1 加宮誠吾という男
加宮誠吾、24歳、独身。
突然だが、彼のその短い人生を振り返ってみる。
父親の名前は誠太郎。
東京の郊外に一軒家を構え、外科医として日々多くの患者の命を救っている優秀な男である。
そんな父親のモットーはただ一つ。
「超えられない壁はない。目の前の困難を試練と受け止め、日々努力すべし」
とにかく、誠太郎は度を越す努力家であった。
言葉通り、その勤勉さは感心を通り越して異常者扱いされるほどで、周りの人間にも「ある種の才能なのではないか?」と噂されるほどであった。
超一流大学の医学部を首席で卒業し、その後順調に経験と実績を積み重ね、医学の世界で名前を知らないものはいないほどの有名人に成り上がる。顔よし、スタイルよし、頭よし、性格もそれほど目立った癖もないと来れば、世の女性が放っておくはずはない。実際、彼はよくモテた。
しかし、ただ一つ、彼の欠点をあげるならば、それは自分の子供に全く興味がなかったことだろう。
息子である誠吾が生まれたのは、誠太郎が26歳の時。お手伝いからの連絡を受け、自分に息子が生まれたことを知ったのは、大事な手術が始まる一時間前のことである。
さて、そこで歓喜に胸躍らせ、手術を後回しにして走り出す、なんてホームドラマのような行動をこの男がするはずもなく…。誠太郎にとって、「息子の誕生」という知らせはただの連絡事項でしかなく、電話を切った直後には頭の隅の方へと片付けられていた。
結局、誠吾が病院を出るまで、誠太郎が息子に会いに行くことはなかったのであった。
次に母親。名前を小百合。
合理主義の敏腕弁護士で、数々の勝訴を勝ち取ってきた大変優秀な女性である。
しかし、その何とも可憐な名前に似合わず、彼女の性格は大変男らしかった。
「強い人間になりなさい。欲しいものを手に入れるための力を手に入れなさい」
そんな言葉とともに近所の空手教室に放り投げられたのは、誠吾が3歳になったばかりの頃である。
「力とは何ぞや?」という疑問を持つ間もなく、その日から誠吾の鍛錬の日々が始まった。
皮肉にも、父親の「異常な」努力家という部分をきっちりと受け継いでしまった誠吾は、周りがドン引きするほど黙々と練習に励み、母親のいう「強い人間」というものを目指して日々精進した。
朝いちのランニングに始まり、腹筋、スクワット、腕立て伏せ各100回のセットメニューをこなしてようやく朝食にありつく。放課後は稽古に励み、休みの日も自主練習は欠かさない。そんな努力の甲斐あってか、いつしか、周りで誠吾の相手をできるものはいなくなっていった。
あるとき、誠吾はふと考える。
母親のいう「強い人間」というものになれたのだろうか?と。
しかし、その答えを母親に問うことはできなかった。なぜなら、当の母親は誠吾を道場に預けて以来、その世話一切をお手伝いの八重子に任せ、育児にかかわることは一切なかったからである。
誠太郎同様、彼女もまた、自分の子供には何一つ興味がなかったのである。
結果、加宮誠吾の生まれ落ちた場所に愛情というものは一切存在しなかった。
変わり者の両親から与えられたものは、住居と暮らしに困らないだけのお金、お手伝いとして雇われた八重子、そして、一般人には解せない「異様」な信念だけであった。そんな両親のもとに生まれてきてしまった不憫な子供に対して、周りのみんなは何かと同情の目を向けた。
しかし、変わり者の両親の血を受け継いだ誠吾も、やはり変わり者であった。
ベテランお手伝いの八重子は言う。
「坊ちゃんはある意味大物です」と。
誠吾は自分の生まれた環境が周りと比べてずいぶん違うのだということを早々に理解していた。自分の周りに愛情というものが欠落していることに気付くと、それを悲観するわけでもなく、ただの事実として受け止めた。そしてさらに考えた末、これは父親のいう試練の一つなのだろうと結論付けた。ゆえに、「両親が自分に興味がないのは自分の未熟さの結果であり、努力が足りないのだ」と。ならば「愛情欠落という壁をのりこえるためにはもっと努力しなければならない」と――――
誠吾は頑張った。
八重子が気味悪がろうが、周りの人間がドン引きしようが、誠吾は努力し続けた。わからないことは徹底的に調べ上げ、なぜこうなるのかと原因を突き詰める。できないことはできるまで繰り返す。予習と復習、そして試行錯誤の繰り返し。自分の知らないことには何でも興味を示し、知識を吸収するべくあらゆる努力を尽くす。当然ながら学校のテストはオール満点、成績においては常にトップを走り続けた。もちろん「強い人間」を目指すため、日々の鍛錬も欠かさない。
八重子はいう。
「坊ちゃんは努力の天才です」と。
実際、周りの人間はみな誠吾の頑張りを認め、尊敬していた。その迫真さに涙を浮かべる人もいるほどで、近所では誠吾の噂が絶えなかった。
しかし、彼が一番認めて欲しいはずの両親はやはり無関心であった。
あるとき、誠吾が持って帰ってきたオール満点の答案用紙に感銘を受けた八重子が、これならば誠太郎も納得するだろうと、老婆心を働かせて目につくようテーブルの上に並べておいたのだが、その答案用紙を目にした誠太郎の言葉は八重子の想像とは全く違うものであった。
「努力をひけらかすな」
さらに誠太郎は言う、たった6歳の息子を前にして。
「自分を特別だと思うのは愚の骨頂。世界にはお前より優れた人間など数多くいる。驕るな、進め。悔いを残さぬよう、あらゆる努力と精進を怠るな」
実に誠太郎らしい、しかし、とても厳しい言葉であった。こんな幼い子供に向けていう言葉ではないだろう、もう少し誉めてやってもいいのではないか。八重子は歪な親子の姿を遠目に見つめながら誠吾に同情した。
が、しかし。
ここで発揮されるのが誠吾クオリティ。
誠吾は父親のありがたい?言葉を真正面から受け取り、その幼い胸に、脳に、体のあらゆるところに刻みこんだ。そして解釈する。自分はまだまだ底辺のひよっこで、まだまだ努力が足りないのだと。
誠吾の精進の日々は続く。
さらに数年後、誠吾が中学に上がったばかりのことである。
放課後の帰り道、誠吾はガラの悪い上級生に絡まれた。
相手は5人。
にやにやと笑い、よくわからない難癖を誠吾に向かって吐きつけてくる。しかし、無反応でいる誠吾にイラついたのか、だんだんとその口調は荒くなり、ついに怒鳴り声へと変わっていった。
「てめぇ、なんだその気持ちわりぃ面!目障りなんだよっ!」
ただのやっかみである。誠吾はモテた。半端なくモテた。頭の出来もさることながら、鍛えられた肉体美に、父親譲りの整った顔。そんな良物件を周りの女子が放っておくはずがなかった。しかし、それをよく思わない輩がいるのは当然のことである。
「いい加減気に入らねんだよ、その態度!なんとかいえや!」
だが誠吾は答えない。なぜなら誠吾は必死に考えていたからである。
――― こいつらは強いのだろうか…?
幼少期から続けてきた鍛錬の成果もあって、誠吾はずっと負け知らずであった。ゆえに、自分の強さというものがどの程度なのかをいまいち測れないでいたのである。
誠吾は、これは自分の力を試す絶好の機会なのではないかと、いきり立つ男たちを前に考えた。
相手は5人。不足はない。
すっと臨戦態勢をとる誠吾を見るや否や、敵は一斉に誠吾に襲いかかった。
結果を見れば誠吾の圧勝であった。
敵が弱すぎたのか、あるいは誠吾が強すぎたのかはわからないが、その差は歴然であった。
無残にも地面に沈んだ5人をしり目に、誠吾は再び考える。
結局自分は強いのか。
母親のいう「強い人間」になれたのか。
誠吾はさらに考えた。
周りを野次馬どもで囲まれ、通報に駆け付けた警察にその肩をたたかれるまで、必死に考え続けた。
そして数時間後、彼は思い知る。
事情を聴かせてもらうといわれ警察にしょっ引かれ、一から状況を説明し終えた誠吾を待っていたのは、超絶不機嫌な母親だった。連絡を受け、誠吾の身元を引き取りに来た彼女は誰の目から見ても不機嫌であった。それは母親とまともに顔を合わせていない誠吾にもよくわかるほど顕著で、誠吾は自分の行動が彼女を失望させたのだと落ち込んだ。
久しぶりに息子と対面した小百合は、子供を見下ろし、開口一番言い放った。
「力を誇示するな」
さらに小百合は言う。13歳の息子を前にして。
力はただの「手段」であり、強さは決して見せびらかすものではないと。力も知識も権力も、すべては勝負に勝つための「手札」。欲しいものを手に入れる、すべてはその一瞬のため。
能ある鷹は爪を隠す
弁護士である小百合らしい言葉であった。実際に彼女はそうしてこれまでの数々の勝負に勝ってきたのである。だが、果たして今この場で子供に向けていうべき言葉なのだろうか。周りで様子を見ていた警官たちはその奇妙な親子の会話に苦笑いを漏らし、特に息子に対しては同情の眼差しを向けた。
しかし、そこは誠吾クオリティ。
小百合の言葉は一瞬で誠吾の全身を駆け抜けた。まるで電流を浴びせられたように体を震わせ、唖然と母親を見上げる。
目から鱗とはまさにこのこと。
誠吾はこの時、母親の強さの神髄を、母親の言う「強い人間」というものがいかなるものかをようやく理解したのである。と同時に、自分の未熟さも思い知らされた彼は、さらに努力の日々を送ることになるのであった。
長々と語ってきた誠吾物語であるが、彼の超人的努力の人生はあっという間に終わりを迎えることになる。
それは誠吾が24歳になったある春のこと。
父と同じ大学に進学しそのまま院生となり、順調に出世の道を歩もうとしていた矢先の出来事である。
その時、誠吾はいつものように夜の鍛錬の一環として、ジョギングの最中であった。通いなれた夜道をひたすら走り続けていると、ふと何かが路地脇から飛び出してきた。
猫である。
すらりとした肢体に黒い艶のある毛、闇夜に浮かぶ金色の瞳が異様なほどに輝いて見えた。
思わず誠吾は立ち止まる。すると黒猫は一瞬だけ誠吾を振り返り、すぐにまた走りだそうと踵を返した。
どこか慌てているような感じで、歩道を横切り、大通りへと飛び出していく。
その後ろ姿を目で追っていた誠吾は、視界の端で、反対車線から大型のトラックが猛スピードで走ってくる姿をとらえていた。
猫の勢いは止まらない。トラックの運転手も気づいていない。
無意識だった。
咄嗟に誠吾は黒猫の後を追いかけるように大通りへと走り出していた。
日ごろの鍛錬の成果か、奇跡的な瞬発力と速さで黒猫に追いつくと、手を伸ばし柔らかな肢体を抱き上げ懐に抱え込んだ。
その刹那、誠吾の身体はものすごい衝撃とともに中を舞った――――
「お、おい!大丈夫か!?救急車、呼べ!早く!」
「だれか、手を貸して!しっかり!」
自分を心配する声、怒鳴り散らす声、何事かと集まりだす野次馬たち。それらを意識の遠いところで感じながら、誠吾はうっすらと目を開けた。
――― …ああ、これは無理だな…。
朦朧とした意識の中、自分の身におきたことを早々に理解した誠吾は、先の運命を察した。
意識はかろうじて残っている。目も何となく見える。音は、右の鼓膜が破れたのかあまりよく聞こえない。腕は動かそうとすると激痛が走った。おそらく折れているのだろう。肺がやられたのか息もままならず、ヒュウヒュウと自分の口から空気が漏れる音がする。そして、下半身は全く動かなかった。痛みも、感覚も、なにも感じない。
強烈な寒気が誠吾を覆う。視線の先には、じわじわと広がり続ける血だまりが映っていた。
ふと、腕にさらりとした何かが触れた。
黒猫だ。
誠吾の身体がクッションとなり助かったらしい。大した傷も負っていないようで、誠吾の腕から抜け出すと数歩歩いた先で止まり、横たわる誠吾を振り返った。
視線が交わる。
黄金の瞳が見つめる先、誠吾は自嘲気味に笑った。
まさか猫一匹のために自分の命を投げ出すことになるとは思わなかったが、これが自分の運命だったのだろうと、この時、誠吾は生まれて初めて「諦め」の感情を抱いていた。
あきらめるのは嫌いだ。超えられない壁など存在しないのだと、父親の言葉を信念に、数々の難題に取り組んできた。しかし、このボロボロの身体を元通りにする手段はさすがにないだろう。誠太郎がどんなに優秀な医者でも、無理なレベルであることは誠吾自身よくわかっていた。
自分はもう助からない。
どんなに足掻いたところで、その事実は覆らない。
息子の死をあの両親が知ったらどう思うだろう。愚かだと批難するだろうか、それとも、少しは悲しんでくれるだろうか。いや、そもそも誠吾に何の興味もないのだから、何も思わないのかもしれない。
思い出されるのは数少ない父親の言葉、母親の言葉。なんだかんだと世話をしてくれた八重子、道場の先生、クラスメイト、近所のおばさん。そしてただひたすらに努力する自分の姿。次々と浮かんで消える、自分の短い人生。
――― …頑張ったんだ
(そうだな)
――― 毎日毎日、ひたすら頑張ったんだ…。
(ああ、そうだな。お前はよく頑張った)
誠吾の目から涙が零れ落ちた。
胸が痛い。
息が苦しい。
今までにない感情が誠吾の胸を埋め尽くす。
口は笑おうと必死で弧を描こくのだが、それに抵抗するかのように涙が頬を伝い、地面を濡らした。
自分は頑張った。
勉強も、空手も、トレーニングも、決して嫌いではなかった。日々の努力の数々を無駄だと思ったことは一度だってない。自分が歩んできた道を否定なんてしない。ほかでもない自分が歩んだ道なのだから―――
でも、誠吾の人生はいつだって「何か」が欠けていた。
どんなに努力しても、その「何か」は埋まらない。
寂しい。
そう、自分は寂しかったのだ。
ただただ、寂しかったのだと、ここにきて誠吾はようやく理解した。心の一番奥深くにしまわれた感情が涙と一緒にこぼれ落ちる。
もし、もっと昔にそれを口にすることができていたら、何かが変わっていただろうか。
いや、そんなことは今更だとすぐに否定する。
だって、自分はもうじき死ぬのだから―――
(もし、もう一度チャンスがあったら、お前はどう生きる?)
――― …チャン、ス?……そ…だな、その、と、き…は…
誠吾の意識が真っ白な光に包まれる。
まだ少し肌寒さの残る春の夜。その日、加宮誠吾の人生は幕を閉じた。