第十九話:師と魔王 呪われし力の解放(1)
「……うっ……?」
百姫はゆっくりと瞼を開いた。
右腕に力を込め、上体を起こして周囲を見回す。先程まで、自分はあまねく百鬼の天敵──神虫に喰われかけていたはずだ。全身のダメージ、その激痛はある。左腕も下半身も消失したままだ。だが、周りには何もなかった。
警戒しながら身体組織の修復を試みる。だが、かなりの妖力を奪われてしまったらしい。その回復速度は焦れったいほど緩やかだった。
それにしても。
改めて、自分がいる空間を見渡す。生き延びたのか? 一度死を覚悟した魔王には、消滅を免れた事への歓喜や安堵の念は湧いてこない。ただ、この何もない空間は一体何処なのか、それだけが疑問であった。
今、彼女が佇んでいる、この場所。本当に何もないのだ。一片の光すらない、真っ暗……と言うよりは、真っ黒な空間。それにも関わらず、不思議と自分の手や足は視認できる。地面すら無いように見えるのだが、それにしては宙に浮いているような感覚とはまた違う。
それはまるで、闇に呑まれたかのような。
「闇……そうか、ここは……」
「キ、キヒヒヒ……も、百姫ちゃん。気がついた……?」
背後から聞こえた覚えのある声。
横になるようにして視線を向けた先にいたのは、やはり彩夏だった。
彼女もまた、ひと目で相当なダメージを負っている事が分かる有様だった。百姫ほどではないだろうが、彩夏の場合肉体のベースが人間なのだ。強靭な生命力と膨大な妖力で死ぬ事はないだろうが、それでも恐らく呼吸すらままならないのではないだろうか。
「彩夏さん、此処は……」
「キヒヒ。流石に、ヤバいと思って、さ。ちょっと、隠し神に、匿ってもらったってワケ」
彩夏の声に併せるように、その隣に外套を被った人影がゆらりと現れる。
「……ああ、やっぱり影の世界でしたか」
対象を影の中に引きずり込んで隠す妖怪、隠し神。
その中には、隠した獲物を後で現世に戻す者もいる。それは百姫も知っていた。要するに、ここはそんな隠し神が獲物を引き込むための影の中に広がる空間という事か。亀姫が隠し神を、それも無害な性質の者を復活させた時は「何も理解してないじゃないか」と頭を抱えたものだが、結果的には巡り巡って役立ったようだ。
「まぁ、まずは、ここにいれば安全、という事でしょう?」
「まーね。キヒヒ、さすがにあのバケモノでも、影には干渉できないからね。きっと、私たちが逃げ延びてるのも気付いてない、んじゃないかな」
「ウフフ。借りが、増えてしまったみたい、ですわね……」
「キヒ、ヒヒヒヒ!」
一言一言を発するのも苦しいが、とりあえず一時的にも避難は完了した。
お互いこの傷だ。治癒には何日か要するかもしれない。その間、何とかしてアレを滅ぼす方法を考えなければ。
(……アレを、滅ぼす……)
果たして、そんな事が出来るだろうか。
林々総々の怪物どもが闊歩する妖怪の世界。その頂点に君臨すると信じて疑った事のない百姫の心には、今や自分ですら敵わないであろう天敵の存在がしっかりと刻み込まれていた。微かな片腕の震えに気付き、力なく苦笑する。
──嗚呼、これが絶望というヤツか──。
全身を覆い隠すように去来した無力感に、思考を手放しそうになる。
「ぐ、げぼっ……キ、キヒヒ……!」
そんな百姫の思考を引き戻したのは、血反吐を吐くように振り絞られた鈍い笑い声だった。
「ちょ、ちょっと!? 彩夏さん、貴女一体何を……!?」
見ると、彩夏が鮮血を吐きながら立ち上がろうとしている。
無駄に命を削る行動だ。立つ必要のないこの空間で何を……無謀とも言える行為の目的は、その手に握り締められた血に染まった御札を見れば明らかだった。
「まさかとは思いますけど、その身体で外に出るつもりで……?」
「キヒヒ。そりゃ、アレをあのままには、できないっしょ?」
「馬鹿ですか、貴女は! だからと言って、そんな状態で出て行く莫迦がどこにいるのです!? それに貴女も見たでしょう! 万全のわたくし達ですら何も出来ずにこのザマ! それなのに、そんなの、むざむざ餌に成りに行くようなものではないですか!」
血反吐を吐き散らしながら叫ぶ。
好敵手が死ぬのが惜しいから? 同格である魔王が馬鹿な行動に出るのが許せないから? 自分は絶望に飲まれて動けないのに、彼女は未だ諦めた目をしていないから? 感情の出処は百姫にも分からない。だが、叫ばずにはいられなかったのだ。
「キヒヒ、確かに、ね」
それを聞き、自嘲したような表情を浮かべる彩夏。百姫に言われるまでもなく、彩夏もそんな事は分かっていた。無傷の二人掛かりで挑み完敗した相手に、重傷の一人で太刀打ち出来るはずがない。
「……でも、隠れてばっかも、いられなさそうなんだよ、ね」
「え?」
「ほら。キヒヒ、向こう、ヤバそうだし」
上空、否、地上を指差す。
水中から水面を見上げるように、そこには影の外の世界が揺らめいていた。
そして百姫もまた、その光景を目の当たりにした。
神虫が、人間を襲っている……?
「これは、一体……」
「キヒヒ……多分あのバケモノ、妖怪を餌にしてても、味覚は同じなんだよ。悪意が濃い方が美味しい。妖怪だって、そりゃあもちろん悪意とかには満ちてるけど……でも、現代日本じゃ、妖怪を見つけるのだって難しいじゃん。だけどほら、人間はたくさんいるワケだし……最近はどういう魂の人間が多いか、百姫ちゃんも知ってるでしょ?」
「なるほど……」
確かに一理ある。
食べ慣れた主食だが、今探すのには少し時間がかかるもの。一方、初めて食べるが味も悪くなく、そこら中で手に入るもの。寝起きの空腹でどちらを食べるかと聞かれれば、それは想像できるというものだ。
「……アレは、野放しにできない。きっとこのままだと、妖怪も人間も喰われ続ける事になる」
その言葉に、百姫も頷く。彩夏の予想は恐らく間違っていないだろう。人間の武器とやらも進歩こそしているが、そもそも人間の原理と基準は妖怪には通用しないのだ。人間どもに神虫をどうにか出来るとも思えないし、自分たち以外の妖怪だって、当然ただの餌になるだけ。待っているのは、滅びだ。
だが、それでも。
「でも貴女、何か方法でもあるのですか?」
何かしなくてはならない。その目的はあるが、その手段がないのだ。手段がなければ目的は達成できない。努力だとか根性だとかで埋められるような差ではないのだ、それこそ自殺行為である。
そんな百姫の眼前で、彩夏が握り締めていた御札を振るって見せる。その御札は、普段彼女が使うものとは異なる系譜の紋様が刻まれていた。
まるで、何重もの鎖と鍵で、何かを封じ込めているかのような──。
「キヒヒ。百姫ちゃんなら、どうする?」
「え?」
「効くかどうかは分からないけど。強烈な力を持った強化パワーがあったとして、それを自分が使えたとして、しかもその力をうーんと引き出せたとして……そんな時、どうする?」
鈍く輝く瞳に見つめられ、百姫は確信した。
この魔王には何か、賭けられる可能性がまだあるのだ。
「試す価値はあるよね!」
それならば。
魔王の矜持を振り絞り、百姫は再び身体に力を込める。
「お待ちなさい」
「んぇ、まだ何かあるの? あ、心配してくれてる?」
「まさか。もう止めはしませんわ。ですが、そんな体で行っては折角の可能性が半減するでしょう? わたくし、勝ち戦が好きなもので。ですから……今回だけですわ。わたくしの妖力も持って行きなさい」
そう告げて手をかざす。その瞬間、百姫に残る莫大な妖力が彩夏の全身へと流れ込んだ。
神野百姫は魔王である。この世界を統べるべき、居並ぶもの無き大妖怪。例え力を削がれようと、己の肉体が動かずとも、決して魔王として無様な姿は晒さない。出来る事をし、そして、全てに勝つ。
その意志を込め、最大の好敵手へとその力を託したのだ。
「百姫ちゃん……」
「いい? 必ず戻りなさい。そしてその力、必ず返しなさい」
身体を修復する余裕すら失われ生命維持にのみ努める百姫に、彩夏は力強く笑顔を見せる。削られていたとは言え、魔王二柱分の妖力の効き目は抜群だった。瀕死だった肉体を難なく動かし、地上目掛けて跳躍する。
「キヒヒ……ありがと、百姫ちゃん。それじゃ……師匠も、力、借りるね」
御札に息を吹き掛け妖力を込める。文字と紋様が赤黒く鈍い輝きを放つと、彩夏の身体はそこから発生したどす黒い霧のような闇に覆われ始めた。
「……さよなら」
浮かべたのは、微かに寂しそうな顔。
しかしそれはほんの一瞬。
すぐに彩夏はいつもの凶暴な笑みを浮かべると、手に握る御札を容赦無く引き裂いた。




