全てのはじまり
神が造りたもうた素晴らしき魔法世界「サンアイガー」
しかし、神が実在した事を証明できる者は誰もいない。
昔も、今も、これからも……。
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リットンカン、リットンカン、早く起きろー、さっさと起きろー。サントルジェンは、もう起きてるぞー、リットンカン、リットンカン。
春まだ浅い四月の早朝。ラネリー・ソロンの枕元で目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。ラネリーお気に入りの物語である「霧のサントルジェン」を題材にした魔法時計である。
「う~ん。眠いなー、眠いよー、リンシード。昨日は遅くまで執筆してたんだから……」
頭までかぶった毛布からニョッキリ延びた白腕が、時計の位置をまさぐっている。この時計は今から4年前、ラネリーが12歳の誕生日に親からもらったプレゼントだ。ま、実際には母親一人が用意したものなのだが、一応は両親からの贈り物という事になっている。
ラネリーの手が、ようやく魔法時計の解除ボタンを見つけだす。今はそれほど高価な品ではないのだが、4年前には「時間がくると声が出る魔法」をかけたこの時計、子供たちの垂涎の的であった。父のドンゴルは反対したが、母のミリューが強引に娘の誕生日プレゼントに買い与えた経緯がある。
「やあ、今日もオハヨウ。リンシード君」
やっとこさ寝床から這い出てきたラネリーは魔法博士サントルジェンの弟子「ノームのリンシード」を象った魔法時計にいつもの挨拶をする。彼の形をした機械が奏でる「リットンカン」は、当時、子供たちの間でもてはやされた流行語であった。物語の設定では、古代ノーム語で「早起きは三文の得」という意味らしい。
ラネリーはベッドから抜け出し、窓を開け放つ。時計は午前6時を示していた。三階にあるラネリーの部屋からは、朝靄に包まれた放牧場がよく見える。彼女は朝一番にこの風景を見る事を、一日が始まる儀式のように励行していた。
「ふぅー、まだちょっと寒いなぁ。しょうがないか。まだ四月も始まったばかりだし」
ラネリーは寝間着のまま机の横を通り過ぎ、部屋を出た。机の上には昨日遅くまで書いていた物語「青空魔法同盟」の原稿用紙が散らばっている。プロの物語書きを目指すラネリーにとって、5作目の長編物語であった。昨晩は、主人公の魔法少女が陥った危機をどう回避させるかで悩みに悩んだあげく、結局いいアイデアが浮かばぬまま睡魔のいざないに屈したのである。
おかげでラネリーの瞼は、普段の三倍は重くなっている。このまま二度寝したいところだが、今日はバイト先に大量の荷物が届くので遅刻は厳禁だ。ま、あの店長の事だから多少の遅刻は大目に見てくれるとは考えているのだが。
ラネリーの年頃の子供ならば、睡魔の誘惑に負けて仕事をさぼっても決しておかしくはない。しかし彼女はそういういい加減な事を許せる性格ではなかった。真面目というよりは頑固なのだ。最初の頃、今の仕事を認めようとはしなかった父、ドンゴルへの意地も多分にある。
眠いから仕事をさぼったともなれば「所詮は子供の遊び。さっさと辞めてしまいなさい」と言われ、あの忌まわしい約束を果たさなければならなくなってしまう。
二階へ続く階段を眠気マナコで降りようとした時、ふと兄の部屋に目がいった。4つ年上の兄が家を出てから二年。今頃どうしているのだろうと、ラネリーは思いを馳せた。彼女の兄テリザムは、現在ほかの牧場で働いている。将来、この牧場をしょって立つ修行をするためだ。
何でも知っている兄、ラネリーの優しい先生でもあった兄。更なる教育の場へ赴く事も出来たのに、父の願いを聞き入れ、擬竜の育成に将来を捧げる覚悟をした兄。去年の夏に里帰りしたとき以来、ラネリーは大好きな兄に会っていない。
「兄さんに負けないよう、私もガンバらなくっちゃ!」
そう思った瞬間、ラネリーのお腹がグウッ~となった。腹が減っては戦ができぬとばかり、彼女は足早に階下へ急ぐ。
二階のテーブルには既に朝食の準備が出来ており、この牧場の経営者の一人、ドンゴル・ソロン45歳が、お決まりの席に鎮座していた。ラネリーのお出ましに気づいた母が声をかける。
「ラネリー、さっさと食べちゃって頂戴。今日はこれから忙しくなりそうだから、チャッチャと片づけをしたいのよ」
何をしているのかわからないが、とにかく忙しそうに台所を動き回るこの女性は、ミリュー・ソロン40歳。ただし見た目は三十弱といったところだろうか。それもそのはず彼女はハーフエルフであり、長命であるエルフの影響を色濃く受けている。そして彼女のやや尖った耳も、ミリューがエルフの血を引いている事をさりげなくアピールしていた。
「え~、朝ご飯くらいゆっくり食べさせてよ。かわいい娘が16の身空でこれから働きに出るんだよー。」
寝不足のイライラも手伝って、クゥオーターエルフのラネリーが文句を言った。
「ザウリーの出産が早まりそうなのよ。多分、今日中には生まれるわ。いつ竜舎の方から知らせが来るかもしれないから、急いでるの」
母の言葉にラネリーも納得する。
そういえば昨日の晩御飯の時、そんなこと言ってたっけ。ラネリーはモウテイ鹿のステーキが並んだ昨晩の食卓を思い出す。ザウリーと名付けられた臨月の擬竜の容態が、今一つ不安定だという話を両親がしているのを聞いた記憶があったのだ。擬竜を育てて売っている牧場としては、かの動物の出産はかなりの大事である。
「ラネリー、母さんを困らせるんじゃない。さっさと食べて仕事に行きなさい」
広げている新聞の陰からチラッと顔を出し、ドンゴルがボソッと、しかし威厳のある声で言った。
「父さん、朝食をしっかり取る事は、健康にとってすごく大事なことなのよ。擬竜の出産と娘の健康とどっちが大切なの?」
ふざけた調子でラネリーがふった。
「そりゃ、擬竜の方に決まっているだろう。親の言う事もロクに聞かんと、居候している娘とは比べものにならんさ」
新聞の陰で見えないが、ドンゴルはいつものように無愛想な顔をしているのだろう。ラネリーはいつも不思議に思う。なぜ母はこういう頑固一徹の素っ気ない男と結婚したのだろうか。
ハーフエルフは混血とはいえエルフの一族に数えられる。エルフと人間、というか異種族同士の結婚は相当珍しい。かなりの紆余曲折があった事は、少女のラネリーにも容易に想像できた。母の話では大恋愛の末、駆け落ち同然で結ばれたと聞くが、今の父からは到底想像できないとラネリーは思っている。ソロン家の七不思議の一つと言っても過言ではない。
「ほらほら、ケンカしない。お父さんもラネリーも早く食べてちょうだい。さぁ、早く」
細面の美人であり、いつもニコニコしているミリューだが、こういう時は結構迫力があった。
「いや、べつに俺はケンカなんて……」
ドンゴルが新聞からヒョイと顔を上げる。
ラネリーは心の中でプッとふいた。希代の頑固者として、同業者はもちろん、王家や貴族に通じる仲買人たちからも一目おかれている父。それが母の前では、てんでだらしがない。ラネリーが今のアルバイトを始める時も、母の助けがなければ叶わなかったろう。
女は強い。ラネリーは母をみる度にそう思う。そして、自分も女。だから強いに決まっている。ラネリーはそんな根拠のない考えすら、自らのパワーへ変えていく少女であった。
こんがり焼かれたトーストに手を伸ばそうとした時、階下から大きな声が響く。
「旦那!ドンゴルの旦那! ザウリーの奴が急に産気づきました。だけど暴れちまってどうにもならねぇ。ペリザー親方が直ぐに来てくれって言ってます!」
あの声は擬竜士見習いのギフレン君だ。ラネリーは、つい半月前にこの牧場に入ったばかりの、一つ年下の少年をすぐに思い浮かべる。
「ミリュー、準備だ!」
それを聞いたドンゴルの行動は早かった。すぐにガウンから仕事着に着替え、幾つかの道具を持って擬竜のいる竜舎へと向かう。そしてそれを慣れた手つきで補佐する母ミリュー。いつもながら息のあったチームプレーである。
「父さん! 私も行く!」
ラネリーは手直にあった紐で、ゆったりとした貫頭衣タイプの寝間着のウエストを縛った。動きやすくするためである。
「バカ!お前が来ても邪魔なだけだ。大人しくここにいろ」
一階へ降りる階段を駆けながら、ドンゴルが叫ぶ。
「駄目だって言われても行くもん!」
「勝手にしろ!」
階段を降りてくる娘を一瞥し、ドンゴルは吐き捨てるように言った。ここで言い争いをしている時間はないし、一度いい出したら聞かない娘の性格をよく知ってるからだ。
ラネリーはとてもドキドキしていた。生き物が生まれる瞬間、それは大抵の者に感動を与える。ラネリーもその例外ではない。10歳の時に初めて擬竜の出産に立ち会って以来、できうる限りその場にいるうようにして来たのだった。
一階の戸口に向かうラネリーの後ろから
「ラネリー、お父さんたちの邪魔をしちゃだめよ」
と、母の声が聞こえた。
「わかってるって!心配しないで母さん」
振り向きもせず答えたラネリーは、裏口を抜け、一直線に竜舎を目指す。ドンゴルはもう既にラネリーのずっと前を走っていた。