第二十話:大怪蟲激突 時を超える邂逅(1)
妙なヤツが出て来たな。
神虫は身構えながら、突然の闖入者に視線を向ける。
黒と黄色の曇った斑模様の甲殻、それが意味する所はスズメバチと同じ。見る者に恐怖と警告とをバラ撒く、自然界共通の危険信号だ。確かに、その纏う気配は尋常ではない。これまでに喰った鬼どもの中にも、これだけの獲物はいなかった。
だが同時に、こうも思う。
こいつ……喰い応えがありそうだ。
神虫は知らないのだ。目の前にいるのが、いくら彼と言えど容易には喰らう事の出来ぬ大妖怪のひとつである事を。
牛鬼。
ある伝承曰く、それは村人や家畜を喰い荒らす暴虐の化身。
ある伝承曰く、それは姿を見ただけで祟るという凶悪極まりない脅威の具現。
ある伝承曰く、それは海より女の妖怪と共に現れ人間を誑かし喰い殺す魔性の怪物。
西日本を中心に数多くの伝承と共にその名を刻む大妖怪。その伝える所は場所によって様々であり、同一の存在であるかも一見すると疑わしい。
確実なのは──牛鬼という名を冠する存在が、紛れもなく危険な厄災としてその名を残しているという事である。
「ギギァアアアアアアアッ!!」
「ゴオヲヲォオオオオオッ!!」
対峙した二頭の怪物は、一瞬の静寂の後、突如として激突した。
火花を炸裂させながらぶつかり合う甲殻と甲殻。強烈な神虫の顎の一撃が牛鬼の脚に喰らい付くと、煩わしいとばかり牛鬼が脚を振り上げる。そのままアスファルトを砕く勢いで叩き衝けられた神虫は、しかし脳震盪の衝撃をものともせず、顎の力をまるで緩めない。
「ギギギッ!?」
高速で翅を動かす神虫。次の瞬間、二頭分の巨体が土埃を巻き起こしながら宙へと舞い上がる。脚を蠢かせ暴れ回る牛鬼を引きずるように、神虫が一気に上昇した。
今度は、こちらが叩き衝けてやる番だ。手頃な土地を探しながら雲を突き破るまでの高高度へと一瞬で到達した神虫は、しかしそれ以上翔ぶ事が出来なくなった。酸素濃度が薄くなったからではない。牛鬼の鈎爪の一本が、片方の薄翅を突き破ったのだ。
まずい。そう本能で感じ取ったのも束の間、牛鬼の六本の脚が神虫の全身をがっちりと拘束する。咆哮を上げ離脱を試みるが、腕力は互角。人間のようにちっぽけな紅い瞳、その奥の底知れぬ闇と目が合った瞬間、二頭の怪物は高い水柱をかち上げ海面へと激突した。
神虫にとって、海中は決して得意な空間ではない。数百年もの間、山奥で獲物を喰らうという生活を続けてきた彼の生涯には、水の中で戦うという事態そのものがなかったのだから。
だが牛鬼からすれば、海中は縄張りそのものだ。本来海や淵の奥底に潜み獲物を待つ怪異である牛鬼にとって、そこは陸上と何ら変わりない。身体がバラバラになってもおかしくない衝撃を全身に浴びたにも関わらず、脚をまるでヒレのように蠢かせ、巨体も軽く悠々と泳ぎ回っている。
ここに来て神虫は、自身の認識を改めた。
自分に比類するやも知れぬ怪物、牛鬼。気を抜くとこちらが喰い殺される可能性すらある。遊び半分の狩りではなく、確実に仕留めるべき大物だと認めたのだ。
一方の牛鬼に、知性らしい知性はない。
宿主たる数多の犠牲者、そして夜道怪を経て、全身を祟りで蝕まれた怪物の頭にあるのは本能のままに次なる犠牲者を探す、最早それだけだ。
そして当然、現在の宿主である彩夏は──。
*
現在の宿主である彩夏は、魔王である。
当然、この程度の事で意識を失うはずはない。
しかし今、その脳内は困惑で満ちていた。
「キヒヒ、うまくいったな。こいつは面白ぇ。面白ぇぞ、なぁ、夜道怪?」
「ええ。これは驚きましたな、まさか貴方様と彩夏様がまみえる日が来ようとは。この夜道怪も予想だにしておりませんでした」
「……え? 師匠? ん、え?」
彩夏の意識は、今、伝統的な日本家屋の中にいた。古い畳に茅葺きの屋根。穴の空いた障子に襖。直接見た事はないが、どこか見覚えのある、遺伝子に刻まれているかのような懐かしい光景。目の前の囲炉裏では、何らかの野菜や肉を煮込んだ鍋がぐつぐつと湧いていた。その鍋を、牛鬼に変貌し御札に封じられていたはずの夜道怪が、さじで掻き回している。
「……善し。そろそろ頃合でしょうな。お召し上がり下さい」
「おう、ありがとな。どれ、いただくか」
そして、囲炉裏を挟んだ反対側には、魔王が──山本五郎左衛門本人が座していた。
椀を受け取ると、美味そうに中身をかき込んでいく。陶器の酒瓶から直接酒を呷るその姿は、拍子抜けする程くつろいでいた。まるで自宅で夕餉を楽しむかのように……そう、その家屋は、かつて魔王山本五郎左衛門が住処とし寝起きしていた家屋と寸分違わぬ空間であった。
「おう、彩夏。お前も食うか?」
「え、あ、うん。師匠、私にもちょうだい」
「やれやれ、師匠を顎で使うとは。ま、久しぶりですし大目に見るとしましょうかね……さ、どうぞ、彩夏様」
「うん、ありがとう。いただきまーす」
一口すすると、懐かしい味が口の中に広がった。味噌をベースにした濃い味付けが葉物野菜の芯までしっかりと沁み渡っている。生姜と山椒のぴりっとした辛さが旨みを引き立てている肉は、脂の乗った猪だ。僧侶だったにも関わらず、具材たっぷりの牡丹鍋は夜道怪の得意料理だった。
「……いやいやいや、そうじゃなくって!」
「おや。お口に合いませんでしたか?」
「いや美味しいよ。うん、美味しい。そうじゃなくってさ! え、師匠? 師匠だよね? 何で? え、私、牛鬼の封印を破いて、私が牛鬼になって、それで、ん? それにここ、何? どこ? あと、そう、この人! 何でこの人がここに、って言うか私の目の前にいるの!? 何がどうなってるワケ!?」
呑気に鍋をつついている場合ではない。我に返り、湧き出る疑問を矢継ぎ早に吐き出す彩夏。他の二人はその様子を面白そうに眺めていたが、やがてにやりと笑いながら山本五郎左衛門が彩夏を手で制した。
「落ち着け、落ち着け。俺様の力を持ってんのに慌てすぎだぜ、魔王様?」
「いや、だって……」
「一つずつ答えてやる。っと、こうして会うのは初めてだし、まずは自己紹介だな。俺様は山本五郎左衛門。ご存知最強の大魔王で、お前さんの先代で、百鬼夜行を統べる大妖怪よ」
「うん、知ってる。えっと、私はアヤカ。山源彩夏。魔王山本五郎左衛門の──あなたの力を受け継いだ魔王で、んーと……」
「キヒヒ、おう、知ってる知ってる」
何倍もの差がある大きさの手が、握手を交わす。それは見た目にも、実際の事象としても奇妙で不思議な光景だった。
「まずは、だ。そうだな……俺様が何でいるのかっつー話か。簡単な話さ。俺様の力を丸っとお前さんに移した後で、俺様の意識が復活した、ただそれだけの事よ」
「う、うーん? 分かるような、分からないような……」
「どんどん行くぞ。次に、此処は俺様が封じられていた札の中だ。もっと厳密に言うなら、札の中で俺様が創った結界だな。俺様の妖力を目一杯使って昔の家を再現してるからよ、家具も、このメシも、全部実体がある。外界と何も変わらねぇ」
「え? でも、御札は私が裂いて……」
「バーカ、俺様の結界があの程度でブッ壊れる訳ねぇだろが。何せ俺様は最強だからな」
自信満々、傲岸不遜な口振りと態度に、彩夏も思わず笑ってしまう。考えてみれば当たり前だ。強欲で傲慢、身勝手にして最強。それこそ魔王としての在り方そのものである。だがそれを遮るように、今度は夜道怪が笑い出した。
「ははは、調子の良い事を。今の貴方様は妖力が激減していますから、拙僧の妖力もお貸ししているではありませんか」
「うるせぇ、分かってるよ。俺様がいるからこそ、お前さんの妖力もずっとでかく引き出せてんだろが……あぁ、この夜道怪のヤツは、俺様が牛鬼から引っペがした。と言うか、完全に次の牛鬼になる前に、夜道怪の霊魂だけをこっちの結界に引き込んだのよ」
「ええ、お陰で助かりました」
「キヒヒ、気にすんな。だからあの札には、次の宿主を探す牛鬼の祟りと妖力だけが封じられてた、だから夜道怪はここにいるってとこだな」
笑い合う夜道怪と山本五郎左衛門。だが、その言葉の内容は常人には理解しがたい内容であった。
そもそも牛鬼の祟りは、一部に「牛鬼を討った者が次の牛鬼になる」とする俗説が生まれるほど、危険極まりない強烈な代物である。そしてそれは間違いではない。各地に散らばる牛鬼の伝承、その内容や容姿に一貫性がないのはそのためだ。幾度も封印と復活、討伐と祟りとを繰り返し、宿主の霊魂と意思の強さにより牛鬼そのものが変貌を遂げてきた、そのためなのだから。
だからこそ、牛鬼を宿主から引き剥がして封印しておくなど、普通なら有り得る話ではない。そんな精密な妖力のコントロール、彩夏にも出来るかどうか。力のほとんどを彩夏へと移しながらそれを平然と成したと述べる山本五郎左衛門に、彩夏は格の違いを見せつけられた気がした。
そんな彩夏にはお構いなしに牡丹鍋を一口に飲み干すと、椀を置きながら山本五郎左衛門は言葉を続ける。
「あぁ、そんで……何でお前さんが此処にいるか、だけどな。彩夏……お前さん、このままじゃ勝てねぇぞ」
このままでは勝てない。
先代魔王から告げられたその言葉は、彩夏の心に真正面から突き刺さった。




