第二十一話:魔王の一歩 山源彩夏が歩む道(2)
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「キヒヒヒヒヒ!」
牛鬼の妖力が持つ特性は、属性や法則をも超えた圧倒的な力。それは彩夏の力により引き出され、八本の脚を具現化した苦無として彼女の武装となる。だが、彼女一人では、流石に八本もの武器を高速で精密に操る芸当は難しい。
苦無は、彼らだ。
その一本一本は、半ば本能的とは言え主の意思に正確に付き従う八本脚そのもの。彼女が操るまでもなく、彼女が思うままに暴れ回る手足と同然なのだ。
「さぁ、いっけー!」
彩夏の号令の下、意思を統一した黒い斬撃の嵐が吹き荒れる。
鎌鼬の刃のような、一刀両断の太刀筋ではない。突き、穿ち、貫く。それは言わば、リーチに制限を持たぬ槍の穂先。いや、一本一本が誇る威力は、槍の刺突どころか銃弾にすら匹敵する。その上、精密駆動のおまけつきと来た。こうなると、八本という数は決して少なくない。むしろ多過ぎるほどだ。
だがそれでも、本来なら神虫に対する決定打にはなり得ない。神虫は触れた妖力を例外なく喰らってしまうのだから。
この化装最大の特性は、強烈な力、ではない。
ましてや手数の多さでも、精密性でもない。
不落不落にも鎌鼬にもない、この化装だからこそ得た特性。それは、この化装が人間の霊魂をも纏っているという点である。
妖力と肉体、妖力と霊魂。それぞれの関係性は、水とスポンジに近い。
そして彩夏が夜道怪と共に編み出した化装という能力は、妖怪の肉体、霊魂、妖力、それら全てを何倍にも増幅させた上で彩夏の装備として変化させるものである。
人間は通常、妖力を持たない。それは肉体だけでなく、霊魂もまた同じ。牛鬼の意識に眠っていた犠牲者たちの霊魂もまた、本来は妖力を持たぬ存在だった。牛鬼の妖力と霊魂の関係性はスポンジではなく、言わば継ぎ接ぎのずだ袋に水を無理矢理詰め込まれたような状態だったのだ。
そのずだ袋の部分だった彼らの霊魂の欠片は、今、彩夏と同調した事で彼女の化装として析出している。
他の妖怪相手なら、特筆するような効果は得られないだろう。だが今、神虫を相手にしているからこそその真価は発揮される。ペットボトルに泥をかけても、中の水が汚染されないように。この化装に限っては、外部に妖力を纏っていないお陰で神虫に攻撃を加える事が可能なのである。
「ゴォォオオヲヲッ!」
神虫の雄叫びが大気を震わせる。
狙いを定める事もなく、力任せに腕を振り回す。一撃の下、半分近い斬撃が叩き伏せられた。海中に没した苦無は、しかしすぐに海面を突き破り神虫目掛け飛来する。これらそのものを破壊でもしない限り、猛攻が止むことはないだろう。だが神虫は、徐々に平静を取り戻しつつあった。
確かにこの攻撃は自分に効く。
しかし、だからといって何だと言うのだ。
一発一発の威力は、はっきり言ってそこまで驚異的ではないのだ。正面から自分の腕力と張り合える勢いこそあるが、逆に言うならそれ以上の威力はない。全力で腕を振れば斬撃を退ける事も可能である。となれば、神虫がとるべき戦法は一つ。
「ゴォォヲ……」
「……へっ?」
素っ頓狂な声を上げ、彩夏の動きが一瞬止まる。
襲い来る苦無をまるで気にしないかの如く、神虫はその動きを止めていた。
突進するでもなく、腕を振るうでもなく。空中に静止したまま、渦を巻く吸い込まれそうな眼球で彩夏を睥睨し続ける。致命傷にならないならば避けるまでもない、そう考えるに至ったのだ。多少のダメージより、しっかりと狙いを定める事を優先したのである。
「ゴオオォァァアッ!」
次の瞬間、巨体は突撃を開始した。
力任せの体当たりではない。十分に体重と勢いを乗せ突進すると、彩夏の眼前で急停止、全身の関節をフル稼働させて力の全てを込めた強烈な鉤爪の一撃を繰り出したのだ。
これに対し、彩夏は全力で回避を選択する。我武者羅な一撃ならともかく、明確に狙いを定められた一撃だ。体を捻り攻撃を避けるが、風圧だけで肌の一部が掠め取られた痛みを感じる。全身が総毛立った。
「わっ、と! うわわ!」
勢いをそのままに、今度は別の腕が彩夏の命を刈り取らんと襲い掛かる。苦無を射出し相殺を試みるが、二本の苦無は敢え無く弾き返された。残る六本を全て放ち、ようやく腕を押し返す。
その向こうから続け様に飛び出した強烈な蹴りに、いよいよ彩夏の表情から笑顔が消えた。
上体を逸らしてギリギリ直撃を避けるが、回避できたのはまぐれと言って良いだろう。慌てて距離を取ろうとするが、向こうもまた翅を煌めかせ彩夏の後を追撃する。移動のスピード自体は身軽な彩夏の方が速い。が、胸部目掛け放つ苦無のことごとくを甲殻に阻まれ、依然として神虫の有利には変わらない。
「なら、これでっ!」
両腕を前に突き出し、ありったけの妖力を苦無に込める。妖力そのものは神虫には通らない。だが、妖力を推進力に転じ、苦無は超高速で神虫の甲殻へと突き進む。
それはわずか一秒にも満たぬ出来事。一本目、弾かれた。二本目、三本目、火花が散った。四本目、五本目、着弾点の色が燻った。そして六本目、七本目。八本目には、ミシミシという音が響き──。
だがその時、神虫の大顎はすぐ彩夏の眼前へと迫っていた。
「ふっ!」
タイミングはほんの一瞬。
跳び箱を越えるように、神虫の上顎に手をつき身体を持ち上げる。鼻先を飛び越し、眉間を飛び越し、手が届かぬうなじより後方へと跳躍し──神虫は一瞬彩夏を見失う。背中合わせになったその僅かなタイミングを狙い、彩夏は両手を左右に突き出した。
「いっけぇぇえええええ!」
舞い戻った八本の苦無。その全てが、神虫の背中を突き破る。
堅牢な甲殻に覆われた背中ではない。飛翔するために翅を広げた事で剥き出しになった、硬い外翅の下にある比較的柔らかい皮の部分。その一点に狙いを絞り、連撃を叩き込んだのだ。
「ゴッ……!?」
いかに甲殻に守られていようと、その中に詰まった肉体は流石に刃を防げるほど硬くはない。スイカの果肉を喰い荒らすように、苦無は神虫の全身を喰い進む。過去、味わった事のない激痛。自身の生命をそのまま蝕まれているかのような感覚に、神虫は狂ったように抵抗を試みる。頭を振り、咆哮を上げ、胸を、全身を掻き毟る。だがそれは最早無駄な抵抗であり……。
「キヒヒ。私の勝ち、だね!」
──巫山戯るな。俺は、俺はまだ──。
「んーん、もうお仕舞い。楽しかったけどね」
──俺はまだ、まだ果たしていない──
「果たす? 何を?」
──人間、共を、喰らい尽くして──
「……もしかして、神虫……」
──縛られる必要のない鎖に縛られて、自由を奪われて。何年無駄に腹を減らしたと思っている。獣を捕らえて檻に繋ぐ……他者の自由を奪う自由など、何処にある──
「……君は、人間が憎かったんだね?」
──憎い……嗚呼、憎かった。俺を使役したつもりになって、餌の分際で……俺は……俺はただ……──
「ただ?」
──静かに……喰らいたいだけ喰って……腹一杯になったら寝て……野山を……駆け……回って──
「……そっか。神虫、君は……」
「ゴゴヲォォオオオオゴヴォオヲヲアアアアアアアアッ!」
最後の八連撃が外殻を多少傷つけていたのだろう。
胸の甲殻を内側から喰い破り、断末魔と共に苦無が飛び出した。毒々しい紫色が海面に弾け飛び、神虫の骸もまた、血飛沫を撒き散らしながら海中へと没していく。
「……おやすみ。またね、神虫」
住処から引きずり出され、本能のままに暴虐を尽くした猛獣。
その命が尽きる瞬間を、彩夏は瞬きひとつせずに見つめ続けた。




