第八話:交錯する外道 妖の芽生え(1)
ベッドに横になり、スマホでSNSのアプリを開く。
丁度、今夜もフォローしている絵師の新作漫画が流れてきた。応援の意味を込めた「いいね」を送り、唐崎運音の思考は漫画の世界へと溶け込んでいく。
運音にとって、絵とは、漫画とは、世界だった。
それは例えば、辛い現実を忘れさせてくれる居場所のような。いやいや、そんな簡単に言えるものではない。
例えるなら、そこはもうひとつの現実。彩りに溢れ、美しいものも醜いものも、皆一様に輝いて見える。善意にも悪意にも等しく反応が存在し、一ページの紙の中に無数の愛がある。作者が込めた愛が絵に命を与え、そのおかげか嫌なヤツでさえ憎めない。
そう、嫌なヤツでさえ……そんな、灰色の現実とは真逆のもうひとつの世界に想いを馳せながら、運音は今宵も微睡んでいくのだ。
──虐めによるストレスに耐えかねていた時、ふとした拍子にトラックに撥ねられた私。気が付くとそこは見知らぬ世界だった。偶然にもレアスキルを獲得して異世界に転生した私は、転生前の記憶を応用して画期的な術式を編み出したり、異世界には無い料理を振る舞ったり。魔法学校では、魔王の息子と勇者の子孫との間で板挟みになったりして。やがて異世界と転生前の世界、その両方を巻き込む熾烈な戦いへと──
嗚呼、この夢が、現実であれば良いのに。
しかしどんなに焦がれようと、所詮空想は空想でしかないのだ。嫌々向かった学校で、運音はそれを痛感する。
残念ながら、というのも変な話だが、そもそも別に虐められている訳ではない、そう思う。殴られたりとか、そんな表立った事は特に無いのだから。
ただ、運音はいつもこの教室に言いようのない居心地の悪さを感じていた。気にかけられる事もない。班を作れば最後に余る。趣味の話をする友人も、授業中に指名してくる教師もいない。まるで、自分の居場所だけがぽっかりと空白になっているかのようだ。
「ねぇ唐崎さん、ちょっと」
「え、あ、あの」
「日本史のグループのレポート、お願いして良い? 今日も明日も、私達忙しくてさぁ」
「唐崎さん、暇でしょ? 部活も入ってないし」
「そ、それは、でも」
「んじゃヨロシクねー」
……良いように使われている、そう感じる事は少なくないが。まぁ、こんな扱いにももう精神的に慣れてしまったので、今さら何とも思わない。それに、私を受け入れてくれる世界は他にある。
窓の外を眺めながら、ぼんやりと考える。
SNSにイラストや漫画を載せている、あの人達。確か、自分と同じ高校生、何なら中学生くらいの年代も珍しくないはずだ。あの人達は、一体どんな現実を生きているのだろう。
夢を叶えて漫画家や絵師として稼いでいる人もいるくらいだ。きっと、現実でもきらきらした暮らしを営んでいる事だろう。それとも、もしかしたらあの人達も現実には居場所がないのだろうか。いや、仮にそうだとしても、ネットの世界に居場所が認められているのなら恵まれているなと運音は思う。
確かに、自分は絵の世界に居場所を見出だしている。
だがそれは、あくまで他人の世界に居させてもらっているようなもの。その世界の中で、私自身の存在が認められている訳ではないのだ。
(……私も、誰かに……)
そう思いかけて苦笑する。
一体、何を考えているのだろう。私が描いた絵なんて。
小学校、中学校と、絵を描くのが趣味だった事もあった。漫画の真似事をした事もある。描く事自体は楽しかった記憶はあるし、周りと比べれば多少は自信があった気もする。
ただ、あまり良い思い出はない。
軽い気持ちで始めたブログは、全く伸びない事に嫌気が差して閉鎖してしまった。その次に作ったホームページ、アレは確か、学校で晒し者にされて削除したんだっけ。そんな目にしか遭ってこなかったものだから、すっかり絵を描く事とは距離を置いてしまっていたのだ。
それでも、やっぱり、認めてほしいという欲求が無いと言えば、それは嘘だ。頭ではそんな事を考えながら、こうしてペンを握っているのだから。
「……そうは言っても、これじゃなぁ……」
久々に引っ張り出したスケッチブックを破り捨て、そう呟いたのはそれから三十分も経たない頃だった。
自分で言うのも情けないが、下手くそだ。
ブランクとか、そういう話ではない気がする。パーツも揃ってないし、線もぐちゃぐちゃだ。こんな代物を公開したところで笑われて終わりだろう。
いや、笑ってもらえるならまだしも、ひとつのいいねも閲覧も付きやしなかったらどうしよう。誰かに見てもらえないと、絵を描いた意味がない。だが、やはり絵を描く事自体は嫌ではなかったのだろう。運音は久方ぶりに、熱心に考え込む。
昔は、どうやって描いてたっけ……?
「……ん? おい彩夏、どうしたよ?」
同時刻。運音の家のすぐ前では、彩夏、そしてその傍にふわりと浮かぶ通り悪魔が運音の部屋を見上げていた。
「ここに、俺サマに見せたいヤツがいるってのかい?」
「キヒヒ。いや、ちょっと妖怪の匂いがする気がしたんだけど……気のせいだったみたい。ごめんね、通り悪魔。例の人間はこの先だからさ」
「おう! やっぱりよ、実際見てみねェ事には諦めがつかねェからな。久々に陽の目を見たんだから、取り憑かせてもらわねェとな」
闇夜に消えていく二つの影。
この数分後、通り悪魔は現代の人間社会の闇をまざまざと見せつけられる事になる。
しかしそんな外の世界にはまるで気付かず、運音は再びスケッチブックへ、そしてスマホへと向き直るのだった。