ⅡーⅨ
「お兄ちゃんは、いつまでも何を恐れているのですか? 夏海は本気ですから、恐れる必要なんてないのですよ。……大好きです」
耳元に口を寄せて、夏海はそんなことを言ってくる。
不覚にもドキッとしてしまったけれど、そんな手に乗る俺じゃない。
あくまでも夏海は妹なのだ。可愛いとは思うけれど、それは兄が妹に抱く自然の感情であり、絶対に恋愛対象として見ているとか、そういうことはない。
断じてない!
「ふふっ。それじゃあ、まだテストの提出物が終わっていませんので、夏海は勉強をしようと思います。お兄ちゃん、分からないところは教えて下さいね」
「え? あぁ、うん」
傍に寄って囁き掛けてきたかと思えば、一気に距離を取って可憐な笑顔を見せてくる夏海。
役者としてやってきた夏海の、あまりに慣れて自然な演技だ。…………そう思ってしまえたなら、どれほど楽なことだろう。
こんなに可愛い笑顔を向けられたら、それが演技だなんて思えないじゃないか。
少し悔しくも思いながら、勉強を教えて欲しいという、今度こそ妹らしい夏海のお願いに頷いた。
頷いて顔を上げられなかったのだから、それは俯くというのかもしれないけれど。
「お兄ちゃんお兄ちゃん!」
どたばたと走り去った夏海は、数学のワークと筆箱を抱いて、またどたばたと戻ってきた。
騒がしくて愛らしくて無邪気で、子どもとしか思えない。
先程の「……大好きです」という言葉が。その大人っぽさと、切なさが。普段の夏海とのギャップの大きさが、俺の頭から離れてくれなかった。
相手はプロ、それもそこそこのベテランだ。
ギャップの威力だって分かっている上で作られた、演技に決まっているのに。
どうしても子どもとしか思えない夏海の、大人びた声にはドキドキしてしまう。
「お兄ちゃん? どうかしましたか?」
夏海だって馬鹿じゃない。
分からないところは教えてくれというけれど、ほとんどは自力で解くことが出来る。
そしてわざと分からないふりをして、教えてくれとせがむようなこともしない。夏海は素直な子だからね。
まあつまり、俺の出番はないに等しい訳で、夏海が勉強している間には俺も勉強をすることが多い。
夏海が分からないときにすぐ教えられるよう、その隣で俺は俺の勉強をするのだ。
しかし今日は、全く集中が出来なかった。
ノートを開いたまま、シャーペンを握ったまま、止まってしまうことが多かった。
難問に悩んでいるとか、そういうことじゃない。
「お兄ちゃん。お兄ちゃん?」
何かを考えていたのだろう。けれど、何を考えていたのかすら覚えていないほどに、俺は何も考えられない状態だった。
これを夏海のせいと言ってしまっては、恋愛対象として認識してることになるのだろうな。
どうやら暫くボーっとしていたらしく、夏海が心配そうに覗き込んで、声を掛けてくれていた。




