第二十七話:眩惑夜会 砂上の竜宮(1)
八月も半ば。
連日の晴天は途切れる気配もなく、今年の夏は過去に例を見ない程の猛暑を迎えていた。
照りつける太陽が容赦なく肌を焦がし、一歩動けば身体中から汗が吹き出す。その日も、屋内に留まりエアコンやらアイスクリームやらにすがる人々が大多数であり、屋外で自然の風や木陰に涼を求める者は少数派であった。
だがそれでも、こんな日だからこそ人々で賑わう場所もある。
どんなに暑くとも、そこへと出掛けるのには、こんな日に限るのだ。
そう──海に行くのには。
「お疲れ様でーす、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
人で賑わう砂浜に、一段と賑やかな歓声が響く。がちゃがちゃと瓶やアルミ缶をかち合わせる音が鳴り、大学生の一団による宴が始まった。
「くはぁ~っ!」
時刻は既に夕方の四時を回っている。しかし、陽光降り注ぐこの季節では、四時など真昼間とそう変わらない。そんな中で、よく肌の灼けた男は一気に茶色い瓶を傾けた。強烈な炭酸がカラカラの喉と胃の腑を刺激し、黄金色のアルコールが身体に染み渡っていく。
灼熱の太陽の下で呷る、クーラーボックスでキンキンに冷やしたビール──これに勝る一本目はない。
「あーっ、最高!」
「おい! 肉焼けよ肉!」
「自分で焼けっつーの」
炭に火を起こし、並べた網に肉を乗せる。申し訳程度の野菜も忘れない。鉄板には油を引き、ざく切りにしたキャベツと焼きそばを用意する。
夏の醍醐味といえばバーベキューだ。仲間と力を合わせて準備に勤しみ、乾杯したら、あとは楽しくはしゃいで遊ぶ。彩り豊かな人生に必要なものは、気の置けぬ仲間、そして単純に楽しいと感じる時間だ。この二つを両の手に与えてくれるイベントだからこそ、人はバーベキューを行わずにはいられないのである。
「はいはーい! じゃあ早速だけど! 今からゲーム始めたいと思いまーす!」
「早くねぇ!?」
「よっ!」
一人が肉を飲み込みながら提案の声を上げる。
いきなりだが、それでもしっかり盛り上がる事ができるのは付き合いの深さ故だ。最高の仲間というのは、こういう関係性を指すのだろう。
「今からこの缶を向こうにブン投げるんでぇ……取ってきたヤツがこの肉好きにできるってのでどうよ?」
「取れなかったヤツは?」
「じゃあ取れなかったヤツは、向こうの浮いてるヤツのとこまで泳いで戻ってくる! そんで最下位が瓶ビールイッキ! これでどうよ?」
「乗った!」
「うっし、んじゃとりあえず……うらあっ!」
気合いと共に、提案をした男とは別の男が飲みかけの缶を放り投げる。
「お前が投げんのかよ!」
遠くで小さく上がった水しぶきを合図とし、数人の男たちは海へと一斉に走り出した。
ばしゃばしゃと大きなしぶきを撒き散らしながら、両腕を大きく振り回して海へと泳ぎ出す。その姿を見送る勝負に参加しなかった組は、飲み物片手に弾けたような笑い声をあげた。
和気藹々とした空気が一同を包む。
「──お客様に、お願いいたします」
そんな空気に水を差したのは、拡声器からの呼び掛けであった。
「本日は、波が高く、遊泳はご遠慮いただいております。速やかにお戻りください」
そんな声が、海水浴場に響き渡る。
「……うぜー」
どうやら今日は、いつもより少しばかり波が高いらしい。
だが、それが一体どうしたというのだろう。
見たところ、大荒れという訳ではないし、うちのサークルのメンバーは運動部上がりが多い。この程度で溺れるなどとは、とても考えられなかった。
「アルコールを摂取しての遊泳は、大変危険です。速やかにお戻りください!」
無反応を通していると、語気を強めてなおも声が聞こえてくる。
「つーかさ、あいつらには聞こえなくね?」
「確かに。そんなことも分かんないから、監視員なんてやってんじゃん?」
「あははは!」
「あ! おい、ホタテあんじゃん!」
「いやだから自分でやれって」
「あっはははははは!」
敢えて大声で騒ぎ立て、目の前の御馳走に向き直る。
こちらの声こそ監視員には届く筈もないのだが、そんなことは関係ない。騒音を受け流すのには、より大きな音で上書きしてしまうのに限るのだ。
やがてこちらの雰囲気を察したのか、耳障りな音は聞こえなくなっていった。
男の一人が、ちらりと海原を見やる。視線の先では、泳ぎ出した筈の連中が取っ組み合っていた。無論、本気の喧嘩ではない。ふざけ合っているだけだ。大方、缶を見つけたヤツを砂浜に戻すまいとでもしているのだろう。
笑いながら缶を呷る。バカだなぁ、早く戻ってこないと全部食っちまうぞ、そんな事を考えながら。
*
「まったく、度し難い馬鹿ですわね」
そこから少し離れた、小高い砂浜。
神野百姫は、潮風に髪をかきあげながら苦々しげにそう呟いた。
些々たる低俗な人間ども。そんな連中が騒ぎ立てる様は、彼女からすれば道端に落ちた残飯に群がる蟻に等しい、取るに足らない光景である。
特に、酒を飲み、制止も聞かず海へ繰り出すような──ただでさえ埃が如くちっぽけな一生を自ら縮めるような馬鹿は、魔王たる神野百姫にはとても理解できるものではない。
「本当に。神野様、暑くはありませんか? ラムネが冷えてございますが」
「あら。それでは、いただこうかしら。ありがとう」
「いえ、礼には及びません」
彼女の傍らには、長壁姫が甲斐甲斐しく控えている。砂浜で目立たぬようにか、今日はいつもの着物ベースのメイド服ではなく、上品なワンピース姿である。海に馴染む格好だ──視線を集めぬかどうかは、また別の話だが。
「……ふう。亀姫? 貴女は、あの一団をどうお思い?」
クーラーボックスから取り出されたラムネを優雅に楽しみながら、百姫は足元へ向けて口を開く。
「ん? 何、神野様?」
急に話を振られた亀姫はと言えば、Tシャツに短パンというラフな格好だ。二人の会話などどこ吹く風、足元の砂山を掘るのに夢中になっている。アナグマの性なのだろうが、まるで童のようなその姿には百姫も苦笑いを浮かべるしかない。
「まったく貴女という妖怪は……申し訳ありません、神野様」
「ウフフ、構いませんわ。それで、長壁姫。貴女はどうお思いかしら?」
「低俗な人間の、見本のような姿かと。極悪人ではないようですが……まあ、上質ではないにしろ、憑き易そうではありますね」
憑き易い。
それは紛れもなく、人間としては下卑であるということ。
そして、悪意を糧とする妖怪にとって、その意味するところは──。
「丁度良いですわね。それでは、典子さんに連絡いたしましょう」
「典子? あの、紅葉を預けている娘にですか?」
「ええ。先日お渡ししたあの子には、お手頃な獲物だとは思いませんこと?」
百姫がそう言うと、長壁姫は合点がいったとばかりに頷いて見せる。
「ああ、確かに」
「ウフフ、人間は度し難い馬鹿ですが……今宵、あの連中は良い肴として役立つでしょうね。楽しみですわ」
淡々と冷酷に、そして愉しむように言葉を紡ぐ。
その宣告は潮風に吹かれ、当然だが、海水浴場に溢れる人間の誰の耳にも届く事はなかった。




