24 一難去って…
フィリップ達が現れて以降、正門前の雰囲気は一変した。静まり返っていた群衆は、ルクセイアの領主がわざわざ出向いてきた目的が気になるようで、好奇心満載の視線が飛び交う。
勿論、クラウも群衆の壁に隠れながら彼らが現れた目的を考えていた。視線の先では、フィリップがデリックに挨拶しているところだ。恭しく頭を下げているものの、そのしぐさや出で立ちからは高圧的な態度がにじみ出ていた。
フィリップの横に、一団の中でも高身長のきりっとした顔立ちの男がいた。彼は一人進み出てキラの前で跪くと、キラの手をとり、恭しくキスを送ったのだった。
貴族の成人男子が、ただの少女に膝を折る―――
その異様とも言える光景に、周りの人間が息を飲む気配がクラウにも伝わった。
かくいうクラウも、多少の驚きを感じながらその光景を眺めていた。
本来、この世界に“神子”という地位は存在しない。加護付は保護の対象ではあるものの、身分的には確約されたものがないのが普通だ。もちろん、フェンデルのようにもともとのステータスが高い場合は別だが、キラのような一般家庭に生まれただけの少女にとっては、神子などと呼ばれはしても、実際はただの一市民と変わらないのだ。
まして、何の関係もない他種族から見れば、加護付という存在の物珍しさはあれど、そもそもキラは特別敬意を払うような対象ではないのが現実。そんな一般の少女に対し、どう見ても身分の高そうな男が下手に出るような態度を取れば不自然にみえて当然だろう。
さらに言えば、男の態度は明らかにアウラではなく、キラ本人に対して敬意を払っているように見えたことがクラウには意外であった。大抵は精霊であるアウラへの敬意の方が強く、あくまでもキラはその間に立つ橋渡し的な存在にしか見られないことが多いからだ。だが、あの男の敬意は明らかにキラに向けられていた。
――――いったい何者だ?
その疑問に答えたのは、いつの間にか隣に立っていたリオだった。
「まさか、フィリップ様がいらっしゃるとはな。しかもオセロ様まで連れて…」
「ライラック…。知り合いか?」
「知り合いも何も、先頭がルクセイアの第一領主ドールズマン・フィリップ様だ。それから隣の背の高い人は、フィリップ様の息子、オセロニクス・フィリップ様。第一領の執政副官で、独身。父親ほど野心家ではないみたいだけど結構なやり手だって噂だぜ。…あ、ちなみにあの人もレイシス様と同じくキラの婚約者候補の一人な」
「……なるほど」
最後に付け加えられた説明に、クラウは納得した。だからこそキラへのあの態度なのか、と。
「しっかし、キラの様子見に誰かしら来るとは思ってたけど…。まさかフィリップ様が直々に出張ってくるとはなぁ。やっぱり食えない人だよ」
と、リオは複雑そうな顔で一団を見つめていた。何やら、ルクセイアもクラウの知らない事情がいろいろあるらしい。
その間にも、フィリップがカルラの態度について両親に苦言を呈しているらしく、場の雰囲気はますます重苦しいものになっていた。両親は二人とも顔を真っ青にさせて頭を下げ、カルラは納得できないものの、相手が身分ある人間だと知り、感情を抑えるように唇をかみしめながら俯いていた。そしてキラは、オセロの背と護衛に守られて、さらに注目度が増した場でただ困ったように一人立ち尽くしていた。
あっという間に一変した構図に、場を支配する権力差を思い知らされる。ある種、見せしめのようなものだとクラウは思った。キラを責めるということは、ルクセイアそのものを敵に回すということと同義だと―――故意か偶然かは別として、この光景を見る限り、リオの複雑な心境も分からなくもないクラウだった。
「なぁ、オーウェン。お願いがあるんだけど」
突然、リオが言った。
「なんだ?改まって」
「―――この先、どんなことがあっても、お前だけはキラの味方でいてやってくれ」
「…ずいぶん唐突だな」
脈略のない内容にクラウは呆れた。何故、今突然そんな話に持っていくのか、やはりリオの思考回路を理解するには、クラウでも経験が足りないらしい。
「そうでもねぇよ。俺、ずっと思ってたんだ。キラには、俺以外に安心して帰れる場所が必要だってな」
「その意見には同意だが。そこで僕を選ぶあたり、君は相当な挑戦者だな。言っておくが、僕は誰の指図も受ける気はないし、僕の望み通りにしか動くつもりはない」
「フハッ!そこで言い切るんだ?……まぁ、確かにお前はそういうやつだよな。でも、だからこそ、やっぱり俺はお前に頼みたいんだよ、オーウェン」
「よくわからんな」
今の流れからどうしてそういう答えになるのか、クラウはやはり理解できないのだった。
「前々から思っていたが、君は僕を買いかぶり過ぎなきらいがある。僕は決して善人ではないし、万能でもない、ただの利己的な人間だ」
だから期待されても添えない場合だってあるとクラウが言えば、
「確かにお前、頑固だもんなぁ」
と、リオはしたり顔で頷いた。
「かあさま譲りだ」
「うわ!お前の母親ってなんか凄そうだな!めっちゃ興味あるんだけど、俺」
「……似た者同士、気が合いそうだな」
きっとリオのような溌剌とした男子が相手ならアリーシャも、ついでにリザも喜ぶに違いない。目をキラキラさせてはしゃぐ母たちの姿が容易に想像できてしまい、クラウは少し複雑な気分だった…。
「ま、俺も自分主義なのは人の事言えないけど、お前には負けると思うぜ。あ、ちなみに、キラもあれで結構な頑固もんだから」
「知っている――――だが、決して利己的な弱者ではない」
クラウがそう断言すると、リオはパッと振り返り、キラキラとした目でクラウの顔を覗き込んできた。
「お前、やっぱりいいなぁ」
「何がだ…?」
「――――本気で、キラのこと頼んだぜ」
リオは一度クラウの肩を思いっきり叩くと、答えを聞く前にキラ達がいる方へと歩いて行ってしまったのだった。
「相変わらず、勝手な男だな…」
いまいち思考が読めない男だが、それでも誰よりもキラの事を案じ、大事にしていることはクラウにもわかる。今のやり取りも、わざわざ騒ぎの中心に出向いていったのも、すべて困り顔で俯いている幼馴染を救い出すための行動だ。
“お願い”と言いながら勝手に押し付けていく強引さは、普通なら顰蹙を買いそうなものだが、何故かリオには嫌味さがない。
今だって一団に突然割り込んで場の空気を悪くすることもなく、リオはいつも通り気さくにフィリップたちに挨拶し、一言、二言会話すると、場を難なく収め、キラとルクセイアの客人を連れて施設内へと戻って行ったのだった。
その辺の行動力はクラウには持ちえないものだ。実際の所、ルクセイアの人間が集まる場所では、クラウはどうしたって身動きが取れないし、窮地の真っただ中にいるキラの傍にいてやることもできない。
今も昔も、その役目はリオのものなのだ。そしてリオ自身、自分が出ていくことがキラにとって一番の救いになることを理解しているのだろう。
ならば今のクラウにできることは、約束通り、キラが自分のもとへ帰ってくるのを待つことだけ―――
フィリップの威圧感から解放され、岐路を急ぐ家族についてぞろぞろと一団が移動した後、一人残ったクラウは床に置き去りにされたキラのメモ用紙を拾い上げると、静かに寮へと戻って行った。
しかし、それから二日経っても、キラは姿を現すどころか、学園にさえ帰ってこなかったのだった―――
◇
世界の情勢にも人々の感情にも干渉されず、時間だけは着々と時を刻んでいく。その決して狂うことのない流れの中で、人はまた新しい一日を始める―――それは、悲劇に沈んでいたデザイア学園でも同じであった。
葬儀の場での宣言通り、フェンデルは翌日には早急に行動を開始した。まず、モーモルンに滞在する聖導騎士団と協力し、学園内の新しい警護体制を整えることを決定すると、同時に聖宮へ学園の守備を固めるために結界の補強を依頼する使者を送り出したのである。
もちろん、サーペンタリアの調査部と協力して、事件解明に向けて総力を挙げるとともに、実地の任務で学園外に出ている研修生を早急に学園へ帰還させ、特別調査部隊を編成すると、しばし防衛と犯人追跡の為に助力するよう命を下した。
一方、優勝者なしで中断されたままの第四試験については、各教師がそれぞれ意見を出し合いどうするべきか話し合いが行われたが、結局、勝ち残っていた三人がすべて星組一班の生徒で占められていたこともあり、二日目の優勝で与えられる五十点と、総合優勝者に与えられる百点を星組一班に加点する形で、第四試験は優勝者不在のまま終了ということになった。後日控えていた二、三年生の第四試験については、短時間で終わるように、参加者なし・代表者一人に限定して規模を縮小し、結界内での無観客試合を行うことが決まった。
今後の学園行事についても意見が分かれたが、協議の結果、年末に控える第五試験に関しては実践形式の試験は取りやめ、今年は往年よりも範囲を拡大し筆記試験のみで最終合計点を出す意見が採用された。極力生徒を学園の外に出さずに、万一の非常事態に対処できるよう配慮した結果である。
しかし、となると当然、今年残る試験は第五試験の筆記のみ―――
学力に関してはいささか不安さが残る花組五班にとっては、何とも微妙な事態となってしまったのだった。
そして、授業再開を明後日に控えたその日、クラウはニトと共に事務部の窓口を訪ねていた。
「どうして…!どうしてですか!?せめて、どこにいるかだけでも教えてください!」
「ごめんなさいね、居場所については口外できないの…。でも、ちゃんと元気にしていることは間違いないから、安心して…」
「でも!」
「ガレシア、戻ろう」
クラウは、いまにも泣きだしそうになりながら必死に訴えるガレシアの肩を引いた。悔しげに唇を噛んで耐える姿に、対峙していた事務部のお姉さんは同情の眼差しでニトを見つめていた。
キラが寮に戻らず、痺れを切らしたニトが今朝、事務部へと事情を問いに行くと言い出したのだ。ニトの怒鳴り込みそうな勢いに、騒ぎにならないようクラウも一緒についてきたのだが、窓口で対応してくれたお姉さんは、ちゃんと外泊届も出ているし、居場所についても学園側で把握しているため、特に問題はないの一点張りで肝心の事情については一切話してはくれなかった。お姉さん曰く、手続きはすべてルクセイアの方から届き、フェンデルの了承も得ているため、事務部では規則通り処理しているだけで大した事情は知らないとのこと。ならばせめてどこにいるかだけでも教えて欲しいというニトの願いは、お姉さんの申し訳なさそうな「ごめんなさい」の一言で遮られてしまった。
「どうだった?」
クラウ達が寮へ戻ると、入り口で待っていたユウマとエドガーが駆け寄ってきた。収穫はないとクラウが首を振って知らせると、二人ともがっかりしたように肩を落とした。
「畜生、いったいどうなってやがるんだ?何で急にこんなこと…」
「……私の所為?私がいるから、あの子、戻って来れないの?」
と、ニトが顔面蒼白になりながら言えば、ユウマがイライラしたように舌打ちした。
「お前はまたそうやって…!誰もそんなこと言っていないだろ?」
「だって、理由なんて、私しかないじゃない…!」
「お前の問題と、キラの問題は別だろ。大人が何を考えようと、お前は堂々としてればいいんだよ」
「…でも!だったらどうして、キラは帰ってこないの?どうしよう…このまま、キラに会えないままなっちゃったら、私…!」
「お、おい、泣くなよ!」
「ガレシアさん…」
耐え切れず泣きだしてしまったニトの背中を、エドガーがおろおろと撫でて慰めた。
「エドガー、ガレシアを頼めるか?少し休んだ方がいい」
「う、うん、わかった」
ニトを支えながら、エドガーは寮の談話室へと入って行った。
「―――で?どうするつもりだよ、クラウ…」
二人きりになると、ユウマはクラウに縋るような目を向けた。彼も怒りの裏には、やはり消せない動揺と不安があるのだろう。
「とりあえず、情報収集が先だ」
「情報ったって、どうやって?誰も教えてくれないから、あいつは泣いてんだろう?」
「学園がだめなら他の伝手を頼るまでだ。すでに知り合いに様子を見てくるように頼んである」
「ほんとか?…その、知り合いってのは、ちゃんと信用できるんだろうな?」
「当然だ」
意外と用心深いユウマの反応に、クラウはうっすらと笑った。実際、その辺の人間よりよっぽど信用できる伝手だ。
「…お前が笑うとか、なんか怖ぇんだけど。まさか、悪の秘密組織とか、お得意の怪しいオーウェン教信者じゃねぇだろうな?」
と、ユウマは若干顔を引きつらせながら言った。
「意味が分からんが、彼女たちなら心配はいらない。ちゃんとキラの居場所を探し当ててくれるはずだ」
「――――わかったよ。お前がそう言うなら信じる。で?俺たちは何すればいい?」
「今は何も。ただ、できるだけガレシアの様子を気にかけてやってくれないか?あまり過度な動揺や不安は精神的によろしくないだろうからな。念のため、しばらくは傍にイアをつけておく。万一何か異変があった場合はすぐにイアに任せて、君たちは下がれ」
特に半獣人であるエドガーに関しては、避難が最優先だとクラウはユウマに十分注意するよう警告した。
「え…そこまでやばいのか?…やっぱ、そういう負担も、帰獣化に影響したりするのか?」
「確率的な話をすれば心配はいらない。だが、用心に越したことはない。念のためだ。いいな?」
「…わかった。お前はどうするんだ?」
「とりあえず、僕はこれからクルックさんの見舞いに行くつもりだ」
「見舞い?そう言えばここ最近姿見てねぇな。何だあいつ、具合悪かったのか?」
「彼も、例の一件で精神的にまいっているらしい。今朝、カゲトラ先生の所に三日ほど休ませて欲しいと連絡があったそうだ」
「……確か、同級生だったんだってな。亡くなった人」
身近な人が自分の目の前であんな死に方をすれば、落ち込んで当然だと、ユウマは同情するように言った。
「クルックさんの様子見がてら、これからのことも少し相談してくるつもりだ」
「了解。ほかに何か、俺たちにもしてほしいことあったらちゃんと言えよ。お前の場合、全部一人で解決しようとしそうだからな」
「―――わかっている」
「フハ!ほんとかよ。お前のその手の返事、なんか信用できねぇんだよなぁ」
と、ユウマはようやく笑った。
「気をつけろよ」
「ああ、君たちも」
「おう、じゃあな」
「ユウマ」
クラウは立ち去ろうとするユウマの腕をつかんで引き寄せると、そっと耳打ちした。
「――――ノエル・ユグライトに気をつけろ。彼を絶対にガレシアに近づけるな」
「はぁ?なんだよ、それ…」
「明確な理由はない、僕の勘だ。だが絶対に近づけるな、いいな?」
「お、おう…、わかった」
クラウの眼力に気圧され、訳が分からないまま頷くユウマにイアを託し、クラウは一人寮を離れた。
◇
仲間と別れたクラウは、さっそくクルックを見舞うために指導研究員の寮へと足を運んだ。
「―――クルックさん、開けてください」
呼び鈴を鳴らしても返事がなく、不思議に思ったクラウは少々乱暴に扉を叩いてみた。しばらくすると中からドタドタと何やら走りまわる音が聞こえたと思えば、そろりと扉がゆっくりと開いた。
「クルックさん?」
「く、クラウさん…!?お久しぶりですね…!というか、こんな時間に、どうしたんですか?」
クルックはなぜかほんの数センチの隙間から、そろりと目だけを覗かせて挨拶を返してきた。
「カゲトラ先生から具合が悪いとお聞きして、お見舞いに。大丈夫ですか?」
「ひょあ!?あ、え、ええ、大丈夫ですよ!…ただちょっとまだ、風邪気味で、ほら…ゴホンッゴホンッ!ゲホッ!オエッ」
「…酷いようなら、聖導師に見てもらっては?」
何なら部屋に来てもらえるよう頼んでこようかとクラウが提案すれば、クルックは何故かあたふたと慌てだしたのだった。
「い、いえいえいえ!だ、大丈夫です、本当に、ええもう…!」
と、どもりながら必死に冷静を装うとする態度自体、どう見ても様子がおかしい。実際、ドアの隙間から覗く視線は不自然なほどクラウの顔を見ようとしなかった。
「あまり食べていないと思って、学食でお弁当を買ってきました」
「クラウさんがですか!?はわわ、何という感動!ありがとうございます!」
「じゃあ中に入れてください。今後の話もしたいので」
「え、そ、それはちょっと……お断りします!!」
あろうことか、クラウが扉を開こうとすると、クルックは速攻で扉にかけた手に力を込めて侵入を拒んできた。
「……クルックさん、手を離してください」
「いやぁ、何の事ですかね!?ていうか、あの…ほら!か、風邪!クラウさんに移ったらどうするんですか!」
「僕はかなり丈夫なので問題ありません。多少の菌ではびくともしませんから」
「いやいやいや!何を根拠に!」
「――――往生際が悪い」
クラウはいい加減このやり取りが面倒になり、問答無用で隙間に足をねじ込むと扉を力任せに押し開いた。
「ぎゃああー!クラウさんの横暴!知ってましたけど!」
力技で部屋に押し入ったクラウを必死で押し返すも、クルックの非力な腕では所詮適うはずもなく、あっさりと侵入を許したのだった。
「…どうやら、具合が悪いわけではなさそうですね」
部屋主を無視して奥まで上がり込み、ぐるりと室内を一望したクラウはただ呆れた。以前来た時も部屋の状態は散々だったが、今回はそれ以上だ。洗濯物もよごれた食器もそのまま、さらに異様な量の本や資料があちこちに散らばり、何枚も何枚も書きなぐったらしい書類が机の上から、ベッド、ソファ、廊下の床一面にまで散らばっていたのだ。
「こ、こここれはですね!その、決して、指導員の仕事をさぼっていたわけではなくてですね!」
「クルックさん」
「は、はい…!」
「とりあえず、先に身体を洗ってください。臭いますよ」
「うへ!?ひゃい、すみません!」
ギロリとクラウに睨まれて、クルックは涙目で真っ赤になりながらタオルを引っ掴むと脱兎のごとくシャワー室へ駆け込んでいった。
「まったく…」
とはいえ、思ったよりも元気そうだったのでクラウはひとまず安心した。顔色も悪く、覇気のないやつれた顔をしていたが、病気というよりここ数日の不衛生な生活が原因だろう。部屋の惨状を見る限り、まともな食事も睡眠もとっていなかったに違いない。
クラウはとりあえずてきぱきと汚れものをかたづけてから、次に床に散らばった書類を拾い集めることにした。だが、ふと見えた内容に驚き読みはじめると、思いのほか嵌ってしまい、気づけば掃除の手を止めて一枚一枚熱心に読み進めていたのだった。
「いやー、すっきりしました。ってあああ!?クラウさん、何して…!返してください!」
濡れた髪をそのままにクルックはクラウから書類をひったくるように奪って行くと、無言で残りの書類を集め始めた。
「クルックさん?」
「………」
「勝手に見たことは謝ります。すみません」
「……」
「――――とりあえず、先に髪を乾かして、それから食事にしましょう。ちゃんと食べないとやりたいこともできませんよ」
しばらくして、クルックは書類の束を胸に抱きしめ押し黙ったまま、小さく頷いたのだった。
クラウはもそもそとお弁当を食べるクルックを見つめた。よく見ればやはり痩せたことに気づく。元々線の細い男だが、頬がこけ、隈も酷い。きっと寝る間も惜しんで一心不乱にこの膨大な量の調べものをしていたのだろう。それだけ、クルックにとってアンソールの一件は、忘れがたい衝撃的な出来事だったということだろう。
「……クラウさん、すみませんでした」
やがて弁当の半分を消化したころ、クルックは気まずい空気に堪えられなくなったのか、しょんぼりと項垂れながら謝ってきた。
「何がですか?」
「先ほど、心配してお見舞いにきてくれた君に、僕はとても失礼な態度を取りました…。それに、大事な時なのに、指導員の仕事も休んでしまって…」
「なら僕も、部屋に強引に押し入ったことを謝らなければなりません。すみませんでした」
「そ、そんなっ…クラウさんが謝ることなんてっ…」
何もない、とクルックは泣き出しそうな顔で俯いてしまった。その、己の不甲斐なさを責めるような顔つきは、まだ出会ったばかりの時に何度か見たものだ。だいぶ前向きになったかのように見えても、突然卑屈になる癖はまだ消えていないらしい。
「この書類の中身、読みましたが―――
今まで一人で『呪い』について調べていたんですね」
クラウは改めて手に取った書類を眺めた。そのすべてが黒の呪いについての研究資料ばかりだったのだ。有用な情報など集めようがないはずなのに、クルックは独自で調べ上げたのか、呪魔の姿や形、特徴、そして呪いで死んでいく人間の過程など事細かに分析し、さらに自分なりの解釈を付け加え、なんとか呪いの正体をつかもうと頑張ったらしい。散らばった手書きの用紙には、彼が思考錯誤した跡すべてが事細かに書き記されていた。
それを見たクラウは、内容云々よりも、手掛かりがほとんどないこの状態で、一研究員がここまで調べ上げたその熱意と行動力に驚かされたのだった。元々優秀だと聞いていたが、まさかクルックがこれほど繊細で、的確な仕事をこなすとは思っていなかったのだ。
しかし、何故急に呪いについて調べようと思ったのか。クラウがその理由を聞くと、クルックは俯いたままぽつぽつと話し始めた。
「…悔しかったんです。ただ、どうしようもなく、悔しくて…。それ以上に、何もできない自分に腹が立って、せめて、僕にできることは調べることだけだって…。でも、僕には、その答えにたどり着くことはできませんでした。調べれば調べるほど、わからなくて……」
それは仕方がないことだとクラウが慰めても、クルックは納得しなかった。
「それじゃダメなんです!それじゃあ、僕は何もできないまま終わる…!!だからっ…!
クラウさん、教えてください!クラウさんは、呪いについてどこまでご存じなのですか!?呪いとはいったい何だと思いますか!?」
「あいにく、僕にも答えはわかりません」
「……そう、ですか。そうですよね」
と、クルックは再び項垂れた。そして、ぽたりぽたりと、ついにその瞳から涙が机へとこぼれていった。
「許せないんです…どうしても、僕は!アンソール君を、あんな目に追いやった人間が、許せません!誰かを、こんなにも憎いと思ったのは、初めてで…!」
アンソールの為にも、何かしていないと焦りだけが募り、申し訳なくてたまらなくなるのだと拳を握りしめながら訴えるクルックを、クラウは静かに見つめていた。
こんな風に激情に泣き、感情を口にする素直さはクラウにはない。だが、クラウだって表に出さないだけで思いはクルックと何も変わらないのだ。胸の奥にくすぶる感情の火は、確かに消えることなく燃え続けているし、消すつもりもない。ならば、秘めた思いが同じならば、お互い目指す道も同じなのだろうか―――
「―――そういえば、僕がこの学園に来た理由をまだ話していませんでしたね」
「え……?」
「僕はとうさまの行方についての手掛かりと呪いの解決を探るために、このデザイアを選んだのです」
「お父様と、呪い…ですか?」
「はい。しかし、当初の期待とは裏腹にほとんど進展がありませんでした。クルックさんもご存知の通り、呪いに関する記録は管理が厳重で、一般人ではとても閲覧できませんからね。ただ、僕も僕なりにいろいろ考え、アンソールさんの一件を機にある一つの仮説を立ててみました。そしておそらく、その仮説は間違っていないと思っています」
「!そ、それはどんな!?ぼ、僕にも、教え…」
興奮気味に身を乗り出して聞き返すクルックを、クラウは右手で遮って黙らせた。
「―――クルックさん、この先の話をするためには、あなたに多少なりとも僕の秘密を明かさなければなりません。しかし、その選択は僕の未来に不安要素を与え、見えない危険を背負うことになりかねない」
「き、危険って…」
「この先、僕を絶対に裏切らないと今ここで誓えますか?」
突然の問いかけに、クルックは戸惑いの表情を浮かべた。しかし、その迷いもほんの一瞬で消えていた。
「―――誓います。この命にかけて、例え拷問にかけられようと、内臓をえぐり取られようと、僕は絶対に、君の秘密を守り抜きます」
誓約書もない口だけの誓いに、どれだけの効力や意味があるのかわからない。
しかし、クルックはさもこの宣言が誓約書以上の意味を持つとでも言うかのように、クラウの目をまっすぐに見つめながら即答した。
到底、馬鹿げたことだと思う。
何の根拠もなしに言葉だけを信じるなど、本来在り得ないことだし、加宮誠吾ならこんなリスク初めから背負ったりしないはずだ。他でもない、自分の前世の性格はクラウが一番よくわかっていた。
だが、クラウ・オーウェンとして生きる今、真摯に向けられるクルックの言葉を受け止め信じてみてもいいと思ってしまった自分は、どこか変わったのだろうか。
それとも、これが“本当の”クラウ・オーウェンなのだろうか―――
「―――わかりました」
それならそれでいいと、己の問いにも肯定の意味を込めながら頷くと、クラウは自分が立てた仮説について話し始めた。