第二十四話:狂愛の言の葉 侵害は突然に(2)
午後一時。その時、岸矢は午後からのスケジュールを確認していた。
メモ帳に記された取材の予定を確認する。ある大手芸能事務所からすっぱ抜いたタレコミの取材が一件、それが終われば今日の予定は終了である。だが、そんな余裕あるスケジュールとは裏腹に、彼の表情には疲れが滲み出ていた。
途端、スマートフォンから着信音が鳴り響く。
仕事の連絡だろうか。だが画面を確認する前に、彼はうんざりしたように重いため息を吐いた。
「嘘だろ……まさか、また……」
疲れた顔をより一層強ばらせ、恐る恐る画面を開く。案の定、届いたメールは仕事の連絡ではない。知らないアドレスから送られてきたものだった。
「こんにちは。今日もお元気そうで何よりです」
当たり障りのない、一見すると無害そうな文面。これが普通に知人や友人からのメールであれば、彼も何とも思わないだろう。しかし、そうではないのだ。かと言って、いわゆるスパムメールや迷惑メールといった類という訳でもない。
「岸矢さん、今日の午後はどういったご予定ですか?」
これは、正確にこちらが岸矢だという人間だと認識して連絡してきている。
しかもその続きには──
「先程、昼食に召し上がっていたカレーライスには、玉子をトッピングなされていましたね。私も、玉子の黄身は半分食べてから潰す派なんですよ。一緒ですね。嬉しいです。今度は是非、お食事もご一緒しましょう」
──そんな事が書かれていたのである。
思わず、件のカレーが逆流しそうな嫌悪感が岸矢の全身を駆け抜けた。
その情報は、正しかった。確かに彼はついさっき、食堂で昼飯として目玉焼きの乗ったカレーを食べたばかりなのだ。それも、黄身を割ったのは、きっちり半分ほど食べてから。
つまり、これを送ってきている誰かは、その時の自分を見ていたという事だ。
岸矢は全身の肌が粟立つような思いがした。
人間、生きていれば必ず誰かに見られているのだ。自分たちは、その視線を巡らせるのが人より少し得意なだけ。彼はずっと、そう考えてきた。あくまでも自分たちは、世界を観察してその秘密を暴く側。自分の私生活が一方的に監視され暴かれる日が来ようとは、夢にも思っていなかったのである。
だが実際にはどうだろう。
仕事用アドレスのメールが六十件。プライベート用アドレスのメールが百二十件。そして、SNSの通知が百五十五件。
それが、今日一日で岸矢のスマホに届けられた言葉たちだった。いや、今一件メールが届いたから、プライベート用のアドレスに届いたメールは百二十一件になったという事か。こんな状態が、もう二週間も続いていた。
対策は行ったのだ。メールアドレスを変えるのは、正直言うと最低限に避けたい所ではある。だが、背に腹は代えられない。いずれのアドレスも変更したし、送り主のアドレスも軒並み着信拒否に設定した。SNSも、呼び掛けが来ればそのアカウントは片っ端からブロックしたのだ。それなのにこのメールどもは、次の日には何食わぬ顔で彼のメールボックスを占領しているのだった。
こんな手の込んだ事、一体どこの誰が。
心当たりが無い訳ではない。この仕事だ、気付かぬうちに人から不興を買っている事もあるだろう。だが、ここまでとなると、流石に気が滅入るというものだ。そんな実情など気に留める様子もなく、メールの山は着々と岸矢の精神を蝕ばんでいく。
「……ッ!?」
畳み掛けるようにスマホが鳴り、再び肩をびくりと震わせる。
これは電話の着信だ。電話での悪戯は、まだない。それでも、彼は今や電話一本にさえ警戒せざるを得なくなっていた。
「はい、もしもし。あ、どうも、お世話になっております」
震え声で電話に出ると、それは仕事先で関わりがある人物からの電話であった。
安堵し、声色も明るく要件に応じる岸矢。しかし会話を重ねるにつれ、その表情は次第に曇っていく。
「え? 今日ですか? はい、はい……え? ほ、本当ですか? すみません、すぐ確認します……はい……えぇ……」
慌ててメモ帳を確認する。
そこには、しっかりと午前十一時からの取材の予定が記されていた。
「……申し訳ありませんでした。はい。はい……以後、このような事がないように……えぇ、すぐ向かいますので……はい、はい……」
やつれた顔で、電話に頭を下げ続ける。例のメールの山は、弊害としてとうとう彼の実生活を侵害し始めていた。
取材時間を間違えるなど、これまでなら有り得ないミスだ。仕事柄、スマホを持たないようにする事も出来ない。警察への相談も考えたが、それは控えるようにと上から言われてしまった。どうせ上の連中は、たかが迷惑メールと侮っているのだ。それか、大ごとになれば同業者から格好のネタにされるとでも思っているのだろう。いや、もしかすると、それを起点にこれまでの取材で何かなかったか調べられるのを怖れてでもいるのだろうか。法的な問題はないはずだが、そうなれば確かに評判の低下は避けられない。
だが、どんなに考えたところで、彼に分かる事は何もない。
そもそも、メールの送り主さえわからないのだから。
「……きゃっ!」
「わ、おっと」
と、ぼんやり歩いていた岸矢の体が何かにぶつかり、手に持つカバンが地面に落ちた。
顔を上げると、そこには一人の女性が倒れ込んでいた。ぶつかったのはこの女性だろう。辺りには、財布や化粧品など二人分の荷物が散らばってしまっている。
「あ、あぁ、申し訳ない」
「いえ。こちらこそすみません」
慌てて駆け寄り、一緒になって荷物を拾い集める。幸い散らばった物は少なく、全てを拾い終わるまで数秒もかからなかった。
「すみません、急ぎますので」
ぶつかってしまったのは申し訳ないが、生憎この後すぐに行かねばならない。足早にその場を去ろうとした、その時だ。
「大丈夫ですよ……ふふ、お気を付けて、岸矢さん」
そう、女性が呟いたのを、岸矢は聞き逃さなかった。
「……え?」
自分は名前を名乗っていない。
なぜ、あの女性は自分の名前を知っていたのだろう。
慌てて振り返る。そこにはもう声の主の姿はない。その代わり、一冊のメモ帳が地面に残されていた。
さっきの女性が落としたのを拾い忘れたのだろうか。そう思って何気なく拾ったメモ帳を開いたその瞬間、彼はメモ帳を取り落としそうになった。
「……ひっ……何っ……!?」
見開きの両ページには、びっしりと彼の名前が記されていた。
乱暴に、ページを破りそうな勢いでページをめくっていく。所々に貼り付けられているのは、無数の雑誌の切り抜き。それも、全て間違いなく彼本人が書いたものだ。さらに、いつの間に撮影されたのか、何枚もの彼の写真が姿を現した。街中、仕事先、部屋でくつろいでいる写真まである。そしてほとんどのページに、文字がこれもまたびっしりと書き込まれているではないか。
「岸矢さん。御慕い申し上げております」
「ああ、嗚呼! この想い、誰の言葉を借りれば余さず伝える事が出来るでしょう」
「筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞ積もりて淵となりぬる」
「白鳥の飛羽山松の待ちつつぞわが恋ひたるこの月のころを」
「愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています……」
一体、何だ、これは。
恐怖と呼べる感情が、彼の心を侵食していく。次の瞬間、整理のつかない狂気に飲まれそうになる彼を、さらなる衝撃が襲った。震え出すスマホ。同じように震える手で画面を開くと、とうとう彼はスマホを投げ捨てるように放り出した。アスファルトに落ちてひび割れた画面には、最早見慣れてしまった、あの文面が並んでいる。
「見られてしまいましたね。ですが、安心してください。私は、あなたに危害を加える気はありません。私はあなたの事が好きなだけ。私の言葉があなたに届く、私はそれだけで良いのです。これからも、末永く仲良くいたしましょう。でも、せっかくですからあなたからの言葉が欲しいのも正直な気持ちです。お暇なときで構いませんので、お返事、お待ちしております」
岸矢の全身を、心を、薄ら寒い風が吹き抜ける。
その手からメモ帳が消え去っている事に、彼は気付かない。
後にはただ、引き攣った表情で立ち尽くす彼一人だけが残されていた。
*
そこからすぐ近く、ビルの屋上。眼下に立ち尽くす愛すべき人間の男を、黒髪の女性がうっとりと眺めている。
「ねぇ、文車妖妃。これでいいの?」
恐る恐るといった具合に、彼女に声をかける運音。
「……何か、問題でも?」
文車妖妃と呼ばれた妖姫は、首をぐるりと回し、恍惚とした表情で言葉を返す。それに対して、肩をすくめた運音は、言葉は返さずに回収したメモ帳を手渡した。
文車妖妃とは、文字通り書物を積む「文車」の妖怪であり、恋文の情念が妖怪化した存在である。
返事を貰えなかった恋文。身も心も離れ離れに引き裂かれた、涙の恋文。届きすらせず焼き捨てられ、怨念の煙が立ち上りさえした恋文。そんな千もの恋文に込められた執念の集合体が文車の姿と成り具現化した存在、それがこの文車妖妃なのだ。
彼女にとって、恋文とは自らの想いをしたため送るもの。
それ以上でもそれ以下でもない。返事が貰えるのか、向こうがそれを見てどう感じるのか──それは、彼女にとっては二の次だ。返事のない手紙など、珍しくもないのだから。
そんなモノに目を付けられた男を少しばかり哀れに思いながらも、運音は改めて妖怪という人外の持つ底知れぬ力に唸る。
車輪の妖怪が、現代の自動車を追い抜く速度で走行する。手紙の妖怪が、セキュリティなどお構いなしに現代のテクノロジーに適応し、電子メールで暗躍する。そしてその好物は人間の悪意。妖怪という存在は、それこそこのつまらない人間の世界を塗り変えていくのに十分すぎる力を持っているのだ。
もし、これを上手く使っていけたなら。
世直し、などという綺麗な言葉は使えない。そもそも自分自身が悪意を妖怪に転じた存在なのだ、そんな虫の良い事を言うつもりはない。自分だって、もしタイミングが違っていたら妖怪の餌となっていたかもしれない人間には違いないのだから。
だが、それでも。
この力を、多少は世の中のために使う事もできそうだ。運音はささやかな罪滅ぼしに想いを馳せ、全身の百目を静かに閉じるのだった。
登場妖怪解説
【文車妖妃】
書物を積む車である「文車」の妖怪。鳥山石燕「百器徒然袋」に巻物を持った鬼女として図画と記述がある。古い恋文に込められた情念や執念が妖怪として変化したものと解釈されることが多い。




