第五話:神隠しの夜 闇からの魔手(2)
大口の怪物──妖怪鬼一口は、苛立っていた。
何人もの獲物を襲ったが、ことごとく目の前でこの隠し神に横取りされてしまったのである。久方ぶりに封印を喰い破る事が出来たと言うのに、喰えたのは復活直後に飲み込んだ若い女一人だけだ。
鬼族の中でも、理性など持ち合わせぬケダモノに近い存在である鬼一口。しかし、縄張りを乱す者に獲物を横取りされ続けては、例え無感情だろうが苛立ちの一つも芽生えようというものである。
何としても、この獲物こそは自分が仕留める。妖怪だろうと構うまい。初撃を食い止めた異形の娘に二撃目の狙いを定め、鬼一口は口から涎を滴らせる。
一方、余裕そうに舌を出す彩夏だったが、内心では珍しく冷や汗をかいていた。
危なかった。これが、叫ぶ隙も与えず人を喰らうという鬼一口の力。師匠が守ってくれなければ、自分も例外でなく、喰われた事にすら気付かぬままに喰われていただろう。二本足と角の生えた顎とでも呼ぶべき鈍重そうな外見の割に、この素早さは驚異的だ。
変身しての戦闘を考え、御札を構える。
不落不落の火力で焼き払うか? いや、あのスピードで移動できるのなら、必要なのは火力より速度。ならば。
「お願い、チーかま!」
「だああっ! その呼び方やめろっての!」
御札から飛び出してきたのは、小さな動物だった。
イタチかフェレットに似た白いそれは、しかし両の前肢が鋭い鎌の刃のようになっており、普通の小動物ではないことが窺える。無論、チーかまなどというのは彩夏が勝手に呼んでいる渾名に過ぎない。
その真の名は、鎌鼬。
旋風と共に人を斬る、歴とした、名の知れた妖怪である。
「変身!」
彩夏の掛け声を受け、濃い松葉色に輝いた御札を中心に疾風が吹き荒れる。
勢いを増していく、鮮緑に煌めく風。御札を細かく切り刻み、鎌鼬と同化し、強烈な竜巻と化し……それが収まった時、中心に立つ彩夏は変身を完了させていた。
風になびくは緑色の、流麗なポニーテール。常盤色の袴のような服装には、要所要所に風の流れを思わせる模様があしらわれている。帯部分にはしっかりと小槌が差し込まれていたが、次の瞬間、それは長大な刃と鞘が現れた事で日本刀型の武器へと変化した。その化装を纏った姿は、まるで実体を持った風そのものだ。
「ガアぁッ!」
彩夏が構えるのも待たずに飛び掛かる鬼一口。
だが、その大顎は空を食んだ。不可解そうに辺りを見回す鬼一口の後頭部に、鋭い衝撃が走る。
「…………!?」
「キヒヒ! 遅い遅ーい!」
今の彩夏は、不落不落を宿した化装とは異なり、強烈な風を司る姿である。
突風と見紛う瞬間的な高速移動、そして鋭利な刃による鋭い斬撃。それこそが鎌鼬を宿した化装の持ち味だ。当然、鬼一口との相性は悪くない。
「はい、はいっ、はいっ! ……っととと!」
目にも止まらぬ斬撃を連続して放つ彩夏。だが、鬼一口もただでは斬られない。巨体に似合わぬ超速度で狭い道路を縦横無尽に跳び回り、斬撃を避わし、隙あらば巨大な顎を虎バサミの如く繰り出してくる。
両者一歩も止まらぬ攻防を繰り広げているが、例え一撃で勝敗が決まろうと、その一撃が決まらなければ終わらない。それではまるで舞踏会だ。初撃の不意打ち以降、彩夏も決定打を叩き込めないでいた。
これは消耗戦になる。そう思われたその時、舞踏会を止める鐘を鳴らしたのは、会場に居合わせた第三者だった。
「隠し神!?」
「ガッ……アァッ!?」
その時が来るまで、じっと身を潜めていたのだろう。鬼一口の足下の影から無数の手が伸び、一瞬でその全身を捕縛したのだ。
動きを封じられ、陸に揚げられた魚のように暴れる鬼一口。少しずつ影の中に引きずり込まれてはいるようだが、このままでは数秒で拘束を振りほどいてしまうだろう。
だが、その数秒を逃す彩夏ではない。
「でぇいやあっ!!」
勝負は一瞬。
幾重もの旋風を纏った刃の一閃が、鬼一口の銀髪を、牙を、そしてその肉をずたずたに切り裂いた。一撃ながらも無数の刀で一度に斬りつけたかのような傷を負わせたそれは、鬼一口に致命傷を与えるに十分な一撃であった。
音を立てて倒れる巨体。舌を垂らして虚ろに目を見開き、鬼一口は二度と起き上がることがなかった。
「はぁー、疲れた! チーかまもお疲れ様!」
「だからそれやめろって! ったく……」
変身を解除し、鬼一口の霊魂を御札に封じる彩夏。
あけすけな様子の彼女とは対照的に、その周りを飛ぶ鎌鼬は、警戒したように鋭い目付きのままである。
視線の先に立つのは、隠し神だ。
「……で、アヤカ。あいつはいいのか?」
「え? ああ、大丈夫大丈夫! だってさ、さっき助けてもらっちゃったしね。多分だけど、別に人を襲うつもりはないんでしょ、隠し神?」
相変わらず表情は窺えないが、隠し神は彩夏の言葉に静かに頷く。
「人を襲うつもりがない? いや、だってこいつ……」
「キヒヒ。きっと、守ってたんじゃないかな?」
「守ってた?」
「そ。鬼一口から、人間を、さ。違う?」
再び頷く隠し神。それを見て、彩夏は僅かに微笑んだ。
数百年も昔、この町の祠に封印された妖怪。それがこの隠し神であった。
別に復活せんという欲もなかったのだが、何かの拍子にその眠りから解き放たれてみると、先客が暴れているではないか。しかもそれは、帰りの遅い子供を戒めるでもなく、無差別に人間どもを喰らおうというバケモノと来た。
正面から奴を隠すには力が足りなかった。既に喰われてしまった人間は助ける事が出来なかったが、それでも奴が──鬼一口が狙った人間を、先に隠すように努めたのだ。
数百年前、野盗から守るため、村中の子供達をその力で隠した時のように。
もっとも、その時の出来事がきっかけで、本格的に封印されてしまったのだが。
「キヒヒ、誰かさんは君が人間には害のない隠し神だって知らずに復活させたみたいだけどねー。大方、たくさん子供をさらったって所しか読み解けなかったのかな? キヒヒヒヒヒ」
「…………」
「ま、いっか。で、誰なのかな? そんな事した悪い子は。さらった子を解放する前にさ、教えてくれない?」
一瞬、躊躇ったように顔を逸らす隠し神。だが、隠す必要もないと悟ったのだろう。もしくは、隠した所でこの少女が秘める力には通用しないと考えたのか。か細く冷たい声で、しかしはっきりと呟いた。
「用心用心、気を付けろ。其の名は知らぬ。名乗りは騙り。だがその名乗りは……カミヤモモキと名乗りたり」
自らの封印を解いた者の名を教え、隠し神は足下の影の中へと消えていく。もう少しすれば、隠された人間達も無事返されるだろう。それで神隠しの一件は幕引きのはずだ。彼はそういう稀有な隠し神なのだから。
後には暗闇と静寂、そして彩夏と鎌鼬だけが残された。
「おいアヤカ。カミヤ、って……」
「うん、多分そうだよね。キヒヒ……キヒヒ、アハハハハハハ!」
その名に心当たりがあるのか、視線と言葉を交わす二人。彩夏に至っては確信があるのだろう、珍しく声高に哄笑した。大百足、隠し神、鬼一口。こんな怪物共を続けて解き放った存在の正体に、怒るでもなく、彩夏は高揚を抑えられなかったのだ。
「キヒヒ……今度こそ負けないからね、覚悟しておけー! ……なーんてね! 行こ、チーかま!」
「だーかーら! ……っはぁ、もういいよ……」
全力で、正面から、楽しく叩き潰す。
決意を新たに、期待を胸に、少々騒がしいやり取りの余韻を残して、その姿は夜道の先へと紛れ消えた。
登場妖怪解説
【隠し神】
遅くに出歩いている子供をさらうとされる妖怪。日本各地に様々な伝承が残るが、総じて人間が行方不明になる事は古来より「神隠し」と呼ばれた。
【鬼一口】
鬼が人間を一口で喰らってしまう説話を指す。伊勢物語の伝承が有名。飢饉や戦乱で人が突然命を落としたり失踪したりするさまを、鬼に喰われてしまったと例えたという説もある。
【鎌鼬】
つむじ風に乗り現れる鼬の妖怪。両腕の鎌で人を斬りつけるが、傷口は鋭く、痛みも出血もないという。類似の伝承が各地に残っており、内容にも様々なパターンが存在する。