな簡単な事もできないと来た。
溜息をひとつつき、自分の仕事に向き直る。無論、部屋の部下達がさぼったりなどしていないか、眼を光らせながら。
──そうして退勤時間が近付いた頃。
彼は、ふと一通のメールに気が付いた。
それは、彼よりも少し上の人間からのメール。内容は、業務の進捗についての催促であった。
しまった。研修用資料の作成を抱えていたのを、すっかり忘れていた。
期限は今週の金曜日……今日は火曜日だ。全力で取り掛かれば、悠々と間に合うだろう。
だが、自分は管理する立場である。一日をこんな事務作業にかける余裕はない。それに管理職たる者、後続の成長にも気を配る必要がある。それならば──。
「おい!」
先程とは別の部下を呼び止める。勤めて二、三年目の転職組だったか。声も小さく礼儀に欠ける事も多い、頼りない男だが、大学を出ているだけはあり事務作業はそれなりに速い。
「は、はい」
「お前、これ用意しとけ」
「え、あの。何を、ですか」
「メールは今送った。今度ウチで取り扱う商材の、研修用の資料作成だ。明後日までな」
割り振った期日は、敢えて本来の期日よりも前の日とする。内容の確認だってしなければならないのだし、不測の事態に備えるのは当然だ。
「あ、明後日ですか!?」
「あ?」
「む、無理ですよ!」
だが、そんな配慮も分からないのだろう。仕事を振られたばかりの部下は、早くも泣き言を漏らし始めた。
「……何で?」
「今日はもうじき定時ですし、明日は……その、自分はアポイントが何件かありますので……明後日までというのは」
「それなら残ってやればいい。明日は戻ってきてからやればいい。やる前から無理と判断しない、ほら!」
そんな泣き言は一蹴する。
上司への返事は、先ず「はい」だ。そんな礼儀もないようでは、こちらも相応の態度を示さねばならない。手伝いなど以ての外だ。また、本人のこれからを思えば、自分でやらなければ成長も何もない。これは言わば、愛の鞭というやつである。
……尤も、この部屋には「自分も手伝う」と名乗りを上げる、気概のあるやつもいないようではあるが。
「ん、もう五時だな。それじゃあ今日もお疲れさん。明後日までだからな、忘れるなよ!」
釘を刺すのを忘れず、席を立つ。
無駄な残業をせず定時で帰る、それも仕事ができる会社員、下に示すべき見本というものだ。
目を光らせれば、部下の中には定時で帰ろうという者はいないらしい。仕事を残している事自体はマイナスだが、殊勝な心掛けと言えよう。上司より早く帰ろうなど、それこそ礼儀がなっていない。
善礼は満足げな笑みを浮かべながら、会社を後にした。
今日も一日、良く働いた。
大通りを歩きながら考える。一日のご褒美に、どこかで軽く呑んでから帰ろうか。部下を付き合わせても良かったが、生憎と今日は連れるに足る働きをした者はいなかったからな。コミュニケーションのための酒の席は大切だが、一人でゆっくりと呑むのも悪くない。そして、そういう時には、馴染みの居酒屋やチェーン店というのは面白くない。
裏路地でおでんか焼き鳥か、何か屋台でも探してみるか。
夕暮れの中、大通りを外れて人通りの少ない路地へと足を踏み入れる。
途端、すっと、影が降りたように辺りが暗くなった。
「……やけに暗い道だな……うん、良い感じじゃないか」
こういう所にこそ、良い赤提灯が無いものか。
奥へ、奥へと歩んでいく。だがしかし、なかなかお目当てのものには出会えない。それどころか、どうも視界はさらに暗さを増しているようだ。
善礼は、気付いていない。
この闇は、単に裏路地という空間が持つ薄暗さが原因ではない。逢魔時に差し掛かったからでもない。
善礼は、未だ気付いていない。自分自身の周囲に、靄が如く、暗い闇が漂っている事を。
「いや、何だか……気味が悪いな。引き返すか……」
やっぱり、普通のチェーン店でも冷やかす事にしよう。
そう思い立ち、振り返ろうとした時だ。
「……!?」
足元に伸びる、自分自身の影。
そこから間欠泉か何かのように、真っ黒な靄が噴き出してきたではないか。
「は!? な、何だッ、これ……!?」
何が、何が起きている。酒に酔ったか。いや、これから呑もうとしていたのだ、そんな筈はない。なら、これは現実か……?
混乱する善礼を中心に、渦巻く黒い靄は次第にその姿形を変えてゆく。
何本ものバラけた藁が結われて一本の縄になるように、次第に、太く、長く、形作られていくその姿。先端には、乱杭歯が如く鋭い牙が蕪雑に生え、ぎょろりとした丸い眼球が見開かれた。生き物だ。
「は……はは……は……?」
大蛇──否。その頭頂には二本の角が伸びており、身体の途中には鋭い爪を有する脚も生えている。
日本人ならばこの姿から連想するモノはただひとつ。
龍だ。蛇でも、トカゲでもない。三メートル程はあろうかという漆黒の龍が、黒雲のように靄を纏い、善礼の周囲をぐるぐると渦巻くように飛び回っているのだ。
立ち上る旋風に、咄嗟に善礼は腕で顔を覆う。
「痛っ……痛、痛ッ!?」
次の瞬間、突如として腕に激痛が走る。
松笠のようにささくれ立った龍の鱗が、腕を掠めたのだ。
「な、あ痛たただだだ!?」
逃れようとする善礼の必死な叫びを余所に、龍はその身体を次々にぶつけてくる。腕に、足に、背中に、頭に。容赦無く、絶え間無く。
だが不思議な事に、善礼の身体から血は一滴も流れていなかった。肌も、服も裂けていない。物理的に傷付けられてはいないのだ。
それにも関わらず、確実な激痛は彼の五体に襲い掛かってくる。
まるで、錆びた鉋で、その肉を削り取られているかのような。下ろし金で、骨の髄を搔き毟られているかのような。そして、焼けるように、熱い。言い様の無い激痛は、熱を帯び、まるで彼の魂に直接殴りかかってきているかのようだ。
彼自身、自分の身体に何が起きているのか理解できていなかった。ただ分かるのは、何だかよく分からない、得体の知れないバケモノが、自分に危害を加えている。ただそれだけである。
「ぎゃああああああああああっ!?」
普通の、生身の人間が、そんな責苦に耐えられるはずもない。
龍が巻き起こす旋風の中、精神に耐え難い痛苦をもたらされ、肉体が意識を手放そうとする。楽になりたいと、全身の細胞が救いを求めて暴れまわる。
「あああああああああっ! ごめんなさい! ごめ、がッ! ごぇん、な、ざあああああああああああああ!!」
だが、彼が気を失う事はなかった。気絶しようと思っても、出来ないのだ。逃げる事も出来ず、ただただ喉を裂くような絶叫を上げるしかない。恐怖と絶望に心が塗り潰されながら、赦しを請う。自分の人生で、何が悪かったのか、それを考える暇もなく。
彼に出来るのは、それだけであった。
「──わああああっ!」
その時だ。
悲鳴にも似た声と共に、少女が「龍」を目掛けて、空から降ってきたのは。
彼女は、魔包少女。
今宵も火野典子は、自分の信じる思いに従い、人を害する妖怪へと戦いを挑もうとしていた。




