第九話:拡がる邪心 縊る蛇身の怒り(1)
「あは、あははは……!」
恍惚とした笑みを浮かべる女。その虚ろな瞳の先には、二度と動かない愛する男が転がっている。
それは何時でも、何処にでもある喧嘩だった。浮気を繰り返した男を、女が問い詰める。軽薄な言葉が女の心に傷を付け、溢れ出した血の涙が頭に上り、行き場を求めて衝動となる。冷静に抑えられれば良いのだが、もしそれが爆発してしまえば行き着く先は破滅だ。
だが今回、女は衝動を抑える事が出来なかったらしい。
「こんなに愛してるのに……!」
「がッ、く……!?」
妬みが支配した心のままに男の背中へ襲い掛かり、無我夢中にベルトで首を締め上げたのだ。しゅるしゅる、しゅるしゅると、まるで生き物……蛇のように、男の首に巻き付くベルト。抵抗虚しく、やがて男は事切れた。
これで、この人は私のものだ。
この男は世間で言うところのろくでなしなのだろう。だが、何度も裏切られながら最後までこの男を嫌いになれなかった自分もまた、馬鹿な女である。ならばいっそ、私以外には心が移ろわないようにしてしまえば良い。そうすれば、この人が他の女の所へ行く事は二度とないのだ。あとは自分が死んでこの人の所へ行けば、永遠にこの人は自分だけの……。
狂った夢幻に想いを馳せ、自らもまた首にベルトを巻き付ける。二人の亡骸が転がる頃、部屋には何かが這いずる音だけが響いていた。
「──無理心中かあ。人間は変わらないね」
街角の電器屋、テレビに流れるニュースを眺めながら彩夏が呟く。
自殺だろうと他殺だろうと、殺しは世界中で多くの神仏が定める所の罪である。
それにも関わらず、あらゆる世界で未だ絶えた事は無い。善だ悪だと自分達で基準を分けておきながら、それでも人の世には悪も罪も常に在り続ける。本能なのか、性質なのか。それは彩夏ですら知る所ではないが、それこそが人間だ、そう彩夏は考えていた。
「でもさ、一体何なんだろーね?」
不落不落の問いに頷きを返す。
この近辺で、しかも三日で既に四件、殺しが起きている。はっきり言って異常だった。女性が男性を絞殺、揚げ句に心中を謀る。珍しい事件ではないが、こう続くとなると話は別だ。
何か妖怪の影がある。そう睨んだ彩夏だったが、残念ながら現場にはかすかな妖気が残るのみであり、尻尾を掴むには至っていなかった。
「キヒヒ、確かにねー。ま、気になる事もあるし、とりあえず……あっ! あっちから妖怪の気配がする……気がする!」
「あ! おい!」
「行くよ、ラブちん、チーかま! 置いてくよー!」
駆け出す彩夏を、急いで姿を消した二体の影が追う。
「わっ! 危ない!」
「ちょっと、気を付けなさいよ!」
「キヒヒ、ごめんなさーい!」
途中で何人かにぶつかりそうになりながら、彩夏は気配の下へと駆けて行く。
感じるのだ。この先に、いる。間違いない。
羨みと妬み、そして悪意が妖怪として目醒める時の、あの匂い。強くはないが、現場に残されていたものと同質の妖気だった。
そしてそれは、程無くして彩夏達の前に現れる。
「おいアヤカ、あれ!」
視界に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
彩夏よりも幼いであろう小学生が二人、公園で取っ組み合っている。そこまでは良い。異様なのは、両方の女児が、どうやら互いに本気で殺しにかかっているらしいという事だ。
一人はゴムベルトを、もう一人は鞄の紐を凶器に、相手の首を絞めようと苛烈な表情でもがいている。それは小学生の喧嘩と片付けるにはあまりにも常軌を逸していた。
「チーかま!」
「だからその呼び方をやめろって……のッ!」
鎌鼬が鎌を一閃し、二本の凶器を一瞬で切断する。勢い余って尻餅をついた二人の少女は、何が起きたか、何があったかすら分からないらしく呆気に取られているようだ。
だが、彩夏は見逃さなかった。二本の紐が持ち主の手を離れても尚、蠢き続けている事を。
「キヒヒ。蛇帯、だね」
古来、女の嫉妬が積もる事で、三重の帯はやがて七重の毒蛇と化すと云われている。蛇帯とは、そんな積もり積もった女の嫉妬が帯を蛇の如く変化させた妖怪である。
恐らく今回は、少女が持つお互いへの嫉妬の念が現代の帯、則ちベルトを──それが無ければ鞄の紐を、妖怪へと転じさせたのだろう。切断された二本の蛇帯を拾い上げると、それは彩夏の手の中でまさしく蛇の様にのたうち回っていた。
「それじゃ、帰ろっか!」
と、蛇帯を握ったまま彩夏がそんな事を言い出した。
まるで一仕事やり終えたかのように。
「おいアヤカ、良いのかよ? ひょっとして……昨日までの事件はただの偶然、って事か?」
鎌鼬がまさかといった表情で飛び回る。
十中八九、昨日までの事件もまた、蛇帯によるものだろう。先日の現場にも足を運んだし、残っていた妖気も感じ取ったのだから、それは疑いようが無い。
肝心なのは、それを一体誰がもたらしたのか、である。
蛇帯は嫉妬が生む妖怪だ。それはつまり、各事件は別々の個体がもたらしたという事である。続けざまに同様の妖怪が、それも狭い範囲で別々に出現する等、普通なら考え難い。有り得ない話ではないが、どうも他に要因がありそうだと睨んでいたのは、彩夏本人ではなかったか。
「そんな訳ないじゃーん! ま、準備もあるしね。とりあえず一旦退散、夜にまた来ようね!」
しかし、彩夏はそんな鎌鼬の様子も意に介さずに歩き出した。
どうやら何やら算段があるらしい。そう言われれば言い返す理由もない。一行はぼんやりとしたままの少女らを残し、市街地の人混みへと紛れ消えた。
「──で? それが準備かよ?」
そして、夜。
再び一行はこの公園を訪れていた。
彩夏の手には、どこにそんな力があるのか、巨大な梵鐘が担がれている。あの後、近くの寺から拝借してきたものだ。
辺りには街灯がぽつりと光るのみで、人影もない。そんな時間帯に、巨大な鐘を抱えた少女が公園に一人佇んでいると来た。誰かに見られたら一発で通報されるだろう。幸い結界を張っているのでその不安はないが、鎌鼬は彩夏が鐘を用意した意味が分からず、別の不安が浮かんでいた。
「おいアヤカ、そんなモンどうする気だよ。まさかここで鳴らすのか?」
「え? あったり前じゃん!」
「ちょっと待てよ。そもそも、何でここなんだ? ここは昼間に来たじゃんか!」
鎌鼬の反論に、彩夏は悪戯っぽく笑いながら何かを取り出す。この辺り一帯の地図のようだ。
「いい? えっとね……ほら、昨日のがこのアパート。その前がここと、それにこっちと、この辺で……日中のはここの公園でしょ?」
「あぁ、そうだけど……ん? おいアヤカ、これって……」
「何、何? どうしたのー?」
広げた地図を、鎌鼬と不落不落が覗き込む。地図を見て、鎌鼬はようやく何かに気付いたらしい。
彩夏もまた、それが正しい見方だとばかりニヤリと笑って見せる。
「キヒヒ。やっぱ気付いた? ほら、全部この周りなんだよねー」
顔を上げる。そこに広がるのは、公園に面した広い池。
確かに地図を見る限り、一連の事件はいずれもこの池に面した周辺で起こっている。
「……って事は……」
「キヒヒ。ここに黒幕ちゃんがいるってこと! 変身!」
そう言いながら御札をかざし、彩夏は不落不落の力を借りて変身した。真っ赤な炎の化装に身を包むと、不落不落が変化した判魔を振りかぶる。
そしてそのまま、力一杯に梵鐘を鳴らし始めた。
結界に閉ざされた夜の公園に響く鐘の音が、波紋となって池の表面に広がっていく。何度も、何度も打ち鳴らす彩夏。そして、その波が対岸まで幾度となく達した頃、沈黙を保っていた水面に変化が現れた。
「……来た!」
池の中央辺りの水面が波打ち始めたのだ。
火山が噴火するように、大地が隆起するように。やがて、まるで滝壺のような飛沫を撒き散らしながらそれは現れた。
「──嗚呼、嗚呼、憎らしい! 鐘の音、これは寺の鐘の音ね。思い出す……思い出す……! 嗚呼、あ、あああああああああああああああああああああ! 憎い! 憎い憎い憎い──」
それは、広く名の知れた鬼女にして蛇鬼。
「──焼き殺す!」
その名は清姫。
執念に狂い、竜蛇と化した、何処にでもいる純真な少女の成れの果て──。