第二十五話:野獣唸る 鬼女の力と人の心(2)
典子の声に反応し、獣は彼女の方を睥睨する。
だがそれは、ほんの一瞬。典子を一瞥した獣は、数秒後には何事もなかったかのように獲物へと向き直った。
(ちっ、エサに夢中って事かい? アタシらには興味がないってワケだ)
(エサだなんて言わないの! まずはあの人を離さなくちゃ)
駆け出しながら右手を振るう典子。紅葉の妖力が解き放たれ、ごう、と暴風が巻き起こる。その勢いは局地的ながら凄まじく、気を失ってしまった女性の身体を宙へ浮き上がらせ、いとも簡単に遠くへと吹き飛ばした。
これに至り、ようやく野獣は典子を次の標的として認めたらしい。悪意溢れる獲物として、ではない。獲物を掠め取る縄張り荒らしとして、だ。
「ヴォォオウッ!」
「えぇいっ!」
牙を剥いて飛び掛かる獣だが、先に行動を開始していた典子の方が一瞬早い。
炎と共に手中に出現させた金棒を思い切り振り抜き、獣の横面をぶん殴る。
「ガッ、ヴルルウウウウッ!」
紅葉本人が使っていた時に比べると、今の金棒は、典子に併せて長さも太さもかなり小型化されている。さしずめ短めの金属バットといったところだが、それでも妖力を乗せて振るえば強烈な武器となる事に変わりはない。骨を砕くには至らずとも、牙の二、三本ぐらいはへし折れるだろう。
暴風による後押しも受け、十メートルも吹き飛ばされただろうか。樹の幹にしたたかに全身を打ち付けたように見えた獣は、しかし次の瞬間、ものの数歩でそのまま樹上へと跳び上がった。
「えっ!?」
驚きに目を見開き、典子の動きが止まる。いくら妖怪であるとは言え、まさか犬か狐のような体躯の獣が木に登るなど思ってもみなかったのだ。
(ほら、ぼさっとしない! 来るよ!)
「わ、わっ!」
紅葉が飛ばす声に、慌てて金棒を眼前へと構える。
しかし、飛び掛かってくるかと思われた獣は、再び予想外の攻撃で以て典子へと一撃を繰り出した。爪や牙ではなく、その顎から灼熱の炎を吐き散らしたのだ。
「えっ──」
(典子、水!)
「え、えっと、こう!」
金棒を放り出し、両の掌から水流を出現させる事で炎を打ち消す。大量の蒸気が煙幕のように立ち込める中、今度はその白煙を引き裂いて獣の顎が直接飛び込んで来た。
「わっ!」
防ごうにも武器は手放している。直感だけを頼りに真横へ体を投げ出すと、耳元で鋼鉄をぶつけ合うような嫌な音が響き渡った。牙は一本も欠ける事なく並んでいる。あんなものをまともに喰らったら、少女の頭蓋骨など簡単に砕かれてしまうだろう。冷や汗と恐怖が典子の全身を駆け抜けた。
「はっ、はっ、はぁ──はぁ──」
みるみる呼吸が荒くなる。
炎と嵐、氷と水。幻影に金棒。紅葉の能力を存分に活かして多彩な妖術を繰り出す事が出来れば、この獣だって取るに足らない相手だったかもしれない。ここまで危険な戦いにはならなかったかもしれない。
だが、上級妖怪の力を手に入れたとは言っても、彼女はまだ子供である。莫大な妖力が漲っていようと、身体能力が飛躍的に向上していようと、それは変わらない。あくまでも彼女自身は、比較的どこにでもいる、一般的な小学六年生なのだ。
怖い。恐怖の全てを叫び出して、今にもこの場から離れてしまいたかった。家に帰り、冷たいジュースとおやつを食べながら好きなアニメを見る事が出来たら、どんなに楽だろう。
だが、それでも。
(大丈夫かい、典子?)
「はぁ、はぁ……うん。うん、大丈夫」
逃げ出すわけには行かなかった。逃げ出したくはなかった。
少し前、偶然出来た友達。彼女は自分と同じくらいの歳ながら、歩きタバコをしていた大人の人に果敢に食ってかかっていた。それが褒められた事なのか、危ないと怒られるべき事なのか、それは彼女には判断しかねるが──とにかく、あの姿は、彼女にとってはとても鮮烈で刺激的で、そして魅力的だったのだ。
あの少女もまた妖怪の力を持つのだという事を、典子が知ったのはつい最近だ。それも彼女は、紅葉とは比較にならないような強い力を持っているという。
しかし、そんな力の強弱など些細な事。大事なのは、今、典子自身があの少女のようになれる可能性があるという事だ。
正しいと思った事を、思ったように実践できる力。どちらかと言えば内向的で大人しく、それでいて人並みの正義感と倫理観を持っていた少女にとって、大切なのはそれだけである。
この力をくれた少女は、大切なのは妖怪のために動く事だと言っていた。百の目を持つ妖怪の先輩は、やりすぎだと思っても、悪い人を退治するために与えられた力を使うべきだと言っていた。
だが、典子にとってはどちらでもない。
正しいと思った事を、そのまま実行する。
今、正しいと思う事は──この獣を野放しにすることでも、あの自己中心的な女の人を痛い目に合わせる事でもない。
この悪い妖怪を、懲らしめる事だ。
(落ち着いていきゃ、大丈夫だ。思い切りいけ!)
「うん! わあああああああっ!」
典子の周囲に炎が吹き荒れる。その炎を金棒に収束させ、典子は力いっぱいに火炎の束を振り抜いた。
直線的な攻撃だ。容易く避けられてしまうだろう。だがその前に、今度は脳内で紅葉が的確な指示を飛ばしていく。
(右! 左上! 今度は左右の足元と……目の前に炎の壁!)
声に従い炎を展開するが、それらが獣に命中する事はない。逆に獣はと言えば、瞬時にそれを避けながら、こちらへの距離を確実に縮めている。少しずつ、少しずつ……。だが、典子は焦らない。追い詰められているのは、自分ではないのだから。
次第に、獣の跳躍のコースが限られていく。徐々に追い詰められているのは己である、その事に獣が気付いた時にはすでに遅く──。
(そこっ! 凍結!)
ぱきぱきと音を立て、地面に霜が走る。
灼熱の炎とは真逆。突然放たれた冷気に、公園中の大気が凍り付いたのだ。その冷気の最も強烈な中心にいた獣は、一瞬の出来事に成す術もなく、氷塊の中で氷漬けとなっていた。
「──ウフフフフ。お見事、ですわ。典子さん、貴女も紅葉の力に慣れてきたようですわね」
大きく息を吐いた典子の背後から、ぱち、ぱちと手を鳴らす音が聞こえてくる。
振り返ると、そこには真冬の如き冷気などものともせずに歩み寄る少女が一人。典子に新たな力を与え、紅葉に新たな肉体をもたらした魔王、神野百姫がそこにいた。
「これは……野干、かしら。はぐれがこんな所をうろついているのは珍しいですわ……それも、群れを率いるようななかなかの個体。地獄でも、そうそうお目にかかれるモノではないでしょう」
野干、それがこの獣の名前である。
妖力を持ちながらも狐や山犬のように野山を駆け回る、野生の獣に近しい妖怪。強い個体には、地獄に棲み、亡者の悪意を貪る者も存在すると云われている。街中に出没するのは確かに珍しいが、自己陶酔に夢中な悪意に惹かれて現れたとすれば不思議ではない。田畑の農作物に惹かれ、山を下りた動物と同じような事だ。
「ですが……残念ですわ、しばらく眠っていただきましょう。わたくしの百姫夜行には相応しくありませんもの」
言うなり氷塊に掌を付ける百姫。その瞬間、亀裂が走ったかと思うと氷塊は野干もろとも粉々に砕け散った。粒子となった妖怪の身体は、瞬く間に百姫の懐、御札の中へと封じ込められていく。やがて一帯を支配していた冷気も消え失せ、辺りはいつもと変わらぬ夏の蒸し暑さを取り戻した。
「さて」
百姫が典子へと向き直る。一切の感情を感じさせない瞳に、典子は心臓を鷲掴みにされたように硬直した。
この大妖怪が、力の大部分を失い休養中である事は典子も既に知っている。だが、力を失っているなど、彼女にはまるで信じられなかった。氷漬けに封じていたとは言え、決して弱くないはずの妖怪一体を、一瞬で消し飛ばしてしまったのだから。
しかしそんな力とは裏腹に、百姫は口元に手を添え柔和な笑顔を浮かべていた。瞳には、深い闇を湛えたまま。
「そう警戒なさらずに。貴女はよくやってくれていますわ。紅葉の依代として身体を貸していただいているのですから、多少の自由は大目に見てさしあげます。紅葉も楽しんでいるようですし、ね」
(おう、悪いなお嬢。アタシも、これはこれで結構気に入ってんだ)
(ええ、ええ。分かっていますとも。ですが……彩夏さんが戻ってきた時には、紅葉、貴女の全力をお貸し願いますわ)
典子の肉体に宿っているにも関わらず、紅葉を相手に平然と思念で会話する百姫。それは、彼女が本気を出せば典子の精神など一瞬で紅葉に奪われてしまうという事を意味している。
本当ならば、今この瞬間に消されても不思議ではないのだ。そうしないのは、気紛れなのか、それとも何か目的があるのか。それは典子には分からない。
思念でのやり取りも終わり、不気味な静寂がその場を支配する。
「……さて、ではこれを」
そんな一瞬の静寂など気にも止めず、百姫が数枚の御札を差し出す。表面に刻まれた文様が、夕暮れの橙を反射して鈍く煌めいた。
「これは?」
「ウフフ、わたくしの百姫夜行で少し溜まっている子たちですわ。わたくしもまだこんなですし、百々目鬼さんには別件をお願いしていますから。悪意の探知はもう出来るようになったのでしょう? 典子さん、この子たちに少し遊ばせてあげてくださる? お願いしますね」
少しだけ俯き気味に頷き、御札を受け取る。それを確認すると、満足そうに百姫は立ち去っていった。
口では「お願い」していたが、これは「命令」だ。言葉の裏に、拒否など出来ぬ魔王としての絶対的な圧力を典子は感じ取っていた。人としての心に従った妖怪退治も黙認はするが、百姫夜行の一員として、やる事はやれという事か。
(ふぅん。そいつらか……)
(知ってるの、紅葉?)
興味深そうに、典子の目を通して御札を確認する紅葉。同じ魔王の眷属同士、知り合いだったりもするのだろう。
(まぁな。今日……はもう疲れたろ? 夜ふかしは、明後日にでもするか)
(うん。今日はもういいかな、宿題もやらなきゃいけないし)
(ああ、また出されてたもんなぁ)
苦笑いしながら帰路を急ぐ二人。
鬼女の力を得た魔王の配下になったところで、日常に戻ってしまえば、やはり彼女は普通の小学生なのであった。
登場妖怪解説
【野干】
犬や狐に似た獣。狐の異名として用いられることもあるが、木に登るとも伝わる他、インドではジャッカルを指すとも。群れで人を喰らうため、猟師にも恐れられるという。また、無間地獄の十六小地獄には、智者や悟りに達した人を悪く言った者が炎を吐く野干に鉄の顎で喰われる野干吼処という地獄が存在する。




