第70話 仮面の女
残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。
31年前、レティシアは17歳のヒュドール侯爵令嬢、アリステウスは22歳でヒュドール侯爵家の護衛騎士だった。
アリステウスの身分は一応は貴族の末端であるものの、男爵家の三男で相続する領地もなく、侯爵家に仕えて身を立てていた。
ある日、ヒュドール侯爵夫人と侯爵令嬢が乗った馬車が何者かに襲われた。
アリステウスを含む護衛騎士達は応戦したものの、戦闘の隙をついて二人の乗った馬車ごと連れ去られてしまった。
「奥様! レティシア様ーーーっ!」
アリステウスは賊と剣を交えながら、もうもうと土埃を舞い上げて走り去る馬車に向かって声を限りに叫んだ。
何とか賊を倒した時には、既に馬車は影も形も見えなくなっていた。
深手を負ったヒュドール侯爵家の騎士たちが地面に倒れ込んでうめいている。
侯爵家に急を知らせることが出来るのは、傷の浅い自分しかいない。
馬を奪われ後を追うことが出来ないアリステウスは、ヒュドール侯爵家に向かって走り、息も絶え絶えに屋敷へ辿り着いた。
事の次第を聞いた執事は、急ぎ騎士団へ使いをやって騎士団長である侯爵を屋敷へ呼び戻した。
「何か手がかりはないのか!」
侯爵は激高してアリステウスを問い詰めた。
「も、申し訳ございません! 馬車には4名の護衛が付いておりましたが、敵は10名ほどいました。1名に対し2名の敵が襲ってきて、こちらが応戦している隙をついて残りの敵が馬車を連れ去ってしまったのです。あの組織的な動き、それに剣術は山賊などではなく、かなり訓練を積んだ騎士に間違いありません!」
「騎士だと!? なぜ騎士が……、私は知らぬ間にどこかの家の恨みを買っていたのか!?」
心当たりのない侯爵はギリギリと歯ぎしりをした。
「旦那様! 正面玄関の扉にこのようなものが!」
執事が大慌てで矢を手に持って、侯爵のいる部屋へ駈け込んできた。
矢には手紙が結ばれている。
侯爵が震える手で手紙を開くと、そこにはある屋敷へ来いと記されていた。
指定された場所は、長く人が住んでおらず半ば廃屋となっている屋敷だった。
「来たな。ギデオン・ヒュドール。」
屋敷の中へ入ると、フード付きの黒い外套を頭からすっぽり被り仮面で顔を隠した女性と、厳つい数名の男が待ち受けていた。
「お前に仕事を与えよう。強い神力を持つ貴族を一人残らず殺すのだ。特に子どもと、子どもを望める年齢の者は生かしておいてはならぬ。」
誘拐犯は騎士団長を務めるヒュドール侯爵を呼び出したかと思うと、言うに事欠いて神力を持つ貴族たちを殺せなどと命じる。
とてもそんなことを了承できる筈がない。
侯爵はにべもなく出来ないと断ったが、侯爵の目の前に侯爵夫人が手荒に引き立てられてきた。
「あなた!」
「フェリシア!」
「ふふふ。侯爵が自ら仕事を引き受けたがるようにしてやろうではないか。お前たち、この女を痛めつけろ。」
仮面の女は、傍に控える大男に命じた。
恐ろしさのあまり蒼白になった侯爵夫人は、今にも気を失いそうに震えている。
「止めろ! やるなら私をやれ! 妻には手を出すな!」
「ふん。まずは手始めに指でも折ってやろう。ーーーやれ。」
ボキッ!
大男が侯爵夫人の指を掴むなり、いとも簡単に嫌な音が響き渡った。
「きゃあああああああああっ! 痛い! 痛いっ!」
「フェリシアッ!」
「ふん。お前が強情だからこうなっているのだ。次は、そうだな、爪でも剥がすか。ーーーやれ。」
「や、止めて、止めてっ! ああっ!」
「止めろーーーーーッ!」
大男は侯爵夫人の怪我をしていない方の手を取り、中指の爪の下に短剣の先を突き刺すと、力任せに爪を剥がした。
「ひッ……!」
あまりの激痛に、侯爵夫人は悲鳴をあげることすらままならず、失神してしまった。
大男は気を失った侯爵夫人を支えることなく、侯爵夫人の体はそのまま床に勢いよく打ち付けられた。
「フェリシアーーーッ!」
「おお嫌だ……! あんなに血が流れて、なんとおぞましい! お前が意地を張るせいだぞ。妻を痛めつけているのはお前だ。」
仮面の女は口元をゆがめ、手に持った扇を広げて口元を隠した。
「ふざけるなッ! 妻を解放しろ!」
「ふん。私は親切だからな。呑み込みの悪いお前にも分かりやすいように説明してやろう。このままお前の妻を切り刻み、妻が死んでも尚お前が言うことを聞かなければ、次は娘を切り刻む。」
「む、娘はどこにいるッ! 無事なんだろうな!」
「さあて。無事でいて欲しいのならば、私の言うことを聞くべきだとわからないのか。」
その時、目を覚ました侯爵夫人が弱々しい声で夫に訴えた。
「あ、あなた……。言いなりになってはいけません。騎士団長であるあなたが貴族殺しなど……。ヒュドール侯爵家の名誉を守ってください……。」
「だまれッ! 余計なことを言うな、いまいましいッ! その女を黙らせろ!」
怒り狂う女に命じられた大男は、床に伏せる侯爵夫人の腹部を思い切り蹴り上げた。
ドカッ!
「ぐう……ッ!」
侯爵夫人は口からぼとぼとと血を噴き出し、再度気を失ってしまった。
あの勢いで蹴られれば、内臓を損傷しているに違いない。
「もう止めてくれ……! 妻が死んでしまう! 頼む、頼むッ!」
「私の言う通りにするか?」
「わかった……! だから、妻を殺さないでくれ!」
涙を流し、血を吐くような思いで、ついに侯爵は貴族たちを襲うことに同意してしまった。
娘は仕事が達成された時に返すと言われ、侯爵は大怪我を負った妻を連れて屋敷へ戻った。
執事に妻の世話を託すと、侯爵はそのまま屋敷を後にして、王家の保有する暗部へ参じた。
王命により、謀反の疑いがある貴族家の暗殺が決行されることになったと暗部に伝えると、騎士団長という身分が幸いして疑われる事はなかった。
そしてあの襲撃事件が起こる。
騎士団を襲撃のために使わなかったのは、貴族の子息ばかりの部下たちと、ヒュドール侯爵家の名誉を守るためのせめてもの抵抗だった。
侯爵が数々の襲撃を取り仕切り疲労の色を滲ませて屋敷へ戻ると、そこには捕らわれている筈の娘の姿があった。
「レティシア! 無事だったのか!」
「はい、私は無事です。お母様と引き離されて別々の場所に連れ去られる途中で、ウンディーネ様が助けてくださったのです。その隙に身を隠し、こうして逃げてまいりました。」
「ウンディーネが……、なぜッ! なぜもっと早く助けてくれなかったのだ!」
「わ、わたくしが動揺してしまって、すぐにウンディーネ様をお呼びできず……、申し訳ありません!」
レティシアは、はらはらと涙を流した。
「お父様……、お伝えしなければならないことがあります。お母様は……、もう……。」
「嘘だ……、嘘だと言ってくれ……!」
侯爵はその場を後にして夫婦の寝室へ駆け込んだ。
「フェリシア……! こんな目に遭わせて、すまない……、すまない……。」
扉を開け放って妻の亡骸を目にした侯爵は、よろよろとベッドに近づき妻の枕元へ跪いた。
暗い部屋で涙を流す侯爵の元へ、レティシアとアリステウスがやってきた。
「お父様…、何があったのかお母様からお話を伺いました……。」
侯爵夫人は死の床で真相を娘に語り、他に選択肢がなかった、お父様を恨まないでと言い残して死んでいたのだ。
「レティシア……、この家に留まるのは危険だ。あの恐ろしい方が、このまま私たちを生かしておく筈がない。お前は身分を捨てて、アリステウスと共に生きろ……。」
侯爵は娘を護衛騎士に託し、身分を捨てて暮らすようにと命じた。
侯爵も侯爵夫人も、仮面の女の正体を見抜いていたのだ。
聞き覚えのある声も、髪の色も、仮面の奥から覗く瞳の色も、間違いようがなかった。
あの女の手の者に殺されるか、襲撃事件の罪を全てなすりつけられ、罪人にされるかのどちらかしかない。
侯爵は金貨を持たせて娘たちを送り出すと、静かに妻の亡骸に寄り添って自ら命を絶った。
「あの時、わたくしがすぐにウンディーネ様をお呼びしていれば……! あの事件は防げたのです!」
レティシアは眉根を寄せて、深い後悔に苛まれながら涙を流した。
「いえ、私の力が及ばず、奥様とレティシア様をお守り出来なかったのがそもそもの原因です!」
アリステウスはアリステウスで自分を責める。
セラフィムは、被害者だとばかり思っていたヒュドール侯爵家が、実は加害者側であったことに衝撃を受けていた。
「なんということだ……。それで、犯人は一体誰なんですか?」
「犯人はーーー」
バリバリバリバリッ! ズドーーーン!
その時、突如落雷の音が響き渡った。
「セラフィム! 早く神力を発動して!」
ウィルが焦った様子でセラフィムの前にパッと姿を現した。
「ウィル、いったい何事だ!?」
セラフィムは温室の外へ飛び出しながらウィルに説明を求めた。
「屋敷を賊に包囲されている! ソールとスカーレットが手分けして侵入を防いでいるけど、賊の数が多い! 僕が結界を張るから早く神力を!」
ヒュンヒュン……ヒュン……
セラフィムが神力を発動させようとしたその時、何本もの矢が一斉に放たれる音がした。
視線の先には莉奈がいる。
セラフィムの目には、矢で胸を射抜かれた莉奈がくずおれる様が、まるでスローモーションのように映っていた。
『莉奈ーーーーーーーーーーーッ!!!!』




