26 危機
「はい、しゅうりょうです!次のかたどうぞ~」
ククリのいやにご機嫌な声が、泉のほとりに木霊した。
快晴が続き、穏やかな気候の中、誕生日にもらった光魔法解説の本を読んでいたクラウは、その陽気な声にふと顔をあげた。
「わぁ、お客さん、とってもすてきな毛並みですねぇ~、きれいきれいしましょう!」
クラウがいつもルカのブラッシングに使用しているブラシを借りて、ククリは床に寝そべったググアーモ改め、ナナキの腹の毛を撫でまわしていた。
フンフンフン~♪と何の曲かはわからないが、鼻歌を歌いながら、実に楽しげにナナキの程よく伸びた毛をブラシで梳いていく。ケアされている方は気持ちがいいのか、だらしなく四肢を投げ出し、今にも眠り落ちそうな顔でご満悦だった。
「はい、つぎのかたぁ~」
ナナキのケアが終わると、次にやってきたのは本日最後のお客であるアナモグマのグレンだった。
「はい、グレンくん、ねっころがってくださいねぇ~」
そういわれたグレンは、ごろりとククリの前に寝転がり腹を見せるようにしてあおむけになった。
仲間内でも一番の毛深さを誇るアナモグマである。ククリはやりがいがあると思ったのか、ローブを腕まくりしてその巨体によじ登ると、丁寧にブラッシングし始めた。
もふもふの毛は何度触れても柔らかく、肌触り抜群だ。
なでなで、シュッシュッ。
なでなで、シュッシュッ。
慣れたようにブラッシングしていくククリの手腕は、ルカのブラッシングでそこそこの自信があったクラウも感心するほどの手際の良さであった。よほど気持ちがいいのか、とうとうグレンはむふむふと鼻の穴を広げ、ついでにゴロゴロと喉まで鳴らして、とろけたような笑みを見せた。
「……」
――― すごい特技だな
ものの一分と経たずにグレンを陥落させた手腕の一部始終見ていたクラウは、その天性の才能?に心の底から感心した。
さて、10分ほどかけてグレンの隅々までケアを終えたククリは、ブラシにたまった毛をはがしながら、ちらちらとクラウのそばに寝そべっているルカの方へと視線を向けた。
そして、そろりそろりと、ルカの元まで四つん這いで這っていくと、寝ているルカの横に座って話しかけた。
「ねぇねぇ、ルカは王様なんでしょ?」
『…そうだ』
いきなり話しかけられ、しかし律儀に答えを返すルカに、雰囲気で察したのか、ククリはにんまりと笑いかけた。相変わらず女の子のようなその笑い顔は、とても無邪気でかわいらしい。
「あのね、お母さんがいってた!「王様」は、とっても強くて~、とってもかっこよくて~、とってもすごいんだって!」
『ふむ、王とは一族の頂点に立つもの。強く、賢明でなければならぬ』
「強くて、でも、それはみんなを守るための強さで~、えっと、力はしめすことが大事で…、ん~、ふるうこと?はぜったいじゃないんだって」
『ほう…、そなたの母君はなかなか見どころがある』
ルカのしっぽがパタリと動いた。
――― ククリはよく人の言葉を覚えているんだな
これには聞き耳を立てていたクラウも感心してしまった。
「僕、王様のルカにとっても興味あるんだ!だってとってもかっこいいもん!その牙、素敵!」
『…ふむ』
パタパタ。またルカのしっぽが揺れる。
「その角も、僕大好き!しびれちゃう!」
身悶えるように体をくねらせながら力説するククリに対し、ルカも満更ではないらしい。先ほどから動いているしっぽが何よりの証拠で、はたから見ていたクラウも、思わず笑ってしまいそうになる。
「その金色のおめめ!くぅ~、かっこよすぎる!」
『ふむ。お前もなかなか見どころがあるな』
パタパタ、パタパタ。
「きれいな白い毛も、大好き!ねぇ、触ってもいい?」
『ふむ、かまわんぞ』
ルカの了承が分かったのか、ククリはニコニコと顔を緩ませながら、ブラシをもってルカの身体に触れた。
他の人間なら、ルカは決してその体に触れさせはしなかっただろう。だが、ククリは簡単にルカの機嫌を取り、了承させたのだ。しかも、クラウのようにルカの言葉を理解できるわけでもないのに、この見事な誘導ぶり。
天然か、はたまた計算か。
無邪気にルカの身体に触れ、いつもクラウがしているようにブラッシングするククリの様子に、クラウは思わずつぶやいていた。
「君は魔性の男だな…」
「ましょー?何それ!?かっこいい!!!」
「………」
ある意味ではかっこいいかもしれないが、キラキラと瞳を輝かせる純粋な幼子に、本当の意味を教えるべきかどうか迷うクラウであった…。
ここ数日、ククリはクラウと共に森へ行き、「愉快な」仲間と遊ぶ時間が何よりの楽しみであった。クラウが午前中アリーシャの手伝いをしている時は、一人で里を探検することもあれば、クラウと一緒になって収穫の手伝いをする時だってある。とにかく、ククリは初めてできた友達のクラウと一緒に遊びたくて仕方がないのだった。
「お帰り、ククリ」
「ただいま!!」
夕刻、クラウと共にルカの背に乗りジークの家まで送ってもらったククリは、出迎えてくれたセニアに満面の笑みを向けて飛びついた。
今日も目一杯友達と遊び倒し、楽しい時間を過ごせて大満足な一日だった。それを身体中で示すククリの素直な姿に、セニアも顔を綻ばせた。
「おやおや、ずいぶんご機嫌だねぇ。今日は何して遊んだんだい?」
ククリは待ってましたと言わんばかりに一日の出来事を話し出す。その内容一つ一つに頷き、笑い返しながら話を聞いていたセニアだったが、さすがにルカのブラッシングをしたと聞いた時には絶句してしまったのだった。
ククリがあてがわれた部屋は二階の一番日当たりのいい一室で、もともとレノが使っていた部屋である。部屋の本来の主は年中外の大陸にいるため、こうしてククリが使わせてもらっているのだ。
美味しいご飯を食べ、おふろにも入りほかほかに温まった身体でベッドに横たわると、ククリはそのままうとうとと寝入ってしまった。
深夜過ぎ。
ふと何かの鳴き声のようなものが聞こえた気がして、ククリは目を覚ました。
「キュイ」とかわいらしく鳴くその声には、聞き覚えがある。
ククリは寝ぼけ眼をこすりながらベッドを抜け出すと、窓際へと近寄り外を眺めた。そして、薄暗い庭先に見覚えのある鳥が羽を休めているのを見つけて声を上げた。
「あの子、バイハルンド!」
餌やりの時に教えてもらった名前をしっかりと憶えていたククリは、その大きな鳥が遠いところから手紙を運んでくることをちゃんと理解していた。
――― もしかして、父さんからかも!!!
ククリはいても経ってもいられず、部屋を飛び出すと、急いで階段を駆け下りる。居間の明かりがついているのを見て、ククリはその扉に手をかけた。
しかし、何か中の様子が可笑しいことに気づき、そっと歩みを止めた。
「あんた!いったいどうなってるんだい?」
「落ち着け。ククリに聞こえるだろう」
セニアの焦ったような声に対し、ジークの声は落ち着いてはいたが、どこか緊張したものだった。
「あの子たち、何だって?」
「うん……、コモルとガーランドが怪我したらしい」
「怪我!?怪我って、ど、どれくらい?ひどいのかい?」
「詳しくは書いてねぇ。ただ、奥さんと娘さんは無事救出できたらしい」
「そうかい、それはよかった…。怪我、大したことないといいけど」
セニアが不安そうにつぶやいた。
「おい、俺はこれからガライアス様のところに行く。おめぇはこれをユンとオリエントに知らせてくれ」
「わかったよ。…アリーシャ様には?」
「……」
ジークはしばらく考え、結局「今は黙っとけ。明日俺が直接話す」と言い残して出かけて行った。それからしばらくして、セニアも手紙をもって外へと出かけていくのを、ククリはドアの隙間からじっと見つめていた。
――― とうさんが、怪我…?
二人の会話の中で、そのことだけがククリの頭にこびりついていた。
「うそだ…!!!」
――― だって、父さんはとっても強い。戦士だもん。負けないもん!
目頭が熱くなり、ジワリと浮かんだ涙をぐっとこらえる。階段を駆け上り部屋に飛び込むと、ククリはじわじわと胸に広がる不安を打ち消すように、じっと床を睨み続けた。
翌朝、オーウェン家はいつも通りの朝を迎えていた。
クラウは5時過ぎに目を覚まし、いつも通り身支度を済ませ庭先に出ると、花壇の水やりを終えてからマナリギの下まで歩き寝ていたルカの腹に寄りかかった。
「おはよう」
『ふむ、相変わらず早いな』
ルカはそういってまた目をつぶってしまった。
クラウは部屋から持ってきた笛を構えると、そっと吹き始めた。
アリーシャの誕生日に披露して以来、この笛は正式にクラウの持ち物となった。アリーシャが、
「きっと精霊たちも聞きたいだろうから、暇なときにでも吹いてあげなさい」
と、クラウに譲ってくれたのだ。
それからというもの、毎朝精霊たちのために一曲披露するのが日課になっていた。
笛の音につられてどこからともなく様々な精霊たちが姿を見せる。馴染みのリーラとゼーシルの仲良しコンビは、ちゃっかりとクラウの両隣を陣取り、目を閉じて聞き入っている。風に乗ってどこまでも響き渡るその不思議な音色に、ミミモンドや火属性の下級精霊ガレットなど、精霊や聖獣、微精霊たちが思い思いの場所で、その音に聞き耳を立てていた。
「クラウ様~、朝ごはんですよ!」
丁度二週目を吹き終えた時、庭先からリザが呼ぶ声が聞こえ、クラウは「また明日な」と仲間たちに別れを告げ、家へと戻っていった。
「さぁ、今日は採れたてのゴロイモを使った煮物と、センチゴナの塩焼きですよ。たくさん食べてくださいね!」
リザはいつも通り明るい笑顔でクラウに食べ始めるように促した。
「…リザ、かあさまは?いらっしゃらないのですか?」
いつもなら向かいの席に座ってともに朝食を食べる母親の姿がなく、クラウはリザに問う。
「あ、はい。先ほどジーク様がお見えになって。何かお話があるとかでお出かけになりましたよ」
「ジーク様が?…こんなに朝早く、ですか?」
「そうですねぇ~、そんな急いでいる感じではなかったですけど、何か大事なご用がおありだったじゃないですか?」
リザはさほど気にしていないようだ。だが、クラウはどこか腑に落ちない、かといってそれが何かはわからず、気持ちの悪さを感じたのだった。
「ルカ、出かけよう」
朝食後、クラウは庭先でルカを呼んだ。
いつも通り丘を抜け、ジークの屋敷の近くを通りかかった時、ふと違和感に気づく。いつもならクラウの姿をいち早く見つけて、家から飛び出してくるククリの姿がないのだ。
――― 寝坊したか?
しかし、クラウは何か違和感を感じた。
「ルカ、ククリの気配はわかるか?」
『………』
「ルカ?どうした?」
クラウはそこでようやく、ルカまでも様子が可笑しいことに気づいたのだった。
森の王は、低くうねりながらじっと森の方角を見つめていた。
「どうしたんだ?」
『…血の匂いがする』
「血!?確かか?」
『ああ…西の先、結界の外だ』
「ルカ!行くぞ」
異常事態に、クラウが急いで向かうように言うが、ルカは動かなかった。
「ルカ!?」
『お前はだめだ。降りろ。我だけで行く』
「……」
当然、子供のクラウを危険な場所へ連れて行くことはできない。ルカは静かにクラウに背から降りろと言い聞かせたが…。
「僕が素直に降りると思うか?」
と、クラウははなから降りる気など微塵もなかった。
ルカとてクラウの性格をわかっているつもりだが、守り役を仰せつかっている身としては簡単に承諾できるものではない。
『外は危険だ。何が起こるかわからん』
「わかってる。無理をするつもりはないし、足手まといになるつもりはない。様子を見るだけだ」
『……』
「それに、さっきからククリの気配を探しているが、近くに見つからない。もし何かあったのなら、放っておけないだろ?」
『……ふん』
まだ五年の付き合いだが、ルカもクラウの性格は十分にわかっているつもりだ。
結局、言うことを聞く以外に道はなく、ルカはこれ見よがしに特大のため息をついてから、クラウを背に乗せ颯爽と走り出したのだった。
さすがは聖獣の王というべきか。
クラウはルカの「本気の走り」を体感し、その速さに舌を巻いた。時速がどのくらいかはわからないが、誠吾時代いつも乗っていた電車よりもはるかに速いスピードに、次々と流れていく景色を確認する余裕もなく、クラウはその背にしがみついていた。
時間にして5分とかからずして森を走りぬけたルカは、その勢いのまま結界を抜け、荒れ地を突き進んだ。
「どうだ!?何かわかるか!?」
『魔物の気配…、それもかなりの数だ!』
「魔物!?人の気配は!?」
『血の匂いがひどくてあまりわからん。この先、カゲドリスの谷と呼んでいる場所だ』
周りを崖で囲まれ、その地形が大陸に生息する鳥、カゲドリスに似ていることからそう呼ばれるようになった場所である。
ルカは変わらぬスピードで猛然と走り続けた。やがて、崖の岩肌が肉眼でもとらえられる距離に来たとき、クラウはそこに群がるおびただしい数の魔物に目を見張った。
――― なんて数だ…!?
この世界に生まれて、初めて見る魔物の姿以上にその数に圧倒されてしまう。
20、いや30匹近い4足歩行のオオカミのような魔物が群れを成し、何かを取り囲んでいるのだ。さらに魔物の数は増えていく。
「里の人だ!ルカ!急げ」
『わかっている!』
魔物がうろつくちょうど中央で、結界を張って魔物の攻撃を凌いでいるのは、紛れもなくエルフの民で、おそらく今朝方見張りの交代に出かけた男たちだろう。遠目ではあまり詳しくはわからないが、誰かが地面に伏しているように見える。ルカが嗅いだ血の匂いは、彼らが怪我を負ったからだろうか。
ひやりとした焦りに、息を飲む。
胸に巣食うその焦りを押しとどめ、クラウは顔面にあたる風の勢いに目を細めながらじっと前を見据えた。
「く、クラウーーー!!!」
「!?ククリ!?」
突然聞こえた叫び声に、一瞬自分の耳を疑う。あたりを見回し、間違いであってほしいと願うが、崖のそばで蹲る小さな影を見つけクラウは愕然とした。
――― まさか、なんでそんなところにいるんだ…!
「くそっ!」
予想外の事態に、思わず吐き捨てる。
「く、クラウぅーー!!ルカぁーー!」
「バカ!動くな、隠れろ!!!」
クラウの注意も届かずこちらに向かって飛び出したククリに、魔物の一匹が気づき、走り出していた。結界のそばをうろうろしていたほかの魔物たちも、新しい獲物に次々とその後を追うように走り出す。
人の脚力の内で測ればククリは確かに優秀だ。だが、さすがに四足歩行のしなやかな走りには遠く及ばず、敵は風を切る俊足であっという間に距離を詰め、小さなその背中に食らいつこうと牙をむいた。
クラウは咄嗟にルカの背の上で構え、魔法を組み上げた。ククリを狙う魔物に向けて超高速の水魔法弾をとばす。だが距離が離れている所為かなかなか命中しない上に、数が多すぎて追いつかない。
「ルカ、頼む!急げ!!」
クラウの悲壮な声が、荒れ地に響く。
しかしその願い空しく、ククリの身体が魔物の腕で弾き飛ばされ、地面に転がるのをクラウは愕然と見つめるしかなかった。
「ククリ!!!」
クラウはルカの背を飛びおり、猛然と走った。
ルカはそのまま敵目がけて一直線に突き進み、その喉元に食らいつく。血潮が飛び、敵がなすすべなく地面へと倒れ込む姿を目の端でとらえながら、ルカは次の魔物へと狙いを定めブレスを突きつけた。地面一帯が一瞬で白い炎の海に染まり、こちらに向かって最前線を駆けていた魔物数頭の身体を焼いた。
浄化の効果を持つ白炎が、骨一つ残さずすべてを焼き尽くす。あまりの勢いにさすがに危険を察知したのか、後続の魔物たちが踏鞴を踏んだ。
クラウはその隙に急いでククリの元までたどり着くと、地面に伏したままの小さな体を抱き上げ、崖の影へと身を隠した。
地面にそっとおろし、怪我の状態を確かめる。
「い、た…たす、け」
ククリはかろうじて意識がるようで、その痛みに必死に耐えていた。ぐったりとした様子だが、なんとか息はあるらしい。
「しっかりしろ!大丈夫、大した怪我じゃない」
そう言葉で励ますが、実際はあまり良い状態ではなかった。魔物に薙ぎ払われたときに、その爪が当たったのか右腕に大きな裂傷ができており、中の肉まで避けてしまっていた。
クラウはローブを脱ぎ、自分のシャツの裾を引き裂くと、それで手早くククリの腕を縛り、止血した。
――― これは、毒か…!?
さらに最悪なことに、魔物の毒を一緒に食らったらしく、見る見るうちに傷の周りが赤黒く変色し、細い腕を侵食していった。
「くそっ…!」
クラウは迷った。まだ里の人たちが残されたままだ。彼らをなんとか森の内側まで連れ帰らなければならない。しかし、ククリをこの状態のまま放置するわけにもいかない。
――― だめだ、一刻を争う…!
「ルカ!!」
決断したクラウはルカを呼びもどした。
呼ばれたルカは地面に再度ブレスを吹き付け、魔物が身動き取れないようにしてから、クラウの下へと舞い戻った。
「ルカ、ククリをかあさまのところへ運べ。里の人たちは僕が助ける」
『ならん!お前をここに置いていくわけにはいかない』
クラウの命令にルカは強く反発した。だが、クラウも引くわけにはいかなかった。
「行け!このままじゃククリが危ない!今すぐにかあさまに見せないと手遅れになる!わかっているだろう!」
子供の小さい体だ。毒はあっという間に全身へ回ってしまうだろう。
「今の僕の力じゃ救ってやれない。助けられるのはかあさまだけだ」
『……』
「お前の足ならきっと間に合う。ククリをかあさまのところへ運べ!」
『……』
ルカは変わらず強い眼差しでクラウの顔を見つめていた。それに負けじとクラウも見つめ返す。どちらも譲らない。
――― 僕に劣らず、頑固だな
クラウはふっと表情を緩め、ルカの鼻の上を撫でた。
「お前が僕を守る使命を受けていることは、十分わかっているさ。でも、今は言うことを聞いてくれ。僕なら大丈夫。ククリを預けたら、すぐに戻ってきてくれるだろう?」
『……無茶はするな』
「分かっている」
クラウはククリの身体をルカの背に乗せ、無事な左手でその毛をつかませた。
「いいか、ククリ、絶対に放すなよ」
「んっ…、クラ、…ごめっ…!」
――― 約束破って、ごめん
ボロボロと涙を流すククリの頭をなでながら、クラウは優しく言い聞かせた。
「お仕置きは元気になってからだ。大丈夫、かあさまがあっという間に治してくれるから、それまで頑張れ」
「ん…!」
痛みに耐えながらも力強く頷く姿を見届け、クラウはルカに合図する。
「行け!」
『すぐに戻る』
「ああ、待っている」
あっという間に森の方へと走り去ったルカたちを見送り、クラウは今だ増え続ける魔物に向かっていった。
ルカは猛然と荒れ地を走り抜けた。背中に乗る子供に負担をかけぬようにしながらも、今までで一番早いスピードで駆け抜ける彼は、いつになく焦っていた。
ルカにとって、何よりも森が大事だった。幾千年、古の森とともに生き、そこに住む住人を守り過ごしてきたのだ。そしていつの間にかアルフェンの里も、もちろんエルフの民もルカにとって大事な守るべきものとなっていた。
しかし、クラウは特別だ。あの子とアリーシャは何があっても守りきらねばならない。そう固く誓ったのだ。
ルカにとっても苦渋の決断だった。クラウの言う通り、背に乗る小さな子供は重傷だ。早く毒を抜かなければ助からないこともルカはよくわかっていた。
だが、何より大事なあの子を置いていくわけにはいかなかった。
確かに賢く、強い。だが子供だ。まだ、庇護されるべきはずの子供なのだ。
咥えてでも引っ張ってくるべきだったのかもしれないと後悔する。
しかし、そんなことをすればクラウは絶対にルカを許さないだろうこともわかっていた。良くも悪くも、アリーシャにそっくりなのだ。
――― 運命か…。
血が同じなのだ。無理もないと、首を振る。加えてあの頑固さだ。どうしたって、ルカは従うしかなかった。
――― ならばせめて…。
ルカは森の入り口で立ち止まると、天を仰ぎ、咆哮を上げた。
――― 守れ、あの子を、…愛しき世界の子を ―――
王の叫びが森中に木霊する。
その声は、静かだった森の空気を確かに揺らした。
「ルカ…?」
アリーシャはふと森の方角を振り返った。
ジークから昨晩の連絡の内容を聞き、重い気持ちで家への道のりを歩いていた時である。
――― 今の声、確かにルカだわ。いったい…。
得体のしれない不安に駆られ、手の先から体温を奪われていくような寒気が襲う。心臓がどきどきと脈打ち、体がこわばり震えるその感覚。
昔からそうだった。良いことも悪いことも、何かが起こる予兆のようなものを感じ取る感覚が人一倍鋭かった。だから、この時もアリーシャは確信した。
「なにかあったんだわ…!」
「アリーシャ様、どうしました?」
出迎えに家から出てきたリザが不思議そうにしている。
「ルカの声よ…!」
「え?あっ!アリーシャ様!どこへ…!?」
リザの声も届いていないらしく、アリーシャは突然森の方角へと走り出していた。
「ジーク様!」
里の広場前で、先ほど別れたばかりのジークの姿を見つけ、アリーシャは駆け寄った。息を切らしながらも全速力で走るその姿に、そばにいた里の者たちも何事かと振り返った。
「ジーク様!!」
「アリーシャ殿、どうなされた?そんなに急いで…」
「わ、わからないの!でも、きっとなにかあったんだわ、ルカがっ…!」
「ま、待ちなさい、落ち着つかれよ。いったい…」
いつものアリーシャとは思えない取り乱しように、ジークもただ事ではないとわかるが、話の内容がさっぱり伝わってこない。
「あの子を守れって…、ルカがっ!クラウだわ!!きっと、あの子に、何か…!」
なりふり構わずジークに縋り付くアリーシャの目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。必死に自分が感じている漠然とした不安を伝えようと言葉を紡ぐが、うまくいかず、嗚咽だけが喉を突く。
「アリーシャ殿、落ちつきなさい!」
「どうしたんじゃ、何があったのだ?」
状況がつかめず、困り果てたジークに声をかけたのは、ユンガイルだった。
「ユン!それが、アリーシャ殿が…」
「アリーシャ殿?」
「…ルカだわ」
「え?」
またアリーシャが一人走り出した。向かう先は森の入り口だ。その後をジークとユンガイルが追う。
「なんじゃ!?何がどうなっとる!」
「俺にも何が何だかわからん!だが、何かあったらしいことは確かだ!」
「ルカ!」と、アリーシャが叫び声を上げると、それに答えるように森からルカが姿を見せた。わき目も振らず、一直線にアリーシャの元をめざしてかけてくるその姿に、ジーク達もようやく事の重大さに気付いたのだった。
「背中に誰か乗っとるぞ!」
「クラウ坊か!?」
「いや、あれは…、ククリ!?」
深緑のローブに見覚えがある。確かにククリだと、ユンガイルは確信した。
「ルカ!あの子は!?」
『アリーシャ、落ち着け』
「クラウに何かあったのね!?答えて、ルカ!」
ルカに詰め寄るアリーシャの横で、ユンガイルがその背にしがみついているククリを地面へと下ろした。
「この傷は魔物か!?どういうことじゃ!結界の外に出たのか!」
「こいつはひどいな…。すぐに治療しないと持たないぞ!アリーシャ殿!」
二人はククリを抱え直し、アリーシャを振り返った。
しかし、ルカと対峙する彼女の顔は真っ青で、今にも崩れ落ちそうなほど動揺していた。
『アリーシャ、よく聞け。あの子からの伝言だ』
「ルカ…!」
『ククリを助けられるのはお前だけだ。頼んだぞ』
ルカはそれだけ言い残して、また森の方へと走り出してしまった。
「ユン、俺もルカ様の後を追う!あとは任せたぞ!」
「おお、わかった!」
ジークが召喚でベイシャルを呼び出し、その背にまたがり森へと向かって走り出す。その後ろ姿をアリーシャは呆然と見送ることしかできなかった。
ルカは、何の説明もなくいってしまった。
どうしたらいい?本当なら今すぐ自分も息子の元へ駆けつけたかった。でもそれはできない。
――― だめよ、私は私にできることをしなきゃ、そう、ククリを助けないと。
アリーシャは必死で自分に言い聞かせた。クラウは自分を信じて、ククリを託したのだ。何が何でも助けなくてはならない。
震える身体を叱咤し、ククリの前に座り傷の具合を確かめる。
ひどい状態だった。腕の傷に加え、毒に、貧血に、熱も出始めているようで息が荒い。止血のために腕に巻かれたシャツの切れ端が見慣れたものだと気づき、こんな時でも息子は一人冷静に対処していることを知る。
―――しっかりしなさい、アリーシャ…!
「ユンガイル様、血が下に行かないように腕を抱えててください!」
「お、おお!これでいいか?」
「はい、その状態を維持してください」
――― とにかく、毒が回らないようにせき止めて、それから止血も…。
アリーシャは瞬時に状況を把握し、治癒魔法をかけ始めた。
「大丈夫、大丈夫よ、すぐに治るわ」
「おば、さ…。ごめっ」
苦しいだろうに、必死に謝ろうとするククリに、アリーシャは安心させるように笑いかけた。
「喋っちゃだめよ。苦しいだろうけど、もう少し頑張って」
「みん、な…クラウが…、まだ」
「大丈夫よ、ルカが助けに行ったわ。それに、あの子、とても強いのよ」
そう、きっと大丈夫。
――― 大丈夫、大丈夫…。
呪文のように繰り返す。
あの子は強い。だって、とても賢いし、魔法だってあんなに立派に使える。リザやハンスがほれ込むほどの天才だもの、大丈夫、大丈夫。
……本当に?でも、だって、もしかしたら―――――
アリーシャの思考が絶望に支配されそうになったその時、ふわりとその手に何かが触れた。
慣れ親しんだ感覚。
温かいその何かは、アリーシャの心を労わるように優しく手の甲を撫でた。
「ミディ………!」
佇むは精霊の神。
いつだって自分を気遣い、見守り、愛してくれるその存在の優しい眼差しを、アリーシャは縋るように見つめた。
「ミディ、お願いっ…、あの子を守って…!」
切なる友の願いに、心優しき精霊の神は労わるように微笑み、力強く頷くと、そのまま空へと姿を消した。




