21 愛の音
サーチは、ただ死を覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
あんなおぞましい触手で体を貫かれて死ぬのは、戦士の端くれとしてはあまりに惨めだし、自分たちに期待してくれていた両親はきっと失望するだろう。だが、せめて弟だけは助けて欲しいと、サーチは必死に天に願った。いつまでたっても甘ったれで、すぐ泣き言を言う情けなさもあるけれど、生まれてから今日まで自分と苦楽を共にしたかけがえのない半身だ。
弟を失うぐらいなら、サーチは進んで自分の命をかけるだけの覚悟はあった。
だが、いくら待っても身体のどこにも痛みも衝撃も起こらず、不思議に思ったサーチはそろそろと目を開けた。
「――――大丈夫か?」
すぐ後ろで聞えた声に、サーチは目を瞬きながら振り返った。そこには、自分たちを守るように立つ一人の生徒がいた。
白髪に、深い碧が混じった瞳―――
再度大丈夫かと問うその顔に、サーチはどこか見覚えがあった気がしたが、名前など覚えていなかった。ただ少年の向こう側で、無残に切り刻まれた触手が炎に包まれて地面に散らばっていくのを目にして、ようやくサーチは自分たちがこの少年に助けられたのだと知った。
気づけば、辺りが異様な静けさに満ちていた。
転移魔法陣はすべて消え、残った魔物はどこからともなく突然巻き起こった風にその身体を引き裂かれて全滅していた。
そして、会場の中心では、タマコの黒剣で首を切り落とされた呪魔の身体が、静かに砂となって散っていく姿が見えた。それは、一寸の迷いもない判断と的確な狙いの元、黒き刃によって泣き声一つ許されることなく断罪された呪魔の無残な最期だった。
風が舞い、砂が天へと還っていく。
「――――すみません、遅くなりました」
やがて、穏やかに吹く風と共に、アイゼリウスとフェンデルが姿を現した。
◇
「この場にいる全生徒、職員、および関係者に通達―――
各自今すぐに、第二、第三会場へ退避。以降、デリック先生の指示の元、生徒の順次寮への帰還に尽力してください」
「おお…フェンデル様!」
「―――この場の“始末”は、長である私が引き受けます。各自、速やかに避難を」
穏やかながらも、威厳ある声でフェンデルが命令を下す。指導者としては若すぎる年齢でありながら、確かな実力と圧倒的な支持を得てトップに立った人間だ。二階、一階、そして壇上周辺で戦っていた大人たちは、フェンデルの“始末”という言葉に、事態の結末を悟って悲痛な表情を浮かべた。それから皆言葉もなく、一様に跪き、フェンデルに最高の敬意を払ってから静かに退いて行った。
そんな大人の合間を縫って、リオが双子の元へと駆けつけた。
「二人とも大丈夫か!?」
「ボス!…」
リオの顔を見てサーチがほっと息をつく。その腕の中で、マーチも大丈夫だと手を振ってみせたので、リオもようやく安堵の表情を浮かべた。
「よかった…。オーウェン、助かった。ありがとう」
「私たちからも、礼を――――ありがとう。あなたのおかげで、弟が無事だった」
サーチはなまりのない綺麗な言葉で隣に立つクラウに礼を告げると、胸の前で手を組んで深々と頭を下げた。それがベルモット族流の礼儀らしい。
「いや。それよりも動けそうならすぐに避難した方がいい。触手が再生すればまた厄介なことになる」
クラウは以前ガルフから、『黒い触手は斬ってもすぐに再生した』という情報を得ていたため、後々のリスクを捨ててでも炎魔法で切り口の細胞を壊死させ再生を食い止めようとしたのだが、焼け石に水のようだ。今もじわじわと切り口がうごめいているところを見ると、時間を遅らせることはできても完全に阻止することはできていないらしい。
「ひどいことになったな…」
と、リオが会場の惨事を見回しながら言った。肝が据わった男でもさすがに動揺しているらしい。ガーナでの経験があるとはいえ、まさか学園でこんな事態になるとは思っていなかったのだろう。
「…これから、どうなるんだ?」
「―――さあな。できれば、最後まで結末を見届けたいところだが」
「こら!!お前たち、生徒は全員速やかに避難だ!例外は認めん!」
「いった!?」
「!……カゲトラ先生」
突然、頭に容赦ない拳骨を食らったリオとクラウは、二人そろって恨めしそうに後ろを振り返った。そこには、怒り心頭の表情で腕組みして仁王立ちするカゲトラがいた。そのさらに後ろから、黒剣を携え無言で歩いてくるタマコの姿が見えると、隣でリオが「やべぇ…」と気まずそうにつぶやく声がクラウにも聞えた。
「ライラック」
「…はい」
タマコは、リオの前に立つと、高揚のない声で淡々と言った。
「お前の実力は私が一番よく知っている。だが、どれだけ優れていようと、学園にいる以上お前は守られるべき子供であり、一生徒に過ぎない。まして装備も万全ではないお前たちがうろちょろすれば、我々の動きの妨げになる――わかるな?」
「…はい。すみませんでした」
リオは、真摯に謝罪した。
「生徒はみな、第二、第三会場の結界内にて待機中だ。すぐに合流し、お前は私の名代を務め、星組の指揮を取れ。できるな?」
「はい」
「お前達もだ、行け」
と、タマコはそばに立つ双子にも避難するように命令した。リオが一礼し、仲間を連れて引きあげていくのを見届けてから、タマコは最後に一人残ったクラウへと向き直った。
「私の生徒を助けてくれたこと、感謝する。あとは我々に任せ、お前も下がりなさい」
「そうだぞ、オーウェン!ほんと、俺の心臓が持たないから、大人しく安全なところにいてくれ!」
と、カゲトラにまで心配げに懇願されてしまえば、さすがにクラウもこれ以上わがままを通すことは憚られた。
長であるフェンデルとアイゼリウス、そして学園の主力であるタマコが揃った以上、クラウがここに残る理由はないだろう。だが、クラウの足はどうしても動かなかった。
本当に、自分にできることはもう何もないのか―――
また5年前の様に、消え去ろうとする命を前に何もできずに終わると思うと、クラウの中にどうしようもないもどかしさが押し寄せた。だが、結局はあの時と同じで無力感だけが残るのだろう。
アンソールの身体はもう肌色だった部分を見つけるのが困難なほど、呪いの侵攻が全身に及んでいる。身体は操り人形のように左右に揺れ、背中から生えた触手によってかろうじて体勢を保っているという状態だ。赤く充血した目をぎょろぎょろ動かし、苦しみからか歯茎をむき出しにしてフゥフゥ唸る口の端からはよだれが垂れていた。こちらの声が届いている気配もなく、もはや人の成りをした魔物のようなありさまであった。
その変わり果てた姿を見つめながら、クラウは一人、里で見たコモルの姿を思い出していた。
彼もあの時は全身が黒く変質していたが、それでも意識ははっきりしていたし、しゃべることもできていたはずだ。衰弱が激しいだけで、身体も血管が浮き出ている様子はなかったし、コモル本人も痛みに苦しむことなく、最後は眠るように逝ったとアリーシャは言っていた。
だが、アンソールの身体に掬うそれは身体の細胞を侵すだけでなく、精神まで蝕み、まるでアンソールの意識すら支配下に置こうと呪いが意志を持って動いているようにも見える。
コモルの場合と、今回のアンソールの場合、一体何が違うのか―――
クラウの目に見えているものは、どちらも黒の呪いに体が浸食されていく様子だけだが、得体のしれない力に内側から浸食された後の差が、何を意味しているのか分からなかった。
ただ、一つの命が確実に“死”という終着に向かって進んでいること以外は―――
「ヒサギ先生、アッセンビュリーク先生」
「フェンデル様…」
緩やかな風に守られながらふらりと宙を浮いて近づいてきたフェンデルは、跡形もなく崩れた呪魔の残り砂をしばらく見つめた後、タマコの隣にならんだ。
「迅速な対応、ありがとうございます。特にヒサギ先生、あなたがこの場にいてくれて、本当によかった。ナナキ様に改めて感謝せねばなりませんね」
「―――いえ。この剣で生徒と学園を守ることが私の務め。師は…、ちゃんとわかってくれております」
「ええ、そうですね」
フェンデルはもう一度「ありがとうございます」と感謝の気持ちを述べ、それから壇上で彷徨うアンソールを見つめた。
「―――すべて、私の落ち度です」
「フェンデル様……それは違います!こんな事態、誰が予測できたでしょうか!?力があろうと、権力があろうと、襲撃を実行した犯人以外、この悲劇をとめることができた人間などいない!あなたが自分を責める必要などありません!」
「ありがとうございます。しかし、それでもやはり、責任は私にあります」
カゲトラの訴えを、フェンデルは穏やかな表情で否定した。
「どれだけ非常時で、想定外の事態であろうと、学園内に危険因子の侵入を許し、生徒の命を危険にさらしたのは、他でもない私です。この場の“最後”は、私が責任を持って見届けなければなりません」
それが学園の長である自分の役目だと、フェンデルは覚悟を決めたように言った。
「“最後”、ですか?」
「はい」
「…本当に、もう、助けてやれないんですか?」
問い返すカゲトラの声は僅かに震えていた。
「―――残念ですが」
フェンデルの宣告に、カゲトラは拳を握り叫びたい衝動を必死にこらえた。何故、こんなにも若い命が狙われ、無残な死を遂げなければならないのか。どんな理由があろうと、未来ある命を勝手に弄んでいい権利などあるはずがないのに―――
「くそっ……なんで……!」
「―――どけ、カゲトラ。男がぐだぐだと泣き言を言うつもりなら、さっさと下がれ。邪魔だ」
「タ、タマコ…?」
「嘆いたところで、これはもう手遅れだ。ならば、一刻も早く苦しみから解放してやることが、我々がしてやれる最後の慈悲だ」
タマコはカゲトラの横を通り一人進み出ると、黒剣の切っ先をまっすぐアンソールに向けた。
「昔とはいえ、一度は私の生徒だった男だ。
―――これの“最後”は、私が引き受ける」
「タマコ、お前……」
覚悟を決めたタマコ本人ではなく、カゲトラの顔が悲壮にくしゃりと歪んだ。それを見たタマコは「阿呆が」と鼻で軽くあしらった。
「―――フェンデル様、どうか私にご命令を」
「ヒサギ先生…――――わかりました、お願いします」
タマコは、フェンデルが静かに目を閉じ頷くのを確認してから、黒剣を向けたまま一歩一歩ゆっくりと進み出た。
タマコが放つ独特の殺気を察してか、それともアンソールの死への潜在的な恐怖からか、触手が急に息を吹き返し、タマコを排除しようと狙い動く。しかし、タマコは冷静に対処し、鮮やかな剣さばきで触手を再度切り落とすと、迷いなくアンソールの心臓に狙いを定めた。
「―――剣を握ることしかできぬ私には、何がお前にとっての慰めになるかなど、わからん。だが、例え消えぬ罪がこの手に残ろうと、守るべき命があることを言い訳に、私はこの剣でお前を斬る。
許しは請わん。
恨むなら、最後の時を決める私だけを恨んで、逝け…!」
「ま、待ってください!!!」
タマコが黒剣を振り翳したと同時に響いた声に、その場にいた全員が西側の入り口を振り返った。待ってくれと何度も繰り返しながら走ってきたのは、キラの手を引いたクルックだった。
「クルックさん?それにキラまで…。どうしてここに?」
クラウがどういうことだと問えば、
「ああ、クラウさん!こんなところにいらっしゃったんですね。すみませんっ、勝手にキラさんを連れ出したりして…!僕が、頼んだんですっ、だからキラさんは悪くなくて、お二人は、ただ僕のために―――」
と、クルックは額から汗を流しながらひたすら謝ってきた。
『あのね、クルックさんがね、アンソール先生を見つけて…!それで、アウラに治してほしいってお願いに来たんだけど、アンソール先生がどこにもいなくて。でも、アウラがこっちにいるっていうからっ……!』
「キラ…」
キラも半ば混乱しているらしい。説明になっているような、いないような言葉を聞きながらも、クラウは大まかな状況を理解した。
とにかく、二人はアウラにアンソールを治させようとして、必死に探していたらしい。
だが、その努力が報われることはないだろう。クラウは見えた未来に、首を振って二人に室内に戻るように促した。
「キラ、クルックさん、残念ですが…」
「アンソール君!?ど、どうしたんですか!?ああ、どうして、こんなっ…!」
と、クルックはそこで初めて同僚の変わり果てた姿を目にして、泣いた。
「あの時、僕が、迷ったからですか…?ちゃんと見つけていたのに、勝手に見間違いだと、目をそらしたから……もっと早く、君にキラさん達を合わせてあげられていたらこんなに苦しまずに済んだかもしれないのに…!」
「クルックさん」
「でも、もう大丈夫ですよ!ちゃんと約束通りキラさんとアウラ様を連れてきましたからね!あともう少しの辛抱ですから頑張ってください、アンソール君!」
「クルックさん!」
クラウが呼んでも、クルックはそれを無視して、キラとアウラの手を引いてアンソールの前へと連れて行こうとした。
「おい、クルック!いったん落ち着け!」
見かねたカゲトラが無理やりクルックの腕を引く。しかし、クルックはそれでも自分の行動は間違っていないのだと主張するようにキラの手を引いた。
「クルック!気持ちはわかるけどな…」
「離してください、先輩!アンソール君はずっと、アウラ様の助けを待っていたんです!だから、アウラ様とキラさんなら、きっとアンソール君を救えるはずなんです!」
「そりゃあ、精霊の力が桁違いなのはわかるが…、しかしだな」
普段も決して聞き分けの良い後輩とは言えないが、いつも以上に頑なに言うことを聞こうとしないクルックの態度に、カゲトラは困りはてた。そもそも、アウラの治癒が効くというなら、フェンデルは真っ先にキラ達をこの場に連れてきているはずだ。だが、フェンデルは今、助ける方法はないと、始末をつけると宣言したばかりだ―――つまりは、そういうことなのだろう。その意味するところが理解できないほど、カゲトラも鈍感ではない。
「カゲトラ先生」
「フェンデル様…」
カゲトラの視線の先で、フェンデルは静かに首を横に振って見せた。それはすなわち、この場を幼いキラに任せようという判断なのか―――もちろん、カゲトラは納得などできなかった。だが、他にどうすることがアンソールにとって一番いい選択なのかわからず、結局カゲトラはクルックの腕を力なく離すしかなかった。
◇
「さぁ、キラさん、アウラ様!お願いします!」
『は、はい!』
クルックに急かされ、キラとアウラがアンソールの前に立つ。もはや人の成りをしていない、その変わり果てた姿に恐怖を覚えながらも、キラは目をそむけずに向き合った。
――――ァ、、、ミ、コ……ヒカ、リ……
耳を澄ませば、キラはかすかに自分の名を呼ぶアンソールの声を聴いた気がした。今なお、絶望の底で生きることをあきらめずに、一人闘いながら救いの手が伸ばされる時を待っているのだ。
自分には何も力はないけれど、必死に自分に助けを求めるこの人を必ず救うと誓った。ならばすべきことはただ一つ。
『―――アウラ、お願い!アンソール先生を助けてあげて!!』
キラは、望みのすべてを込めて声を上げた。
しかし、いつもなら言葉がなくてもキラの意図を理解し、いつだって最前の手を差し伸べてくれるはずの相棒からは何の言葉も返ってこなかった。
『…アウラ?どうしたの?』
腕の中でアウラは、どこか悲しそうにキラの顔を見上げ、それからゆっくりと首を横に振ったのだった。
『……ごめんなさい、キラ。キラのお願い、叶えてあげられない』
『そ、そんな…どうして!?どうしてできないの、アウラ!?』
『ごめんなさい、キラっ…ごめんなさい』
とうとうアウラはぽろぽろと涙を流して、泣きだしてしまった。
「キラさん…?アウラ様、どうしたんですか?」
『あ……』
泣きじゃくるアウラの姿に動揺し、不安そうに見るクルックの視線に、キラは焦ってついアウラに詰め寄っていた。
『どうしてできないの、アウラ!だって、ガーナの時は皆の怪我を、あんなにいっぱいの人をちゃんと治してくれたでしょう?アウラなら、今度だってきっとできるよ!頑張ってみて!』
『…でも』
『お願い、アウラ!!…あっ、アウラ!?』
アウラはキラの腕から飛び出し、後ろの方で見守っていたアイゼリウスの胸に飛び込んでしがみついた。
『アウラ…』
『――――治癒と浄化は、似て非なるものだ』
アイゼリウスは、泣いてしがみつく同胞を優しく抱きとめながら、キラにそう告げた。
「アイゼス、私が…」
『いや、我が言おう』
フェンデルが代わりに説明しようと進み出るのを、アイゼリウスはやんわりと止め、言葉をつづけた。
『その人間の身体はすでに黒の術に侵され、本来の身体とは違う異質なものに成り果てた。いくら治癒の魔法をかけたところで、元の身体に戻すことはできない』
『でも…!』
『―――光で浄化できると言いたいのであれば、それは間違いだ。そなたの意志に基づいた命の選別は簡単なことだ。だが、浄化の魔法は、邪なものを清きものに戻すものでもなければ、悪を善に変えるものでもない。そもそも世界の掟の前で、人が作る善悪の区別などに意味はない。
本来、浄化の魔法は、すべてを“無”に還し、“消滅”させるもの―――
その人間を浄化するということは、身体ごと消滅させ、魂を本来あるべき場所に導くということ。当然、そなたが望むような起死回生の奇跡を起こすことは、我々も、無論この子にもできない』
以前アウラがガーナで起こした奇跡と、今回のアンソールの場合は全く状況が違うということだ。単なる怪我や病気とは違い、人の身体に別の異物が混じり、細胞レベルで融合してしまっている状態では、とても治癒の魔法では歯が立たない。
呪いの浸食が身体の一部分であれば、ガーランドの様に患部だけを浄化すればあるいは救えたかもしれない。だが、もう身体すべてを侵されてしまったこの状況では、例え精霊の魔力をもってしても、アンソールを元に戻す方法はないということだ。
人間の身体が呪いに侵されるということは、そういうことなのだ。できることはただ、無念の終わりを遂げる魂が地上で迷うことなく、正しき道を辿り、再び新しい命へと転生できるよう、しかるべき流れの中に還してあげることだけ―――
『どんなに理不尽な死であろうとも、それは生きるものすべてに与えられた終わりの形。どれだけ力を与えられようと、どれだけ知恵を与えられようと、自由を許されようと、死と転生の理に手を出すことは本来許されぬこと。それが許されるのは、この世界でただ一人――そなたら人間が”神”と崇める存在だけだ』
『ぁ……』
アイゼリウスの言葉に、キラはその場に力なく座り込み、それから己の愚かさを知って泣き崩れた。
自分は力もなければ、何も知らない馬鹿な子供だ。そればかりか、何も知ろうともせずに大事な相棒を追い詰め、傷つけてしまった。
―――タス、ケ…ミ、コ……ヒ、カリ、ノ…
『ごめんなさい、ごめんなさいっ…』
だんだん小さくなっていくアンソールの声は、それでもずっとキラに助けを求めていた。ただ一つの希望だけを信じて弱弱しく伸ばすその手をとることもできず、キラはただ無力さに泣き、謝ることしてかできなかった。
ついにアンソールの顔全体が黒一色に染まり、背中の触手も役目を終えたかのように力なく萎れ、枯れていく。肌に浮き出た血管が脈動を収め、静かに皮膚と同化し硬質化して行く様子に、誰もが今まさに一つの尊い命が終わろうとしていることを悟った。
『……ごめ、なさいっ…』
『キラぁ……』
相棒の悲しみを受け、アウラもまたアイゼリウスの腕の中で涙を流す。
誰も言葉にできず、二人が泣く鈴の音だけが悲しく響く中、そっと優しくキラの肩に触れる手があった。
「キラ―――何もできないのは、君だけじゃない。僕も、ここにいる皆も同じだ」
『クラウ、君…?』
「それでも、僕も君も、最後まで見届けなければならない―――」
消えゆく命を前にただ立ち尽くす。どうしようもない罪悪感と無力さを、あふれる悲しみで覆い隠すその弱さに己の未熟さを知りながら、それでも目をそらすことなく最後まで見届けなければならない。それが、先の未来を生きていく者の務めではないのか。
アリーシャが、最後の時まで優しくコモルに寄り添ったように―――
クラウはキラの隣に並ぶと、ローブのポケットから笛を取り出し、いつものように吹き始めた。
不可思議な音色が音の波動となって、会場中の空気を穏やかなもので満たしていく。一人さまようアンソールを労り、ベールのように優しい音色で包み込み、今まさに天へと上るその魂をあるべき場所に導くための調―――
やがて苦しみと絶望に染まって歪んでいたアンソールの表情が、徐々に解放され、生前の穏やかな表情を取り戻していく。
「これは…」
フェンデルは、鳴り響く音の正体を知って、ただ驚きに目を見開いた。単なる笛の音ではない。その一音一音に、強力な魔力の波動を感じ、フェンデルは己の足先から何か得体のしれないものが身体を突き抜ける感覚に、身体を震わせた。
「アイゼス…!あの子はっ…」
『―――フェン、今はただ、あの二人の思うままに』
それが世界の意志であり、アンソールにとっての最後の慈悲だと、アイゼリウスは相棒の手を優しく握った。
『クラウ君…』
いたわるように、励ますように耳に届く音色に、キラは自然と心が落ち着いていくのを感じた。それから、以前ガーナでココルから言われた言葉を思い出して、キラは涙で滲んだ視界をぐっと掌でぬぐった。
一度手を出すと決めたのならば、どんな結末だろうと最後まで見届ける覚悟を持たなければならない。それができないのなら、安易に手を出してはいけないと忠告されたはずだ。
それが人の生き死に関わることなら、なおさらだ。
ただアンソールを救いたいと思い、此処まで必死に走ってきたことを後悔などしない。種族に関係なく、救いを求める人に分け隔てなくアウラの愛を与えることに戸惑いなどない。それでも、救える命と、救えない命があって当然なのだ。
何故なら、自分もまた、ただ世界に抱かれて生まれ、世界に還っていく魂の一つに過ぎないのだから―――
一つの命が散るこの瞬間に、自分が居合わせる意味がどこにあるのか。泣くだけ泣いて終わるのか、それとも何かのために最後まで足掻いてみせるのか、すべてが自分の意志で決まるというのならキラは後者でありたかった。まだまだ子供で、積み重なる悲しみを背負っていく覚悟すらままならない未熟な人間だけれども―――それでも、自分は生きている。生きているのだ。
キラは笛の音に励まされるように立ちあがった。それからアンソールの前に立ち、こちらに向かって伸ばされた黒い手をとり、キラは優しく握りしめた。
冷たい手だった。
血の通う脈動もなく、生の気配も薄れた、死人のような手。しかし、触れあった指先から、キラの心へと次々となだれ込んでくるものがあった。
産声を上げ、初めて知る家族の温もり
新しい家族の誕生に、笑って泣く声
認められ、褒められ、歓喜に踊る心
悩み、苦しみ、それでも挫折を乗り越えて踏み出した一歩の重さ
出会い、そして、初めて知る愛という激情の尊さ―――
キラの心に、アンソールが歩んできた数々の思い出が一杯にあふれ、弾け飛ぶ。
『助けてあげられなくて、ごめんなさいっ。見つけてあげられなくて、ごめんなさいっ…。私がしてあげられることは、もうないけれど…。それでもっ、それでも最後に、何かっ…!』
――――…どうか、一つだけ、彼女に伝えて欲しい
届いた声は、苦しみから解放された穏やかな青年の声だった。少し高めで、不思議と人を落ち着かせる声色。伝わった思いは無限の愛と優しさであふれていた。
黒く染まったアンソールの口端が、僅かに笑みをかたどった気がして、キラは大粒の涙をこぼしながら必死で頷いた。
『はい…必ず、必ず届けますっ…!あなたの最後の言葉、私がちゃんと、届けます!』
―――…ありがとう
綺麗な微笑と共に、黒い体が握った指先から一気に崩れていく。その時こそが、アンソールが己の死を受け入れた瞬間でもあったのかもしれない。
淡い光と、緩やかに吹きつける風が、舞う砂を天へと導いていく。その光景を決して忘れることのないよう目の奥に焼きつけながら、キラはただ魂の安寧を祈りながら見送った。
さようなら、さようなら―――
またいつか、この地に生まれるその日まで、どうか安らかに―――
――――『旅立つ命の花に 万の花の愛を知る
還るは深淵の底 揺れる魂のゆりかご
眠れ、眠れ
その身をゆだね
闇に抱かれ 廻る輪の唄を聞きながら
ただ、世界の愛の底で静かに眠れ』
もし本当に、この世界に”転生”という理の掟が確かにあるならば、世界の愛の元もう一度彼の魂が大地に花咲くことを願いながら、クラウは崩れた砂が迷いなく天へ上り消えるまで笛を吹き続けた。