此花さくや17歳、私はこういう、人間なんです
さて、ようやくひと段落である。
怒涛のように過ぎ去った、ここ数時間を振り返り、私は心の底から嘆息した。
息も絶え絶えにジョギングして、急な目眩に襲われて、怖いお兄さん達に脅されて、巨大ライオンと邂逅して、何故か懐かれて、巨大タイガーと邂逅して、これまた懐かれて、巨大ウルフと邂逅して、やっぱり懐かれて、今では3匹まとめて傅かれている。
こうやって振り返ってみると、何とも波乱万丈である。そしてその怒涛の如く押し寄せた非日常を、かくも華麗に泳ぎ切ったものである。図らずとも友人たちが言っていた「さくちゃんってさ、これだ!って特徴はないけど、ごんぶとの根性だけは天下一品だよね」という不名誉な寸評を、自ら立証してしまった形になったが、そんなもの些細な問題であろう。乙女的に考えてあまりにも不名誉だったため「ごんぶとって何よ。私、これでも花も恥じらう乙女なんですけど。うどんじゃないんですけど」とか反論してしまったが、今なら分かる。私の根性は――いや、根性だけではない。恐らく神経も、精神も、思考回路に至るまで、尽く私は"ごんぶと"な女だったのである。ビバ。ごんぶと。しかしながら、私を"ごんぶと"と称した友人達は知らなかっただろうが、私の"ごんぶと"は、ただ強いだけの"ごんぶと"ではなかった。
思い出せる限りで私が始めて"ごんぶと"と称されたのは、小学3年生の遠足での事だった。行き先は遊園地。場所はジェットコースター前。「このパネルより身長が低い子は乗れないよ!」という注意書きの前で、私は困った友人に募られていた。「さくちゃん乗れるじゃん!一緒に乗ろッ!」という子供特有の無茶振りを発揮させ、グイグイ私の腕を引っ張るその娘。聞くところによると、先月、家族で遊び行った近所のテーマパークで「チューリップ」という名のジェットコースターを既に体験済みだったらしい。「とっても楽しかったよ!だから一緒に乗ろッ!」と目を輝かせていたが、いくら励まされようと私の恐怖が薄らぐ事は無かった。だって目の前にあるジェットコースター、「剛神」なんて厳つい名前がつけられてるよ?先程、自信満々に「私、ジェットコースター乗った事あるから!」と語っていたが、アナタが体験した「チューリップ」と、目の前にある「剛神」とでは、明らかに格が違っている。私は何としても断りたかったのだが、とにかくその娘はしつこかった。結局根負けした私は、「絶対楽しいよ!楽しみだね!」と無邪気にはしゃぐその娘の隣りに乗り込み「剛神」を体験したのだった。
そして「剛神」は滑り出した。上へ下へ。右へ左へ。ストレートを爆走しトルネードを乗り越えながら「剛神」は荒れ狂った。その結果として「剛神」は、「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!えっぐえっぐ……。うわぁぁぁ……わぁぁぁぁぁぁん!」とひたすら泣きじゃくる精神崩壊を起こした女の子1名と、大地に根を張るが如く踏ん張り吐き気を堪える女の子1名を生み出したのである。当然私は後者だ。そんな、まるで対照的な私たち2人の姿を見て、とある男子が口にしたのである。「お前……ごんぶとだな」と。
随分な物言いである。とてもそうは見えないだろうが、そこで泣き崩れている女こそが元凶で、私は不幸にもそれに巻き込まれただけの被害者なのである。にも関わらず、「無理矢理ジェットコースターに乗せられて泣いた女子がいる」という明らかに誤解を招く情報を元に走り寄ってきた担任に私はどやされた。幸い、私達の「乗ろ!」「嫌だ!」「えー乗ろうよー!」「嫌だッ!!」というやり取りは非常に目立っていたため、証人の確保には事欠かなかったのは救いだった。私の顔を見るなり「ダメだろ!無理矢理友達をジェットコースターに誘ったりしたら!断られたら素直に諦めろ!」等と叱った担任の言い分は正しかったが、しかしながら言うべき相手を間違えている。そのお小言を頂戴するのは大地に踏ん張る私ではなく、そこで泣き崩れている美代ちゃんであるべきなのだ。その後、周りのクラスメート達から事の真相を知った担任は素直に私に詫びてくれた。少々早合点の過ぎる人ではあったが、自分が悪いと思えば児童相手にも素直に頭を下げる心根の真っ直ぐな熱血教師だったのだ。ただあまりにも真っ直ぐ過ぎて「此花……お前、何て言うか……ごんぶとだな」と、人の顔見てしみじみと呟いた事は今も忘れてませんからね先生。
かくして諸悪の根源たる美代ちゃんはベンチで作った即席の救護施設で介抱される事となり、私はその日一日のびのびと遊園地を満喫したのだった。一人の女子の精神を崩壊させたモンスターマシン「剛神」の恐怖に耐え、あまつさえその後も平然とアトラクション (但し、刺激の少ない子供向けのもの)を乗り回す「ごんぶとの女」。しかしそんな「ごんぶとの女」が、ただの「見せかけ」である事を理解しているのは、今年45になる我が母親一人だけであろう。
目一杯遊園地を楽しみ笑顔で帰宅した私は、自室に戻るなり泣き出した。身体の震えが止まらない。だって死ぬかと思ったのだ。何なのだあの乗り物は。私は崩れ落ちるようにベッドに沈み込むと、ブルブルと震える身体をギュッと小さく折りたたんだ。怖くて堪らなかった。よくぞ死ななかったものだと、今更ながらに憤ってみた。
そう。私も怖かったのだ。それこそ高校生になった今でもジェットコースターを見るだけでピクッと反応するくらいにはトラウマになっているのだ。しかし誤解しないでいただきたいのだが、「剛神」を制したあの瞬間も、私は別段意地を張っていた訳ではなかったのである。
そもそも元来の私は、どちらかといえば気は小さい方なのである。そのため、間違っても「フンッ!そっちから誘っておいて無様なものね!でも私は違うわよ!ご覧なさい、この堂々たる私の姿を!!」等という対抗意識を燃やすような性格ではない。実際あの時ですら、私が美代ちゃんに対して思った事は「やっぱり止めておいた方がよかったでしょ……?」という、実に弱々しい抗議だけだった。目の前で泣くじゃくる女の子に向かって、なんと冷たい態度であろうかと思われるかもしれないが、私はその凶行の被害者である。憔悴しきった彼女を見て流石に「何よ馬鹿女!アンタのせいで私まで怖い思いしたじゃないの!」と責め立てようとは思わないが、さりとて「大丈夫?気持ち悪くない?」等と優しい言葉をかけてあげれる程、出来た人間でもないのだ。いかん。話が脱線した。えっと、つまり何が言いたいかと言うと、私は美代ちゃんへの対抗意識から平気を装っていた訳ではなかったのだ。
そうではなく。私はただ「待ちに待った遠足だもん。もっと楽しみたい」。そう思ったから、美代ちゃんみたいに泣き崩れる訳にはいかなかっただけなのだ。だから私は――
"ジェットコースターで感じた恐怖"
を
"取り敢えず横に置いておくことにした"
のである。
実を言うと、恐怖を我慢すらしていなかったのだ。だってそんな不安定な心理状態では遠足を楽しめない。だからこそ私は「恐怖を感じた」という事実自体を「横に避け」頭の中から「恐怖」という感情を「いったん消し去った」のだ。尚、誤解の無いように念押ししておくが、「消し去った」訳ではない。「いったん消し去った」のである。つまりしかるべき時が過ぎれば「戻ってくる」のだ。
学力も平凡。運動神経も平凡。容姿も平凡。家庭も平凡。と、平凡尽くしの私が唯一持つ「非凡」こそ、この「保留」とでも呼ぶべき感情整理の手法だった。
「何言ってんだコイツ」と思われるだろうか。しかし事実なのだ。今のところ私のこの「保留」を真の意味で理解しているのは今年45になる母一人である。流石45年も生きていると懐も深くなるのであろう。彼女は興味深そうに私の話を聞くと、神妙な面持ちで私にこう告げたのである。「さくや。アンタって、ものスゴく、ごんぶとなのね」と。本気で実の母を殴ってやろうかと思ったのは産まれて始めての事だった。
「いやいや誤解しないでね。他の人が言ってるみたいな意味じゃないの。他の人達は、何が起ころうと平然としてるアンタを見て"なんて強い女なんだ"って畏怖を込めて"ごんぶと"って言ってる訳でしょ?でも私はアンタが"本当は傷ついてる"のを知ってる。そしてそれを"保留"してるだけなのもね。その上で、そういう選択をして生きるアンタの人生全てに対して、私は"ごんぶとな人生"だと言いたいのよ」珍しく長々と喋ったかと思えば、良く分からない事を言われた。しかしその後、「私に似ちゃったのかしらねぇ……」としみじみと呟く今年45になる母の顔は、どこか困ったような表情だった。
それからポツリポツリと語りだした今年45になる母の昔話は非常に長かった。「昔、私もね錨のような女って呼ばれてたのよ」と困ったように語った母の顔は少し悲しそうだった。若かりし頃の彼女には夢があったそうだ。何でも「黙って俺に付いてこい」タイプの押しの強い硬派な男性を好ましく思っていた彼女は、まさに理想を絵に書いたような男性とお付き合いをしていたらしい。が、付き合って半年。破局は突然訪れた。男性側から一方的に告げられた別れだったらしい。「どうして!」と募る彼女に向かって、男は情けない表情で告げたそうだ。「俺じゃお前は引っ張れない」と。「そもそもお前は男に引っ張られるタイプの女じゃない」と。「ゴメンな。お前といると俺は俺じゃなくなってしまう」と。まさに「錨の女」。彼女の初恋はそうやって散ったのだという。私は泣いた。
しかしながらお母様。切ない昔話に水を差すようで悪いのだが、頑固なアナタと違い、どちらかと言えば優柔不断な私のどこを見て「私に似たのかしら」等とおっしゃられたのであろうか。「そんな事些細な問題なのよ」とはどういった意味であろうか。「要するに、私もアナタも、常人には理解すらされないくらいメンタルのタフな女――つまり"ごんぶと"な女だって事なの」。当然私は泣いた。
もちろん私は抗った。「そんなことない!私はママとは違う!ごんぶと少女になんてなるもんか!」と決意を新たにし、気分転換も兼ねて友達を誘って映画に行ったのだが、なんたる悲劇か。その映画がきっかけとなり、私は今年45になる母の言葉が『真実』であると納得する事となった。私たちが見た映画は純愛をテーマにしたラブロマンスだった。「この夏!最高の感動をお届けする話題作!」という触れ込みに偽りなしの切ないストーリーで、私は大いに感情移入してしまった。のだが、物語後半、愛しの彼氏を追いかけてトラックの前に飛び出してしまったヒロインが、けたたましく鳴り響くクラクションに対して、「キャー!」と悲鳴を上げたシーンに私はどうしよもなく違和感を覚え、映画の後に入った喫茶店でその事をボヤいてしまったのである。「悲鳴上げるのは分かるけど、立ち尽くしたままじゃ死んじゃうよね?何で逃げないんだろ?」と。怖いのは分かる。だから悲鳴を上げるのは理解できる。しかし死にたい訳でもなかろうに、迫り来るトラックと対決するかの如く路上に立ち尽くすその考えが心底理解できなかったのだ。私なら逃げる。「危ない!」と思うと同時に踵を返したに決まっている。よもや快速でやってくるトラックとスモウを取って、勝てると思った訳でもあるまいに。恐怖を「保留」し最善の手を取れる私からしてみたら、余りにも納得いかない展開だったため首を傾げていたら、一緒に映画を見に来ていた友達は皆揃いも揃ってドン引きしていた。「ま、まぁ、さくちゃんには分からないかもしれないねー」と若干頬を引き攣らせながら相槌を打つ菜々子ちゃんのリアクションを見て、私は「あぁママが言ってたのはこういうことだったのか」と今更ながらに納得したのだった。
「そんな事ない!」と意地を張ってみた結果がこれである。今年45になる母は正しかったのだ。45年は伊達ではなかったのだ。つまり、私を「ごんぶとの女」と評した後、彼女が言った「さくや。よく聞きなさい。アナタが幸せになるために大事な事を教えてあげるわ」という言葉も恐らくは正しいのだろう。
「いい、さくや。アナタは強い女です。恐らくどんな殿方であっても牽引できぬ程、それはそれは強い女なのです。だからね、さくや。恋をするならパパみたいなタイプにしなさい」
「パパは嫌。もっと男らしい人がいい」
「アラ、パパ、男らしいでしょ?今年のバレンタインだって会社の娘から沢山のチョコレートもらって来てたし」
「で、そんな男らしいパパは今どこに行ってるの?」
「記念日のケーキを予約してたらしくて、それを取りに行ってるわ」
「記念日?」
「ええ。何でも、始めて私が手料理を振舞った記念日だとか……いや、始めて肉じゃがを作ってあげた日だったかしら?とにかく食べ物関係の何らかの記念日らしいわよ」
「よく一人で出て行ったね」
「ええ。全く、朝から"一緒に行くんだ!一緒に記念日を楽しむんだ!"って駄々捏ねるから大変だったわよ。まぁいつも通り頭撫でてあげたら、笑顔で出てってくれたけど」
「やっぱりパパみたいなのは嫌」
「そうよねぇ……。でもあんなのでも仕事は出来るし、外ではピシッとしてるらしいわよ。さくや、ママね。幸せになるには多少の妥協は必要だと思うの」
多感な年頃の娘に話すような内容ではない。しかしそれらはまごうことなき金言だった。まるで飼い犬のように母にジャレ付き、四六時中、野別幕なしに母の関心を求め、時には母子の語らいの最中ですら「何を話してるの?俺も混ぜて」と強引に割り込んで来た忠犬系男子の父。そんな父を伴侶として持った女の言葉は実に重かった。妙に改まった口調で彼女は告げた。
「いい、さくや。これだけは覚えておきなさい。普通の女の子っていうのは、殿方という船に乗せられ、その広い背中に守られながら人生という荒波を越えていくの。でもね、私達のような"ごんぶとの女"に、そんなありふれた女の幸せは巡っては来ないわ。だからね、さくや。アナタは殿方を係留する錨になりなさい」
「錨はママの事でしょ。私関係無い」
「いーえ、関係あります。何故なら私とアナタはとても似ているからです。だから間違っても殿方に寄りかかってはダメよ。私達のようにごんぶとの錨を積んでしまったが最後、殿方という船は瞬く間に座礁してしまうのだから」
「私も、"俺が俺じゃなくなる"って、別れを告げられるって事?」
「その通りです。だから変な気を起こしてはダメよ、さくや。そして心しなさい、さくや。アナタは錨になるのです」
「……それで、具体的には"錨になる"ってどういうことなのママ」
「ひとことで言えば"愛するよりも、愛される"女でありなさい。まぁ……この辺は特に意識しなくても、自然とパパみたいな男が勝手に嗅ぎ付けて擦り寄って来るから別にどうでもいいんだけど」
まるで昔を懐かしむように微笑む母。恐らく今、彼女の脳裏には、若かりし頃の父の奮闘の様子が流れているのだろう。そんな、這いずりまわり、縋りつき、涙ながらに懇願する父の姿を想像してしまい、私は母の話に「待った」をかけた。
「止めて。これ以上パパを嫌いになりたくないから、それ以上の話は止めて」
「分かったわ。まぁ世の中には、"錨に繋がれたい"と望む男が居て、ソイツらは私達みたいな"ごんぶと女"を見つけるや否や、まるで磁石に吸いつく砂鉄みたいに擦り寄って来るって事だけ覚えておけば問題ないわ」
「止めてって言ったのに……。パパってそういう人だったんだ……」
そうでなくとも私の中でのパパ株価は連日のストップ安更新中なのだ。数日前私の部屋に駆け込んでくるなり「ママが冷たいッ!?さくや、何か知らないかッ!?」と半泣きで詰め寄って来た父を見て「実の父をこれほど情けないと思う事など、今後一生ないだろうな」と思ったが、まさか一週間足らずででブチ破られるとは夢にも思っていなかった。幼き日の私の心は大いに傷ついた。
「ちゃんと聞いてるの、さくや?でね、そういう殿方っていうのはとにかく、愛したがりで、愛されたがりで、甘ったれで、精神年齢がどこか幼くて、まぁこの辺はパパ見てれば自ずと分かるとは思うんだけど、要するに"ああいう感じ"の殿方なのよ。私達のためなら、例えどんに荒れ狂う天候だろうと嬉々として出港していくのよ?ホント気持ち悪いくらいポジティブに。で、大時化の海を泳ぎきって帰って来たと思ったら、また嬉々として錨に係留される事を望むの。呆れるくらいに満面の笑顔で、世界で一番私を愛してると囁きながら」
「パパ怖い」
「ママだって怖いわよ」
「全然幸せじゃないよそんなの」
「だから努力が必要なのよ」
――そんな日常を幸せと思えるよう。
――必死の努力をするしかないのよ。
色んな意味で少女には重すぎる話だった。
しかし今の私であれば理解出来る。そう。母の言葉は全て正しかったのだ。
ただ一言だけ抗議させていただきたい。お母様。まるで産まれたての王子に呪いをかけた魔女の如く「これから先、オマエの前には、"オマエに係留されたくて堪らない!"と嘯く男共が群れ集い、オマエの足元に傅くであろう」と、幼き日の私を怯ませたお母様よ。確かに今、貴女様がおっしゃった通り、私の足元には「私に傅く男共」が群れ集って来ております。ええ。見事なご慧眼でございます。流石お母様でございます。だがしかしッ。流石に「人間以外」の男の子も対象だったとは想像もしておりませんでしたよ。立派 (ではなかろうが)な忠犬系男子を伴侶としたアナタの娘です。いつかは私も忠犬のような旦那を愛する日が来るのかしらと不安に思った事もありましたが、よもやモノホンの忠犬をゲットすることになろうとは、私、夢にも思っておりませんでした!
「ますたー、俺様、好キカ?」
「も、もちろんです。大好きですよ、レオン」
「ますたー、ますたー、俺ノ、名ヲ呼ベ」
「ティガ」
「……何ダ、ますたー?」
「ますたー、我ノ、シッポ、撫デテイイゾ」
「えっと……ありがとうございます。それじゃ少しだけお言葉に甘えますね」
3匹のもふもふに囲まれ、私は「ようやく、ひと段落」付けたのである。そう。様々な非日常。数々の恐怖。繰り返される悪夢のような現実を「とりあえず横に置いて」おいて、ひたすら生き残る為に奮闘した結果掴み取った、渾身の安息なのである。それは逆に言ってしまえば、もう気を張る必要は無くなったという事なのだ。
だから暢気に母の話などを思い出せてしまうのだ。だから今更ながらに身体が震えるのだ。だから今にも涙が溢れそうになっているのだ。要するに、今の私は決壊寸前なのだった。
「消し去った」わけじゃない。「とりあえず消し去った」だけなのだ。
突然訳のわからない場所に飛ばされた理不尽も、意味不明の恫喝も、喉を掴まれた狂おしい痛みも、その後に邂逅した彼らとの出会いにも、全て全て「保留」していただけで、決して消えて無くなった訳ではないのだ。
あぁ……もう、嫌になっちゃう。
ホントにギリギリで保った理性を総動員し、優しくウォルフのしっぽを梳りながら、私は自分の"ごんぶと"さを自虐した。我ながら何と可愛気の無い女であろうか。本当に心底嫌になる。そう思った瞬間、私の頭の中に再び母の言葉が蘇った。記憶の中にある母は眉根を寄せ「但し覚えておきなさい」と物騒な前置きに続けて、私に告げた。
「彼らはね、アナタを傷つける人を決して許さないわ。だって彼らにとっての私達は、云わば世界でたった一人の最愛だもの。だからアナタも気を付けなさい」
そこまで言うと母は虚空を見つめ、フッと吐息を一つ漏らした。
「決して一人で悩んではダメよ、さくや。悩むって事は自分自身を虐める事だもの。例え"アナタ"を傷つける人間が"アナタ"自身であっても、彼らは容赦等してはくれないわ。だからねそういう時は、隠し立てせずに最初からぜーんぶブチまけてしまいなさい。それがどんなに重大な悩みだろうと、逆にどんなに些細な悩みだろうと、彼らは真摯にそれを受け止め、全力で問題解決にあたってくれるから。彼らを甘く見てはダメよ。隠れて悩んでても最後には必ず嗅ぎつけられてしまうんだから。いいこと――」
そうだ。確かに母はそんな事を言っていた。という事は今必死で涙を堪えている私は間違った事をしているのだろうか。
「もし隠れて悩んで、その上アナタが泣きでもしたら、その時は覚悟することね。彼らの愛情、執念、そして異常な"しつこさ"を、こちらがノイローゼになる一歩手前まで延々と聞かされることになるんだからね。あれは地獄よ。愛情という名の地獄。"私も愛してる"程度の睦言で許してもらえるとは思わない事ね。彼らは"心配だから"と口にしつつトイレの中までも着いてくるわよ。だからね、さくや。一人で悩んじゃダメよ?」
そうだった。確かに母はそんな事も言っていた。という事は――最早考える間でもない。
私はウォルフのしっぽを梳る手を止めた。そして今にも決壊しそうな涙腺を隠すため、思いっきり目の前にある巨大なもふもふしっぽに掴みかかり顔を埋めた。その際ウォルフが「ワフンッ……」と艶めかしい声を出したのは、まぁここに至っては些細な事であろう。
私はウォルフのしっぽに顔を埋めたままくぐもった声で彼らに告げた。
「じ、実は私、皆に相談したい事っていうか……悩んでる事っていうか……とにかく、ぶちまけたい事があるんです……」
若干涙声になってしまったが、大丈夫だったろうか?少しだけ頭を上げて周囲を見渡し――ゾッとした。
な、なんですかその獰猛な眼つきは……。
恐らく私の様子から"何か"を敏感に感じ取ったのだろう。しっぽに抱き突かれているウォルフまでも首を曲げ、その狂暴なまでの眼差しで射るように私を見つめているのだ。やがて
「ますたー……。ますたーヲ、泣カセタノハ、ドコノドイツナノダ……?」
剣呑な視線で私を貫いたまま、まるで地を這うような声音でウォルフが漏らしたセリフを聞いて私は固まった。しかし毛玉さんたちは容赦してはくれなかった。
「サァ、聞カセロ、ますたー……。問題ハ、全テ、我等ガ、解決シテヤルゾ」
さながらその声は、記念日をすっぽかしたママに詰め寄るパパのようだった。私はソッと目を閉じた。
拝啓。お母様。
皆、まるで得物を狩るハンターのような目になっちゃってるけど、これはまだセーフなんですよね……?だって、私、自分から告白したもんね……?ノイローゼフラグはキチンと折れたのよね……?
当然。「錨の女」からの返答はなかった。
私の目からポロリと涙がこぼれおちた。
2015/3/22 字下げ修正




