1匹目、2匹目、3匹目
「狼、ドンナ、感ジダ?」
「グルァ……グゥ、グゥゥ。グルァァァ……グワ、グゥ、グルァァァ……」
「狼、ソレジャ、俺様、分カラナイ。ドンナ、感ジダ?」
「グルァァァァァァァァ……。グルグル……。クアァァ、グワ」
「狼、ソレジャ分カラナイ。狼、気持チ良イノカ?ドウナノダ?」
「グルァァァ……。ガウッ、グルルルゥ……。ガウッ、グルゥゥゥゥゥ……」
「ヌゥ……。狼、ソレジャ、俺様、分カラナイ。俺様、トテモ、気ニナルノダ」
なんだこのカオス。
ウォルフの背中の毛を指で梳りながら、私は目の前で繰り広げられる茶番を静観していた。
事の発端は、子分にあるまじき偉そうな態度で言い放ったウォルフの一言だった。曰く。「ますたー、背中ノ毛ヲ、撫デロ」。つまり彼は、一連のゴタゴタの結果、何だかんだで有耶無耶になってしまった毛繕いを再要請しやがったのである。
えっと……。それ、今言っちゃいます?
クネクネの余韻で、いまだ軽い興奮状態にあるウォルフを見つめたまま私は思案した。
当然、私達の周りには『毛繕いしてもらう』というふしだらな野望に散った2匹のお猫様が、穏やかな様子ではあるがションボリと肩を落としていらっしゃる。そんな敗残兵たる彼らの前で、まるで当て付けのように毛繕いを見せつけるというのは余りに酷なのではないか?そう判断した私は「もう少し待ってましょうね」とウォルフを宥めようとしたのだが、ここでまさかの横槍が入った。
この場で、私とウォルフのやり取りに横槍を入れる事ができるのは彼らしかいない。そう。「ヌゥ……。狼、イイナァ。シッカリヤレヨ」「狼、ドンナ感ジカ、俺様ニ、教エロ」等と言いながらウォルフの要望を後押ししたのは、まさかまさかのお猫様達であった。2匹は、さっきまでのドヨーン……とした雰囲気を一掃し、どこかソワソワした様子でガウガウグルグルとウォルフに発破をかけていた。
その2匹の様子が……。その。何て言ったらいいのかしら。あえて例えるならば、お付き合いを初めて2ヶ月。ようやく彼女とアハンウフンする約束を取り付けた男とそれを送り出す男友達とでも言うか……。いや、うん。もちろんこの見解に多大なる偏見が入っているのは認めよう。しかし「しっかりやれよ!」「どんな感じか教えてくれな」等とという意味深なセリフを聞いてしまうと、嫌でもソッチ方面の想像が働くのは当然の話だと思うのだ。それに2匹の態度も実に良くない。ソワソワと落ち着きない態度で、口々にウォルフを囃し立てるその様子が、何というかその、「撫でてもらえないのならば、せめて見学だけでも!」という、割と切実な男の子の心境を表しているように思えるのだ。つまり断じて私だけの責任ではない。
ふしだらな行為を要求する狼に、ふしだらな行為を要求された私。そして、これから行われるであろうふしだらな行為をデバガメする気マンマンのトラに、同じくデバガメ志望のライオン。これからやるのはただの毛繕いのはずなのに、私はものスゴく背徳的な気分に襲われていた。
しかし今更「嫌です」とも言い辛い。何故なら、毛玉さん達の間では既に「毛繕いされる」という方向で話がまとまってしまっているからである。対する私も、多少の羞恥心を感じるものの、ウォルフの背中を撫でる事に対する忌避感はなく、それどころか逆に楽しみですらある。つまりこの場にいる1人と3匹の利害は完全に一致しているのだ。
まぁ、そういういきさつもあって。『伏せ』の姿勢のままいそいそと背筋を伸ばし、もっふもふな背中を私へ差し出すウォルフを眺めながら、私は「よし。撫でよう」と決意を固めたのだった。
思えば……この時が最大のターニングポイントだったのだ。
私は知らず知らずの内に、どうやら仕出かしてしまったようなのである。今考えればこの時、大人しく毛皮の上から撫でておけばよかったのだ。彼らにとって毛繕いとは、舌で毛の表面を撫でる事であるからして、舌の代わりに手で撫でておけば何も問題はなかったのだ。
だというのに私は変な欲を出してしまった。愚かにも「もふもふを撫でるだけじゃ芸がないわよね」等と思ってしまったのである。その上「皮膚マッサージっていうのかしら。確かもふもふした動物って皮膚を撫でてあげると喜ぶのよね?」等と素人丸出しの判断の元、あろうことか私はそれを決行してしまったのである。そう。「きっと皮膚マッサージなんて経験した事ないだろうから、ビックリするかもしれないわね」とノリノリで鼻歌交じりに仕出かしてしまったのだ。
私は「それじゃ撫でますね」と一言断り、ソッとウォルフの背中に指を滑り込ませた。しかし私の予想とは違い中々皮膚まで辿り着かない。しかしそれも当然の話だった。なんせ相手は巨大狼である。そんな巨大生物の被毛が短いはずが無かったのである。当然ウォルフのもふもふも、その巨大な体躯に似つかわしく毛の1本1本が非常に長かった。私は右手の袖を腕まくりすると更にもふもふの中に手を伸ばした。手首を超え腕の中程まで沈みこませようやく彼の皮膚に到達する。想像していたよりもずっと温かだった彼の皮膚に私はソッと爪を立てた。この時ウォルフが「ングゥ……」という鼻に抜けるような声を上げたのだが、私はそれを無視して一気に彼のもふもふを梳ったのである。
その結果が冒頭のウォルフなのだった。
さっきから言葉になってないうわ言――というか最早嬌声とでも表現すべき、あられもない声を上げながら、彼は今や完全に横倒れになっていた。半開きの口元から大量のヨダレを垂れ流しつつ、潤んだ瞳でどこか遠くを眺めている。そう。つまり――
「グルァァァァ……。グルァァァァァ……。ングァ、グルァァァァ……」
「狼、頼ム、ソレジャ、俺様、分カラナイ」
ウォルフがダメな子になってしまったのだった。
恐るるべきは私のゴールドフィンガーである。私はペットを飼った事がない。つまり犬猫を撫でる機会など、ペットのいる友人宅にお呼ばれした際に発生する「あー猫飼ってるんだー。撫でていい?」という女子イベントでしか体験した事がないのだ。つまり私の撫でテク等、素人レベルにも達していないはずなのだ。にも関わらずこの威力。泰然と、雄々しく、神々しさすら漂わせていたワンちゃんが、今やこのザマなのである。幸せそう (って言っていいのかな……)な様子で時折ピクピクと痙攣し出したウォルフを見て、私は非常に複雑な気持ちを抱えていた。
だって、あんまり嬉しくない。女子高校生的には『ゴールドフィンガー』等という、一部のセンシティブな男の子諸兄の琴線に触れるであろう特技はご免被りたいのである。弁明すべき相手もいないがそれでも一言言わせていただきたい。そういう意味じゃない。激しく誤解を与えそうなフレーズである事は重々承知しているが、そういう意味じゃないんだ。決して私はエロくない。私はただ動物を撫でているだけなのだ。故に
「アグ、ンフゥゥゥゥ……。ガウガ、ンフゥゥゥゥゥ……」
等と艶かしい声を上げながら全身を仰け反らせ、その白い首元を晒したウォルフを見て、「あ、そういえば喉を撫でてあげるのも喜ぶんだっけ?」と、ウォルフの腹側に回り込み、両手で彼の喉元をワシャワシャしたのも、別に変な意味などなかったのだ。
「!?ングハァァァァ……。ガゥガゥガゥガゥ……。ンフゥゥ……」
その結果、更にウォルフがダメな子ぶりを加速させたとしても、それは私の責任ではないのである。まるで誘うかのようにいきなり喉元を晒したワンちゃんが悪いのだ。私は彼の要望に応じて毛繕いをしてあげてるだけなのであって――まぁ、若干調子に乗ってしまったのは認めるが。
尚、背中に続き喉元への急襲を受けドロドロになってしまったウォルフを食い入るように見つめているお猫様2匹のボルテージも、徐々にではあるが上がって来ているようだった。
「ングッ……ガ、ウ、ガ……ングゥゥゥ。ガウッ」
「気持チ良イノカ、狼。ドンナ感ジナノダ?」
「俺様、スゴク、知リタイ。狼、俺様、スゴク、教エロ。俺様、スゴク、スゴイ」
「ガァァァァァ……ンガァァァァァァ……ンガッ、ガゥン……」
「喉、気持チ良イノカ?背中ト、ドッチガ気持チ良インダ?」
「俺様、俺様。スゴク、狼。俺様、狼。スゴク、狼」
「ン、グァァァァ……。ン、ガァァァ……。ン、ン、ガァ……」
「狼、頼ム。俺、トテモ、気ニナル。ドウカ、教エテクレ」
「俺様、頼ム。狼、人間。俺様?知リタイ?俺様、狼、人間、狼、俺様」
『徐々に』なんて悠長な状況じゃなかった。現時点で既にライオンさん大フィーバー確変中である。まるでボックスステップを踏むような、もしくは限界までトイレを我慢しているような、そんな過去見たことがないレベルのソワソワっぷりを披露しつつ、彼は最早解読不可能なセリフを壊れたラジオの如くばら蒔き続けていた。但し、何を言ってるかは分からないが、何が言いたいのかは分かる。そう。彼もトラさんと同じく毛繕いの感想を求めているのである。
この時に至って、ようやく私は危機感を抱いた。
調子に乗って撫でまくってみたものの、もしかしてこれは相当危なげな状況ではなかろうかと。
冷静になって現状を考えてみる。登場人物は全部で4人。ドロドロになってしまった狼らしき物体。今にもパチ切れそうな危ういバランスで自我を保つライオン。一人淡々と感想を催促するトラ。そして全ての元凶であろう毛繕いを施す私。もしこれが推理小説であれば、パイプを咥えた名探偵あたりがしたり顔で宣った事だろう。「さてこの中にヤバいのが2人隠れています」と。さてそれは誰でしょうか。
ドロドロの狼らしき物体もヤバいと言えばヤバいのだが、蕩けている以上彼は無害である。次に、ソワソワしているものの理性を失う事なく淡々とウォルフを問い詰めているトラさんも無害である。となると残るは2人。そして名探偵の言葉を借りるなら「この場に居るヤバいヤツ」の人数も"2人"なのである。
そう。いつパチ切れて大暴走してもおかしくない"ヤバい"獅子が一頭と、恐らくその被害を全面的に被るであろう"ヤバい"私が一人。私の背筋に冷たいものが走った。この期に及び、ようやく私の思考は正常さを取り戻したのだった。
私は調子に乗っていた。「女子高校生的にゴールドフィンガーはアウトかなー」等とカマトトぶっておきながら、その実、裏では「フフン。どうよ私の撫でテクは。気持ちいいでしょ。気持ちがいいんでしょ!」と内心、鼻高々だったのである。ウォルフのリアクションに気を良くした私は、大事な事をスッカリ忘れてしまっていたのだ。「3匹には満遍なく愛情を注ぐべし」というアノ鉄の掟を。つまり、お猫様2匹を無視してウォルフを撫でまくった結果がこの有様なのである。
「人間ッ!!!!」
尋常じゃない熱さの篭った視線で貫かれ、私は声の主――ライオンさんの方へ振り向いた。彼は「ガルゥゥゥゥゥ」と凶暴な音色で喉を鳴らしつつ、のっしのっしとコチラを目指し歩み寄って来た。そんなライオンさんに対し、私は表情を引きつらせながら間抜けな声で返事した。
「は、はひぃ」
「俺様!俺様モ!ソウダ、俺様モダ!」
つまりそれは
「な、撫でれば、宜しいんでしょうか!?」
ライオンさんの意図を察してそう進言したところ、彼の歩が止まった。しかもどういう訳か、若干ではあるものの興奮ボルテージも下がったようなのである。ライオンさんは、焼き尽くさんばかりの熱量を漲らせた両目をキョロキョロと虚空に彷徨わせながら
「マズハ、契約ガ、先ダ。俺様、フシダラ、違ウカラナ」
これはもしかして……テレているのかしら……。
今の今まで「ヤル気!元気!殺気!」をてんこ盛りにしていただけに俄かには信じられないが、今の彼の様子を見る限りそうとしか考えられない。しかし彼は何に対してテレたのだろうか。あまりに鮮やかに変化したライオンさんの態度に面食らっていると
「人間、女カラ、ソウイウ事、言ウノハ、良クナイゾ」
ん……?
「ダガ、勘違イ、スルナ。嫌ダッタ訳ジャ、ナイゾ」
んんっ…………?
「俺様、少シ、驚イタダケダ。人間、イキナリ、撫デル、言ウカラダ」
んんんっ………………?
ちょっと待って欲しいライオンさん。もしかして今の私の発言って、ひょっとして、いやまさか、でも、いや、もーしーかーしーてー。
ある可能性に思い当たり、羞恥ゆえに顔が火照る私を他所に、スッカリ落ち着きを取り戻したライオンさんはモジモジテレテレした様子で口を開いた。
「人間、俺様、撫デタイ、聞イテ、俺様、嬉シカッタゾ。デモ、アマリ、ハレンチナ事、大声デ、言ウナ。皆、照レル」
やっぱりそういう意味だったんですか。
ライオンさんの爆弾発言に、私は心の中で悲鳴を上げた。
そうか。そりゃそうだよね。毛玉さん達にとって、他人から施される毛繕いはふしだらな行為だもんね。そんな倫理観を持つ彼らに「撫でましょうか?」と聞くのは、人間の男の子に「一発xxきましょうか?」って言うのと同じくらいハレンチな提案だったのだ。今まで散々自分の悪女ぶりに凹んできた私ではあるが、ここまで下劣が極まってしまえば悪女というより最早痴女である。しかもその痴女っぷりを男の子側から窘められるなんて……。これはもう「もう私お嫁に行けない!」レベルの恥辱ではなかろうか。
ウォルフを撫でる前に「撫でますね」と宣言した時は無反応だった事を鑑みるに、今回の場合、母でもなく、嫁でもなく、従魔契約も結んでいない、いわゆる「赤の他人」である私が、ライオンさんに対してお誘いをかけてしまったのが問題だったのだろう。まぁ、こんな事今更分かったところで虚しいだけではあるのだが。
すっかりいつものマイペースを取り戻し、嬉しそうに「ググッググッ」と喉を鳴らし始めたライオンさんを見て、私はそれはそれは長々と嘆息した。口から少し魂が漏れ出すんじゃないかって勢いで嘆息した。
死ぬほど恥ずかしい思いをした。しかし前向きに考えればこれはチャンスでもあるのだ。確かに死ぬほど恥ずかしい思いをしたが、その代償としてライオンさんの大暴走を防止できたと考えれば、大恥をかいた甲斐があったというものである。照れている暇はない。今はこの降って湧いたようなチャンスを活かすよう尽力すべき時なのである。つまり――
「俺様、覚悟決メタゾ。人間、血ヲクレ」
再び、ふしだらな誘惑に負け「従魔になる!」と主張し始めたライオンさんを鎮めてやる事こそ、我が使命ではないかと思うのだ。
とはいえ相手は巨大生物。私一人では少々荷が勝つ相手である。しかし慌てることはない。何せ今の私には出来立てホヤホヤの子分が居るのだ。私はライオンさんを刺激しないようニッコリ笑顔を浮かべたまま、チラリとウォルフの方へ視線を投げた。ヨダレを垂らしながら「我ハァァァ……。グォングァァァァァ……。喉ガァ……。グァァァァ、ン、グァァァ……」等と呟きながらブッ潰れたままのワンちゃんの姿が見えた。私は一切の希望を捨てた。
念の為トラさんの様子も伺ってみたが、トラさんは眉間にシワを寄せて何やら考え事をしている最中だった。ライオンさんと共闘して迫って来ない分助かるが、流石に助力を乞うには厳しい相手のようだ。私は孤軍奮闘の厳しい戦いなることを自覚し、腹を括った。
そんな私の心情も知らず、ライオンさんはどこかウキウキした様子で早口に言った。
「俺様、少シ、カジル。人間、腕、出セ」
「ダ、ダメです。ライオンさんにカジられたら、腕モゲちゃいます」
この辺の件は既にウォルフと体験済みである。キッパリと断ると、ライオンさんは「グゥ……」と言って困った表情で黙り込んだ。さぁ畳み掛けようと思う。
「ウォルフも言ってたじゃないですか。死ぬ覚悟がなければ従魔になっちゃダメだって。ライオンさん、死ぬ覚悟は出来たんですか?」
「ヌゥ……。ソウダッタ、死ヌ覚悟、必要ダッタ……」
どうやら忘れていたらしい。実にアホの子らしい手抜かりっぷりである。これで諦めてくれれば丸く収まるのだが、しかしそうは問屋が卸さなかった。ライオンさんは険しい表情を作り、妙案を求めてムゥムゥと唸りだした。
「俺様、毛繕イシテ欲シイ……。ソノ為ニハ、従魔ニ、ナラナイトダメ……。デモ、従魔ニナルト、殺サレルカモシレナイ……」
状況把握は出来ているようで何よりである。ライオンさんは忙しなくしっぽを振り回しながら、尚も悩み続けた。と、そんなライオンさんに近寄る影が一つ。
「人間、俺、良イ事、思イツイタゾ」
先程までとは打って変わって、晴れやかな表情で現れたのはトラさんだった。
「良い事……ですか?」
「ソウダ。人間、俺ノ考エ、聞キタイカ?」
恐らく話したくてたまらないのだろう。トラさんは全身からワクワクした気配を振りまきながら、得意気な様子で「グルルルル」と喉を鳴らした。とてもではないが「いや、別に聞きたくないです」とは言い出せない雰囲気である。
「な、何でしょうか……?」
「俺、考エタ。俺、人間ト約束シタイ事ガアル」
約束を破る可能性のある人間に約束を持ちかけてくるとはどうした事だろうか。トラさんの意図が分からず黙ってしまった私に代わり、不思議そうな表情のライオンさんが口を開いた。
「人間、俺様達トハ違ッテ、約束破ル事ガ出来ルゾ。約束、無駄ジャナイノカ?」
「ソウダ。ダカラ、俺、考エタ」
「オマエ、何、考エタ?」
「人間ト、"約束ヲ破ラナイ"、約束スル事ニシタノダ」
恐らくトラさんは必死に考えたのだろう。「殺さない」と約束したとしても、約束を破って殺されてしまうかもしれない。そこで、どうすればいいのかと考えて出した結論が、今回トラさんが発表した「約束を破らない約束」だったのだ。トラさんの想定としては、まず「約束を破らない」という約束を交わす。その上で改めて「殺さない」と約束すればもう殺される心配をしなくても大丈夫。というシナリオなのだろう。が、私は知っている。自慢気にドヤ顔を披露してくれたトラさんには悪いのだが、その約束は全くの無意味なのだ。
だって、「約束を破らない」という約束を"破って"しまえばいいだけの話だもんねコレ。
要するにイタチごっこなのだ。「約束を破らないという約束」を破る。「約束を破らないという約束を破らない約束」を破る。「約束を破らないという約束を破らないという約束を破らない約束」を破る……以下エンドレス。つまりどれだけ条件を重ねても全く意味が無いのだ。必死に考えたであろうトラさんに告げるにはあまりに無情な真実ではあるが、間違いは糺さなくてはならない。さてどう切り出したものか、と私が言いあぐねていると
「オォ、オマエ、ヨク思イツイタナ」
「俺、イッパイ、イッパイ、頑張ッテ、考エタノダ」
「コレデ、俺様達モ、毛繕イ、シテモラエルゾ」
「俺、楽シミ。デモ、チョット、ドキドキスルナ……」
「ヌゥ……俺様モ、チョットダケ、ドキドキスル」
「ソウカ。オマエモ、ドキドキスルノカ」
とてもとても言い出しにくい雰囲気になってしまったのだが、どうしたものだろうか。赤裸々な胸の裡を告白し合い照れ笑いを浮かべる2匹を見て、私はすぐに訂正しなかった数分前の自分を呪った。こんなことになるのなら、気づいた瞬間に「それ意味ないですから!」とスバッと言っておけばよかった。トラさんが一生懸命考えた事だからと、なるべく穏便な言葉で間違いを指摘しようと気を遣った結果がこのザマである。
「人間、俺ト、約束シロ」
「あの……その……実はですね……とても言い辛いんですが……」
しかしどれだけ言い辛かろうと言わねばならないのだ。私は意を決して2匹に告げた。
「"約束を破らない約束"を交わしたとしても、その約束自体を"破って"しまえば、やっぱり意味ないですよね……?」
あぁきっと彼らは傷付くんだろうな。耳をペタリと伏せしょんぼりと肩を落とす2匹の姿を想像してしまい、私は心の中で必死に謝罪した。が、私の予想に反してお猫様達は頗る元気なままだった。但し小首を傾げている。
「約束ヲ破ラナイ約束ヲ破ル?」
「ヌゥ……。人間、言ッテル事、難シイ……」
まさかの展開だった。もしかしてこれは……条件が複雑になりすぎて毛玉さん達のオツムでは情報の処理が追いついていないのではなかろうか。そんな私の考えを裏付けるかの如くトラさんが口を開いた。
「人間。オマエノ言ッテル事、ヨク分カラナイ。デモ、俺ノ言ッタ、"約束ヲ破ラナイ"、約束ヲスレバ、人間、約束破レナク、ナルダロ?」
「えっと……その"約束を破らない約束"自体を破っちゃうって話です」
「ムゥ……。人間、言ッテル事、ヨク分カラナイ。ケド、ソレハ、無理ダ。"約束ヲ破ラナイ"、約束スレバ、人間、約束、破レナイ」
「いや、だから。その約束自体をですね――」
「人間、無理ダゾ。何故ナラ、人間、俺ト、"約束ヲ破ラナイ"、約束スルカラナ」
「…………」
私に何が言えただろう。まさかこんな結果になるとは思わなかった。
要するに彼らにとって「約束を破らない約束」というのは、それ自体がもう疑いようもない金科玉条の絶対ルールなのだ。実際には何一つ大丈夫ではないにも関わらず、彼らは"この約束さえしておけば大丈夫"と自信満々に信じ込んでしまっているのだ。説得しようにも話が通じないようだし、何より具合が悪いのは、彼らの勘違いを咎める手段が存在しない事だ。「もう殺されない」と勘違いしている彼らを咎めるには「いや殺せますよ」と大薙刀を振るうしかない。そしてそんな不義理で物騒な事が私に出来るはずもなく、私はこれ以上ない窮地に立たされる事になったのだった。さてどうしたものか。うん。どうもこうももう無理でしょこの状況。私は静かに多頭飼いを決意した。
ちなみに最後までウォルフはグデングデンのままだった事をここに記しておきたいと思う。
私はジンジンと痛む拳骨をさすりながら、ライオンとトラに似つかわしい名前を考えながら、ソッと溜め息を吐いた。
2015/3/22 字下げ修正




