第二十六話:飽食の罪 飢餓の罰(2)
「あー、なくなっちゃった」
袋の中をまさぐるが、何も残っていない。折柴は空になったスナック菓子の袋を丸めると、溜息と共にゴミ箱へと放り込んだ。
最近、間食や夜食が増えている。
ついこの間まで、彼女はそこまで食べるタイプの人間ではなかったのだ。だがこの数日、折柴は気が付くと何か食べていた。小腹が空いているような状態がずっと続いているのである。甘いものは得意ではないので、何か塩気のあるもの……必然的にスナック菓子の類が増えていた。
今日だって、夕飯はしっかり摂ったのだ。だがそれでも、彼女は二時間と経たぬ間にちょっとした空腹を覚えていた。
(元々食べる方じゃなかったけど……その反動かな? それともストレス? 何にせよ、もう少し抑えないとなぁ。あ、でももうひと袋だけ……)
呑気にそんな事を考え、次の小袋に手を伸ばそうとする。聞き慣れた電子音が鳴ったのはその時だった。
「ん? おすすめスイーツ店情報……?」
指についた菓子の粉を舐めとり、スマホに目を通す。SNSの通知が届いたようだ。そこには、知らないアカウントからのメッセージが表示されていた。
普通なら無視を決め込むところだが、その内容に目を留める。知らないアカウントかと思ったのだが、内容を見るにどうやら繋がったものの交流のないスイーツ系のアカウントだったようだ。
「最近人気が出そうなスイーツのお店」として、近くの店の紹介が記されている。
地図の場所は一見山道だったが、近くにはハイキングコースもあり、実は駅前からそう離れている訳でもない。ちょっとした散歩がてら寄るのにはうってつけである。こういった店は、確かに人気が出ると名店として広まる事もある。
「ふーん、抹茶パフェ……よし、明日はここにしてみようかな」
別に、店の場所は人気のない路地裏などではないし、危険そうな雰囲気ではない。メッセージの内容も、「一緒に行きましょう」だとかいった怪しいものではない。最近食べ過ぎだし、これなら運動も兼ねて足を伸ばしてみても良さそうだ。
そう考え、折柴は明日の計画を立てていく。
その背後に忍び寄る闇に、この時の彼女はまだ気づいていなかった。
*
翌日。折柴は現地へと──山の麓の喫茶店へと向かっていた。
軽いハイキングと言えば聞こえは良いが、これが実際にはそう甘いものではなかった。
何しろ、普段ろくに運動などしていないのだ。スイーツのため並ぶ行列は、スマホ片手に時間を潰せば良いので苦に感じた事は少ない。しかし、汗をだらだらと流しながら歩き続けるとなれば、状況がまるで違ってくる。おまけに山道のなだらかな斜面は、どうしたって舗装されたアスファルトより歩きづらい上、履いているのはヒールの高いファッション性重視の靴だ。自分の浅はかさを呪いたくもなるが、お洒落優先で出てきてしまったのだから仕方ない。歩き始めて十分と経たないうちに、折柴は早くも引き返そうかと思い始めていた。
足が痛い。疲労と共に、耐え難い空腹が胃を直撃する。
歩きながら何か食べようか。そう考えるが、持ってきていたスナック菓子はとうに無くなっていた。仕方なくバッグを探ると、底から一粒の飴袋が転がり出る。夢中で外装を破り捨てると、口に放り込んだそれを折柴は何の躊躇いもなく噛み砕いた。
咀嚼は一瞬。何の足しにもなりはしない。
この空腹を抱えて山を降りるなど、馬鹿のする事である。別段好きでもなかった甘味だが、今なら何杯でも食べられそうだ。夢中で歩を進める折柴の脳内は、これから向かう店の事でいっぱいだった。
スマホが鳴る。が、彼女は目もくれず歩き続ける。
どうせSNSの通知だろう。今、食べ物の写真なんか見てしまえば、最高潮に達した空腹でどうにかなってしまいそうだった。写真で腹は膨れない。そんなものはどうでもいい。一刻も早く、胃の腑に何かを入れたい。そのために、私は今、あの店へ向かうのだ。
そう、その脳内からは、今やSNSに載せる写真の事など綺麗に消え去っていた。承認欲求など欠片も残されていない。
そこにあるのは、純粋で原始的な欲求のみ。食欲、食欲、食欲! 取り憑かれたかのように歩き続ける彼女は、その状態が明らかに異常であると自分では認識できないほど、既に怪異の側に立ってしまっていたのである。
スマホが鳴る音が遠くで聞こえる。
何度も、何度も、何度も鳴るそれを、煩わしそうに無視して歩き続ける。
その時だ。
目の焦点も定まってはいない彼女が、すれ違いざまに声をかけられたのは。
「こんにちは、お姉さん」
誰だ、こんな時に。
声の主を睨みつける。
「お久しぶりです……って、その様子じゃもう覚えてない、かな?」
どこにでもいそうなショートカット。変哲もないセーラー服。いけてない眼鏡に、少し早口な口調。クラスに一人はいる、地味で根暗そうな印象──先日の女子高生が、そこに立っていた。
興味もない。今はそんなヤツ、気にかけている場合ではない。
そう思い、無視して歩きだそうとする。だがその瞬間、無視できない誘惑がその手元に抱えられている事に、折柴の薄れた意識は気がついた。
「あ……あんた、それ……!」
「あ、気付きました? そっか、お姉さんもこのお店に行く途中なんでしたっけ。ね、美味しそうでしょう」
にこにこと笑みを浮かべ、運音はスプーンで緑色のソフトクリームをすくってみせる。
抹茶に白玉、小倉餡。上には真っ赤なマラスキーノ・チェリー。たくさんの添え物に彩られた抹茶パフェは、今までに見たどんな食べ物より魅惑的に彼女の網膜に焼き付いた。
「あ……お、おぉああ……よ、よこ……せ……!」
整った髪を振り乱し、本能のまま獣のように飛び掛かる。
「あー、ダメですよ。ちゃんと並んで買わなくちゃ」
だが運音は、涼しい顔でそれをひらりと躱しながら、ほろ苦い甘味を堪能した。振り返り、見せつけるように笑いかける。
その視線の先で、折柴の身体が黒雲のような闇に包まれる。靄の中、彼女の姿は異様に歪み始めていた。
妖力が変異した外套のような服が全身を覆っていく。満ちた妖力に人間の肉体が耐え切れなくなり、より怪異に相応しい、ヒトならざるモノへと変貌しているのだ。綺麗で洒落た服や髪は見る影もない。外套の隙間から見えるその顔には、今や黒い穴のように巨大な口がただひとつ覗くのみである。
「気に入っていただけました? 私が送ったDM」
「ぁ…あああ…」
洞穴のような口から漏れる呻き声には、既に人としての意思は感じられない。
運音の問い掛けも聞こえているのかどうか。運音がスマホに何かを入力すると、連動したように折柴のスマホが通知を鳴らす。
「お……ぉお……ぁぁああああ……」
だが、最早彼女がそれに反応することは叶わなかった。
折柴が──数分前まで折柴だったモノが、振動するスマホを取り落とす。
衝撃で外れるカバー蓋。
その裏には、鈍く輝く御札が貼り付けられていた。
「おぉ……おぉぉぁああ……」
運音には見向きもせず、ゆらゆらと体を揺らしながら、怪異は山道を歩き続ける。その両手は何かを求めるように──満たされぬ餓えを満たす何かを求めるように、前へと突き出されていた。
「──うーん……ハズれたか。上手くいくかと思ったんだけど、仕方ないかぁ」
一方で運音はと言うと、怪異と化した影を見送りながら、ぽつりとそんな事を呟いていた。
自身に妖怪の力を宿した、絶対的な力を有する魔王。彼女との会話が、脳裏に木霊する。
「──百々目鬼さん。貴女に、簡単な仕事をひとつお願いしたいのですが」
「ん? 仕事? 何すればいいの?」
「わたくしの百姫夜行……そこに連なるに相応しい、新たな妖姫を探してくださらないかしら?」
「あー……え、え? わ、私が?」
「ええ。貴女ほどの勤勉さでしたら、妖力と悪意の探知はもうお手の物でしょう? それに、貴女は我々妖怪への造詣も深い。その能力も、きっと役に立つとお見受けします」
「うーん、そう言うならやってみるけど……大丈夫かな」
「ご心配なく。百々目鬼である貴女が適任、そう判断したまでです。ウフフ、期待、していますわ──」
──と、簡単な仕事を任されたのは一週間も前。
これは思いの外重要な役割なのでは? と意気込んでみたものの、これでは結果としては失敗と言わざるを得ない。
アレは、ひだる神というやつだろう。
神とは名が付けど、その実態は憑き物の一種だ。餓死した悪霊などが変異した怪異である彼らは、山道を歩む旅人に取り憑き、飢餓と呼べる程の強烈な空腹と疲労をもたらす。飽食の時代と呼ばれる現代では馴染みのない存在にはなったが、かつてはかの徳川家康にも恐れられた、危険で畏怖される存在である。
とは言え、妖怪としての力が強くとも、魔王の率いる百姫夜行に相応しいかと問われればそれは違うだろう。
悪意の濃い人間の女に目を付け、スマホの中に貼り付けた御札を介して妖力を注ぎ、妖怪として覚醒させる。
かつて自分に妖怪の力が芽生えた時と同じような現象を無理矢理起こしてみたという訳だ。結果、あの人間の悪意は妖力としっかり反応を起こし妖怪へと変異するには至ったが、望んだような妖怪には成らなかったようだ。
「……でも、このままにしてて大丈夫かな……」
「それは大丈夫ですわ」
「え、わっ!?」
何気ない呟きに、聞き覚えのある声が返される。
彼女に「簡単な仕事」を頼んだ張本人、魔王神野百姫だ。
「ウフフフ、巻き込んだ人間の心配とは。お優しいこと」
「まぁ、それは……」
「あの御札に込めた妖力は一時的なものですし、容量もそれほどではありませんわ。このまま数日経って妖力を使い果たしたら……その時は、肉体も精神も元に戻るでしょうね」
百姫の言葉に、運音は無意識のうち微かに安堵する。
あの女性はろくでもない人間だとは思ったし、だからこそ標的に選びはした。だが、妖怪に身を堕とし永劫の苦しみを味わわねばならない程の悪人かと言われれば、そこまでではないだろう。
妖怪の価値観を理解した気になってはいるが、運音は根っからの妖怪ではない。彼女はそこに、少しの後悔と罪悪感を抱いていたのだった。身勝手で偽善的ともとれる感情だが、それこそが、彼女が未だ人間でもある事の証なのだ。
「まぁ、数日は耐え難い飢えと渇きに苦しむ事にはなるでしょうけど。それはそれで、あの人間の罪には丁度いい罰なのではなくて?」
「……」
「ウフフ、そう気を落とさずに。何も失敗したからと言って落ち込む必要はありませんわ、さぁ、次の妖姫を探しに参りましょう? 今のうちに、彩夏さんとの差を広げておきませんとね!」
「……ええ、そう、ね」
草藪を徘徊するひだる神の背中を見送り、言葉を交わす二人。
──ちなみに折柴は、人間に戻るまでの数日、この近辺を彷徨う事となった。
そしてその姿を目撃した人によるSNS投稿がきっかけとなり、この山道は幽霊が出るスポットとして一時的に話題をさらう事になるのだが……それはまた別の話であり、「だりぁ@」には関係のない話だ。
登場妖怪解説
【ひだる神】
山道を往く人間に憑き、空腹感を与える存在。激しい疲労や飢餓をもたらすため、憑かれると酷い時には死んでしまう場合もある。餓死した悪霊が自分と同じ苦しみを与えるために変化した存在であるともされ、憑かれて死んだ者も同じくひだる神になってしまうと云われている。




