第十話:魔王回想録 山源彩夏の誕まれた日(2)
──時は進み、二〇〇〇年代のある日。
例年以上の猛暑を記録したこの日、だだっ広いパチンコ屋の駐車場にはいつものように沢山の車が停まっていた。
一喜一憂しながら往来する人々。ある者はただの暇潰し、またある者は日銭の稼ぎを求めてこの場を訪れている。だが、その中で、一台の白い車の異変に気付く者はない。
忙しなく動き回る人間の耳には聞こえないであろう、くぐもった微かな音。足を止めて耳を澄ませば聞こえるかもしれないが、そんな事をしている余裕がある者は一人もいない。皆、自分の事を考えるのに忙しいのだから。
「……おや」
しかしそんな中、一人の人影が車の前で足を止めた。
それは、パチンコ屋の駐車場にしてはあまりにも異様な姿だった。気にならないのか、そもそも見えていないのか、その姿は誰にも気付かれていない。頭には笠、背中には風呂敷で纏めた大荷物。首からは、玉のひとつひとつがどでかい数珠を下げている。そして全身、火傷の痕を隠す包帯でぐるぐる巻きだ。
真っ黒な旅装の僧侶──夜道怪は、あれからずっと世界の、妖怪と人間の変遷を見続けてきた。
人間同士の殺し合い。妖怪同士の化かし合い。何度も跡形もなく焼き尽くされ、それでもしぶとく、目まぐるしく生まれ変わる世界。数百年もの全ての歴史を、しっかりと見届けてきたのだ。魔王に力が戻る日を待ちながら。
「今日はまた、一段と暑いですねぇ……」
忌々しげに陽射しを見上げる。五郎左衛門から魔王の師匠になれと言われた以上、いずれ来るその時、「人間の情勢を知りませんでした」では済まされない。そこで、長い時間を少し持て余しながらも、夜道怪は時折こうして人間社会の表に出向くのである。以前は巻いていなかった包帯も、その方が都合が良いためだ。だが、そんな状態では真夏の太陽など暑いに決まっている。それにしたってここ数年の気温の上がりかたは少し異常だ、とも思うのだが。
「……しかし、こんな日に酷い事をなさる人もいたものだ」
まるで影が伸びるように、音もなく窓から車内を覗き込み、夜道怪は溜め息を吐く。
車内には、人間の赤子が一人残されていた。
聞こえてきたのは、これの泣き声だったのだ。
まだ一歳にもなっていないのではないだろうか。この季節の車内など、あっという間に蒸し風呂どころではない温度となるだろうに。しかもここはパチンコ屋の駐車場、すなわち親はしばらく戻ってこないはずである。とすれば……こんな赤子、もう一時間も生きてはいられまい。
「どれ……もし、宿をお願いできませんかな?」
当然、言葉も知らぬ赤子から返事はない。しかし夜道怪は、赤子の泣き声を勝手に承諾の返事だと解釈し、鍵の掛かったドアをすり抜け車内に潜り込んだ。
案の定、車内は地獄かと間違うばかりの灼熱である。妖怪である夜道怪でさえ、長居したいとは思わない。この子供は三十分も持つまい、そう夜道怪は考えを改めた。
ただ、改めたからと言って、何をする訳でもない。
夜道怪には特別な思いは何もない。それは例えば、猫に興味のない人間が、死に行く野良猫を見つけた時のような。死ぬなら念仏の一つでもあげてやるか、そんな程度の気持ちで立ち寄ったのである。
そう、そのはずだった。この時までは。
「ほう。これは……!」
夜道怪が、珍しく驚いたような声を上げる。
自身の大荷物の中で、一枚の御札が鈍い光を放っているのに気付いたのだ。それは夜道怪が持つ御札の中でも特別な一枚。間違えるはずもない、魔王五郎左衛門が自らを封じた、あの御札である。
その御札が、光を放っている。それが意味する事は一つだ。間違いない。数百年の年月が実り、復活するに十分な妖力が、御札に封じられた霊魂の中に再び満ちたのだ。
「いやはや、思っていたよりお早いお帰りですな。これは早々に器を見つけてさしあげねば。では……」
こんな所にいる場合ではない。そう思って立ち去ろうとするが、その袖を引く微かな力を感じ、思わず動きを止めてしまう。
見ると、赤子が服の袖をしっかりと掴んでいた。
その姿を見た瞬間、人を捨てた妖怪であるはずの夜道怪の胸に、言い様のない何かが去来する。
夜道怪は、所謂「子取り」の妖怪である。
子供を戒めるために、また親を戒めるために、その存在は語られた。夜道怪が宿を借りに来るぞ、言うことを聞かないと連れていかれるぞ、子供を取られるぞ、と。
だが、彼は本来、人間である。
かつて、修行を積みながら諸国を旅する高野聖と呼ばれる法師達がいた。彼らは元々善良な存在であったが、時の流れにつれ、次第に法力を盾に好き放題する俗悪な者も現れ始める。さらには、そんな高野聖を名乗る密偵まで現れ、各地で密かに猛威を振るうようになったのだ。
そして天正の時代、かの武将織田信長は、とうとう千人を超える高野聖を捕らえて処刑した。当然、その中には真っ当な法師も大勢おり……夜道怪は、その中の一人だったのである。
彼は恨んだ。人を。世を。恨んで、恨んで、憎んで、憎んで、恨んで恨んで憎んで憎んで、やがてその霊魂は復讐の炎に焼け爛れ、死して朽ちかけた肉体を再び動かした。
こうして、彼は夜道怪に、妖怪に堕ちた。
だからこそ、彼は人間を好んではいなかったのだ。事実、人間社会を観察するなど、本当は嫌で嫌で仕方なかったのである。だが心の奥底、記憶の何処かには、極々僅かな人間への想いがこびりついていたのだろう。人間を憎んでいたはずの彼が、ただ人間を襲うのではなく子取りの妖怪となったのも、長年人間の歴史を見届けられたのも、また事実なのだから。
そんな微かな何かが、夜道怪の思考回路の奥、人間としての彼の記憶に語りかける。この赤子は、生を諦めていない。お前はそれを見捨てられるのか。
また、妖怪としての夜道怪も考える。
魔王に相応しい器、とは。この赤子には、幼いにも関わらず、いや幼いからこその強い意志がある。力がある。我が子の命を何とも思わないという最上級の悪意を受け、意思も意識も朦朧となるこの状況で、それでも生きようとする力。魔王に相応しい器とは──。
数秒の瞑目の後、夜道怪は赤子を見据える。
ニヤリと笑い、御札を頭上へと掲げながら、彼は高らかに赤子へと語りかけた。
「いいでしょう。この夏の日、灰色のまま潰えるはずだった貴女の黄泉路に彩りを。その命、その体、魔王の力の源として余さず使わせていただきましょう……!」
御札を赤子の額にかざす。その途端、御札の紋様はさらに強い光を撒き散らした。そのまま溢れ出した赤黒い粒子が、光に分解されていく御札が、赤子の体内へと流れ込む。死にかけた命に妖力が注がれ、その霊魂を人ならざるものへと上書きしていく。
こうして魔王山本五郎左衛門は、新たな器を得て再びこの世に生を受ける──はずだった。
だが、夜道怪は知らなかった。
ひとつ。この時、確かに山本五郎左衛門の妖力は十分に復活していた。しかし、その意識や人格といった部分の復活には、未だ至ってはいなかったということ。
ひとつ。そのためこの後、赤子は当然ながら山本五郎左衛門とは異なる人格を形成し、異なる人物へと成長していくということ。
そしてもうひとつ。それにも関わらず、少女は成長するにつれ、少女の人格のままに前世の記憶や知識を次々に思い出していくということ。
この日、この世に再び妖怪の王が誕まれた。だがそれは、魔王山本五郎左衛門が復活した、という事ではない。
数百年振りに誕まれた魔王。それは、後に山源彩夏を名乗る事となる、人間にして妖怪の王となるべき新たなバケモノだったのだ。
──そしてそれから十数年が経ち、時は現代へと舞い戻る。
登場妖怪解説
【山本五郎左衛門】
「稲生物怪録」に名前が残る、妖怪の首領たる魔王。神野悪五郎と魔王の座を賭け「百人の若者を驚かせる」という勝負をしていたが、八十六人目である稲生平太郎という若者を三十日かけて驚かす事が出来ず夢破れる。その過程でインドや中国にも渡っていた模様。また、彼が稲生平太郎に渡したという小槌は広島市国前寺に現存する。
【夜道怪】
子供をさらうとされる妖怪。その正体は、旅の最中「やどうか、やどうか(宿を貸せ)」と喚きながら家々を回る俗悪な高野聖を妖怪として呼んだものだとする説がある。




