4 魔法陣
アリーシャの許可が下りたその日、さっそくクラウは薬草の収穫に向かうアリーシャの後をついて行くことにした。
今日収穫するのは、傷薬として一般的に用いられている、ペキドナ草の新芽を摘み取ることらしい。薬草として使えるのは新芽の柔らかい葉の部分なので、芽が出て2、3日の間に摘み取らなければならない。しかし、摘み取りすぎると次の芽が生えてこなくなってしまうので、一株に付き、1、2枚しか取れないという。
畑までの道すがら、どこか楽しげに教えてくれるアリーシャの後ろで、クラウはその一字一句を聞き漏らさないようしっかりと頭に刻み込んだ。
「おはようございます、アリーシャ様」
「おはようございます!」
「おはよう、みなさん」
「…?クラウ様もご一緒ですか?」
今日の収穫に参加する里の女たちが、アリーシャの後ろをついてあるく珍しい人物に驚いている。それもそのはず。クラウがこんな風に畑に訪れるのは初めてなのだ。
「ええ、ちょっと見学したいっていうから連れてきたの。邪魔にならないように言いつけてあるから、お願いしてもいいかしら」
「もちろん、大歓迎ですよ」
「クラウ様、おはようございます」
「おはようございます。よろしくお願いします」
みんなから挨拶をもらい、クラウは丁寧に頭を下げて挨拶した。その姿に里の者たちはみな感嘆の息を漏らし、「うちの子と大違い」とでも言いたげに、ひたすらクラウの行儀良さを誉めた。
午前中いっぱい、ペキドナ草の摘み取りに時間を費やすと、次はその葉を天日干しにして乾燥させる。そのため収穫した葉をすべて乾燥所として使っている小屋へと運ばなければならないらしい。しかし、葉っぱといえどやはり籠いっぱいになればそれなりの重さになる。慣れているとはいえ、女性の力ではなかなか大変なのではないだろうか。そう考えたクラウは、すたすたと母親のもとへ近づいていくと、自分よりも大きなかごをひょいっと両手で抱きかかえ、しっかりと持ち上げると、「これはどこまで運ぶのでしょう」と母親を振り返った。
「クラウ、大丈夫?重たいでしょう?」
「大丈夫です」
だてに毎日トレーニングしていない。至って余裕である。
「…じゃあ、この道をずっと行った向こうの赤い屋根の建物まで、運んでくれる?」
「はい」
クラウは返事をすると、足取りも軽く言われた道を進んでいく。その後ろ姿を頼もしそうに里の大人たちが見送っていた。
クラウは目的地にたどり着くと、籠を地面に置きあたりを見回した。
乾燥所と薬の調合は同じ小屋で行われているらしく、建物の左側にはずらりと干された薬草の数々、そして右側には大きな机が数台並べられ何やら作業している女性がいた。すり鉢のようなもので葉をすりつぶしている人や、大きな鍋のようなもので何かを煮詰め、かき混ぜている人など、実に様々である。そして、女の人が集まれば、当然おしゃべりの種は尽きないわけで、にぎやかな話し声がクラウの耳にも聞こえてきた。
「今年はヤンムグの種が多く取れてよかったわね。アリーシャ様も喜んでたわ」
「去年は全然だったものね。今年もだめなら外に買い付けに行かなきゃいけないところだったって」
「でも、なかなか市場に出ないんでしょう?本当によかったわ」
「ねぇ、この間のあれ、聞いた?」
「なによ、あれって」
「シーダさんとメイソンのことよ!」
「え、あの二人ってまだ続いてたの?」
器用に作業とおしゃべりを両立させながら、話に花を咲かせている女性たちの邪魔をするのもはばかられ、クラウはほかの場所を見学させてもらうことにした。
まず干されている葉を一つ一つ見ていく。乾燥と言ってもその期間や方法は実に様々で、全く知識のないクラウには何が何やらさっぱりである。しかし、細かいところでいろいろな工夫と知恵が見られ、実に興味深いものだった。
例えば、乾燥台をよく見てみると、両端にハンドルのようなものがついていて、どうやら太陽の日がさす方角に角度を調整できるようにしてあるらしい。台の表面は何かの鉱石で作られているのかつるつるとしていて、触ってみるとじんわりと温かさが伝わってくる。そして葉が落ちないように小さなくぼみがいくつも並んでいた。さながら巨大なたこ焼き器のようなものが太陽光パネルのように並んでいるのだ。なかなかの壮観である。
――― わざわざ作られたものらしいな
専用台として、一から作られたのだろう。魔法主流のこの世界に機械というものがあるのかわからないが、少なくともクラウの眼にはすべて手作業で作られたように見える。
他にも鉄棒のようなものから、いくつか連なったツタのようなものが干され、揺れている。たいした風も吹いていないのになびいているのは、何やら地面に書かれた魔法陣のようなものが関係しているらしい。近づいて観察すると、その魔法陣からほのかに風が吹き出しているのがわかった。
「扇風機のようなものか…?便利だな」
魔法陣は里のほかの場所でもいくつか見かけたことがある。その仕組みについてはいずれ勉強してみたいと思っていたクラウは、その場にしゃがみこみしげしげと観察した。
魔法陣はいくつかの円と、模様、そして文字の組み合わせできている。魔法の属性によってそれぞれ決まった模様があるらしく、今見ている風属性の魔法陣は真ん中に鳥のような形をした模様が刻まれていた。その周りをぎっしりと文字が並び、囲んでいるのだが、この文字がまた曲者で、普段日常的に使っている文字とは全く違う魔法陣専門の言語らしい。
かなり複雑で、形は象形文字に近い。さすがに見よう見まねで習得できるものではなさそうだ。
「まだまだ知らないことが多いな」
この世界を知れば知るほど、自分の無知さを思い知らされ、クラウはその度に努力せねばと強く思い直すのであった。
広場の方へ戻ると、ちょうどアリーシャたちも籠を運び終えたらしい。一息つきながら、何やら喋っているのが見えた。
「クラウ、いらっしゃい」
アリーシャが気づき、手招きする。クラウは素直に歩み寄った。
他の女性たちはまだ収穫の仕事が残っているらしく、来た道を戻っていく。アリーシャは作業をしている者に軽く言葉をかけながら、クラウをとある場所へと連れて行った。
着いたところは小屋の中にある、一番広い部屋だった。
「ここで最終的な調合作業を行うのよ」
まるで理科実験室のようだな、と室内を見回したクラウはありきたりな感想を抱いた。
大中小、様々な大きさの測りに、フラスコのような器。違う点と言えば、中央のテーブルに書かれた様々な魔法陣だろうか。やはりここでも魔法が活躍しているらしい。
その魔法陣の前で何やらぶつぶつと詠唱しながら、魔法を発動している人間がいる。エルフにしては珍しい、水色の髪をした背の高い美丈夫だった。一見女性のように見えるが、男性らしい。
アリーシャはクラウをその人物のもとへと導いた。
「…これは何を作っているのですか?」
「彼が作っているのは、この間収穫したシシメ草を使った解毒薬よ」
シシメ草は数週間前、アリーシャが家の裏手で干していたものである。それを細かくすりつぶしお湯に溶かし煮詰めた物を、さらにコブの根と呼ばれる猛毒を持つ植物のエキスと混ぜ合わせる。できた物は深い紫色をした液体で、明らかに危険な感じがした。
「絶対に触っちゃだめよ」
と、アリーシャの注意が飛ぶ。
「解毒薬なのに、毒を混ぜるのですか?」
「そう、毒のエキスとシシメ草に含まれる菌を結合させると、あら不思議。あっという間に解毒薬の完成」
アリーシャの言葉に合わせるように、男性が手を翳した魔法陣から光があふれ、特殊な魔法が発動されると、器に入った液体が混じり、溶け合い、やがて無色透明のきれいなものへと変質した。
――― なんて不思議で、きれいなのだろうか
クラウはキラキラと瞳を光らせて、その光景に見入っていた。
「そんなに顔を近づけると、君の顔まで結合されてしまいますよ」
静かな声だった。
見上げると、男が隣に立つクラウを無表情に見つめていた。
「紹介するわ、彼はユルグ・ハウンゼル。ここの仕事を手伝ってもらっている唯一の薬師で、エルフと獣人族の子共なのよ」
なるほど、だからこの髪色なのか。だが、純粋な獣人族であるリザのように耳やしっぽが生えているわけではないところをみると、大部分がエルフの遺伝子の方を受け継いだらしい。例に埋もれず、この里の顔面偏差値以上の整った顔をしている。
「で、こっちは私の息子のクラウ。今日は少し見学がしたいっていうから、連れてきたの」
「初めまして、クラウです。よろしくお願いします」
「…よろしく」
ニコリともせず一言だけ挨拶すると、ユルグはすぐに次の作業に入ってしまった。何とも、クラウ並みの無愛想な男のようだ。
「ユルグは昔、外の薬学院に通っていたの。それまで私しか最終的な調合作業はできなかったから、今は本当に助かっているのよ」
確かに収穫などの単純な作業とは違い、こちらは膨大な知識と経験が必要だろうと思う。
「私は畑の状況なんかも見回らなくちゃならないから、ここでユルグが作業してくれているおかげで、昔よりずっと効率が良くなったのよ」
と、アリーシャは嬉しそうだ。
詳しく聞けば、もともと植物観察が好きで、子供のころからよく森や畑を徘徊していたユルグだったが、アリーシャが忙しく動き回る姿を見て、何かできないかと考え外の大陸へと渡る決意をしたらしい。12歳の時に学院の試験に受かり、それから20年の修行と経験を積み帰郷したのだ。里を離れて一人暮らしをすることに族長も里の住人もいい顔をしなかったが、何よりユルグの熱心さに負けて、しぶしぶ許可がおりたらしい。
ハーフである彼は髪色のこともあるが、イケメンの純人族と思われてもおかしくないので、外の学校に通うことができたのだ。「エルフ狩り」は今でこそ禁止されてはいるが、好奇の目が完全に無くなったとは言えず、エルフ族にとってはまだ危険で住みにくい世界なのだ。
「さて、クラウはこの後どうする?まだ見学していく?いつものように森へ行ってもいいのよ」
今日は丸一日、見学ツアーに時間を使うつもりだったクラウは、首を横に振った。そして、ユルグと同じように調合の作業を行うアリーシャを、すこし離れた椅子に座りながらじっと観察していた。
翌日から、クラウはたびたび調合作業場に顔を出すようになった。さすがに仕事の邪魔になるようなことはしないが、気づけばいつのまにか顔をだし、1時間ほどユルグやアリーシャの手元を観察し、去っていく。特別何かを話すわけでもなく、質問するわけでもない。
いったい何が目的なのか。
不思議に思ったユルグは、あるときクラウに話しかけてみることにした。アリーシャが畑の方に出向いて、二人っきりになった時のことである。
「君は何が目的でここに来るのでしょうか」
「…お邪魔だったでしょうか?」
それまで全く会話らしい会話をしたことがなかったユルグの突然の質問に、クラウの顔が曇った。アリーシャには「邪魔をせず、薬には一切手を触れない」という条件のもとならば、好きにしていいといわれたのだが、やはり目障りだったのかもしれない。
「…いえ、子供には退屈な場所ではないかと思ったのです」
迷惑以前に、ユルグにしてみれば単純に疑問だったのだ。特別遊べるものなどないし、構ってくれる人間もいない。普通の子供ならば、退屈で近寄りたくなどない場所だろう。大体このぐらいの年の子にとって、じっと座り続けることすら苦行なのではないか。
だが、あいにくクラウは「普通」という枠には収まらない特殊な人物で、彼の答えはユルグが考えていたものとは真逆のものだった。
「大変、興味深いです」
心の底からの言葉だった。自分の知らないことに対する興味が人一倍強いクラウは、この場所が今最も興味のある場所になっていた。
「…薬学に興味が?」
――― こんなに小さい子供が、まさか…。
「はい。実に勉強のしがいがある分野だと思います。その豊富さもさることながら、やはり魔法陣の存在にひときわ興味を惹かれます。今まで見たこともないものなので、ぜひどのような原理で発動されるのか、知りたいものです」
「………」
――― なんだ、この子供は…?
相変わらず学者のような口ぶりで話すクラウに、ユルグは驚きを隠せない。初めての人間には刺激が強すぎたらしい。
「す、すごいですね…」
頬をひきつらせながらも、なんとか言葉を返すユルグに、クラウは、
「お仕事の邪魔はしませんので、お構いなく」
と言って、定位置の椅子へと腰を下ろした。今日も観察する気満々である。
「…君、変わっているといわれませんか?」
「よく言われます」
――― そうだろうな…。
こんな子供が二人も三人もいてもらっては困る。
ユルグは、アリーシャによく似たかわいらしいその顔と、中身とのギャップに戸惑いを隠せなかった。しかし、本人はどこまでも真剣で、ユルグの動作を一時も見過ごすまいとでもいうように凝視していた。
「…そんなに興味があるのなら、もう少しそばで見てみますか?」
「よろしいのですか…?」
「構いません。今日は栄養剤の調合だけですので、危険もありませんし」
そういわれればクラウに断る理由はない。椅子から軽やかに飛び降りるとユルグの足元へと急いだ。だが、背が低すぎるため台の上があまりよく見えない。
「これをどうぞ」
「ありがとうございます」
見かねたユルグが、小さな台をクラウの足元に置いてくれた。親切にされ、どこかくすぐったい。
「この粉が何の実から作られたものか分かりますか?」
そういってユルグはピンク色の粉末をクラウに見せた。顔を近づけて匂いをかいでみると、とても甘い香りがする。どこかで嗅いだことのある香りだ。
「リムの実、ですか?」
クラウもよく知る、あのアナモグマの大好物の赤いブドウのような実である。
「よくご存知ですね。リムの実はとても栄養価が高いんですよ。疲労回復の薬剤にも使われることが多いのですが、生のままだと腐りやすいので乾燥させ、こうして粉末にしておくのです」
――― おお、なるほど
「それからこっちはジョウサイの葉っぱの部分をすりつぶして乾燥させたものです」
「ジョウサイ…。野菜のジョウサイですか?」
「そうです。本来、市場などでは葉の部分は切り捨てられて使われませんが、実はすごく栄養価が高いと最近わかりましてね。アリーシャ様と一緒に何かに使えないかと考えてみたんです」
――― さすが、かあさま。
「それから、グノの粉末とサントウ貝の煮汁、これらを混ぜ合わせて、いよいよ魔法陣の出番です」
「おお!」
待ってましたと言わんばかりの期待の眼差しが、ユルグの手元に向けられる。その姿だけ見れば無邪気な子供そのものだが、その小さな頭の中は大人顔負けの情報処理能力でフル回転していた。
ユルグがさっと手を翳し、短い詠唱を行う。すると、あっという間に机に描かれた魔法陣が光を放ち発動した。
混ざった薬剤がどろりと溶け、混じり、結合し、そして一分とかからずに丸く平らな形状の固形物へと変化し、赤い色をしたラムネ菓子のようなものが10個ほど魔法陣の上に転がった。
「これで完成です」
「素晴らしいですね!」
感動の声を上げるクラウに、ユルグは気恥ずかしいような、まんざらでもない顔をする。薬学においてはごく初歩的な調合術だが、褒められればそれなりにうれしいものである。
「今の魔法は、属性でいうと、光…ですか?それにしてはなにか…」
「今のが光属性だと、よくわかりましたね!」
クラウは単に発動されたときに見えた魔力の色を見て、光だと判断したのだが、ユルグのあまりの驚き様に一瞬焦る。とはいえ馬鹿正直に魔力の色が見えるなど言えるわけがないので、
「…なんとなくそんな気がしただけです」
と、あいまいにごまかしておいた。
「ユルグさんは光魔法が使えるのですか?」
「使えませんよ。僕が扱えるのは風属性だけです」
――― では今のは?
色的にクラウは確かに光だと確信したのだが、それにしては何かおかしい。光属性の魔力は、金に近い発光色でほかのどの属性よりも輝きが強い。なのに、今目にしたものはずいぶんと弱く、ぼんやりとしたものだった。
「この里で光魔法が扱えるのはアリーシャ様しかいません。そして、薬学全般に使われるこの魔法陣は、光属性です。では、なぜそれを風属性の私が使えるかというと、答えはこの石にあります」
そういって指差されたのは、魔法陣のちょうど真ん中あたりに埋め込まれた宝石のような石だった。
「これは魔力結晶石と言って、字図らの通り、魔力を結晶に閉じ込めたものです。この石に込められた魔力はアリーシャ様から抽出されたものなので、必然的に光属性の性質を持っていることになります。そして、この魔法陣にはその結晶石の魔力を引き出す術式が込められているので、僕が発動の詠唱を行えば勝手に結晶石から魔力が引き出され、光魔法が発動される、というわけです」
――― なるほど。
クラウはユルグの説明にふむふむとうなずいた。
つまり、魔力をそれぞれの属性に変化させた後、この石にそそぎ込み結晶化することで、誰でも使用可能な便利グッズになるというわけである。とはいえ、魔法陣を発動するための魔力は自分自身で補い、操作しなければならないので、それなりの訓練とコツが必要になるらしい。
「光魔法は特別なんです。扱える人間が極端に少ないのもそうですが、結界魔法が光属性なのはご存知ですか?この魔法陣も結界魔法の一つで、かなりの応用が利くため、いろいろな場所や分野で使われています。ですから、アリーシャ様のような光魔法を扱える人間はものすごく重宝されて、特別な職に就ける方が多いのですよ」
「…一つ質問してもよろしいですか?」
「はい、なんですか?」
「この小屋の外にある魔法陣には、結晶石がありません。どこから魔力が供給されているのでしょうか?」
例の扇風機の役割を果たしている魔法陣だ。あれには結晶石は埋め込まれていなかった。あったのは風属性のマークだけである。
クラウの質問にユルグは「とてもいい質問ですね」とうなずいた。
「種類は様々ですが、本来魔法陣というものは、大気中にある魔力を使って魔法を発動する、いわゆる自動変性機のようなものなのです。この世界の大陸には、濃度の差はあれど、どこにでも魔力が満ちていますからね。それを利用して魔法を発動する装置が魔法陣なのです。もちろん最初に発動させるためには自分の魔力を使わなければなりませんが、一度発動してしまえば、魔力は大気中から勝手に抽出されます」
「なるほど」
「大気中の魔力は、われわれのもつ体内の魔力とは違いとても細かい粒子のようなもので、いろいろなものと交じり合ってしまっているため、人間には到底扱えません。そこで考え出されたのが、魔法陣ですね。その基礎となる術式が編み出されたのは、まだ我々エルフも誕生していないはるか昔のことで、とある「古の民」が作り出したものだといわれています」
「古の民…?人なのですか?」
最古の人間族はほかでもないエルフだといわれている。
「わかりません。我々がそう呼んでいるだけで、実際どのような存在でどのようなものたちなのかは何もわかっていないのです」
「……」
どこかで詳しく調べられないものだろうか。クラウは俄然興味がわき、胸を躍らせた。
「以来、変わることなく魔法陣は使われているわけですが、かなり複雑なものですからね。これまでいろいろな学者が研究してきましたが、そのほとんどが解明されていないのが現状です」
「難しいのですね」
「はい。今わかっていることと言えば、どうやら魔法陣に組み込まれている言語は、精霊の言葉を形にしたものらしいということだけです」
「精霊の?」
「はい、精霊はその存在自体が特別なもので、我々人間とも、ルカ様のような聖獣とも全く違います」
彼らは本来精霊界に住み、自由に人間界と行き来している。自然のエネルギーと魔力が合わさり具現化した存在で、この世界ができた時から存在するといわれている。そして、人間の祖先もこの精霊が地上に転生した姿だといわれているぐらい、とても古く神聖な存在なのだ。
「精霊についても我々人間は何も理解できていません。昔はそれこそ地上にも精霊の姿がたくさんあったと聞きますが、今はその姿もほとんど見ません。時折、加護付の子供が生まれるぐらいで、大陸の方ではめったにいないのです。ルカ様が守るこの「古の森」は例外で、特別なのですよ」
この島を出た時は、僕も驚きましたと、ユルグは当時を振り返りながらいった。「古の森」では実に様々な精霊が思いのままに過ごしている。それが普通だと思っていたユルグは、外の大陸で全く精霊の姿を見かけないことを不思議に思っていたのだ。周りに聞けば、ほとんどの人間が見たことがないらしく、とても貴重な存在らしいと初めて知ったのだった。
「加護付とは…?」
「ああ。この里にはいませんが、大陸の方では時折、精霊の祝福を受けた子供が生まれるそうですよ。生まれた瞬間に契約が交わされ、精霊は契約した人間を守り、力を貸してくれるそうです。結びつきの強い者同士だと言葉も交わせるようになるとか…。契約こそしていませんが、アリーシャ様とミネルディア様のようなものですね」
「召喚魔法とは違うのですか?」
クラウの質問に、ユルグは再度驚いたようにクラウの顔を凝視した。
「召喚魔法までご存知とは…。ものすごく勉強なされているんですね」
感心したようにそう言って、ユルグは簡単に説明してくれた。
召喚魔法は魔力と知識さえあれば誰にでも行えるものらしい。しかし、召喚魔法で呼び出すことができるのはルカをはじめとする聖獣のみで、精霊は召喚できない。つまり、精霊と契約できるのは、精霊に選ばれた加護付の人間のみということになる。だから加護付の人間はとても貴重で、光属性の術者と同様、大切に保護される。
クラウはユルグの説明を聞きながら、不思議に思っていた。アリーシャは契約を交わしていないにもかかわらず、精霊神であるミネルディアの言葉を理解しているのだ。そして、自分も、彼女や森の精霊たちの言葉を理解することができる。これはどういうことを意味するのか。
さらにルカの存在である。そもそも聖獣は召喚した人間と契約を交わすことによってようやくお互いの言葉を理解しあうものらしい。クラウもアリーシャも、ルカの契約主でないにもかかわらず、その言葉を理解しているのだ。
疑問は尽きない。しかし今それを考えても、到底わかりそうにはなかった。
クラウはこれ以上ユルグの仕事を邪魔するのはよくないと思い、深々と頭を下げてお礼を言った。
今日は実に充実した時間を過ごせた。それもすべてユルグの親切のおかげである。
「もし薬学に興味がおありなら、これを読んでみてはいかがですか?」
と、帰り際にユルグがそう言って棚から使い古した本を持ってきた。
「僕が学生の時に使っていた図鑑とその詳しい解説書です。あ、文字の読み書きは……、問題なさそうですね…」
「はい、大丈夫です」
愚問である。どんな専門書でも、クラウは読みこなす自信があった。
ユルグはクラウの自信に満ちた顔を複雑な気分で見つめながら、数冊の本を手渡した。
――― 末恐ろしい子供だ…。
そんなユルグの思いなど察することなく、クラウは再度お礼を言い、軽やかな足取りで小屋を後にした。