これって恋のはじまりかな? 3
工場は朝の八時から動き始めているんだけど、九時出勤の人もいて、週に一回朝十時にみんな揃って朝礼をすることになっている。
十時少し前に中須賀さんに朝礼だからと声をかけられて朝礼場所に向かうと、すでにほとんどの従業員が集まっていた。
部屋の奥側に綺麗な女性が立ち、それを遠巻きに囲うように入り口側に従業員が並んでいた、新参者の私は端っこの方へ並ぼうとしたのだけど、初めての朝礼ということで一言挨拶をするように言われて前の方の端っこに難波君と一緒に呼ばれた。
時計の針が十時を示したのだけど、奥に立つ女性も他の従業員もきょろきょろと辺りを見回す。
「あれ、工場長は?」
誰かのその言葉に、“工場長”という人物がいるらしいことを知る。初日に従業員に挨拶して回ったけどその中には工場長という肩書の人はいなかった。まだ出勤してなかった人もいたし、まだ会ったことがない人なのだろうと思っていたら。
「ごめんっ」
片手を謝罪するようにあげて入り口から入ってきたのは――
紅林さんだった。
私はあまりの驚きに瞳をこれ以上ないってくらい見開いて紅林さんを見てしまった。
嘘、うそ……
紅林さんって、工場長なのぉ――!?
採用担当っていってたから、事務とか営業関係だと思っていたのに。
工場長っていったら、かなり上の役職だよね!?
社長の次くらいに偉いかな?
現場では一番だよね!?
そんなことを考えていたら。
「朝礼をはじめます」
奥に立っていたスレンダー美人が澄んだ声で言い、ぐるりとみんなを見回した。
「おはようございます」
「「おはよございます」」
女性の挨拶に、みんなが一斉に返す。
私も一緒になって挨拶したけど、頭の中はクエッションマークでいっぱい。
ええっと、この人は一体……
そう思っていたのが顔に出てしまったのか、私の顔を見た女性はくすりと綺麗な笑みを浮かべると、私と難波君の方に少し体を向けた。
「社長の緒方です。よろしく」
「よ、ろしくお願いします……」
驚きつつも、なんとかそう返した。
ええっ――!!!!
この美人さんが社長!?
クリーニング店の社長っていうよりも、アパレルメーカーの女社長とか社長秘書とか言われた方がしっくりくる。
それを言ったら紅林さんだって、モデルですって言われた方が納得できる……
こう言っちゃ失礼だけど、こんな場所よりも華やかな舞台なんかが似合う。
長身と均整のとれた体つきと端正な美貌もそうだが、着ている服もお洒落だ。工場での作業のしやすさを考えて華美ではないけど、ちょっとしたさし色とか小物づかいが上手い。被服学科に通っていたけど、紅林さんほどお洒落な人は初めて見る。
まあ、モデルがいいっていうのはあるだろうけど。ほんと、何着ても似合いそうだもんね。
紅林さんが工場長ってだけでもビックリなのに、こんな綺麗な人が社長だなんて……
クリーニング工場って言っても、直営で五店舗クリーニング店を経営していて、その他にも委託を請け負っている立派な会社である。
あまりの事実にびっくりしすぎて、頭の中がパンクしそう……
そんな呆然自失の中、もう一度朝礼で簡単に自己紹介したのだった。
朝礼が終わり、再び作業場の四階に戻った私は、乾燥機の前でズボンや背広を黙々と仕分けする中須賀さんの前でじっとその様子を見守っていた。
実は中須賀が休みの日に、乾燥機を回していた高安さんという男性に仕分けた後に背広をハンガーにかけるって教えてもらったんだけど……
私はあえて中須賀さんの仕分け作業が終わるのを黙って待つ。
だって、仕分けている途中に手を出そうなものなら、噛みつかんばかりに怒鳴り散らされそうなんだもん。
「いま仕分けてるんだから、ちょっと待ってなさいよっ!」
とか……?
こういう高圧的な物言いする人って、すべてのことが自分の思い通りにいかないことを嫌うきらいがあるんだよね。
わかっていても、ここは中須賀さんの指示を待った方がいいと判断する。
もちろん、こうして待っている時間がもったいないとは思う。暇を有効活用できたらいいとは思うけど、まだバイト三日目だからなにしていいか分からない。結局は中須賀さんの指示がないと動けない。それに勝手なことしたら、また怒られそうだし。
どのくらい待ったか――たぶん数分だと思うけど、かなり長く感じてしまった――ようやく仕分けが終わった中須賀さんが私をちらっと見て。
「この背広はハンガーにかけて。これ、しみ抜きカードがついていたら、しみ抜きに持って行って」
そう言い、中須賀さんは背広以外のズボンやセーターをハンガーにかけていく。
こういうのもさ、なにをどう仕分けているとか教えてもらえたらハンガーにかけるのだってもう少し意味を持ってできるし、もし中須賀さんがいない時に乾燥機が終わっても一人でも仕分けたりできるのになぁ……
なんて思ってしまう。
まあ、もう包装の仕方とか畳み方とかエトセトラ覚えなければならないことが多すぎて頭ぱんく寸前で、教えてもらっても全部覚えられる自信ないけど……
教えてもらえないことに不満を感じる私はずうずうしいのかな。
そんなことを考えながらも黙々と作業し、言われた作業を終えるたびに中須賀さんに報告しに行き、次の指示をもらって行動するということをしてバイトを終えた。
※
心配していた立ち仕事だから疲れないかっていうのは、大学時代にもカフェのバイトをしていたことがあるからそれほど苦には感じなかった。立ちっぱなしだけど、カフェみたいに店内を歩き回ったりしないからかな。
作業している四階は、中須賀さんの他にアイロンがけをしている塚本さんと高安さんがいる。塚本さんは黙々とアイロンをかけ、高安さんは下から上がってくる洗濯物を乾燥機に入れたり、乾燥が終わったものをハンガーにかけたり、アイロンかけたりと全体的に動いている。そして私と中須賀さんが包装担当、あと乾燥機を回したりもするんだけど……
とにかく沈黙――
みんな黙々と作業していて、なんだか喋っちゃいけない雰囲気で、私語厳禁がここでは暗黙のルールなのかなと不安になったけど、他の階にアイロン掛けしたものを取りに行くと、他の階はわきあいあいとした雰囲気でちょっと安心した。もちろん、作業中にお喋りばかりはダメだと思うけど、多少のコミュニケーションは必要じゃない?
作業中はあまりの沈黙――か、ときどき怒声――に息が詰まりそうになるけど、お昼休みに休憩室に行くと他の階の人達がいて、みんな気さくに声をかけてくれるから、お昼休みがほんと、癒しの時間となった。
仕事は、とにかく覚えることが多い!
包装っていってもいろいろやり方があって、覚えなければならないことが多くてぜんぜん頭がついていかない。とりあえず、一度教えてもらったことは出来るようになったけど。
ここのしみ抜きカードにはこれをつけちゃダメとか、赤タグは切り取らないとダメとか、ちょっとした違いがついあやふやになってしまう。が、そんな時はとにかく確認してからやるように気をつけた。
そんなこんなでなんとなく仕事に慣れてきたある日――
乾燥機が終わったシャワーカーテンを畳むように言われて一人で畳んでいたら、様子を見に来た中須賀さんの眉間にぎゅっと皺がよった。
「ちょっとっ!! 畳み方が違うじゃないっ! 分からなかったら聞きなさいって言ってるでしょっ!? 間違ってやったって直さなきゃならないんだから時間の無駄になるのよっっ」
高圧的な口調でまくしたてるように怒鳴られて、私はひゃっと肩をすくめる。
「すっ……」
「ここはこうで、こう畳むのよっ!」
言うと同時にさっさと向こうへ行ってしまった中須賀さんの背中を呆然と見つめる。
謝る余地もなかった……
私はちょっと項垂れて、それからしゃきっと背筋を伸ばして作業を開始する。
まずは間違えてしまったシャワーカーテンを畳みなおす。
畳み上がりの形は一緒だったけど、最後二回の畳み方が横、縦じゃなくて、先に縦に折ってから横だった。
シャワーカーテンは一回やっただけだったからうろ覚えだったのに聞かなかった私が悪いけど、まったく見当違いな畳み方だったんじゃないんだし、あんな頭ごなしに怒らなくてもいいのに……
そもそも間違ったってことも気づいてなかった私は、頭ごなしに怒られたのがショックだった。
まあ、間違ってた私が悪いんだけど……
あんな言い方しなくてもいいのに……
と思ってしまう。
中須賀さんが普段から高圧的な言い方で、彼女的にはあれが普通なんだって割り切るようにしたつもりだけど、やっぱさすがに堪える……
気持ちがしゅんっとしながらも、背筋だけはしゃんと伸ばしてシャワーカーテンを畳み続ける。
とにかく畳んじゃわなきゃっ。
シャワーカーテンは皺になりやすいから乾燥機を回しながら一枚ずつ出して畳んでいかなければならない。だからすべてのシャワーカーテンが畳み終わらないと、次のものが乾燥機に入れられないわけで、急いで終わらせなければならない。
時刻はすでに十二時を過ぎていて、いつもだったら「お昼だよ」って声をかけてくれる中須賀さんも、今日は声をかけてもくれずにお昼に行ってしまい、四階の作業場には私一人が取り残されていた。
基本的に十二時から一時までがお昼休憩と決まっているけど、一斉に休憩するから休憩のためにタイムカードを押したりしない。そのためか、作業の段取り次第では休憩を遅らせたり、早めに切り上げて作業を再開する人もいる。特に社員の方は、当日分のクリーニングが仕上がらなければ残業になるので、休憩時間を自ら削る人が多い。
私はバイトだからきっちり一時間の休みをもらうんだけど、もちろん今は休憩に行ける状況じゃないっていうのは分かる。
だってシャワーカーテン終わらせないと、次の乾燥機回せないし。
私は乾燥機の前にずらっと並んだ、下の階から上がってきた洗濯物が山盛りに入ったリスボックスがいくつも並んでいるのを見て、黙々と作業を続けた。




