29 起源
時節は6月に突入していた。
じめじめと続いていた雨の気配は徐々に遠のき、北の変節期の影響を受け、少しだけ届く風が涼しくなった今日この頃―――
クラウ達5班はと言えば、来週に迫った第二試験のために猛勉強を行っている最中であった。
「―――君は、何度説明すればわかるのだろうか」
「………」
「いいか?魔生度と魔成度は、どちらも魔法発動時の各属性飽和度を示すものだが、その意味するものは全く違う。魔生度はいわゆる大気中の魔力のように自然界に流れる魔力から発動された魔法の属性飽和度を指す。一方、魔成度は、人が体内の魔力を集め、体外に放出する際に意図的に作り出す魔法の属性飽和度だ。この問題は、例題にある人物の場合の魔成度火属5の魔力生成にかかる時間を答えろと書かれているのだから、当てはまる数式は熱量による魔力の変質遅延と、物質透過にかかる負荷遅延の計算式を使って――――」
「……あーもう!何言ってんのかさっぱりわかんねぇよ!!!」
まるで呪文のようなクラウの説明に、ユウマはこれ以上耐えられないと机に突っ伏した。
場所は、すっかり花組5班専用となりつつある自由鍛錬場である。いつもならクルックの笛に合わせて全員で鍛錬にいそしんでいるところだが、他の仲間3人がせっせと個人メニューをこなしている中、ユウマだけがクラウと顔を突き合わせて魔法定理の例題を解いていたのだった。
絶賛、クラウのスパルタ勉強会開催中である。
「だいたい、そんな飽和度なんて求めてどうすんだよ?この先ぜってぇ使わねぇ知識だろっ。いちいち数値考えて戦闘するやつがいるか!?」
結局、戦闘なんてものは『センス』と『直感』がすべてではないのか。ユウマはそんな意味のない文句をクラウにぶつけて、ふてくされて見せた。
「確かに、実戦で役に立つかと言えば微妙なところだが。学問とは大抵がそういうものだ。だが、知っておいて損はないし、なかなか興味深いものだぞ」
「そりゃあ、お前みたいなやつはそうだろうよ……。はぁ、ほんと、魔法定理は一番苦手だぜ」
と、ぶつぶつ弱音を吐くところをみると、相当まいっているらしい。
確かに、一筋縄ではいかない分野だし、興味が別れるのもうなずける。クラウのように教科書であろうが雑誌であろうが、有用な知識を取り入れられるものであればなんでも構わないという人間とは違い、人には好みや向き不向きというものがあるのだ。
特に、”感覚派”を謳うユウマには堅苦しい分野に感じるらしい。もともとの苦手意識もあるせいか、なかなか集中が続かず、クラウが何度説明しても、脳みそに刻まれることなく耳から耳へと通り抜けて行ってしまうのだった。
――― まぁ、気長にやるしかなさそうだな
とりあえず、当初の目標通り、赤点だけは回避できるよう休日も返上して勉強だなと、クラウはひそかに決意した。
「ねぇねぇ、皆でご飯食べに行こう」
「僕は先約があるから、ここで失礼する」
終了の鐘が鳴って早々、鍛練を終えたエドガーがさっそく夕食の誘いの声を掛けてきたが、クラウは一人断った。これからどうしても外せない用事があるのだ。
「あ?今から?どこ行くんだ?」
「ベルクア先生のところだ。時間がかかるだろうから、今日は僕抜きで食べてくれ」
「そっかぁ、残念だね」
「すまないな。エドガー、あまり食べすぎるなよ。油の摂取は控えめにな」
「う、はい…」
「それから寝る前の間食も控えておけ。胃に悪いからな」
「……はぁーい」
時間がないのか、口早にいろいろ仲間に忠告してから、クラウは足取り軽くその場を去って行った。
「…なんかあいつ、機嫌よかった?」
「そうね…。どの辺がって聞かれると、微妙だけど…」
と、ユウマとニトが顔を見合わせる。
そんな仲間の疑問は遠からずあたっていたのか、颯爽と去っていく後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまったのだった。
◇
仲間と別れたクラウはイアを伴い、いつもよりも小走りで目的地に向かっていた。どうしても気持ちが急くのを抑えられず、見慣れた研究塔へ入っていくときにはほとんど駆け足だった。いっそのこと階段を飛び越えて一気に五階まで駆けのぼりたいところだが、その辺はまだ冷静でいられたらしい。クラウは逸る気持ちを抑え昇降機に乗ると、てきぱきと起動して5階へと登った。
「遅くなってすみません」
「いえ、きっちり時間通りですよ?」
ドアを開けて挨拶すれば、真ん中の作業台で何か準備をしていたらしいベルクアが振り返った。
「珍しいですね。もしかして、走ってきたんですか?」
「はい」
「おやおや。そんなに楽しみにされると、こちらも教えがいがありますね」
およそ慌てるという動作が不似合いなクラウの珍しい姿に、ベルクアは良いものが見られたと楽しげに笑った。
「―――では、さっそく始めましょうか」
「はい」
荷物を置き、ベルクアの隣に立つ。机上にはベルクアがあらかじめ準備したらしい道具が一式そろっていた。その中央に置かれた瓶の中身は、キラキラと光る黄色の粉―――――ランクル<源魔硝石>だ。
そう、今日はクラウが待ち焦がれた、魔法陣制作が実現する日なのである。
「あまり細かいことまで説明していると、いくら時間があっても足りませんからね。今日は大雑把に流れを説明して行きましょう」
「はい」
「では、まずこちらを―――」
ベルクアは一枚の紙を机に広げ、クラウに見せた。
「これは?」
「最終的に君に作ってもらう予定の魔法陣の下書きですよ」
「おお…!ついに完成したのですね?」
かねてより開発を頼んでいた、例のエドガーの腕の魔力反射の魔法陣である。
「まだ試作の段階で調整は必要でしょうが、君からの要望には概ね応えられているはずです」
「お忙しいのに、ご無理を言って申し訳ありません」
「いえ、私も久しぶりに有意義な時間を過ごせましたし、十分楽しめましたよ。ここしばらく別の研究につきっきりでしたからね。いい息抜きになりました」
と、にこにこと明るい笑みを浮かべて言うベルクアは、確かに楽しそうだ。
難しい問題ばかり考えていると、たまにシンプルで基本に忠実な問題を解きたくなる感覚は、クラウもよく理解できた。
「―――さて、この魔法陣を見て、君が今自力で読み取れる情報を教えてください」
「はい」
ベルクアに問われ、クラウは目の前の下書きを凝視した。
形はずいぶんとシンプルだが、組み込まれた文字数は多く、さすがにクラウもそのすべてを解読することは不可能だった。
基本情報は、ゼウラ<光属性>・ブレ<解放>・ベステ<生成>に指定されている。つまり、大気中の魔力を取り込み、光属性に変質して利用することで魔法を維持する仕組みだ。
次に、円の数は三つ。二番目の円には、クラウも見慣れた文字が並んでおり、魔法の形を示す文字だとわかる。そう『結界』だ。
「魔法防御特化の包囲結界ですね…、結界の形状―――反射に維持の法則でしょうか…ん?この辺の数字は何でしょう…?」
脳に焼き付ける勢いで凝視し、知識を総動員して考察してみる。しかし、どこかで見たような記憶もあるのだが、やはり知識が不十分な所為か、ぼんやりとした解釈しかできなかった。
「―――ダメですね。今の僕ではこの辺が限界です」
「…いや、十分だと思いますがね」
と、ベルクアが呆れた笑いを返す。
自分も頭の出来はいい方だと思っているベルクアだが、そんな自負も、クラウのあふれる才能を前にすると霞んでしまうらしい。
「…まぁ、君の頭の構造についてはこれ以上気にしないことにしましょう―――さて、今君が言ったように、外から魔力を取り込んで常に結界を維持することがこの魔法陣の目的です。これの元となっている魔法陣は、聖導師が治癒魔法を施す際に、別の魔力の干渉を避けるためにと作られたものなのですが、今回はそれに少し改良を加えた形になりますね」
「なるほど」
人の身体には常に魔力が満ちているのだ。外部から治癒魔法を施すとなると、どうしてももともとある魔力が弊害となり、うまくいかないのだろう。そこで結界を張ることで魔力の流れを遮断し、治癒に適した空間を維持するのが医療の魔法陣の基本的な役割だという。
「ではここからが本題です。準備はよろしいですか?」
「はい」
いよいよ実戦の時である。
クラウの瞳が期待にきらりと輝いた。
魔法陣を作るにあたって必要なものは、魔法陣の下書き、土台となる生成場、それからランクルである。すでに机上に準備されたそれらを、クラウはようやくここまでこぎつけたことへの満足感と期待の想いで見つめた。
下準備も気合いも十分である。
「まず、魔法陣を作りたい場所に、このチョークで魔法陣を描いていきます。とりあえず今日は陣符の上に描いてみましょうか」
布に魔法陣を張り付けるには、またいろいろと段階を踏まなければならないらしい。今日は初回ということで簡単なものにしようと、ベルクアは魔法陣が下書きされた用紙の上に薄い半透明の板を重ね、それから白っぽいペンのようなものをクラウに手渡した。
「これは?」
「特殊な魔力を秘めた結晶石を砕いて作ったチョークですよ――――いいですか?魔法陣を作るにあたって一番大事なものは、何よりも『美しさ』です」
「はい」
それは、これまで様々な魔法陣を目にしてきたクラウもよくわかっている点であった。
文字や順番の間違いは論外だが、間隔、大きさなどいかにバランスがとれた美しい魔法陣が描けるか。それがこの作業の最大の鍵となるのだ。
歪みは魔力伝達に不安定さを与え、魔法暴走にもつながりかねないので、とにかく正確に描くことが重要だとベルクアは注意した。
「―――ではどうぞ、始めてください」
さっそく、自力で描いてみるように促され、クラウは手にしたチョークを使って描き始めた。
持ち前の集中力を発揮し、黙々と手を動かす。
初めての作業には誰だって緊張をきたすものだ。さすがのクラウも、慣れない作業にてこずっているかといえば――――――実は、そうでもなかった。
散々目についた魔法陣を書き写しては、自分なりにいろいろとアレンジして描き直したりしていたのだ。今更手間取るはずもなく、複雑な文字もなんのその、地球でいう定規のような道具もちゃんと使いこなし確実に描き上げていく。
「なんともまぁ、器用ですねぇ…」
と、隣で手元を覗いていたベルクアが思わず感嘆のため息を漏らすほど、その手際は鮮やかであった。
一応失敗した時のためにとあらかじめ何枚か予備の板を準備していたのだが…まぁ、いらぬ気遣いだったらしいとベルクアも舌を巻く。
そして、あっという間に描きあがったそれは、長年研究生たちの制作様子を見てきたベルクアを唸らせるほど美しいものであった。
「できました」
「―――いや、もう何も言いませんよ、ええ…」
「どこか、間違っていましたか???」
「いいえ、文句のつけようのない、大変素晴らしい出来ですよ―――では次に、この上にランクルを均等に振りかけてください」
「はい」
クラウは渡された瓶を掲げて、描いた魔法陣の上にぱらぱらとランクルをまぶしていった。下地が見えなくなるまで均等にばらまいたところで、ベルクアのストップがかかった。
「その辺でいいですよ。さぁ、最後の仕上げです」
「もうですか?」
「ええ。とはいえ、この仕上げが一番難関ですがね」
ベルクアの言葉に、クラウも気を引き締めた。
「このランクルという粉は幾分変わった性質を持っていましてね。外側から魔力の影響を受け圧力がかかると、融けて、再結合するんです」
「本で読みました。再結合すると、魔力を帯びたまま結晶化するとか―――」
「おや、さすが予習は完璧のようですね。そうです。このチョークも同じ結晶石を砕いて加工されたものなので、僅かながら魔力を帯びていることになります。そこに、さらに上から魔力を押し付けると、ランクルがちょうど魔力の壁に挟まれる形になり、チョークで書いた部分だけが融解し、結晶化する―――という感じですね」
「なるほど」
大分端折った説明ではあったが、クラウには十分だった。一を知れば、二も三も理解する男である。
「つまり、上から均等に魔力を押し付ければいいというわけですね?」
「え、ええ、そうですが―――」
ベルクアが頷くのを見て確証を得たクラウは、さっとランクルの上に手を掲げ、そのまま掌に魔力を集めていった。
何をする気だと、ベルクアが一瞬息を飲む。
しかし、クラウは驚くベルクアをそのままに、要領よく集めた魔力を丸い円盤を描くように整えた。
要はプレス機のように、魔力の壁でランクルを上から押しつぶすイメージだ。それも素早く、一瞬でかたをつける方が、よりきれいに仕上がるらしい。
以前読んだ解説書の一文も参考にしながら、クラウは魔力の塊を机上に押し付ける勢いで解き放った。
すると―――
ぶつかり合った魔力とランクルが融合し、一瞬の光と共に盤の上に美しい魔法陣が形成されていった。
「おお!」
「おやおや、これは…」
二人の驚きの声が重なる。もちろんクラウの驚きは、出来上がった魔法陣の完成度に感動したものである。しかし、ベルクアは少々違った感動を覚えたらしく、その視線はじっとクラウの横顔へと注がれていた。
「先生、できました。いかがでしょう?」
「―――ええ。本当に、素晴らしいですよ。とてもね」
「ありがとうございます」
褒められ、クラウも自分が作った魔法陣をじっと見つめた。
下書き通りに光を放ち、輝く魔法陣――――それは寸分の狂いもなく、クラウがこれまで目にしてきたものと比べても何の遜色もない美しい魔法陣であった。
しかし、意外と簡単にできるものなのだな思う。
ランクルの扱いは難しく、陣作成は毛嫌いされる分野だと散々聞かされてきたが、実際にやってみればなんてことはない。ただ描いて魔力をぶつけるだけでできてしまうのだ。
これならいろいろと自分で試せそうだと、その“難しさ”を理解できないまま、クラウは脳内で様々な設計図を思い描き、期待にその瞳を輝かせた。
◇
「――――少し、休憩にしましょうか」
そっと席を離れたベルクアは、しばらくしてお茶が入った湯呑を二つ手にして戻ってきた。その一つをクラウに手渡し、自分の席に座って一服したあと、彼は初魔法陣作成の感想をクラウに尋ねてきた。
「想像以上に、とても素晴らしい体験でした」
「それはよかった」
相変わらず表情の変化は乏しいものの、心なしかクラウが興奮している様子がわかり、ベルクアも満足そうに笑った。
「―――先生、一つ疑問なのですが。お聞きしてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「何故、ランクルは大気中の魔力の影響を受けないのでしょうか?」
「…ああ、なるほど。良い着眼点ですね」
ふむ、とベルクアは一つゆっくりと頷いた。
「簡単に言えば、大気中の魔力と我々がもつ魔力が異なるからですが…。君はそもそも、魔力の成り立ちがどういうものか知っていますか?」
「……いえ。以前、“世界の力”を元にして生まれるものだと聞いたことはありますが…」
「なるほど。では、その“世界の力”とは、何だと思いますか?」
クラウがわからないと答えると、ベルクアはニコッと笑みを浮かべた。
「“闇”ですよ」
「闇…?」
「ええ。はるか昔、起源の時―――この世界は、たった一つの“闇”から始まったという話です」
むかしむかし―――――
闇に沈む世界の中心に、一人の男がいました。
彼は、この世界ができると同時に生まれ、あらゆるものの創世者としての力を持った、最初の生命でした。暗く、深い、無限の闇だけが広がる世界で、男はたった一人何をするわけでもなく、ただ時の流れに身をゆだねて生きていました。
何十年、何百年、何千年…
いや、数えるのも億劫なほどの時を過ごしたある日、男はふと思いました。
なぜ、自分は一人なのかと―――
芽生えた疑問は、男に行動を起こさせました。
一人ならば、もう一人作ろうではないか―――
そんな明快な答えに辿りついた男は、世界の根元に一つの“輪”を作りました。
この満ち溢れる闇の力を分け与え、自分と同じ自我を持った生命を創造し、同じ時を共有する命を育むしくみ、いわゆる“生命の輪”というものです。
やがて、また幾何かの時が過ぎたころ。
世界に、二つ目の新しい命が生まれました。
『ここはどこだ?私は誰だ?』
生まれたばかりの意識は、そう男に語りかけました。
「お前は俺の、世界の一部だ」
『何故、私はここにいる?』
「俺が望んだからだ」
『何のために?』
「お前を納得させる理由など必要ない。ただ、それが俺の意志だったからだ」
男の意志、それすなわち、世界の意志――――
彼が望むまま創造された命は、同じ闇の中で、同じ時を過ごすべく生まれゆく。
やがて、多くの種族が誕生し長い時が過ぎる中で、いつしか闇より生まれ出でし彼ら”黒き一族”は、こう呼ばれるようになっていきました。
『起源の一族』
またあるいは、『闇族』と―――――
「闇族……?」
まさか、ここでその単語が出で来るとは思わず、クラウは語るベルクアの顔を凝視していた。存在自体が伝承じみていて、どんなに探しても見つからなかった彼らの記録を、何故、目の前の男が知っているのか―――
「おや、君でもそんな顔をすることがるんですねぇ」
と、ベルクアはクラウの反応をからかうように笑った。
「…今の話は、実話なのですか?」
「―――さて、どうでしょうね。私も人づてに聞いただけですから」
「では、その方は今どこに?どういった方なのですか?」
「気になりますか?」
「はい」
「ふふ、素直ですね。…まぁ、いいでしょう。その素直さと、類まれなる優秀さに免じて、一つ昔話でもしましょうか――――彼は、キドム<語り部>とよばれる吟遊詩人のひとりでした」
ベルクアはそう言って窓の外の日が落ちかけた景色を見つめながら、懐かしむように語り始めた。
「…あの日も、ちょうどこんな夕日がまぶしい時でしたね。私がその年老いたキドムに会ったのは、名前も思い出せないさびれた街の路地裏でした。
やせた体に、ぼろぼろの身なり…。およそ人に何か芸を魅せる技能があるようには見えず、誰にも見向されないまま、その老人はただ手元の弦をぽつりとはじいているだけでした。しかし、その瞳が妙に印象的でしてね。歳を召しても隠しきれないその美しさに、私はひと目で惹かれ…。気づけば、一曲披露してくれと申し込んでいたんです」
そのとき語り聞いた話の中に、今の物語が入っていたのだという。だから、老人が創ったおとぎ話なのか、本当の話なのかは知らないとベルクアは答えた。
「確かに、人が聞けばごくありふれた神話の一つに聞こえるのかもしれませんが。しかし私は、何の根拠もないこの老人の語り話が好きなんです――――なかなか夢がある話だと思いませんか?」
すべての命が、始まりの”闇”に通じているというのなら―――
散った命が還る場所もまた、黒一色に染まった冷たい世界の底なのだろうか。
「死して還り、混じり融け合い、世界の一部となってまた芽吹き、生まれゆく。
それがこの世界の根底にある『普遍の掟』だというなら、人間もまたその掟に従い、いつか世界に還っていくのでしょう。
しかし、ふと思うのです。
罪を罪とも認めない愚かな存在に、その資格があるのかと…。
理からはじき出されてしまった命はどこへ行き、どんな末路をたどるのか―――
私はね、ただ知りたいのです。
世界の意志が下す、この”見捨てられた魂”の行く末を―――」
「それは、どういう………」
聞き返そうとしたクラウの声と同時に、学園の鐘が盛大に鳴り響き、クラウに寮に戻る時間を知らせていた。
「おっと、案外時間が経っていたようですね。今日のところはこれで終わりましょうか」
振り返ったベルクアは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「門限もありますし、さすがに学生の君を遅くまで拘束するわけにはいきませんからね。続きはまたの機会にしましょう」
「……はい、ありがとうございました。大変、勉強になりました」
クラウは残念に思いながらも、あまり迷惑をかけるものではないと席を立ち、お礼を言った。
それから今日つくった魔法陣と、ランクルを少しだけ分けてもらい、イアを促し研究室を出る。
「―――そうそう。最後にもう一つだけ」
去ろうとしたところに後ろからベルクアの声がかかり、クラウは振り返った。
「知っていますか?
彼ら起源の一族は皆、闇より深い『漆黒の髪』と、すべてを見透かす『黄金の瞳』を持っているそうですよ。
――――ああ、そうですね。
ほら、ちょうど君の隣にいる、漆黒のお姫様のような感じでしょうかね」
パタンとしまった扉の向こう側―――
赤く燃える夕日の中、見えたその最後の笑みに、クラウは己の心のどこかがざわつくのを感じた。
◇
「―――さて、どうしたものですかね」
どこか冷めた空気が残った研究室で、ベルクアは一人思案した。
五階の窓から地上を見下ろすと、ちょうど夕日に向かって帰る少年と聖獣の後姿が見える。
その小さな背を見送りながらこの先の展望を予測してみるが、あいにくうまくいかず、ベルクアは困ったように口元に笑みを浮かべた。
彼としては、できればもう少し彼の少年の傍で『平穏で非凡な日常』を過ごしてみたいとも思うのだ。しかし、どうやら風向きは己が望むものとは別の方角へ吹き始めているらしい。
「なんだ?あのガキがどうかしたのか?」
「おや、ウキョウさん…!もう戻ったのですか?用事、意外と早く終わったんですね?」
いつからいたのか、気配を消したまま隣に並び、同じく少年に視線を向ける男の姿に、ベルクア――――いや、ベルゲンスは大げさに驚いて見せた。
「……チッ、やめろ。気づいてたくせに、白々しいんだよ」
「おっと、あまり機嫌がよろしくないところを見ると、有意義な決闘とはいかなかったようですね?」
「ふん。無駄な刀のさびが増えただけだ、胸糞わりぃ……ほらよ」
ウキョウは不機嫌そうに吐き捨てると、持っていた包みをベルゲンスに押し付けた。
「なんですか、これ?」
「土産だ。久しぶりにジゼルに寄ったんでな。名物の黒饅頭だ」
「………」
「なんだよ?」
「いえいえ、これほど似合わない組み合わせも珍しいなと」
「チッ、なら食うなっ」
「ふふ、冗談ですよ」
ふて腐れたように人の席に座るウキョウをあやしながら、ベルゲンスはもらった黒饅頭を一つ手に取ってかぶりついた。
こういった俗世の食べ物にはあまり興味はないのだが、なるほど、名物というだけあってベルゲンスでもおいしいと思える味であった。ぎっしり詰まった餡がすこし甘ったるい気もするが、こういうものなのだと理解して咀嚼する。
「―――ていうか、あの聖獣」
「?どうしました?」
ウキョウの呟きに、ベルゲンスは饅頭を頬張ったまま視線を向けた。
「ガーナで見かけたな。二回目の襲撃の時だ」
「……ほう。彼らも、あの時、あの場にいたと?」
「たぶんな。ガキは微妙だが、聖獣の方は間違いねぇ」
「なるほど」
はっきり断言するウキョウに、ベルゲンスは納得したように頷いた。
「確かに目立ちますからね、彼女。さすが”戦聖”の一員だけあって、そのあふれ出る気品は隠せないようです」
「戦聖………?おい!まさか、冗談だろ?」
「―――おや、気づきませんでしたか?私の記憶違いでなければ、二つ文字の『イア』という名は、確か二番目だったはずですよ」
「はあ!?二番!?」
唖然と固まるウキョウの反応に、ベルゲンスはくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。
「ずいぶんいい反応ですね。あなたがそんなにうろたえるなんて、珍しい」
「……本当に、相手が戦聖の次席だってんなら、そう笑ってもいられねぇだろうが」
むしろ、余裕そうに黒饅頭を食べているベルゲンスの方が理解できないと、ウキョウは苦い顔をした。
「だいたい何でそんな“物騒”な奴が、人間の、しかもあんなガキの後ついてうろうろしてやがる?何者だ?そのガキ……」
「さて、私もそれを知りたいところなのですがねぇ―――とはいえ、知りたくないというのも、本音といいましょうか」
「ああ?なんだそれ」
意味が分からんと、ウキョウは面倒くさそうな顔をした。
「いろいろと複雑なのですよ。それ以前に私は彼がとても気に入っているんです。できればこのまま良好な関係を築いていきたいところですが」
「……まさか、仲間に入れるとか言い出すなよ?これ以上面倒事が増えるなんて、ご免だぜ」
冗談じゃないと、ウキョウはベルゲンスをギロリと睨みつけて、先に釘を刺した。
「おや怖い。子供だからって、そう毛嫌いしなくてもいいではありませんか。確かに優秀すぎる気もしますけど、彼の才は十分、我々の力になるはずですよ?」
「…ふん。そんな“優秀”な奴が、大人しく言うこと聞くのか?」
と、ウキョウが憮然と言い返せば、ベルゲンスはまたにっこりと笑った。
「ふふ、どうでしょうねぇ。彼には何やらすでに大きな目標があるようですし。その意志は固いとみえる」
「なら、今のうちにつぶしとくんだな。あとで面倒になってもしらねぇぜ」
「……あまり事を急くものではありませんよ、ウキョウさん。時には慎重さを心がけることも大事なのです」
相変わらず野蛮で短絡的な物言いをする男に、ベルゲンスがため息をついて諭すが、人間そう簡単に性格は変わらない。
「ふん、柄じゃねぇな。やるか、やられるか―――そんだけだろ?」
「困った人ですねぇ」
とはいえ、ベルゲンスもよくわかっていたのだ。
このままの”日常”が長く続かないことも、いつかは判断を下さねばならないことも。
焦りは禁物だと諭す一方で、世の中『先手必勝』という言葉があるように、出遅れ、後々苦い汁をすする事態だけはベルゲンスも避けたいと思うのだ。
「これを好機ととらえるか否か。…しかし確かに、主様が眠っている今のうちに知っておくべきなのかもしれませんね――――ウキョウさん」
「あ?」
「戻って早々、申し訳ありませんが。一つ仕事を頼まれてくれませんか?」
「………」
ニッコリ笑顔付きで言われ、ふと嫌な予感に囚われたウキョウは返事を返さなかった。しかし、そんな子供じみた反抗でベルゲンスが許すはずもなく、
「調べて欲しいことがあります」
と、有無を言わさぬ笑みを押し付けるように、命令を下したのだった。
『戦闘以外はお断り』と、最初に一筆書いておくんだったと今さら後悔しても、後の祭りである。
「―――で?何しろって?」
仕方ないと聞き返すウキョウに、ベルゲンスは机の引き出しからメモ書きされた紙切れを取り出して渡した。
「これは…?」
「ディレイスに登録されている、彼の故郷の場所です。
ウキョウさんには今からそこへ出向いていただいて、彼の母親だと名乗る人物を見てきてほしいのです」
そこにあるのは『勝利への鍵』か、あるいは『破滅への手綱』か―――
いずれにせよ選ぶ道は一つ。
「私という存在は、すべてあの方のため。
もし君が、主様にとっての苦しみの種となるのなら、私は喜んで君の敵となりましょう。それが私が選ぶ”正義”です。
世界が信じる正義と、私が信じる正義。
どちらが勝つにせよ、今は知ることが先手。そうでしょう?
さしずめ、君がどこからきたのか―――
すべてはそれからです――――ねぇ、小さな探究者どの」
沈んだ夕日の先、とうに見えなくなった少年に問いかけながら、ベルゲンスは優雅に笑った。