第二話:死に至る煙 魔放少女が通る(2)
2018/07/10 加筆しました。
「あ……チッ、またか」
憎々しげに舌打ちをして、空箱を握り潰す。
このところ、男はしょっちゅうタバコを切らしていた。
ここ一、二週間ほど、どういう訳か喫煙量がぐっと増えた気がする。元々一日に三箱は吸っていたが、今日はこの空箱で四箱目だ。それも、以前はそんなに気にしていなかったのだが、今では無意識のうちに一本一本を根元までしっかり吸うようになっていた。
「はぁ……んん~っ……」
首を回して伸びをするが、気分は晴れない。心なしか、最近は少し気怠い日が多かった。寝不足も続いており、イライラし易くなっている。恐らく、それもあってタバコの量が増えているのだろう。
禁煙外来に顔を出そうかとも思ったが、若い頃に苦い経験をした事を思い出してやめることにした。通ったところで、自分には何の意味も為さないはずだ。
だが流石に自分の今の状態は異常だ、そう自覚できる程度にはまだ男は正常であった。
もう一箱買って帰るか。そう思った時だ。
「久しぶりー。元気?」
唐突に、そんな声がした。
「キヒヒヒ。どう? タバコ、いっぱい吸ってる?」
はっと顔を上げると、パーカーを着た少女が立っている。久しぶり? そう言えばこの顔にこの服、どこかで見たことがあるような。
「あっ! お前、あの時のガキ!」
「キヒヒヒヒヒ……」
「あ、おい、待て!」
そうだ。あの日、通勤中に急に絡んできた、教育のなっていないガキだ。どうしてこんなところに。そう思い出した時、少女は既に人混みの向こうへ消えつつあった。
「チッ、邪魔だ! どけ!」
人混みをかき分け、慌ててその後ろ姿を探す。
何故こんなにもムキになるのか、自分でも分からなかった。だが、何か、心のどこかで腑に落ちないところがあったのだろう。
タバコ、いっぱい吸ってる、だと? あのガキ、まさか何か知っているのか。気がつけば男は、息も途切れ途切れに夢中でその影を追っていた。
「キヒヒ、こっちこっち」
「……え?」
頭上から聞こえた突然の声を仰ぎ見る。
思わず、男は自分の目を疑った。自分の前を歩いていたはずの少女が、今度は歩道橋の上からこちらを見下ろしているのだから。
「は……? お前、え?」
「キヒヒヒ!」
今度は背後から声がする。振り返ると、次は左から。そちらを見れば、人混みの向こうへ消え行く背中が見える。泡を食って後を追っても、どういう訳か、大の大人がたかが子供の足にどうしても追い付けない。
その頃になると男はあまりにも不可思議な少女の存在に、完全に平静さを失ってしまっていた。
男は、未だ気付いていない。
誘い出されているのだ、彼は。今、彩夏はぎりぎりで見失われない位置を保ちながら、男を惑わせつつ歩き続けている。人目につかない裏路地に彼を連れ出し、目的を果たすために。
数分後、人気のないビル街の裏で対峙する二人の姿があった。
「ようやく、追い付いたぞ……ッハァ、ぜぇ……」
男はすっかり息が上がってしまっている。少し前なら、ちょっと走っただけで呼吸が辛くなるなんて事はなかったはずだ。それに、どうして自分はこの子供をそんなになるまで追いかけてきたのだろう。やはり、このところどうもおかしい。
「はい、お疲れ様ー。元気になったかな? そろそろ戻ろっか?」
路地に響く明るい声。自分と向き合っているはずの少女の言葉が、男はすぐには理解できなかった。明らかに自分に向けられた言葉ではない。視界に入ってすらいないとばかり、少女は自分ではない何かに話しかけているかのようだ。
その時、男の視界がうっすらとかすみ始める。慌てて辺りを見回すと、男を中心に路地に煙が巻き起こっていた。
「な……何だ……!?」
視界がもやがかるほどの、灰色の煙。
火事か? いや、そうではない。ガラスで区切られた喫煙所のように、辺りには煙だけが充満している。よく見ると、煙はまるで自分の体から立ち上っているようだった。スーツの裾から、襟から、袖から。慌ててスーツを叩くが、火が着いている様子も、煙が収まる様子もまるでない。
不審がる男に、ネタばらしをするかのように少女が楽しげに笑いかけてきた。
「キヒヒ。この子は煙々羅。煙の妖怪なんだけど、このところどうも元気がなくって。たまにはいっぱい煙を浴びてリフレッシュ! って思ったんだけど、どうも最近の喫煙所は私達の肌に合わなくってさぁ」
妖怪……だと? 何だ、何を言っている?
いくら目を凝らして見ても、周囲には白い煙が漂っているだけだ。困惑する男を余所に、彩夏の身振りを交えた大袈裟な説明は続く。
「でもそんな時! 私は最高の喫煙所を見つけたのだ!」
「最高の……喫煙所……?」
「そ。最高の喫煙所。子供がいても知らん顔、他人が火傷しそうでも我関せず。吸い殻もその辺に捨てちゃって……周りを顧みない無意識の悪意が充満してる、そんな喫煙所をね。煙もたっくさんありそうだったし、ちょうどいいやって」
そう言って、少女がニヤリと笑いかける。
その表情でようやく男は合点がいった。この子供が話しているのは、俺の事だ。妖怪だの最高の喫煙所だのと訳の分からない事を言っているが、何のことはない。
俺の事を喫煙所と呼んで小馬鹿にしているのだ。この煙も、自分から出ているように見えたのは気のせいで、どこかに発生源があるのだろう。そうに決まっている。
「おいてめェ、いい加減に」
「あぁ、そっか。おじさんには見えないんだね? そりゃそうだよね、煙々羅は心に余裕がある人にしか見えないんだもん」
何かが切れそうになり、年甲斐もなく少女の肩に掴みかかる。しかし彩夏は気にした様子もなく、手に持っていた御札を男に向ける。赤黒い光を放つ御札。
何を、と思う間もなく次の瞬間、男は驚愕に目を見開く事になる。
「……んだ……こりゃあ……?」
「キヒヒヒヒヒ! ほら、どう? 見えるようになったかな」
目の前に、化け物がいた。
これは間違いなく煙だ、それは疑いようがない。先程までこの路地に充満していた、大量の煙。それが一ヶ所に集まり、まるで生物のように蠢いている。掴めないもやであるはずの煙が、輪郭さえ持って、そこに確固たる灰色の塊として存在しているのである。
それは、言うなれば大きな蛇の頭のようであった。煙で形成された大蛇の頭、その頭頂から同じく煙で出来た少女のような上半身が生え、それでもやはり煙らしくもくもくと揺らめいている。
「ハアァァァア……」
「うおっ!? げほっ、げほっ」
灰色の少女が声もなく笑う中、巨大な顎が煙を吐く。途端に男の周囲を白っぽい煙が埋め尽くした。
急な出来事に対応できず、男はその中心で煙をまともに吸い込んでしまう。うずくまって咳き込みながら、男はその煙の匂いに心当たりがあった。爽快感が脳に流れ込んでくるような、きつめのメンソールの香り……これは、自分が好んで吸っている銘柄のタバコの煙だ。
「キヒヒヒ! 気付いた? 気付いたでしょ? ありがとうございました、おかげでこんなに元気になりました!」
少女の楽しげな声が聞こえてきた時、男はようやく悟った。
彩夏は何もふざけた事は言っていなかったのだ。信じられない事だが、化け物は実際に目の前に居る。自分は本当に、ただ喫煙所として利用されたのだろう。
この化け物は、自分の中で、自分が吸ったタバコの煙を喰らい続けていたのだ。タバコに満足感が得られなくなり、以前より吸う量が増えたのも、もしかするとこいつが原因なのではないか。こんな短期間で目に見えて体調が悪くなったのだって、そうに違いない。
「てめェ……俺の体を、今すぐ元に戻せ……!」
痛む胸を押さえながら、精一杯の声で怒鳴り散らす。
だが、それを聞いた彩夏は、悪びれる様子もなくきょとんとした表情を浮かべていた。
「え? 元通りも何も、なーんにも変わってないよ?」
「──あ?」
「だって、煙々羅はおじさんの中で煙を浴びてただけだしね。タバコを吸ってたのはおじさんでしょ? だから、タバコの煙も影響そのものもみーんなおじさんの中に残ったままだから大丈夫! あ、でも、我慢できなくてもっともっとタバコを欲しがったり、副流煙までおじさんの中に取り入れてたみたいだから……そこだけは、これからは違うかな。まぁ、匂いは煙々羅にも移っちゃったみたいだけどね?」
──は?
さらりと恐ろしい事を言われた気がしたが、その意味を全て理解するには既に思考力が至らなかった。
胸の痛みがさらに強くなる。
息が、苦しい。
霞む視界の中、何とか声を絞り出すが、
「どうして……どうして、俺……なんだ……!?」
そう尋ねるのがやっとだった。
タバコを多量に吸うから? そんなの、俺より吸う人間は山ほどいる。歩きタバコをしていたから? 吸殻を道に捨てたから? それだって、俺だけじゃない。どこにだってそんな奴はいるじゃないか。
それでも少女の姿勢は変わらない。楽しげに、天真に、非情で残酷なお喋りは続く。
「え? うーん、確かにおじさんじゃなくても良かったかもね。そういう人ばっかりじゃないけど……強いて言うなら……あ、そうそう! おじさんも言ってたじゃん!」
ぎらりと彩夏の笑顔が鋭く歪む。
無邪気な悪意を、ざくりと突き刺すために。
「そこにいたのが悪かった、んじゃない?」
途端、男はその場に崩れ落ちた。
胸を激しく締め付けるような心筋梗塞の痛みに耐えかね、意識を手放したのだ。最後の言葉も耳に届いていたかどうか。いや、届いたからこそ気力の糸がぷつりと途切れたのかもしれない。
「キヒヒヒヒヒ……」
それを見届け、彩夏は裏路地を後にした。
俯きながら、しかし隠れるでもなく、ポケットに手を突っ込んで大通りを堂々と往く。
やがて、救急車のサイレンが裏路地の方向から聞こえてきた。誰かが倒れている男を見つけて通報したのだろう。あれだけ煙が立ち込めていれば見つかるのも当然か。
彩夏は一瞬そちらに視線を向けたが、すぐに興味なさそうに視線を戻した。男が助かるかどうか、それはもう既に彼女の興味の及ぶところではない。
「キヒヒヒ! 元気になって良かったね!」
空を仰ぐ。
そこには元気を取り戻し、気持ち良さそうに空中を漂う煙々羅の姿があった。
だが、忙しく行き交う人々の目には、一筋の煙しか見えてないだろう。ましてや煙々羅の姿を見る心の余裕がない者に、ただの煙に興味を示す暇などない。楽しそうに空を眺めているのは、彩夏ただ一人だ。そしてその上を、煙々羅もまた楽しそうに、悠々と泳ぎ続けていた。
*
「………あれ?」
──そこから、すぐ近くの路上。帰宅途中だった典子が、目を擦りながら困惑した様子で空を見上げていた。
気のせいだろうか。今、一瞬何か変なモノが見えたような……?
登場妖怪解説
【煙々羅】
煙の妖怪。「今昔百鬼拾遺」にその姿が見られるが、実態や特徴ははっきりしない。ぼんやり煙を眺められるような心の余裕がなければ、その姿を見る事は出来ないとする説もある。




