伝説の護民官の物語
その都市は燃えていた。
かつて栄華を誇り、周囲の国々や様々な種族、部族と共に栄えたフェルゴリア。
白壁の城壁は黒く煤け、あちこちに投石機による弾痕を刻み、その青銅製の城門は無残に撃ち破られている。
都市中至る所で山のように積み上げられた帝都市民の遺骸は、炎の中にあってもその損壊が激しいことを訴えかけ、都市のあらゆる場所で残酷無慈悲な虐殺が行われたことを知らしめていた。
かつて都市の中心で堂々たる威容を誇った行政庁舎と元老院議場は、既に激しい破壊と炎の洗礼を受け、崩れ落ちている。
辛うじて建物として残るのは、都市の中心部から少し外れた丘の上に建てられた都市の守護聖人堂。
その周囲も中も、様々な種族からなる女子供の死体で埋め尽くされていた。
エルフ族、ドワーフ族、獣人族、人間族。
種族の区別無く死は等しく訪れ、彼らは互いに互いを庇い合ったのか折り重なるようにして死に絶えている。
おそらく火の手の届かないここへ避難してきたのだろうが、彼らの名誉と命は火では無く人の手によって刈り取られてしまったようだ。
その守護聖人堂の入り口。
赤々と燃えさかる都市の炎を背景に身体中傷だらけになった、フェルゴリアの名誉ある護民官、セルトリウスは悄然と佇んでいた。
強い意志を感じさせる厳めしい口元は今にも破れんばかりに噛み締められ、血にまみれた古い刀傷が残る拳をきつく握りしめている。
手にした剣は返り血で真っ赤に染まっていた。
既に刃毀れが激しく、しかも切っ先が折れ欠けており、数多の敵を討ち取ったもののそれ以上の攻撃を受け止めたことを示している。
男らしく目鼻立ちがクッキリとした顔を苦しみと悔しさで歪めていた。
黒い瞳をした眼球は流しすぎた涙の為に真っ赤で、眉間には1本の深い皺。
赤い房のついた銀色の兜は所々が焼け焦げ、房もほつれており、鉄板を重ねた一般兵士と同じ造りの鎧も真新しい打撃痕や斬撃痕が痛々しい。
炎の熱気が熱風と共に背後から迫り、神殿の奥へと吹き抜ける。
熱風に裾がボロボロになった赤茶色のマントを煽られて身体に巻き付くが、セルトリウスは意に介した様子もなく神殿の奥をじっと見つめ続けた。
セルトリウスは間に合わなかったのだ。
しばらくして、その視線に応えるかのように神殿の奥から火災による物とは異なる熱い風が吹き始める。
それと同時に厳かな男の声が響く。
『都市の護民官、クイントゥス・セルトリウス……汝は失敗した……失敗したな?クイントゥス・セルトリウス、市民の守り手たる護民官……汝は失敗した』
老人とも、壮年ともつかない声色。
その悲しみと憤りの綯い交ぜになった言葉が、最後の護民官となるであろうクイントゥス・セルトリウスの耳に届いた。
『失敗したあ……汝は失敗したのだぁぁぁぁ……滅びる、都市は滅びる……』
嘆きの声が響く守護聖人堂。
そこに落ち着いたセルトリウスの声が響く。
「……全てを失った、だがそれでもまだ価値のあるものがあれば、償いに捧げよう」
セルトリウスは手にした小さな人形と、質素な首飾り、それに玩具の木剣を差し出す。
いずれも血にまみれ、焦げたそれは彼の家族が持っていた物。
最期まで夫であり父であり、そして護民官である彼を待ち続けた末に辱められ、殺されてしまった家族の遺品だ。
『価値?価値など無い、意味を持たない……汝は失敗した、失敗したのだ、失敗だ……』
セルトリウスの言葉にこそ応じたものの、奥から響く声の歎きは止まない。
セルトリウスはその声との対話を諦め、黙って切っ先の欠けた剣を握り直して自分の喉元へと向ける。
今正にその剣を自らの喉へ突き立てようと力を込めた時、奥からの声が怒気を含んだ物へと変わった。
『生ぬるい……命を捧げようなどと生ぬるい……汝の罪は未来永劫償うこと能わぬ……死なせぬ、老いさせぬ……汝は未来永劫その罪を認識し続けるがよい……死なせぬ、老いさせぬ……生き続け、歎き続け、後悔し続けるがいぃぃぃぃ』
歎きから、怒りへ、怒りから憤りへ、そして憤りは呪いへと変わる。
どす黒い煙がわき起こり、セルトリウスの身体を絡め取った。
「ぐっ?」
力を奪われ、剣を思わず取り落としたセルトリウスは、自分の身体が別のものへと作り替えられていくのを知った。
あれ程溜まっていた疲労は霧散し、身体中に付けられた戦傷が修復されていくものの、言いようのない停滞感が精神と身体を覆っていく。
「な……何が……?」
『死なせぬ、老いさせぬ、そして忘れさせぬ……失敗した護民官、我は汝を許さぬ……生き存え、我の呪いを受け続けよ……我らの呪いを受け続けよ』
そして凄まじい雷鳴と共に暴風が湧き起こり、守護聖人堂にある死体を巻き上げた。
その暴風に必死で耐えつつセルトリウスは、身体の芯から湧き起こる原因不明の激痛に膝をついた。
「うっ、は、あがっ?」
『我は汝を許さぬ……我らは汝を許さぬ、我らは許さぬ……民を救え、民を救え、民を救い続けるが良い……救えなかった者よ、民を救え、救えるものならば、救うが良い』
その声を最後に再び雷鳴が轟き、セルトリウスは意識を失ったのだった。
フェルゴリアの滅亡から約500年後、英雄の廟堂
ここは英雄の廟堂と呼ばれる、隠された古代国の遺跡。
かつて大都市の一部だったという伝承があるが、そこは昼なお暗い程の深い森に覆われており、近づく者は誰もいない。
しかし何時の時代にも欲に塗れた人間というものは存在するもので、今正にその欲望にまみれた者達がこの地を訪れていた。
汚く汚れた鎧に割れた兜、持っている剣や槍は刃毀れも酷くまともな手入れがされていないことが直ぐに分かる。
そうして数頭の馬に荷を引かせ、やって来たのは薄汚い見たままの盗賊達。
しかし予想外の光景に顔を顰めている者がほとんどであった。
「おい、本当に古代国の遺跡かこれ?」
「……そう聞いたんだ。たんまりお宝があるはずだって」
「テメエがエルフの小娘に騙されただけだろうが」
「そんなはずはっ……!」
思わず後方の馬車を見る小男。
そこには先程森の中で捕らえたエルフの女子供が繋がれている。
その中の1人が、盗賊達の責めに耐えきれず口を割ったのがこの場所なのだ。
「ふざけんなよ、こんな森の中まで連れてきやがって!これなら街道で行商人でもいたぶってた方がましだったぜ」
目の前にあるこぢんまりとした大理石造りの廟堂を前にして、別の男が悪態をつく。
黄色い乱ぐい歯を剥き出しにして仲間を威嚇し、むさ苦しい髭面の口から唾を飛ばして罵り合う見るからに盗賊といった風情の男たちが小男をつるし上げる。
どうやらその小男が主導し、捕らえたエルフ族を拷問して得られた情報から財宝が隠されているというこの古い遺跡にまでやって来たようである。
確かに周囲は神秘的な雰囲気が漂う。
うっそうとした森の中にあるにしては確かに奇麗で、周囲には雑草もない様子から期待は出来そうだが、その廟堂は余りにも小さすぎる。
大理石はあくまでも白く、蔦の絡むことも無く苔も生えていなかったが、逆に言えばそれだけなのである。
盗賊団の欲望を満たせるほどのお宝が眠っているとは思えなかった。
「まあせっかくだ。中を調べてみろ」
胸倉を掴まれて脅し上げられ、涙目になっている軽装の男を取りなすようにそれまで黙っていた大柄な槍を持った男が言うと、全員が渋々頷いた。
軽装の男が力の緩んだ相手の手を払い除け、真っ先に廟堂へと入る。
廟堂とは言っても他にある大きな神殿のようなものとは違い、ここの物は本当に小さく大人が5人も入れば一杯になってしまうほどであった。
そんな小さな廟堂、先に入った男がすぐ大きな棺を見付け、後ろに向って嬉しそうに声を掛ける。
「お頭!棺がありやすっ、開かれた形跡もありませんぜ!」
「ほう」
先程仲間達を制止した大柄な男、この盗賊団の頭が感心したような声を上げ、周囲の手下達に目配せすると、縄を持った者達が直ぐさま中へと入っていった。
そして先に入った小男を乱暴に手で退かせると、男たちは手慣れた様子で棺の角に縄をかけ、引き出す準備を整えると、外に縄の端を持ち出す。
「お頭、準備出来ましたぜ」
「よっし、引き出せ。壊すんじゃねえぞ」
お頭の号令で盗賊達が力一杯縄を引くと、重そうな棺は呆気なく外へと引き出された。
拍子抜けすると共に、落胆する盗賊達。
この重さでは中に入っている物はたかが知れている、大した宝物は期待出来そうに無いからだ。
「……取り敢えず開けてみろ」
頭もさすがに渋面を作り、周囲の手下達に命じる。
手下達は棺の蓋の下へ早速剣や槍の穂先を差し込み、こじ開け始める。
きっちり閉じられた蓋に悪戦苦闘しながらも、手下達は封を解き、塗られていたセメントを削り取って蓋を開く。
やがてごとんという音と共に蓋が取り去られた。
途端に吹き荒れる黒い風。
周囲の砂や埃を巻き上げ、気味悪いほどの暖かさを持って盗賊達の身体に纏わり付いた風は奇っ怪な笑い声を残して点へと飛び去る。
呆気に取られて風の行方を見ていた盗賊達だったが、しばらくしてはっと我に返って棺の中を覗き込んだ。
底には古風な鎧兜を身に着け、長剣と大盾を身体の上に載せられた男が横たわっていたのだ。
「……人?いや、死体か?」
「お、お頭……これは一体?」
頭が思わずこぼし、小男が悲鳴染みた声を上げる。
あくまでも厳めしいその顔は、古の時代に栄えた国の高官のようであり、また棺に入っている事から死体なのだろうが、滑らかな肌や艶のある短髪はまるで生きているかのような質感であった。
頭はその棺にある大盾と剣を見て、一目でこれが相当な値打ちを持っていることを見抜いた。
おそらく古代国家時代に製造された物だろうが、現在の世には伝わっていない製法による物である事は、大盾表面の光沢や数百年を経て錆の一つもない剣を見れば分かる。
しかし頭はエルフの奴隷に左右された事、それからその結果、相当な儲けが出たことを隠す必要があった。
でなければ、このエルフどもの意見に子分どもがまた左右されかねない。
「……鎧兜に剣か、それに大盾だな。確かにこれは値打ちモンだろうが、これっぱかしじゃあ割に合ねえぞ」
「くっそ、あのエルフども、俺たちを騙しやがった!」
盗賊達が騒ぎ出すのを見て、頭は重々しく口を開く。
「小娘を連れて来い……ここで首を刎ねる」
その命を受けて何人かの盗賊が馬車へと向った。
商都や王都へ行けば奴隷として高値で売れるだろうが、今はこの場を治めなければならないし、奴隷の意見には左右されないと言うこと、下手な意見を言って自分達の機嫌を損ねれば、死という不幸が待っていることを思い知らせるには良い機会だ。
それに騙されたと興奮している子分共を宥めるには、ここに来るきっかけを作ったエルフの娘を殺して不満を逸らすしか無いだろう。
やがて2人の盗賊に腕を持って引き摺られ、華奢なエルフ族の女が連れて来られた。
金糸のような長い髪は薄汚れ、衣服ははぎ取られてボロボロで白い肌と桃色の乳首が露わになっている。
切れ長の目に幅の狭い筋の通った鼻、卵形の美しい顔も涙の跡や殴打の跡で酷く汚れ、おまけに腫れ上がっており、口の端には乾いた血がこびり付いている。
「お前は俺たちを騙したな?」
「……騙してなどいません」
下卑た目を向けてくる盗賊達にも怯む事無く言い返したエルフの娘の視線を浴びた盗賊達が色めき立つ。
「じゃあ何だこのちっせえ廟堂はよ!」
激高した小男が腹を思い切り蹴り上げると、エルフの娘は酷い唸り声と共に胃液と血が混じった液体を吐き出した。
「はん、亜人ごときが!」
唾を吐きつつ侮蔑の声を上げる盗賊を窘めるような声が突然響く。
「エルフは亜人か?人は何時から差別主義に染まってしまったのかな?」
その聞き覚えの無い声と古風な言い回しに驚いて盗賊達が一斉に顔を上げる。
そして声のした棺を見れば、そこには棺の中に安置されていたはずの男が立っていた。
剣と大盾は既にその手に握られており、エルフ族の娘を含めたその場の全員がいつの間に立ち上がったのかと驚愕する。
「お、おめえは?」
「……フェルゴリア最後の護民官、クイントゥス・セルトリウス」
「はあ?」
「護民官だと?」
剣を静かに抜き放ちながら厳かに言い放ったセルトリウスに、盗賊達が色めき立つ。
「何だあてめえ……やろうってのか?」
頭の恫喝にも顔色一つ変えず、セルトリウスは少し悲しそうに言葉を継ぐ。
「……そして職責を果たせずに国を滅ぼした者だ」
「分けの分からねえこと抜かしやがって……殺せ!」
頭の号令で盗賊達が次々に得物を抜く。
ある者は槍を構え、またある者は短剣を抜き、ある者は長剣を腰から引き抜いた。
別の者は戦斧を肩に担ぎ上げ、また別の者は戦槌を振りかぶる。
「ほう、いつの間にか随分と武器の種類が増えたものだな」
「ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねえ!」
怒号と共に戦斧使いが思い切りセルトリウスの脳天目掛けて肩に担いでいた斧を叩き付けにかかる。
しかしセルトリウスは難なくその思い一撃を大盾で受け止めると、真っ赤な顔で力を込めている戦斧使いの足を蹴り飛ばした。
「うがっ?」
不意に臑を蹴飛ばされ、激痛を感じる間もなく前のめりになった戦斧使いの斧を大盾の表面でするりと滑らせ、自分の脇に出た所でセルトリウスはその首を剣で突いた。
驚愕の表情を浮かべ、声も無く喉元を押さえて前に倒れる戦斧使い。
一瞬の静寂が訪れるが、次の瞬間殺気が膨れ上がり、盗賊達は一斉にセルトリウスへと襲いかかった。
セルトリウスは長剣を再び大盾で受け止めつつ、背後から迫った短剣使いを切り捨て、その後長剣使いが剣を引いたのに合わせて前に出る。
「おおっ?」
驚く長剣使いが再び剣を振りかぶったその隙を突いて、大盾中央の突起がその顔面に炸裂した。
鼻血と歯の破片を噴き上げて後方へ倒れる長剣使いを尻目に、突き込まれた槍を大盾で防ぎ、滑らせ、その柄を叩き切る。
槍先を失って狼狽える槍使いの両手を横薙ぎに切り払い、更に戦槌を大盾の縁で受け止めてからセルトリウスは大盾を半回転させた。
「なっ?」
戦槌が地面に付き、その柄を足でふみ押さえられた戦槌使いが驚くと同時に、その腹部に剣が突き刺さる。
返り血を浴びることも無く、また自身の剣や大盾を傷付けることも無く次々に盗賊達を血祭りに上げていくセルトリウス。
その姿を見て頭は背筋を凍らせた。
「ち、畜生!なんて野郎だ、化け物めっ!」
「……その名称はあながち間違いでは無いな」
頭の投げた短剣を剣で払いのけつつセルトリウスは淡々と応じる。
「生きる意義を失った者は最早人ではあるまい……ただ罪を償い続けるだけの者は、人とは言うまいよ」
「くそう!とんだ貧乏くじを引かされたぜ!このクソエルフ!」
「あっ?」
セルトリウスの台詞を半分も聞かず、頭は即座にこの棺から現れた男は自分達の手に負える存在では無いことを悟った。
ただ、会話は出来るし見る限りではこのエルフを助けようとしているようだ。
ならばとるべき手段はただ1つ、人質である。
「動くんじゃねえ!この淫売エルフの命が惜しくねえか!」
「ぐうっ」
美しい金髪を引きむしられながら、エルフの少女が涙目でうめき声を上げる。
それを見たセルトリウスの動きが止まり、作戦が図に当たった頭はにんまりと笑みを浮かべ、余裕の台詞を発した。
「へっ、お優しいゴミンカンサマとやらよ。ちょいと道を開けてくれやせんか?俺たちの馬車やお宝がそっちにあるもんでね」
「……ふむ、世の悪党は未だ健在なようだな。手段は、何も変わらないようだ」
「うるせええ!どかねえならこの小娘をぶっ殺す!」
剣を鞘に収めつつも達観したようなセルトリウスの余裕ある態度に、頭がいらついて怒鳴るが、セルトリウスは少しばかり移動したのみで道を開ける気配を見せず、再び口を開く。
「脅し文句も寸分違わず……人はなかなか進歩しないものだ」
「てめえ!馬鹿にしてんのか!」
怒鳴り声を上げた頭の手が一瞬緩み、その剣先がエルフの少女から離れる。
次の瞬間、大盾の裏から手投げ矢を取り出したセルトリウスは、即座にそれを投擲した。
鋭い風切り音を残し、頭の剣を持つ右手を撃ち抜く手投げ矢。
「なあっ!?いってええぇ!!……あごっ?」
腕を押さえて絶叫する頭に対し、セルトリウスが大盾を全面に構えたまま体当たりを喰らわせる。
鈍い衝突音が響く。
エルフの少女が頭からはじき飛ばされたように転がり、頭は手にその数本の金髪を握ったまま、全ての前歯と顎を打ち砕かれて後方へ吹き飛んだ。
「……ふむ、このようなものか」
仰向けにひっくり返ったまま、ぴくぴくと足先を痙攣させて気を失っている頭を尻目に、セルトリウスはエルフの少女へ手を差し出した。
「大事ない……とは言い難い様子だな。だがもう大丈夫だ」
「……は、はい」
涙目ではあるものの、セルトリウスの行動から敵では無いと悟ったのか、エルフの少女は素直に差し出されたセルトリウスの手を握る。
そしてゆっくりと起こされて立ち上がると、ふらつきながらもエルフ族の優雅な仕草で礼を送り、おもむろに言葉を発した。
「助けて下さってありがとうございます。私はシンゴリアの森のエルフ、クレオフィーラと申します」
「うむ、丁寧なご挨拶痛み入る、私は……クイントゥス・セルトリウス・フェルゴリア。見てのとおり、今はしがない野良兵士だ」
「フェルゴリア……500年の昔にこの地で栄えた古代共和国、ですね?」
「500年……」
クレオフィーラの言葉を反芻するように呟くと、セルトリウスは言葉を継ぐ。
「そうか……500年の時が経っているのか。しかもそれを、我が故国の名をご存じか……では私の悪名も伝わっていることだろう。私が語ることは何も無い」
そう言うとセルトリウスはクレオフィーラの横を通り過ぎ、馬車に囚われたままになっていた彼女の同輩であるエルフ達を解放する。
500年経っても自分の居た国の名が伝わっているというのは、喜ばしいことであったが、その歴史と滅びの経緯も伝わっていることだろう。
決して良い事では無い、自分の悪名が伝わっているのだ。
そう考えながら、囚われのエルフ達の縄や首輪を断ち切り、鎖を外していくセルトリウス。
救われたエルフ全員が、泣いてセルトリウスに感謝の言葉を送り、彼に祝福を授ける。
しかし、セルトリウスの表情は暗いままだ。
「……時が過ぎてしまっているのか」
盗賊達の言葉と装束を見て、自分がいた時代と地域の影響を受けた物である事は分かったが、それがどの様な経緯を辿っているのかまでは分からない。
ただ、時間が経過しているだろうという事だけは分かった。
改めてクレオフィーラから500年の時が過ぎたことを聞き、寂寥感と後悔がセルトリウスの胸を締め付ける。
守護聖人堂があるのを見て、かつてここが都市フェルゴリアの中心部だった事が分かったものの、あの時の惨状は今や面影の1つも残っていない。
燃える都市、積み上げられた市民の遺骸、呪いの風。
全てが忘却の彼方に去ってしまったのだろうか。
「護民官さま」
「その名では呼ばないで貰いたい……名乗ったとはいえ、職責を果たせなかった私には重すぎるものだ」
クレオフィーラの呼びかけにそう応じつつ振り返るセルトリウス。
その目の前にきっちりと横列を作って並ぶエルフ達の姿があった。
軽く目を見張るセルトリウスへ、クレオフィーラが言う。
「このご恩は命をかけても果たせません、皆同じ気持ちです……ありがとうございました」
次いで全員が深々と礼の言葉と共に頭を下げる。
その姿を見てセルトリウスは言葉に出来ない、複雑な気持ちになる。
全てを失った自分が、また少数とは言え虐げられた者達を救うことが出来た。
家族を失い、友を失い、名誉を失って呪われ、今の今まで全てを失ったと思っていた自分が、再び感謝の言葉を捧げられている。
確かに、一度失ったものは戻ってはこない。
それでも、またやり直すことが出来るのかも知れない。
ぐっと自分の拳を握りしめ、歯を食い縛って自分の中の悲しみと喪失感を噛み締め、やるせなさと感動を同時に味わうセルトリウス。
この複雑な思いをしばらく胸の中で止め、整理を付ける。
セルトリウスは守護聖人堂に拠る、先代までの護民官の意思が自分に呪いを掛けると共に告げた言葉を思い出す。
『民を救え、救えるものならば、救うが良い』
では救おう。
ではやり直そう。
自分には、何故かその機会が与えられた。
であるならば、やるしかない。
失敗を取り戻せるとは思わない。
自分の罪が消えるとは思えない。
たとえその行為が的外れな罪滅ぼしであったとしても、自分には民を救う知恵と力と意思がある。
ならばやるのみだ。
「……その方らの故郷までは、とりあえず送り届けよう」
「ありがとうございます……でもその後はどうされるのですか?」
「さあて、やれる事を精一杯やるしかないだろうな」
数ヶ月後、エルフの里の近く、クレリオンの村
木造3階建ての建物は、この周辺に昔から住み暮すクレール族の三角屋根に大きな煙突の特徴を持ち、これまたクレール族の好む薄い石板で屋根が葺かれている。
その1階部分、入り口の上と前には大きな共通文字で「宿泊・食事処、ボイルの店」と記載されていた。
その店の前に馬を曳いた1人の男が姿を現す。
兜こそ被っていないものの、短く刈られた黒髪と厳めしい顔付き。
それに相まって緋色のマントに、古代共和国風の意匠を真似たと思われる鉄板重ねの鎧や臑当て、手甲を装備しており、まるで物語の中から出てきた古代国の高位将官の様な異彩を放っている。
最近は物騒であるので、旅人が武装していることは珍しくない為、鎧や腰の剣は別段おかしくはないのだが、その身に着けている物が時代がかっているのだ。
近くを通りかかった村人や他の旅人達も一瞬はその姿を気にしたものの、その男が目の合った人に厳めしい顔付きのままちょいと頭を下げて挨拶をすると、警戒を解く。
「旦那、この辺りは初めてですかい?」
「いや、500年程前に一度訪ったか……」
「わははっ、冗談がお上手ですなあ」
古めかしい言葉使いとその内容に、挨拶をされた中年の村人が相好を崩す。
思ったよりも剽軽な人物であるようだ。
周囲の人間達もその遣り取りを聞いて完全に警戒を解く。
中年男は男の様子が気になるのか、しばらく男が馬を柵に繋いで荷卸しをしている様子を見ていたが、それが一段落つくのを待って再度話し掛けた。
「今日はこちらへお泊まりですかい?」
「うむ、丁度日も暮れるからな、世話になる」
「ええ、まあ確かにこの辺りには盗賊が最近住み着いちまって夜は特に物騒ですからね」
「なるほど……盗賊」
何かを思ったのか、その人物が顎に手を当てて思案顔なのを見て、中年男が言う。
「まあ、今の所村にまで手を出しちゃ来ませんが、行商人や旅人が何度かやられちまってるんです。噂の護民官騎士でもやって来て。ぱぱっとやっつけてくれりゃあいいんですがねえ~」
「ほう、護民官騎士?」
「ええ、最近巷で噂の英雄様でさあ。何でもあちこちで人助けをして回っているとかで、辺境は言うに及ばず、中原の村や町でも大いに噂になっているそうですよ」
中年男の解説に、面映ゆそうに首を捻るその人物は、やがて真面目な顔で荷物と大盾を担ぐと宿に向かう。
「旦那、お手伝いしやしょうか?」
「いや、大丈夫だ。それより馬の面倒を見てやってくれ」
そう言いつつ銅貨を数枚手渡す件の人物。
「承知しやした、任せて下せえ」
「そうか……すまんな。よろしく頼む」
手慣れた様子で男は一旦馬の足下に下ろしていた荷を担ぎ上げて言うと、手を振りながら店の中へ入っていくのだった。
ボイルの店、1階食堂
木造建物の中は年期こそ入っているものの奇麗に整頓と清掃が為されており、料理や煙草の煙が染み込んだ天井や梁は良い飴色に変わっている。
かすかにする料理油や香草の香りが男の鼻をくすぐった。
「いらっしゃい!……あ、お客さんお泊まりですか?」
「ああ、ついでに食事も頼みたい」
「はい、分かりました!お客さんは字書けますか?」
「ああ」
「ではこちらの宿帳へ記名をお願いします!」
男は荷物を担いだまま素直に娘の示す勘定台へ近づくと、差し出されたペンを受け取り、さらさらと流麗な旧字体で署名し、その上に1泊の宿泊料の相場である大銀貨1枚を置いた。
その間に娘は奥にいると思われる丁稚に声を掛け、次いで男を案内するべく向き直る。
そして大銀貨を有り難うございますと言いつつ取りながら、目に入った宿帳を見て驚いた。
「うわ~お客さん、古風で奇麗な字ですねっ……ええっと、クイントゥス・セルトリウスさんで宜しいですか?」
「うむ」
「……はあ~昔話に出てくる悲劇の英雄と同じ名前ですねっ」
「そうか、悲劇の……英雄なあ、そんな立派なものでは無かったと思うが」
「あ、す、すいません私ったら……お部屋は2階です。では案内させて頂きます」
娘がそれだけ言って黙ってしまったセルトリウスを見て、機嫌を損ねてしまったのかと慌てて勘定台から出てくると、セルトリウスの前に立って案内を始めた。
それに黙って続くセルトリウスを見てほっと胸をなで下ろす娘だったが、直ぐに前を向いてしまったので、その顰め面に苦笑が微かに上ったのを見ることは出来なかった。
奥にある階段を上り、2階の更に一番奥の部屋へとセルトリウスを案内する娘。
「はい、こちらになります。食事は朝と夕2階出しますので、不要な場合は申しつけて下さい」
黙って頷くセルトリウスを満足そうに見て、娘は身を翻す。
「間もなくお食事の時間ですので、都合の良い時間に下りてきて下さいねっ」
部屋に入り、扉を閉めるとセルトリウスは荷を肩から下ろしてつぶやく。
「……悲劇の英雄か」
自分は英雄などでは無い、薄汚い失敗者で、全てを失った、ただの無能な男だ。
今も自分が守るはずだった市民の燃える姿と臭いをありありと思い出すことが出来る。
轟音と喊声、悲鳴と絶叫が交錯し、剣撃の音と劫火が都市を埋め尽くしたあの光景と音を未だに忘れられない。
しかし、今この時代に蘇ったからには、果たすべきことがある。
「まずは盗賊の居場所だな……酒場で噂話でも拾うとしようか」
それから10年程がたった大陸中央では、悲劇の護民官と同じ名前を持つ英雄の事績が語り継がれるようになる。
彼は敢えて名乗らず、対価を要求せず、善行を為す。
それは盗賊退治であったり、野獣退治であったり、貴族退治であったり、飢饉対策であったり、道路普請であったりと、特定の行為に留まらなかった。
やがて古代共和国時代から蘇った伝説の護民官の物語は、数百年後まで語られる事になるのだった。