第六話:心に差す魔 凶刃が通る(2)
さて、どうしようか。
もっと残酷に。もっともっと非道に。世間が、嫌でも俺のニュースを視界に入れざるを得なくなるような。そんな行いと言えば、やはり世間一般から愛されるような、か弱い相手を一方的にいたぶるのが良い。
と来れば……そう考えていた時、青年の目の前におあつらえ向きの獲物が現れた。
「……あれだ」
赤いランドセルを背負った少女が、街灯の向こうから歩いて来る。
背丈からして間違いなく小学生。それが、警戒する様子もなく夜道を一人。まるで襲ってくれと言わんばかりの無防備さに、青年は思わず笑いそうになった。
明日のニュースが目に浮かぶようで、青年の心は浮き立つ。気が急いてしまい、こんな真夜中にランドセルを背負った少女が出歩いているという異常さすら、青年は気にも留めなかった。
すれ違うまで、あと十歩。タイミングが来たら包丁を、真正面からざくりとやるだけでいい。昼間とは違う。今度は目が合おうと逃げたりするものか。三歩、二歩──ここだ。
懐から包丁を抜き放ち、真っ直ぐに突き刺す。思ったままに、世間への、社会への不満を乗せ、鮮血と共にぶちまけるために。
しかしそれは、青年の期待通りの結果をもたらすには至らなかった。
「キヒヒ! ざーんねん!」
驚いた事に、間一髪、少女が身を翻して凶刃を防いだのだ。包丁は少女の背中のランドセルに突き刺さり、そのまま唖然とする青年の手を離れてしまう。
「ね、だから言ったでしょ? さてさておにーさん。生きてたら、まったねー!」
「……あ……!?」
その間、わずかに数秒。気が付くとそこにはもう誰もいなかった。突然の出来事に、何が起きたか理解できない青年。慌てて辺りを見回すがどこにも人影はなく、少女のランドセルに突き刺さしたはずの包丁がただ転がるのみであった。
「い……一体、何が──」
「──何だ、やっぱり君だったんだ」
その時、困惑する青年に背後から声がかけられた。
聞き覚えのある声に、はっとして振り返る。
そこにいたのは、見覚えのある人物だった。
「え……? せ、先輩……?」
「やぁ。こんな夜中に何してるの……っていうのはお互い様かな」
爽やかな笑顔で挨拶をしてきたのは、バイト先の先輩だった。
まずい。青年の近くには、今、包丁が転がっている。夜中に出くわした相手の足元に包丁が転がっている光景など、疑われるに決まっている。どうにかして誤魔化さなければ。
だが、青年の動揺は、予期せぬ形で吹き飛ばされる事となる。
「せ、先輩、これはその」
「あはは。いいよ、慌てなくても。分かってるから……君なんだろ? 僕の真似して通り魔ごっこしてたのは」
「……は?」
心臓が早鐘のように鳴り響く。
青年は咄嗟に言葉が出てこなかった。
否定する? シラを切る? 汗を拭うのが精一杯だ。そんな青年の様子に確信を得たのだろう。男は苦笑いを浮かべながら青年へと近付いていく。
「やっぱりか。ま、そうじゃないかなって思ったんだ。勘だったけどね……それにしても、手頃そうな女の子を追い掛けてたつもりだったのに。まさか、もう一人の通り魔に会う事になるとは、思ってもみなかったなぁ」
気が付くと、既に男は青年のすぐ目の前に立っていた。
得体の知れない恐怖を感じながら、何とか平静を装おうと青年は言葉を並べ立てる。
「せ、先輩? え、じゃあ、先輩が……通り魔……?」
「うん、そうだよ? ニュース見てるでしょ? ほら、これ何だ?」
そう言い、男は懐から何かを取り出す。
「凶器の……」
「そう、千枚通し。包丁よりも刺すのには向いてるでしょ? 使い勝手も悪くないし、これで太腿をざくっとね……」
「ど……どうして……」
「僕はね、別に君みたいに目立ちたいからこんなことしてる訳じゃないんだよ。食事をしないと倒れる。寝ないと疲れる。君もそうでしょ? それと一緒でさ、こうしないではいられないんだ。生理的な欲求、っていうのかな」
「そんなの、お……おかしいですよ……!」
「おかしい? はは、そうかな?」
そう言いながら、男は千枚通しを青年の右腿に突き立てる。あまりにも自然な所作に、青年は一切反応する事が出来なかった。
その動作は、青年が必死にナイフや包丁を振り回すのとはまるで違っていたのだ。
「ぎっ、ああああああああっああ!」
「ただ目立ちたいってだけで人を傷つけようとする方が、よっぽどおかしいと思うけど?」
会話をしながら食事でもつまむかの如く、今度は左腿。激痛に耐えられず倒れこむ青年に目線を合わせるように、狂人もまたしゃがみこむ。
「さて。別に、殺しには興味がないんだけどなぁ」
「ぐ……はぁ、はぁ……は……?」
「あぁ、言わなかったっけ。僕はさ、人がもがいてるのを見られればそれで満足なんだよ。だから殺しはした事がないんだけど、ほら、今回はね。君、僕の事知ってる訳だしさ……」
街灯の光を反射させ千枚通しが煌めく。
その鈍い輝きに、青年は自分の行く末を予感した。
「ち、違うんです。魔が、魔が差して……た、助け……」
「うーん……個人的に君の事は嫌いじゃないんだけど、君のやり口が嫌いなんだよね。刃物でめった切りなんて、全然スマートじゃないし。理由も、ただの虚栄心なんて……分かるかな? 一連の、一緒の犯行になんかされたくないんだよ。君を警察に突き出せば済むんだろうけど、でもそれじゃ、僕も捕まるかもしれないし」
男が千枚通しを振り上げる。
普段のあの明るさをそのままに、動揺も達成感もなく、この男はこれから凶行に及ぶのだ。これが本物の通り魔、本物の異常者。きっと、何を言ってもこの男は行動を変えないだろう。
それでも青年が死にたくないと願った時、その視界に飛び込んできたものがあった。
あれは──。
「──だから、悪いけど、じゃあね」
鈍い音と呻き声が夜道を駆け抜ける。
朝日が上る頃には、きっと今まで青年だったモノが横たわっている事だろう。いや、もし青年が視界に入った包丁を手にして死に物狂いで抗っていたとしたら、転がっているのはもう一人の通り魔の方かもしれない。あるいは、二人の亡骸が刺し違えている未来もあるだろう。
「──ね、どうだった?」
だが、彩夏がそれを気にする事はない。
彼女の興味は、人間そのものにはないのだから。
今、その興味の対象は、その隣に浮かぶ者、その反応である。
「あぁ、はっきり思い知らされたよ。そりゃあ昔はよく取り憑いたモンだがね……こんな世の中じゃ、俺サマの出る幕はねェさね」
ぎょろりとした眼球。ぼさぼさの白髪。鬼瓦を思わせる仮面のような顔の下には、白い襦袢を着た幽霊の如き身体がくっついている。落胆したような声で呟いたそれは、名残惜しそうに彩夏が持つ御札の中へと吸い込まれていった。
通り悪魔は、人の心に取り憑く妖怪である。
彼の姿を見たならば、人は乱心し他人を害する事になる。強い心を以て平静を保てば乱心する事はないのだが、それでも心の弱い武士や町人が、何人も気がふれて刀を振り回したものだ。故に、通り悪魔に憑かれた者は「魔が差した」と言い、人々はそれを「通り魔」と呼んだのである。
だが、時代は変わってしまった。
人間というやつは、誰もが少なからず心のどこかに闇を抱えて生きている。それは昔も今も同じ。だが、今では通り悪魔が憑かずとも、ふとしたきっかけで闇が露呈する人間ばかり。そして彼らは、大なり小なり無差別に人々を害しては口を揃えてこう言うのだ。
魔が差した、と。
笑わせる、と通り悪魔は思う。
欲望を心の闇に秘めている人間に憑き、それを解放してやるのが愉しかったのだ。だが、今の連中は俺サマが解放してやる必要すらない。昔は乱心した連中はもののけの仕業だと恐れられたものだが……俺サマに言わせれば、妖怪に憑かれてもいないのに平気で他人を傷つけ、居もしない「魔」のせいにする、人間の方がよほど恐ろしい。
「キヒヒ、残念でした! 世の中に君の居場所が出来たら、またその時は喚ぶからさー。それまで、もうちょっとおやすみ!」
御札の外の世界から、彩夏の明るい声が聞こえてくる。
まったく、他人事だと思って。ま、その時が来るまで、もう少しのんびりさせてもらうとするかな。久しぶりに外の世界を確認した通り悪魔は、次に人間に取り憑く日を思い浮かべながら、再び眠りにつくのだった。
登場妖怪解説
【通り悪魔】
通り者、通り魔とも呼ばれる妖怪。襦袢姿や甲冑姿など伝わっている外見は様々だが、いずれにせよ、ぼんやりしている人の心を乱して凶事や災いを招く存在。誰にでも取り憑く可能性があるが、心を強く持ち、平静を保つ事で通り悪魔を追い払う事が出来るとされた。「通り魔」の語源になったとも言われている。




