第六話:心に差す魔 凶刃が通る(1)
──バタン──ガチャリ。
部屋に響き渡る、乱暴なドアの音。
青年は、その音と同時に全身の力が抜け、靴を脱ぐ間もなくその場にへたりこんでしまった。
「はぁ……はぁ……は、はは……はははははは……!」
押し寄せるのは、心地好い疲労と達成感。
鬱屈とした欲求が解き放たれ、清々しい解放感として全身を駆け巡り、笑い声となって口から溢れ出す。こんなにも晴れ晴れとした気持ちになったのはいつぶりだろうか。
隣の部屋から、壁越しに抗議の音が鳴る。もう日付が変わる時刻なのだから無理もない。
だが、青年は気にも留めなかった。
昨日まではそんな壁を叩く音にも苛々させられていたが、今は違う。俺は、他の連中とは違うのだ。それを証明する事が出来たのだから。
「ははは……はははっはははは!」
空が白んでくるまで、青年は赤く染まった白いシャツを着替える事も忘れて優越感の海に浸り続けた。
「──昨夜十一時頃、帰宅途中の女性が男に刃物で何度も切りつけられ──女性は男とは面識がなく──」
よしよし。載ってる、載ってる。
翌日、SNSのニュースを眺めながら、青年はほくそ笑んだ。
青年は、特別な事など何もない、どこにでもいる万人のただ一人に過ぎなかった。
友人達と大いに遊んだ幼少期。だが小学校に上がると、今度はその友人達から目をつけられて精神的な苦痛を味わった。それからというもの、中学校、高校と、目立たぬように、巻き込まれぬように、ひっそりと生きてきたのだ。そして大学に進学しても尚、世間の目は息苦しさと居心地の悪さとなって青年を覆い、彼に眩暈を覚えさせてきた。
そんな、どこにでもいる彼が特別な存在になる方法。それは、非常に簡単な事だった。
人とは違う事を成す。
自分の存在を確立するには、それだけで良かったのだ。
この実感。何と素敵なのだろう。昨日までに比べると、どことなく世界が優しく見える。心の奥底から、自信が沸いてくるのを感じる。
一皮むける、自分の殻を破るとは、こういう事か。やればできる、というのは本当だったのか。青年は、久しぶりに満ち足りた気分を味わった。
しかし──それはほんの一時の出来事でしかなかったのだ。
翌日SNSに掲載されたニュースの続報、そしてそのコメント欄。それらはまるで嘲笑うかの如く、バイト先のファミリーレストランへと向かう青年に語りかけた。
「──先日敦倫町で発生した通り魔事件で──事件現場から半径五キロ圏内では、先月、通り魔が連続発生しており──これ模倣犯じゃね──警察では同一犯の可能性も視野に捜査を──真似したクソ餓鬼の仕業やろ──同じヤツが犯人なんだよなぁ──」
思わず足が止まる。風船のように膨らんでいた青年の充足は、急速にしぼんでしまった。
そもそも、なぜ青年は己の欲求を満たすための手段として「通り魔」を選んだのか。
それは非常に単純で、報道の通り、先週隣町で発生した連続通り魔事件をニュースで観たためである。これなら自分にも出来るのではないか、これなら自分の存在を世間に知らしめられるのではないか。そんな浅はかな考えが、青年を突き動かしたのだ。
だが、「図星を突かれる」「存在を否定される」……無思慮で軽骨、青年のような人間にとって、この二つは自尊心を傷付けるのにこの上ない効果があったのだろう。
それをネットの不特定多数から一度に突き付けられたというのは、彼にとっては世間全体から嘲笑われたに等しい。彼の精神は、一気に以前の状態に戻ってしまったのである。
「クソ……なら……!」
もう一度、もう一度だ。
挙動不審さを精一杯に隠しながら、周囲を見回す。アレだ。すぐそこにいる、パーカーを着た小学生くらいの子供。アレなら手もかからないだろうし、そうだ、この場でやってしまえ。それなら誰とも間違われない。
あと三歩。あと二歩。一歩。これでまた俺の存在が──。
ポケットのカッターナイフを握り締め、青年は伏し目がちに少女の脇を通り抜ける。そして振り返る事もなく、バイト先へと歩き続けた。
子供と、目が合った。
これから非道を行おうという男が、非力だからとその対象に狙った子供と目が合っただけで逃げ出した……そういう事になる。
「クソ、クソ……!」
その事実は、さらに痛烈な現実として青年を苦しめるのだった。
「キヒヒ……」
現実から目を背けるように、青年は歩みを急ぐ。その背中には、まさに先程手にかけようとした少女の視線が向けられていた。
そして、その夜。
「……はぁ……はぁ……」
──バタン──ガチャリ。
部屋に響き渡る、乱暴なドアの音。
青年は、その音と同時に全身の力が抜け、靴を脱ぐ間もなくその場にへたりこんでしまった。
「はぁ……クソ、クソっ、クソっ!」
苛々をぶつけるように、ガン、と壁を殴り付ける。隣の部屋から壁越しに抗議の音が鳴り、より青年の心をかき乱した。
──それにしても、嫌な世の中だよね──。
ぐちゃぐちゃの青年の心象に、バイト先の先輩の落ち着いた声が木霊する。それを振り払うように耳を塞ぐが、その声は明瞭な会話の記憶となって脳内に流れ込んでくる。
「え?」
「連続通り魔なんてさ」
「ほ……本当ですね」
「……まぁ僕は、この間のだけは、犯人が違うんじゃないかなって思うんだけどね」
「え? ど……どうしてですか……?」
「手口も、凶器も違うらしいしね。前の事件は足を狙って切られたみたいだったけど、この間のは何べんも切りつけてるって言うし……多分……ニュースに憧れて、どこかの中学生とかが真似したんじゃないかな」
「な……なるほど……」
「本当、嫌だよね」
「はは……は、はは……あああああっ! クソ、クソっ! クソっ!!」
ムカつく。ムカつく、ムカつく、ムカつく!
あの気取った先輩の、見透かしたかのような口調も。俺を認めないSNSの奴らの、中身のない憶測と嘲笑も。無能な警察もメディアも。俺は、俺はこんなにも頑張って俺を主張しているのに。
頭をかきむしるうちに、青年は答えに行き着いた。
そうか。まだ足りないのか。
苛立ちをぶつけるようにカッターナイフを部屋に投げ捨て、棚から包丁を取り出し握り締める。
それなら、もっとだ。もっともっと人と違う事をやって、知らしめてやる。俺を認めさせてやる。
扉を勢いよく開け放ち、青年は外へ繰り出した。




