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わたし

 夢を見た。

 夢の中でわたしはあなたの恋人だった。

 あなたはわたしに愛してると言って、後ろから抱きしめた。どきどきした。


「……………………」

 目が覚めてしばらくは、罪悪感と脱力感に身を任せた。あの人のこと、忘れられてなんていなかった。わかってた。会おうかと言われて断るのも変な話だし、なんて思いながら本当は約束が楽しみで仕方なかったのは、本当のことだから。


 夢の中のわたし。あの人の愛を幸せそうに受け入れていたわたし。

 ――ねえ、それは悪いことなんだよ。だってあの人には、××がいるんだから。



「久しぶりだね」

 わたしを現実に引き戻した穏やかな声は、待ち合わせをしていた義兄のものだった。


「よくわかったね。結構会ってなかったのに」

「君はあまり変わらないから」

「そうかな?」

「まあ、話はあとでゆっくりしよう。行こうか」

「うん」


 行き先は駅直結の大きなホテルのエントランスから繋がる、広くて眺めのいいカフェだった。ここへは初めて来た。だって普段使いするには、わたしにとってはちょっと高級すぎる。席のソファなんて、座ってみるとマンションの自室のベッドより柔らかかった。


「元気にしてた?」

「うん。最近は元気だよ。前よりずっと」

「ならよかった」

「……でも、ちょっと前にすごく嫌な夢見ちゃった」

「嫌な夢?」

「夢の中でね、好きな人に告白されるの」


「それって、幸せな夢じゃないの?」

「ううん、幸せじゃない。その人、彼女いるもん。好きだけどどうにもならない相手を頭の中で思い通りにしてるなんて、あんまりに願望が過ぎるでしょ? ……嫌な気持ちになっちゃった」


 その人にはその人の人生があって、わたしの預かり知らぬところで恋人と幸せに毎日を暮らしている。なのに、夢の中でわたしが思い通りにした。わたしだけの特別に作りかえ、わたしだけに優しく笑いかけさせ、愛を囁かせた。

 ――恐ろしいのは、そんな夢を嬉しく思っちゃうことだよ。


「そうか、じゃあ今日は好きなだけ美味しいものを食べて、いい気分で帰ってもらわないとな」

「……ありがと。義兄さん」


 わたしはその人が好きだった。もう十年以上、その人だけが好きだった。はっきりと自覚をするその前から、わたしの片想いは罪だった。そして、今もわたしは罪を重ねている。想い人――わたしの義兄その本人に、こんな話を聞かせながら。


「何頼もうかな」

 メニューを見た。華奢な茶色い文字が、シックな台紙の上で整列している。ファミリーレストランのメニューと違って写真が乗っていないのが、どうにも不便だなあと思った。


「ゆっくり選んでいいよ」

「……へへ」


 義兄はわたしの姉の婚約者だった人だ。ふたりが結婚して今年で三年になる。義兄と姉は幼い頃から定められていた関係で、そのつもりで家族ぐるみの付き合いをしていた。だから、義兄はわたしにどんなふうに想われているかなんて、微塵も知らないだろう。


 久々に会った義兄は幸せそうだし、姉ともたまに連絡を取っているが、とくに愚痴などを聞いた覚えがない。ふたりはうまくいっているのだろうと思う。でも、改めて訊きたいとも思わない。姉さんとはどう? だなんて――


 姉と義兄とわたしでいると、いつも自分だけが子どものように思えた。頑張って勉強して入った高校で結局不登校になったとき、急がなくてもいいんだよと彼らはわたしを励ました。優しいお母さんとお父さんみたいに。健全な家族のロールプレイ。わたしが子どもで、彼らが保護者。


 子どもの恋愛相談なんかで、義兄の心が動くはずもない。わたしに誰か好きな人がいるなんて匂わせたって、心配こそすれ、嫉妬なんてしてくれるはずもないのに……。


「悩んじゃうね。季節のメニューもいいけど、定番のも気になる……」

「両方でもいいよ。食べきれなければ僕がいるし」

 ほら、今も昔もおんなじだ。こうやって、妹として甘やかしてくれるだけ。

 

 婚約者がいたのは第一子の姉だけだ。わたしには、進路も付き合いも好きにしろと言われていた。レールが敷かれていた方が楽なのになとわたしは思っていたが、優秀でいつも自信に満ちているように見えた姉からある日ぽつりと「あんたが羨ましい」とこぼされたときは、それなりにショックを受けたものだ。

 逆だったらよかったのにね。 お互い、ないものねだりだったのかもしれない。わたしは姉さんに与えられたものがほしい。姉さんも私に与えられたものがほしかった? 


 ただ、自力で道を切り開けなかったわたしは何度か脱線事故を起こした。おそらく姉だったらそんなことにはならなかっただろう。少なくともわたしにはずっと夢もやりたいことも何もなくて、反抗心だってなかった。多分そういったエネルギーは全部、義兄を愛し続けることだけに勝手に費やしていた。


 メニューから少しだけ顔を上げて、わたしは愛しい人を盗み見る。大学で見かけるような黒一色とは違うスーツ。ビジネス用の銀色の腕時計。

 あなたはわたしよりずっと大人だ。わたしが「大人」と言われる年齢になったとしても、その差はきっと埋まりようがないのだろう。


 遅ればせて大学に入ると、知らないうちに年下の同級生たちは当たり前のように■■■■の話をした。小さな箱の中にいればそういう関係になるのが当然だとでもいうように、あちらこちらで交配実験が起こった。あいつは別れないうちから別の子に乗り換えた。あの子の次はあの子の友達。一年ごとに年下、年上、同級生。おもしろおかしい噂話がたくさん飛んできて、わたしの立つ平和な地平は揺られた。


 ひとり愛せるということは別の誰かも愛せるということなのだろうか? わたしがあなたを愛することだけは、そういうものとは違ってほしかった。同じであってほしくなかった。だから呑み込まれないように、誰かから想いを寄せられたときには、何もわからないふりをしてやりすごす。婚約者以外の異性を近づけさせることを許されなかった姉とおんなじに。そうしてあなたへ続く道だけを残したかった。いつだって一定のリズムで、好きなように進んでやるんだ。その道の先が、わたしには永久に閉ざされていたとしても。


「決めた。これにするね」


 何だってよかった。選択することに意味なんてない。どこへ行こうと、わたしは自分にその先を切り開く力がないことを知っているから。ただ道の途中で瓦礫を積み上げて、何も見えないようにしていたい。その向こう側に、あなたがいると信じていられるように。

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