第二十二話:終幕 そして再開へ(1)
海面にのぼる泡が消え、血の揺らぎが消え、後に残るはかすかな波音のみ。
すっかり薄暗くなった頃、死闘の舞台となった海は普段通りの姿を取り戻しつつあった。
「……ふぅー!」
そんな中、静けさを破るように大きく声を上げて息をつく彩夏。近くを舞うカモメが呼応するように一声鳴くと、ねぐらへと飛び去っていく。その後を追うような格好で、彼女もまた、のんびり岸辺へ向かって飛び始めた。
「……でもさー。今回はちょっと危なかったんじゃない?」
彼女の懐から飛び出した橙の灯りが、周囲を飛び交いながら話し始める。御札の中に避難していた不落不落だ。普段であれば「出番がなかった」などと騒ぎ立てているところだろうが、彼の炎は雷田路留には──神虫にはまるで効果がなかった。その事は、彼自身が一番理解しているのだろう。命拾いしたと言わんばかりに、安堵の声色を隠さない。
「そうだぜ、アヤカ。まさかあんなヤツがいるなんてな……」
同調するように浅葱色の風、鎌鼬もまた言葉を続ける。彼に至っては、自分と同じ攻撃方法で真正面から打ち負かされたのである。あっけらかんとしてはいるが、言葉の端々には悔しさが見え隠れしているかのようだ。
「なぁ……俺たち、アヤカの役に立ててんのか?」
だからこそ鎌鼬は、この時、そんな呟きを漏らしてしまったのかもしれない。
彩夏の本質は魔王だ。妖怪の王。本来ならば、自分たちのような低級妖怪が肩を並べ、無駄口を叩けるような存在ではない、百鬼夜行の主。彼女が未だ幼いからこそ、お目付け役として不落不落と二匹で彼女に付き従ってきたのだ。もっとも不落不落に関しては、その性格と立ち位置は同世代の友人のようにも思えるのだが。
しかし今、牛鬼という強大な力を従えた彼女を前にして、鎌鼬は痛感した。
自分たちでは、魔王の側近として力不足なのではないか。
牛鬼の化装。あれはまるで、自身の超高速と不落不落の判魔の破壊力、その両方を併せ持っているかのような性能だった。あの力さえあれば、自分たちが前線で戦う必要はもう無くなったのではないか。武器としての役割を果たせないなら、もう彼女にとって自分たちは必要ないのではないか。そう感じたのだ。
「……キヒヒ。もー、何言ってんの?」
一瞬、きょとんとした表情を浮かべる彩夏。
だがすぐに、その困惑は屈託のない笑顔へと変わる。
「らしくないなぁ、チーかま。いつもの強気さがないじゃん」
「いや、だってよ……」
「ほーら、いつものツッコミも忘れてるし。大丈夫、大丈夫! 二人には、まだまだ働いてもらわないとね!」
そんな事を言いながら、軽くウインクまで飛ばしてくる。
「あ、そうだ! 不安ならさ、チーかまも強くなってみたら?」
「はぁ? 強くなる、ったって…」
「私だって、ほら、無理だよーって思ってたけど牛鬼と仲良くなれたしね。私が強くなれたんだよ? やってやれない事はないさ!」
「えー? 何々、アヤカー。もしかして、僕も強くなれるの?」
「キヒヒヒ、多分ね! これはみんなでしばらく修行、かな?」
いつの間にか不落不落も加わり、今後の「修行」の相談が始まってしまった。と言うより、もはや鎌鼬そっちのけである。
苦笑いしながら、鎌鼬はありがたいなと思う。
この若い魔王の和気藹々とした空気は、ちっぽけな悩みなどすぐに吹き飛ばしてしまう。強かろうが弱かろうが、魔王に選ばれた以上、その百鬼夜行の一員である事に変わりないのだ。見目は小さな少女なのに、その背中は全てを背負い全てを包み込む広さがある、紛うことなき魔王の背中であった。
それに、これはもしかすると、彩夏なりの鼓舞なのかもしれない。
「強くなったらどうか」という提案。だがそれは、裏を返せば「強くなれ」という指示ではないか。魔王の武器として、よりその力を磨け。その言葉は、鎌鼬にはそう聞き取れた。
さらに言えば、そう言ってもらえるという事は、強くなる事を期待されているという事でもある。
直接言われた訳ではないにせよ、そこまで言われてもくよくよ悩み続ける鎌鼬ではない。岸辺に辿り着く頃、彼の心に思い浮かんでいたのはこれまでの悩みではなく、これからの事であった。
「──お帰りなさい」
透き通るような声が響く。
視線を下ろすと、彩夏たちを出迎えるように百姫が岩の上に立っていた。
「キヒヒヒ、ただいま!」
「……全て見ていましたわ。まさか、あの牛鬼を従えるなんて、ね」
感嘆しているような、半ば呆れたような口調。百姫としても、自分の力を託した以上は彩夏が負けるとは思っていなかったが、まさかあんな方法で神虫を打ち破るとは思ってもみなかったのだ。
「貴女、神虫は封印しなかったのですか?」
「うん。っていうか、出来なかったんだよね。やってみようとはしたんだけど、やっぱ根本的に妖怪とは違うみたいで。きっと神虫って、妖怪より神仏とか……うーん、それか野生の動物に近いんじゃないのかな」
「神仏と動物とでは真逆でしょう。まぁ……妖怪ではない何か、という事ですか?」
「そんなとこ。アレを使役できるなんて考えた妖怪狩りがおかしいんだよ」
「……放っておいて大丈夫?」
「うん。一応、完全に死んだのは確認したからね。動物と一緒なら、あとは自然に任せるしかないんじゃないかな。彼も、きっとそれを望んでると思う」
「そう……ところで、彩夏さん」
そこまで言うと、百姫は急に鋭い目つきで彩夏を睨みつけた。
「そろそろ降りてきてくださいません? わたくし、見下ろされるのはあまり好きではないのだけれど?」
プライドの高さでは彩夏以上の百姫にとって、見下ろされたまま会話を続けるのは耐え切れなかったようだ。それにこの位置関係では、現状で牛鬼を従え、神虫を討った彩夏の方が格上かもしれない、そう錯覚しそうになってしまう。むしろ、それを認めてしまうのが許せない、という面もあるのだろう。
「キヒヒヒ、ごめんごめん! えっと、それで?」
だが、そんな彼女を茶化すように笑いながら百姫の隣に降り立ち、彩夏は無邪気に言葉を続ける。
「百姫ちゃんはこれからどうするつもり? その怪我、まだしばらく治らないんじゃない?」
満面の笑顔でそう言われ、百姫も苦笑いを返すしかない。
確かに身体組織は再生したが、それも形だけだ。妖力もまだまだ足りず、完全復活と呼ぶには程遠い。力があればこちらから彩夏の高さまで翔んでやる事もできたのだが、その力すら今はない。今や百姫は、彩夏以上に普通の少女の体なのだ。
それでもそんな弱気はまるで出さず、百姫は胸を張り口を開く。
「そうですわね、思ったより時間はかかるでしょうけど。ですが、わたくしの代わりに百姫夜行が動いてくれますから、休戦の心配はなさらずに」
「キヒヒ。ようやく勝負再開かぁ。わくわくするね!」
そう。これは魔王同士の勝負。
かなり手こずりはしたものの、妖怪狩りの乱入は、彼女らにとってちょっとしたイベントに過ぎないのだ。
「まぁ、貴女も今回の件で相当強くなったようですし……もし百姫夜行の手に余るようでしたら、わたくしが直接出向くことになるかもしれませんが」
「あ! ずるい、自分で縛り作ったのに!」
「ウフフ、これは必要最低限のルール変更ですわ。それに、わたくしとしても貴女と直接遊んでみたくなりましたので」
「うーん、そういう事ならいいけどさぁ。キヒヒ、早く妖力復活させて戻ってきてね?」
好敵手らしく笑顔を向け合う二柱の魔王。
やがて夜の闇に辺りの景色が飲み込まれる頃、両者の姿もまた闇の中へと飲み込まれた。




