第七話:魔境 大いなる神の森(1)
梅雨が過ぎ、季節は初夏の頃。
会社員の手ヶ田は週末の休みを利用して近郊の自然の中へ足を運んでいた。
アパートを出て、一時間も自転車を漕いだだろうか。景色は少しずつ田畑から町並みへと変わっていく。澄みきった青い空。森の緑の匂いを運んでくる風が心地好い。農作業に勤しんでいる人々にとっては絶好の天気だろう。田んぼには水が満ち、春先に植えられた苗が青々とした葉を伸ばしていた。
「ふぅ。ここら辺でいいか」
開けた場所に自転車を停める。
目の前には、畦道から続く山道が伸びている。流石に、木々が茂る山道へと自転車で入って行くのは厳しいものがある。仕方がないのでここから先は歩きだ。
少しの間なら、自転車を停めておいても咎められる事はないだろう。眼鏡を押し上げ、リュックサックを背負い直し、歩き始めようとした、その時だ。
「あれ? こんにちは、おじさん!」
道の奥から、突然溌剌とした挨拶をしながら小学生くらいの女児が現れた。手にはリードを握り、すぐ側ではそのリードに繋がれた小さな柴犬が大人しく尻尾を振っている。近くに住んでいるのだろうか。それにしても、こんな子供が一人で飼い犬の散歩というのは防犯上危ないような気もするが。
「こんにちは。君、こんなところで一人かい?」
「うん、そうだよー? おじさんこそ、こんなところで何してるの?」
「ははは。僕かい? 僕はね、まぁ……気分転換、っていう奴だよ」
「へー、そうなんだ。大人なのに虫取り?」
「ぷっ……あははははは!」
思わず声をあげて笑ってしまった。「大人なのに」というずけずけとした物言い、流石は現代っ子と言ったところか。
確かに、手ヶ田の目的はそれに近かった。片手には持ち手のついたプラスチック製飼育ケース、そしてリュックサックからは網が覗いているのだ。子供が見ても何をしに来ているのか分かるというものだろう。
「ああ、そうだよ。大人でもね、虫取りとかをしたくなる事もあるのさ。じゃあ、おじさんはそろそろ行こうかな」
「ふーん。それじゃおじさん、気を付けてね! キヒヒ」
「ははは、お嬢ちゃんも気を付けて帰るんだよ」
柴犬と共に駆けていく少女を見送り、山道へと入って行く。
笹の茂みを掻き分け、しばらく歩くと水の流れる音が聞こえてきた。それを頼りに、今度は道を逸れて獣道に身体を潜り込ませる。そのまま進むと、やがて綺麗な清水の流れる細い小川が現れた。あとは、その小川を少しずつ上流へと辿っていけば良い。木の根っこに躓かないよう、苔むした石で足を滑らせないよう、注意しながら向かう先にそれはあった。
「おぉ、着いた着いた」
水の底までくっきりと見える、透き通った池。上流からの水が流れ込み、また湧き出る地下水と共に下流へと続く、まさに天然の小さなダムだ。そう大きくはないが、水の綺麗さで言えば都会の川や公園の池など比べるまでもない。
そして、ここには探しているモノがある事を手ヶ田は知っている。だからこそ、わざわざ週末にここへと出向いてきたのだ。
背中の荷物を下ろし、網を取り出す。慣れた手つきで溜まった枯れ葉ごと水底をさらうと、目的のモノが現れた。
「よし。いたいた、今日も良さそうだな」
それは、サンショウウオ。
ぬらりとした肌の、トカゲに似た両生類。
そして……この地域特有の、保護動物。
手ヶ田の本業は会社員だが、その副業は、生体取引のバイヤーである。
とは言っても、ペットショップなどの所謂真っ当なバイヤーではない。
彼が商品を仕入れる先は、野生。そして、売る先はネットオークションやSNS。正規ではないルートで無差別に生体を売り捌くそれは、必ずしも合法とは言い難い。要は密猟に近い行為であった。
「よっ。これで三匹目、と……おっ? よしよし、売れた、売れた」
いつものように今日の獲物を飼育ケースへ放り込んでいると、スマートフォンの通知が鳴った。画面を確認しほくそ笑む。どうやら、先日の出品に入札があったようだ。すぐに取扱を終了して取引完了。二匹ペアで四千五百円……もう少し待てばまだ値段は吊り上がりそうだが、その間に通報されては元も子もない。
生体取引は命を取り扱うだけあり、スピードが命なのだ。もっとも、重要なのは生体の命そのものではなく、その金銭的価値なのだが。
手ヶ田がこうした行為を続けて、早くも五年近くが経つ。初めは、知り合いに頼まれて近所の山で採った昆虫なんかを渡していた程度だった。それがいつしか、ツテを通して小遣い稼ぎをするようになり、今や副業とは言えそこそこの額を稼げるようになったのである。
「──先日、オオサンショウウオを無許可で飼育していたとして逮捕された──」
ケースの中のサンショウウオを見ながら、今朝、家を出る前にテレビでやっていたニュースを思い出す。
オオサンショウウオ等という大物、売買はおろか捕獲するだけでお縄になるのは明らかだ。その点、手ヶ田はそんなヘマはしない。ここのような人目につかない捕獲ポイントをいくつも心得ているし、誰もが知るような希少生物はターゲットではないのだ。現にこのサンショウウオも、欲しがるマニアはともかく一般人でその種名まで識る者はそういないだろう。
「んー……この分ならこれもすぐにハケるな。とは言え、岸の方だともう今日は捕まえるのは難しそうだしな……」
在庫を確認し計算する。
この調子なら、今捕まえた分もすぐに出払うだろう。しかし、このポイントの獲物はもう警戒して池の奥へと隠れてしまった。
今日はもう少し山奥の方へ行ってみるのもいいかもしれない。この日、手ヶ田はそう考え、さらに上流へと登っていく事に決めた。
この選択が、彼の運命を決める事になるとも気付かずに。
それから十数分後、さらに山奥へと進んだ手ヶ田は眼前の光景に感嘆の溜め息を漏らさずにはいられなかった。
目の前に広がるのは、先程とは毛色の違う景色。苔に覆われた大岩に倒木。こんこんと湧く地下水は網の目の如く流れ、何本かの小川を形成している。背の高い木々が生い茂っているにも関わらず辺りには開けた空間が出来ており、そこだけまるで異世界を切り取ったかのような光景であった。
「こりゃすごいな……ん? お、おぉっ!?」
小川を覗き込み、驚きの声をあげる。そこには何匹ものサンショウウオが蠢いていた。いや、それどころか、下流では見たことすらない種類のものも見受けられる。川幅も用水路程度で都合が良い。沢山の獲物が期待できそうだ。
夢中になって網を振るう。採れる時、売れる時にやってしまわないと、みすみす儲けを逃すことになってしまう。人目につかないうちに、稼げるだけ稼いでしまう方が良いに決まっているのだ。
そう、人目につかないうちに……。
この時、手ヶ田はそんな事を考えていたが、彼は知らなかったのだ。この世には、人間よりもずっとずっと悪意に敏感な存在がいる。そして、その片鱗は、今も彼のすぐ側に潜んでいるという事を。




