第66話 家庭教師の先生
「さあ、行くわよ。目を閉じて。ーーー着いたわ。」
スカーレットの号令で閉じていた目を開くと、一瞬にして景色が変わっていた。
先ほどまで馬車と馬に乗って屋敷の正面玄関前にいたというのに、あっという間に目的地である街道の休憩所に到着していた。
気を失うこともなく、体にもまったく不調は感じない。
「本当に一瞬だったな。てっきり、転移するときは気を失うのかと思ってたが、なぜ今回はみな意識を保っているんだ?」
不思議に思ったセラフィムがスカーレットに尋ねた。
「距離が違うもの。」
「距離?」
「エリミアの街と王都は近いわ。でも日本とアレクサンドロスは、星をいくつも超えるほど途方もない距離よ。その距離を転移するんですもの、とても意識を保ってはいられないわ。」
いつもは一言で会話を終わらせるスカーレットが、珍しく饒舌に説明してくれた。
「そうなのか。子ども達が毎日気を失わずに済むならよかったよ。」
「カイトの体に負担をかけるようなことはしないわ。」
そう言ってスカーレットはツンと鼻先を上げた。
「ハハ、ありがとう。スカーレット。」
海翔に並々ならぬ愛情を注ぐスカーレットに苦笑しつつ、セラフィムは感謝の気持ちを伝えた。
「殿下、すぐ出発いたしますか?」
御者のエイダンが馬車の中のアレス叔父に声をかけた。
「ああ、こちらは皆元気だ。すぐに出発して問題ないぞ。」
「は、かしこまりました。それでは出発いたします。」
アレス叔父の馬車を真ん中に挟んで、右手に黒馬にまたがった春翔、左手に栗毛の馬に二人乗りしているセラフィムと海翔が並んだ。
「スカーレット、ここから王都まですぐだし何ごともないとは思うが、もし襲われたら結界を頼むよ。」
「わかってるわ、当り前よ。」
海翔の前にむりやり横座りするスカーレットに再度苦笑しながら、セラフィムは馬の脇腹を軽く蹴った。
ほどなく一行は王都アダマースの正門前に到着した。
セラフィムが長い行列を作る人々の脇をすり抜けて検問官にアレス叔父の帰都を告げると、一行は検問を受けることなく門の中へと通された。
「セラフィ、この前と同じ宿を手配してある。私は王宮へ顔を出さねばならないからな、今日は自由に王都を観光してくれ。明日、神殿の温室で落ち合おう。家庭教師も連れて行く。」
「はい。承知いたしました。」
「これからはセラフィたちとも自由に会えなくなるな……。寂しい限りだ。」
平民として暮らしているセラフィムを、用もなく王宮へ招くことは出来ない。
かといって、王族という立場上、アレス叔父が自由にセラフィムに会いに行く訳にもいかないのだ。
「またエリミアの街にいらっしゃる際は、ぜひ我が家へお泊まりください。いつでも大歓迎いたします。それに、お声掛けいただければ転移でお迎えに上がります。」
「おお、そうか! 楽しみにしていよう。」
転移があれば人目を気にせず行き来することができる。
アレス叔父はセラフィムの言葉に表情を明るくした。
前回も泊まった宿は、貴族御用達の店が立ち並ぶ高級街にあった。
王都はエリミアの街よりも何倍も広く、とても一日で観光しきれるものではない。
いったん宿に落ち着いた一行は、セラフィムの部屋に集まり今日の予定を立てることにした。
『このあたりは綺麗だけど、なんか手が届かない感じなんだよね。お店を見てもどうせ買えないしなあー。私はもうちょっと手頃なエリアを見てみたい。』
『そうだ、せっかく王都に来たんだし、仕立て屋に服を作らせてもいいんじゃないか? アレス叔父様が王宮にあがれるような服も用意しておけと言っていただろう?』
『うーん…。着る予定もないのにもったいなくない?』
服を作ろうと言うセラフィムの提案に、美優は気乗りしない様子だ。
『オーダーメイドなんだから作るのに時間がかかるんだぞ。必要になってから作ってたら間に合わない。』
『そうねえ。恥ずかしくない服を一通りは持っていたいわ。』
『よし、大人は服を作りに行って、子ども達は好きに観光するのはどうだ? 春翔も美優も一度来たことがあるし、スカーレットも付いているから大丈夫だろう。』
一緒に行かなくて済むと聞いた子ども達はパッと顔を輝かせた。
『賛成! よかったー、俺服なんか別に何でもいいし、わざわざ作りにいくのめんどくさいよ。』
『僕も服より観光したい!』
『うん、王都の屋台もいろいろ見て研究しようね!』
今日の予定が決まった一行は、1階に降りて受付で評判のいい仕立て屋と観光地を尋ねた。
目的地へ向けてぞろぞろと外に出たところで、優士がしれっと子ども達の後に付いていこうとする。
『優士、どこへ行く? 仕立て屋はこっちだぞ。』
『俺も王宮に行く用事ないし、子ども達と一緒に観光したい。』
『お前はダメだ。既製服が合わないんだからな。この機会にきちんとした服を作っておけ。』
『ええー、めんどくせえ…。』
渋る優士をなだめつつ、それぞれの目的地へ向けて二手に分かれた。
晴翔たちは王都名物のピスタチオのパイをまた食べようなどと話しながら、意気揚々と観光へ出かけていった。
翌日、昼前に宿に現れた迎えの馬車に乗り、一行はアダマース神殿へと向かった。
『神殿も久しぶりだなー。辛かった修行の日々を思い出すなあ。』
『お兄ちゃん、神殿で修行したの? 修行って肩を板で叩かれたりとか、滝に打たれたりとかそういうの?』
『いや、そんな肉体的な大変さはなかったけど、精神的に辛かったんだよ。言ってもお前には分からないと思うけど。』
『ふーん?』
精神的な辛さと言われても抽象的過ぎてピンとこない。
これ以上説明する気のなさそうな春翔に、海翔は首を傾げた。
一行がアダマース神殿の裏門に着き、馬車を降りて神殿の温室に向かっていると、薄暗い回廊の途中でアレス叔父と若い女性にばったり出くわした。
「アレス叔父様。」
「おお、セラフィ、私たちもちょうど今着いたところだ。さあ、温室へ入ろう。」
連れ立って温室へ入ると、パンテレイモンとエウフェミアがテーブルを整えて待っていた。
「では紹介しよう。この娘が家庭教師を引き受けてくれたフローラだ。」
紹介されたフローラは、長く波打つ金髪に琥珀色の目をした美しい娘だった。
たれ目で可愛らしい顔立ちだが、背はすらりと高く、年齢は20代半ば程に見える。
「はじめまして。フローラです。よろしくお願いいたします。」
「こちらこそよろしくお願いいたします。私はセラフィムです。こちらが妻のリナで、上の息子のハルト、下の息子のカイトです。それから友人のユージと、その娘のミユです。」
「よろしくお願いいたします。」
フローラは一人ひとりに頷いて笑顔を見せた。
「子ども達は王都の学校に通いますので、主にリナとユージに教えていただきたいと思っております。」
「はい。アレス様から伺っておりますわ。この国の生活に慣れるまでは、あまり根を詰めずにゆっくり勉強いたしましょう。」
そういって優しい微笑みを浮かべるフローラは、アレス叔父から聞いていた通り気立ての良い娘らしい。
セラフィムは良い先生を紹介してもらえたことにほっとして笑顔を返した。
「セラフィ、私はこれから用事があってな。あまり長くはいられないのだ。子ども達の学校へはフローラが案内する。」
「承知いたしました。お忙しいところ申し訳ありません。」
「いや、ゆっくりするつもりだったのだが、兄上に墓参りの話を聞かせてくれと呼び出されてしまってな。断れんのだ。兄上も前々から墓参りに行きたがっているのだが、あのお体では長旅はとても無理だからな……。」
アレス叔父はそう言って悲しげに眉を下げた。
「そうでしたか。先王陛下は体調が優れないのですか?」
「ああ。もともと丈夫なお方ではないが、王位を譲ったおかげで以前よりは良いようだ。しかし、譲られた現王陛下の方は激務のせいか体調を崩されることが多くなってしまってな……。床に臥せる日も多いと聞く。まだお若いのに痛ましいことだ。」
「そうでしたか……。お二方の体調が良くなりますよう心からお祈り申し上げます。」
伯父である先王と従兄弟である現王の不調は、セラフィムにとっても他人事ではない。
王位継承に係る今後のことを考えると、心が重くなるセラフィムだった。




