33 影の領域
身体が砂に埋もれ、視界が完全な闇に覆われてからは本当に一瞬だった。砂の中を流れるように落下し、ほんの数秒で開けた空間へと身体が押し出された後は、風の抵抗を受けながら落ちていく。
地中にしてはずいぶんと広い空洞に放り出され、クラウは咄嗟にキラの身体を守るように抱え込んだ。そのまま勢いに任せ、床に激突する前に体勢を整えようと構えた時、妙な感覚がクラウを襲った。
何かが足首にまとわりついたような気がしたのだ。すぐに抵抗しようと力を込めるが間に合わず、そのまま力任せに引っ張られ、気づけばクラウ達はずいぶんと様変わりした場所に立っていた。
「ここは…?」
陽の光など届かない地下世界のどこかであることはクラウにも分かったが、それにしてはずいぶんと奇妙な場所だった。
建物の内部のように四方を黒い鉱石の壁に囲まれ、ところどころに松明らしきものが設置されている。ただの洞窟とは思えず、昔人間が作ったという地下遺跡かとも思うが、それにしては精巧な作りで少しも朽ちた様子がないのはおかしい。
そもそもここは地上から何メートルの深さで、どのくらいの距離を落ちたのか。いや、この場合は『落とされた』と言うべきか。
以前ガルフから聞いた話の中で、地下は魔力の濃度が高い所為か、魔物も力の強い個体が生まれやすいと言っていたのをクラウは思いだした。
辺りを探れば、確かに充満する魔力の密度が度を越している。深さに比例して濃度が濃くなるとすれば、ここは地上からかなり深い地下世界ということになるだろう。
何より、地上の大気中の魔力や精霊が扱う魔力とは質が違い、どちらかといえば呪魔や魔物の持つ魔力に似たひどく重い感じがする。その身体にまとわりつくような感覚が不快でもあり、また妙に身体に馴染むようでもあり、クラウはどこか自分の身体が軽いことに違和感を覚えた。
「イア、無事か?」
気配を探し、相棒に声をかけると少し離れた場所からイアが駆けてきた。その背にはちゃんとクラウの言いつけどおりアウラがしがみついていた。
『あ、あの…』
「?ああ、済まない。怪我はないか?」
腕の中から聞こえたか細い声にクラウはようやくキラの存在を思いだし、顔を真っ赤にしながら頷く様子にそっと地面に下ろしてあげた。
服の中まで砂だらけで、キラがもじもじと動くたびにぱらぱらと床に落ちていく。せっかくきれいに結った金の長い髪もぼさぼさで、砂によごれくすんで見え、クラウはとりあえずどこか安全に休める場所を探すべきだろうと決めた。
「歩けるか?少し、移動しよう」
クラウの提案に、キラは戸惑いながらも素直に頷いた。
見知らぬ人間相手に警戒しているようだが、クラウ以外に頼るものがいないのも事実なのだろう。今にも泣きそうな顔を隠しながら後ろをついてくるキラに、クラウはなるべく不安をぬぐえるよう守ってやるつもりでいた。
できれば早く仲間の元へ送ってやりたいと思う。
しかし、さすがにこんな深い地下に潜った経験がないので、クラウも先のことは予想がつかなかった。ただ数十メートル地下に落とされただけならそこまで問題はないが、クラウは最後に足を引っ張られた感覚がどうしても気になっていった。
あの一瞬、様々な気配が入り混じり、誰が何の目的でそんなことをしたのかはわからないが、明らかに何ものかの「意志」が働いていることはわかった。
その証拠に、クラウ達が降り立ってからずっと誰かに見られているような視線が張り付いていた。
「イア、かすかな気配も見逃すな」
人よりも五感に優れた相棒に注意するように促し、クラウは安全な場所を求めて移動を開始した。
先頭をクラウが歩き、その後ろにアウラを腕に抱いたキラが付いて歩く。後方をイアが守るように張り付き、黄金の瞳が四方の気配を見逃すまいと睨んでいた。
最初の部屋を抜けると、幅5メートルほどの長い廊下らしき空間が闇に向かって伸びていた。相変わらず松明が等間隔に設置されているのでその点はありがたいが、やはり地下の世界にこんな場所があることにクラウは驚きを隠せなかった。
精霊界、地上界、そして深層界―――
さすがにゼロ・ラインを超えて始界にまで落とされたとは考えにくいが、地上界と深層界の境がどの辺なのか知らないクラウは、今いる場所がどちらの領域に存在しているのか見当もつかなかった。
地上界なら魔物、深層界なら影魔の生息領域になるはずだ。
影魔なるものがどのような存在かは知らないが、あまり人に対し好意的とも思えない。できれば誰にも出くわさずに地上への道へたどり着ければいいが、そう簡単にはいかないだろう。
クラウは相変わらずじっと追ってくる視線を背に感じながら、慎重に進んだ。
それから30分ほど道なりに進むと、また先ほどと同じだだ広い部屋へと出た。いくら進んでも変わらぬ様子に、クラウはキラを連れてこれ以上歩き回るのはよくないと判断し歩みを止めた。
「ここで少し休もう」
『………はい。あ、アウラっ…?』
クラウに座るように促がされ、キラもその隣に座った。すると、キラの腕の中にいたアウラがもぞもぞと抜けだし、何故かクラウとキラの間の狭いスペースに体をねじ込むようにして座ったのだった。
『も、もう!アウラったら、何してるの!?』
『フンフンフン♪~』
どうしてわざわざそんな狭いところに座るのだとキラがアウラに退くように言うが、彼は言うことを聞くつもりなどないらしい。ニコニコといつも以上にご機嫌で、しまいには歌まで歌い出してしまった。そのままクラウの膝の上に身を乗り出し、ゴロゴロと懐くしぐさはまるで猫のようだ。
そのあまりにも子供っぽいアウラの甘えた様子に、迷惑になるから離れろとキラが慌てて注意するが、アウラはどこ吹く風でクラウに寄り添って離れなかった。
身内の図々しさに恥ずかしさを覚えたキラは、また赤く染まった顔を隠しながら一人クラウ達から距離をとったところに座り直した。
すると、アウラが不満そうな視線をキラに向けた。
『ムッ。キラ、こっちきて!』
『…どうして?アウラがこっちに来ればいいでしょう?』
『みんな一緒がいいの!!』
『……』
もっと自分の近くにこいとわがままを言うアウラの様子に、キラは首を傾げた。
アウラはとにかく自由で普段も思ったままに行動するが、基本的にキラを困らせたり嫌がることを強要したりしない。しかし、今日はいつになく強情でアウラは自分の隣に座れとうるさかった。
それに、いつもなら絶対に初対面の人間に興味など示さないアウラが、これだけ懐いているという事実に、キラの頭にある疑問が過った。
『ねぇ、アウラ…、もしかして二人、知り合いなの?』
『ウヒョ!?し、知らないよ!』
『怪しい…。そういえばこの間の朝、いなかったよね…?』
動揺した様に視線をそらすアウラを、キラはじっと見つめた。
『ひどいんだ。私に隠し事するの?』
『ち、違うよ!ほんとに、知らないもんっ』
『…本当?』
『う……』
追い詰められたように黙るアウラは、クラウとの約束を律儀に守っているらしい。クラウが自分のことは話すなと言ったので、二人が森ですでに会っていることも、アウラ自身がクラウに助けを求めたことも黙っている気なのだろう。しかし、相棒に嘘をつくのがつらいのか、アウラは困ったようにクラウの方へ視線をよこした。
それまで黙って二人のやり取りを見ていたクラウは、アウラが降参する前に助け船を出してやることにした。
「今、水を出すから、少し体を拭いた方がいい。砂だらけで気持ち悪いだろう?」
そう言って地面に向かって地属性の魔法を放ち、勝手に桶ほどの穴を床に開けてしまう。そしてその穴に水を張ろうと、今度は水属性の魔法をいつも通りに発動した、はずだった。
バシャッ!!!
「………」
『………』
「…すまない。加減を、間違えたらしい」
『びしょびしょ!』
アウラの素っ頓狂な声が響き、キラとクラウの間に気まずい空気が流れた。
なぜか、いつも通りに組み上げた魔法が暴走し、いきなり水玉が大きく膨れ上がったかと思うと一気にはじけ飛んでしまったのだ。おかげで周りにいたクラウもキラもアウラも、ついでにイアまでもがずぶぬれになってしまったのだった…。
幸い砂は洗い流せたが、このままでは今度は風邪をひいてしまう。
クラウは次は服を乾かそうと風魔法を発動した。先ほどの失敗を考慮して、今度は威力を抑え、慎重に組み上げる。
しかし、極限に抑えた魔力ですらたちどころに膨れ上がり、暴風のような風が渦巻いた。
「……」
『……』
「……す、すまない。また、加減を間違えたらしい…」
『もしゃもしゃ!!!』
『…ふふっ!』
アウラの言い様にキラはつい噴出してしまった。余りの突風に皆の髪が面白いぐらいに乱れ、あちこちにはねて逆立っていたからだ。
「まいったな…」
つられてクラウも小さく笑みを浮かべた。
キラの金髪もクラウの白髪もめちゃくちゃになり、アウラにいたっては冠が吹っ飛び、艶のある髪が後ろへと跳ね、いつもは見えないおでこが丸出しになってしまっていた。無事だったのは毛の短いイアだけで、彼女はゆったりと寝そべり、笑う主を優しく見つめていた。
「…本当にすまない、どうにもここの環境がよろしくないらしい」
余りの申し訳なさにクラウが何度も謝罪の言葉を口にすると、キラは大丈夫だから気にしないでくれと首を振った。
怒っていないらしい様子に、クラウもほっと息をつく。
それにしてもなぜこんなドジを踏んだのかと苦い笑いが漏れる。
今まで魔法で失敗をしたのは、最初の光魔法と古の森で精霊リーラに怒られた時ぐらいのものだ。あの頃は本当に魔法を使い始めたばかりで加減がわからなかったのだが、5年も経った今では魔力の扱いにも慣れ、微細なコントロールも意のままだったはずなのに、なぜ今回に限って失敗したのか。
しかし、納得のいく理由を求めようとすると、どんどん深みにはまりそうな気がしてクラウは早々に考えるのはやめた。
それよりも今は、この危機的状況から脱出する案を考える方が先だと気を引き締めなおす。
「地上の時間がわからないが、ここで一休みしてから改めて出口を探そう。アウラ、念のため結界を張ってくれ。そんなに大きくなくて大丈夫だ」
『はい!』
元気な返事をしてアウラはクラウの望みどおりに3メートル四方の結界を作り上げた。さすがに精霊が作る結界だけあって綻び一つない完璧な出来だ。さらに、魔力の質は世界トップクラス。どんな敵が来ようと寝首をかかれる心配はないはずだとクラウは判断し、まずは今ある物資を確認するため自分の持ち物を床に並べた。
腰に下げていた袋の中身を取り出し、チェックする。事前に採取した魔物の破片はキラの目に触れないように奥にしまい直し、他に何を持っているかごそごそと漁ってみた。
出てきたのは小型のナイフと、ミナギル君A5つ、止血に使う薬草が少々と、あとはいつでもアリーシャに手紙が書けるように紙の束とペン、そして例の笛があるだけだった。
命の要ともいえる水は…、まぁ、魔法が使えないわけじゃないから大丈夫だろう、と高をくくる。ただちょっと勢いよく出過ぎるだけであって、あり過ぎて困るものでもない。
「問題は食料だな。君たちは何か使えそうなものをもっているか?」
『えっ、えっと、…ごめんなさい…、何も…』
ローブのポケットに何かないかと探るが、何も見つけられずキラは申し訳なさそうに首を振った。
「いや、気にしなくていい。出口を探すついでに食料もさがそう。とりあえず疲れただろうし、こいつを飲んでしばらく休むことにしよう」
こんな地中深くで人が口にできるものがあるのか疑問だが、とにかくキラに不安を与えないようにクラウは穏やかに言った。
『キラ、キラ!』
と、それまで黙ってクラウを見ていたアウラが興奮したように声を上げた。
『どうしたの?アウラ』
『コレ!!』
アウラがニッコリ笑顔付きでキラの目の前に取り出したのは、いつもお供として持ち歩いているお菓子が詰まったビンだった。
『それっ……!アウラ、素敵!』
『へっへ~』
『…でも、どうして持ってるの…?私、部屋を出る前にカバンの中に仕舞ったはずだけど…?』
『う…』
『あ!また勝手に出したのねっ!?アウラの食いしん坊!』
『うひゃ~!キラ怒った!』
アウラはキラの睨みから逃れるようにクラウの膝をよじ登り、そのままクラウの頭に噛り付いた。
『アウラ!?何してるの!迷惑だからダメだったら!』
『怒りんぼのキラにはあげないっ』
『…あ、そういう意地悪なこと言うんだ。ふーん』
アウラの態度にキラは呆れ顔でじっとりとした目つきを相棒に向けた。
『……キ、キラさん?』
『ベつにいいよ。でも、帰ったらおばさまにムッシュルブル作ってもらう約束だったけど、アウラにはあげないから』
『ウキョッ!!?ム、ムッシュ!?』
『そうだよ。家を出るとき、帰ってきたら私たちが大好きなものを作ってくれるっていったからお願いしたのに。アウラはいらないんだ?』
『きゃー、キラちゃん!だめ!半分こ!約束!』
先ほどとは打って変わって、アウラはキラに飛びついた。
美味しいものは独り占めしないで二人で食べる。それが二人の間での大事な決め事ではないかと、アウラは自分のことを棚に上げて調子のいいことを言った。
『じゃあそのお菓子は、ここにいる4人で平等に分けるんだからね?』
『4、4等分…。はい…』
アウラは皆に分け与えることに関して反対する気はないようだが、顔が思いっきり未練たらたらなまましぼんでいった。どうにも食い意地が張っているらしい。
「フハッ!」
また一人静観していたクラウは、そのアウラの姿が自分の友人に似ている気がしてたまらず噴出してしまった。よく、我慢できずにお弁当を早食いしていたククリを思い出し、なかなかいい勝負ができそうだと声をあげて笑う。ここまで笑いがツボに入ったのはこの世界に生まれて初めてだった。
『!?ほら、アウラの所為で笑われちゃったじゃない!』
『えー?違うよ!キラの怒った顔が面白いからだよ!』
『そ、そんなことないもんっ!アウラのぷにぷにの丸顔の方が、面白いもんっ』
笑われてしまったことへの腹いせか、キラはアウラのほっぺたを手掌で挟み込むと、むにむにともみほぐした。
『ムー!!キラのいーじーわーるー』
『アウラの我がまま!』
「ククッ、本当に仲がいいんだな」
クラウのさわやかな笑みがさく裂し、キラの顔が真っ赤に染まったのだった。
それから、お菓子とミナギル君Aで最低限の補給を済ませ、固い地面に横になってから数十分。すでにぐっすりと眠りの世界に旅立っているらしいアウラの隣で、何度も寝返りを打ちもぞもぞと動くキラの様子に、一人これからのことを思案していたクラウは同情した。
「…眠れないのか?」
『……』
こんな地下深くで見知らぬ人間と一緒に閉じ込められて、助かる見通しもなく、さらには食料もない状態では不安なのは当然だ。と言ってクラウも、魔法がまともに扱えない状況ではろくな案が思いつかず、結局気休めの言葉をかけるぐらいしかできなかった。
「初対面の人間を信じるのは無理かもしれないが、約束は守る。必ず仲間のところに送っていくから、今は少しでも眠ったほうがいい」
『………はい』
消えそうなくらいか細い返事を哀れに思い、クラウは荷物から笛を取り出した。
少しでも気休めになればと思い、そのまま静かに吹き始める。
ハッとしたように自分に向けられる視線を感じながら、クラウは音色に聞き入ったキラがいつしか眠りに落ちるまで優しく吹き続けた。
「…さて、少しでも時間を無駄にしたくない。向こうが出てくる気がないなら、こちらから会いに行こうか」
キラがすっかり寝入ったのを確認してから、クラウはイアに声をかけ一人立ち上がった。
「アウラ、一瞬だけ結界を解いてくれ」
クラウがそう言うと、眠っていたはずのアウラがむくりと起き上がって首を傾げた。
いくら魔力の質が上位のクラウと言えど、精霊の結界をすり抜けるほどではないので外に出るには一度結界を消してもらわなければならないのだ。
「僕とイアが出て行ったら、今度はもっと頑丈な結界を張り直して、彼女を何としても守ってやってくれ。何が起きても、結界は解くな。いいな?」
クラウの忠告に、アウラは心配そうにしながらも素直に頷いた。
ミネルディア達他の精霊と同じように慈愛に満ちた瞳が見送る中、クラウはイアと共に先の道へと踏み入った。
クラウは闇の先に延びた廊下を歩きながら、改めて気を引き締めた。
姿は見えないが、確かに何かがいることは間違いないのだ。
相変わらず監視するような視線は、クラウがアウラの結界を出るとまた纏わりつくように後を追ってきていた。ならば好都合だとそのまま歩みを進める。
長い廊下を抜けると、また同じような雰囲気の部屋が見え始めた。
一体どのくらいの規模の地下世界なのか。
この先に上へ登る何らかの手段があればいいと望みを賭けながら入り口に立つ。すると、やはり同じような内装の部屋ではあったが、奥に扉が一つ見えた。
「吉と出るか、凶とでるか―――五分五分ってところだな」
いずれにせよ、進まないと何も始まらないだろうと、クラウは迷わず部屋へ踏み入った。
―――― なんだ…?雰囲気が一気に変わったな…
入った瞬間、より一層強くなった魔力の濃さに、クラウの口から重いため息が漏れた。
体が重く、感覚が鈍くなる。
この地下世界に降り立った時から身体に違和感があったのは確かだが、最初感じた調子のよさとは裏腹に、次第に息苦しくなり、今は身体全体が熱を帯び始めているようだった。
加えて、ひどく疲弊したようなだるさが付きまとう。
これまで大した運動もしていないし、地上では少しココルの魔法を手助けしただけで、疲れるような魔力の使い方はしていないはずだ。にもかかわらず、クラウはこの世界に生まれて初めてと言ってもいいほどの体調不良に陥っていた。
『ククッ、つらそうじゃな、光の世界の住人よ』
なんとか扉まで行こうと身体を引きずって歩いていたクラウは、突然現れた気配に、部屋の中央で立ち止まった。
「…あなたですか?先ほどからずっと僕たちを見ていたのは」
アウラの結界から出るのを待っていたのか、意外と早く接触を図ってきた相手に、クラウは慎重に動向を探った。
『ほう。気づいておった上に、言葉も理解するか。さすがじゃ。俺の見立ては間違ってなかったのう』
「…どういう、意味でしょうか」
揺らり、と何かの気配が動く。
クラウは床に映った自分の影がゆっくりと伸びていく光景に目を見張った。
『そのままの意味じゃ。
お初にお目にかかる、不可思議な人の子と十二聖の将に名を置く姫君よ。
俺は世界の影―――』
クラウの目に映っていたのは、確かに「影のようなもの」だった。黒いそれはクラウの伸びた影からひょっこりと顔だけを出していた。と言っても、人の頭のような形をしているが、作りかけの人形のように目も口もなく、実体があるようにも見えない。
「せかいの、かげ…?」
『そうじゃな。お前たち人の言葉を使えば、影魔と呼ばれる存在だ』
「……」
ある程度覚悟していたとはいえ、クラウはしばし返す言葉に詰まってしまった。彼が本当に影魔だとすれば、ここは彼らの領域である「深層界」ということを意味する。
地上に戻る見通しがまた遠ざかり、クラウの口から思わずため息が漏れていた。
『なんじゃ、初対面でため息とは失礼な奴じゃの。
影の歴史は人間よりもはるかに古い。一番若輩のお前らに、俺たち影の一族が見下されるのはなはだ不愉快じゃ』
「…すみません。そいうつもりではなかったのですが…、正直戸惑っています」
精霊でも聖獣でもなく、まして魔物とも違う。実体のない影の存在だが、そこには確かに「生」の気配があり、ちゃんと言葉を交わすことができるのだ。さすがのクラウも理解を超えてしまっていた。
『何をそんなに驚く。俺の姿、それほど珍しいか?』
「…人の領域ではあなたたちの存在についてはあまり知られていませんからね。こうして実際に目にする機会に驚いているのです」
『なるほど。思えば、我ら影が人との交流から手をひいて幾千年。終息の導きをもっとも早く受けるお前たち人間にしてみれば、多くの代替わりがあったのだろう。となれば記憶にないのも道理かもしれん』
感慨深げに言う影にしてみれば、人の一生などほんの一握りの時間でしかないのだろう。彼らもまた悠久の時を生きる長寿の一族だからだ。
「…ところで、そろそろ本題に入りたいのですが」
クラウはなんとか気を持ち直し、改めて影魔を見返した。
『さて、何のことじゃ?』
「…僕たちをここへ連れ込んだ理由です。あなたでしょう?僕の足をつかんで、ここまでひきずり下ろしたのは」
『クク、さすがじゃ。そこまでわかっていながら一人で会いに来たその真意、本物かただの考えなしか―――ふむ、まこと興味深いのぅ』
影魔に表情はないが、楽しげに笑ったことはクラウにもわかった。
『確かにお前たちをここへ招待したのは、俺だ。認めよう』
「……理由を、聞いても?」
『理由?さてのぅ…、一つ上げるなら、俺が会って見たかったからかの?』
「………」
『クックック、そう迷惑がるな。そもそも、聖獣どもの掟を破ったからお前たちは地上から落ちてきたんじゃろうが。砂漠から引きずり込まれた人間は皆あの大穴に落とされることになっているからの』
「…ここは、地上からどのくらいの深さなのでしょうか?」
『俺の縄張りはこの深層領域十三階全域。地上からの距離はおよそ50キロといったところじゃ』
「50…」
クラウは絶句した。想像以上に距離があったからだ。
『まぁ、そう悲観するでない。俺がお前を引きずり込んだのは事実じゃが、別に捕って食おうなどとは思っとらんから安心せい。元来、俺たちは人間に興味がない。さっきも言ったように交流があったのはもう遥か昔のことじゃし、人に何かを期待するのはとっくにやめているからの。故に、人が落ちてこようが普通なら誰も見向きもせん。大体あの大穴は地上から一キロもない程度の深さじゃ。それなりの力があれば自力で地上に帰れるぐらい甘っちょろい罰じゃからな』
なら何故自分は桁違いの距離を落とされたのだと、クラウは内心で文句を言った。その気配が伝わったのか、影魔は楽しげに笑った。
『ククッ、実に愉快、愉快!人には興味はない。確かに、事実。
じゃが、お前は別じゃ、小僧』
「僕…?」
『さよう。また愚かな人間が落ちてきたと無視しようとしたが、そこに奇妙な力を持ったおまえがくっついてきたもんじゃから、さあ大変。何者だと、俺も含め、深層の各階の奴らはいつになく大興奮じゃ。いつもは見向きもしない下の階層の御方まで手を出してきたところを見ると、相当じゃな。ま、俺の方が一歩、早かったがのう。ククッ』
今頃みんな悔しがっているだろうと楽しげに言う影魔を見つめながら、クラウはその真意を探ろうとした。だが、不明な点が多すぎる。
大体、精霊のアウラや神子であるキラならまだしも、ただの人間であるはずの自分に彼らが興味を持つ意味が分からなかった。
『混乱してるようじゃな。なら今度は俺から質問じゃ―――
お前のその血、誰から受け継いだものだ?』
「血…?」
クラウは一瞬母親であるアリーシャのことを指しているのかと思ったが、歴とした純血の天人族に影が興味を持つとも思えず、ならば父親の方かと察した。
「おそらく父からですが…、会ったこともありませんし、何ものかも僕は知りません」
『ほう、なるほど。となれば自分が受け継いだ力にも気づいていないと言うことか』
「力…?」
『ククッ、こいつは傑作じゃあ。俄然、興味が出たわい!』
影は興奮したように暴れ、壁伝いに部屋を一周すると、床を這いクラウの足元に戻ってきた。ゆらっと黒い影がうごめいたかと思えば、やがて立体的に変化し、今度は完全な人の形をとり始めた。
『いいだろう、気が変わった!
お前が今、一番知りたいだろう質問の答えを返そう』
クラウの前に立った影魔は高揚に言った。
『地上に戻る手段は、ある』
「…本当ですか?」
『嘘は好かん。ま、お前が信じる信じないは別じゃがな』
断言したその言葉を信じるべきか、クラウはじっと影魔を見つめた。
そんなクラウの心を見透かしたように、人の姿をした影魔はまた意地悪く笑った。
『お前の目の前にある扉を更に奥に抜けた先に、一つ、封印された部屋がある。はるか昔、闇の御方が作られた陣がある部屋だ』
「…陣?まさか魔法陣のことですか…?」
『さよう。それを使えば一瞬で地上へ戻れるじゃろう』
転移魔法陣―――
こんな場所でその存在を目にできるとはさすがのクラウも予想できなかった。
『じゃが、一つ問題がある。
実はここ数年で、魔物が生まれる機会が増えてな。今ではこの階にも品のない輩が歩き回るようになってしもうた』
「魔物、ですか…」
『さよう。奴らは大気の魔力を吸って命を形成する。そうして生み出された個体はただ人を求めて食らいつくのみ。それが奴らの「生」の形そのもので、本能ともいえる。じゃが、残念なことにここには人間がおらん』
結果、魂に染みついた本能に従おうにも標的がいない地下世界の魔物たちは、いつしかお互いを食らい合うようになっていったのだと、影魔は言った。
『ククッ、いかんのう。俺の縄張りで好き勝手に共食いするだけでなく、純粋に力の強いものが生き残り淘汰されていくんじゃから、まこと、始末におえん』
「…つまり、部屋の封印を解く条件として、僕にその魔物を倒せ、と。そうおっしゃりたいのですか?」
嫌な予感にクラウが訝しげに問うと、影魔は意地悪く笑った。
『その通り、賢いの。
さて、どうする?不可思議な人の子よ。
あの娘と共に地上に帰りたいのなら、奥の部屋へと進み、陣のある部屋を目指す方法が一番の近道じゃ。じゃが、その扉の先にいる「邪魔なもの」を排除せねば、お前は死ぬ』
最も、このままなにもせずにいれば三日と持たずして飢え死にすることは確実だ。
『ククッ、不満そうじゃのう。邪魔なものはただ排除する。相手は魔物。「悪」を退治することに理由は必要ない―――じゃろ?
実に人間らしい理屈じゃ。その理屈に従い、お前の力で活路を見出してみぃ』
「……」
さすがに、一方的に呼びつけておいてこの仕打ちはひどいのではないかと、クラウは黙り込んだ。自分の領域に魔物が入り込んで不快だと言うなら、自分でどうにかできるはずだ。それをわざわざクラウに戦うように言う真意がわからない。
「…何か別の手はないのでしょうか?僕が戦う理由があるとは思えません」
『じゃが、魔物にはある。お前が「人間」という分類に生を受けた以上、奴はお前を食い殺し、その血肉を啜ることを望む。人間が「魔物」という理由だけでその存在を排除しようとするようにな』
「……」
『それとも、奴の欲を満たすためにその命、そしてあの娘の命もくれてやるつもりか?』
そんなわけなかろうと、影魔は嘲笑った。
「…もし、仮に僕が戦い、勝ったとして。先に本当に魔法陣があるとも限りません。それに、起動できなければ意味がない。あなたの提案が罠ではないと言い切るには、あまりに情報が少なすぎます」
『ククッ、まこと道理。子供のくせに用心深いのぅ。
ならばどうする?
その息の上がった身体で俺たちの庭を歩き回り、出会う敵すべてを躱してこそこそと逃げ回るのか?確かに、それも選択の一つじゃろう。なんなら穴でも掘って直接上の階層に行くこともお前ならできんこともない。
じゃが、気をつけろよ?
一つ上の階のニージャは一際性格が悪いからの。こことは違い、厄介な縄張りの制約もある。それを乗り越えて上を目指す自信があるのなら、止めはせん』
「……」
クラウも、この50キロの距離を無作為に歩くことがどれだけ無謀なことかはわかっていた。
運がいいのか、悪いのか、この第十三階には縄張りの制約が一切ないらしい。現にクラウは文様も警告文も目にしていないし、縄張り特有のあの感覚も感じない。だが今の影魔の言葉から察するに、他の階ではそう簡単にはいかないということだ。
「…何故、あなたは制約を設けないのですか?」
『ふん。必要のないものじゃからじゃ。仲間内では批判する奴もいなくもないが、ここは俺の縄張り。ルールは俺が決める。
ただ「自由に」。それが俺が定める唯一絶対の掟だ』
「自由…」
『お前の願いは、あの娘と共に地上に帰ること。そのために、奥の魔法陣の部屋へとたどり着くこと。
魔物の願いは、その本能に従い、忠実に生きること。
そして俺の願いは、ただ、お前の持つ力の全容を知ること―――
ならば、答えは簡単。
お前が俺の提案に乗り、奴と戦い、先の道を開く。それで皆の願いが叶うのなら、何もためらう必要はないはずじゃろ?』
「……」
いつものクラウならそう大して迷いはしなかったはずだ。転移魔法だけが脱出の手段ならば、自分の持ちうる力すべてを使って魔物を撃退しただろう。
しかし、今は事情が違う。まともに魔法が扱えない状況でろくな戦いができるとは思えない。まして自分一人ならまだしも、キラの命も預っているのだ。
「…正直、勝てる自信がありません」
クラウにしては弱気な発言だが、それが今の素直な気持ちだった。
『まぁ、その身体の状態では弱気になっても当然じゃ。誰だって命は惜しいし、その弱さを恥じる必要もない。
じゃが、何も俺は負け戦をしろとは言うとらん。俺なりに考えあっての提案じゃ』
「考え…?」
『実際目にするとようわかる。
お前という一個体の成り立ちは、実に複雑で、またひどく曖昧じゃ。その所為かは知らんが、お前はまだ己の力の半分も使いこなせていないらしい。実にもったいないことじゃ』
「その、未知の力とやらを使えれば、勝てると…?」
曖昧で、根拠も何もない「考え」に、クラウはありえないと首を振った。
『クックック!…まぁ、お前が俺の言葉を信用できぬのはもっともじゃとしても、せめて自分が受け継いだ力を信じる気概くらいは見せてみよ。今まで、その力の恩恵を何も感じていないわけではあるまい』
「……」
影魔が興味を持つような力が自分の中に眠っているなど、クラウには到底信じられなかった。しかし、この身体が一際優秀で、他の人間と比べても出来がいいことはクラウも認める事実であった。
その理由が、その力にあるというのか―――
『俺のこの提案、悪意ではなく善意と知れ、小僧。
今はただ、ここで俺と出会ったのも一つの縁と思うて、戦ってみぃ』
珍しく決めかねているクラウをよそに、影魔は、決心がついたらもう一度ここに戻ってこいと言い残して、あっという間に闇の奥へと去って行ってしまった。




