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「なんでこんなことに……。私は何もしてないし、うちには盗品なんてないし、そもそも王家の物なんて興味ないし……」
泣き声混じりの愚痴が暗い牢屋にぽつぽつとこぼれ落ちる。黙っていたら気がおかしくなってしまいそうで、理乃は声を出すことをやめられなかった。一体何故こんなことになってしまったのか? 問い掛ける相手はおらず、愚痴は黒ずんだ闇の中にただ吸い込まれていく。
朝の出来事は本当に突然だった。10時の開店に合わせて7時に起きた理乃が寝ぼけながら朝食用のパンと玉子を取り出していたまさにその時、自宅と共有している店の入り口ドアが開いた。ノックも呼びかけも何もなかった。無言のまま侵入してきた数人の兵士が足音高く台所へ入ってきて、理乃に罪状を突き付けたのだ。そこには理乃がまったく予期できない内容が書かれていた。
「王家所有の宝冠“勇壮なる緋色星”の窃盗及び販売……」
呟いて、理乃は牢屋の固い寝台に寝転がった。入る前にイメージしていたほど酷い場所ではなく、暗くて狭いが清潔である。しかし長居は御免であり、できることなら今すぐここから出たかった。どうせ何かの手違いで捕らえられたのだろう。すぐに出してもらえる、と理乃は胸の内で呟いた。
「それにしても……王家の冠って何だろう?」
彼女の罪状に記されたそれについて、彼女は何も知らない。ただ、王家所有の物となればそれなりの品なのだろうと見当はつく。その価値はきっと昨日の翠琥珀より上だろう。
「そんなのがあったら……うちの店も箔がつくだろうに……うちにあるのなんかガラクタばっかだよ……」
中には翠琥珀などの貴重品もあるが基本的には一部の好事家にしか分からないような奇妙な品ばかりが
売り物だ。逆に言えばそういう品ばかりを集めた店なのである。だから王家の冠などは元々店のコンセプトに合わない。しかしその辺りのことも交えて釈明をしようにも未だに取り調べすらなされていないのだった。今朝の兵士は理乃に罪状を突き付けて牢屋に押し込めただけでさっさといなくなってしまった。先程遠くで大きな物音がしたようだが、それと何か関係があるのだろうか。
「むぁー、お城勤めしてるんだから何とかしてくれよルヴァー」
他人任せの泣き言を言って、理乃は牢屋の低い天井を仰いだ。目尻からひとしずくの涙が流れる。すると途端に心細くなり、不安で胸がいっぱいになった。
こんなことになるのなら父親が店を始めると言ったときに意地でも反対すれば良かった。商売なんて危険なことはやめておけと、せめて普通の雑貨屋か何かにしておけと言えば良かった。“伝説屋”などと妙な店にするものだからあらぬ疑いをかけられて牢に入れられる羽目になったのだ。しかも店主である父親ではなく娘の自分が、何故このような目に遭わなければならないのだろうか。
ぶつける相手のない不満とどうしようもない不安が理乃を苛む。このままではどうにかなってしまいそうだと思ったその時、静かな足音が近づいてきて理乃のいる牢の前で止まった。理乃はハッと顔をそちらに向ける。男のものと思われる細身の影が薄暗がりにゆらりと立っていた。
「あんたが王家の冠を盗んだのか」
薄闇の中から鋭い目が浮かび上がり、理乃に問い掛ける。素人の目つきではない。理乃はびくりと身をすくませ口ごもった。
「え、いや、あの、私は……」
「……悪い」
しどろもどろになった理乃に対して目つきの悪い男は本当にすまなそうに謝罪の言葉を口にした。理乃は再び面食らう。
「へ……?」
「こちらの手違いだ。……出てくれ」
そう言って男は牢屋の鍵を開けた。理乃が戸惑っていると扉を開けて手まで貸してくれる。鋭い目つきをしている割には随分と紳士的だ。身なりも良く、仕立ての良い白シャツに暗い色の滑らかなズボンを身につけただけの簡単な服装でもどこか整って見えた。
「ええと、ありがとうございま……す?」
礼を言うべき場面かどうかよく分からないものの、理乃はとりあえずそう言った。男は少しだけ微笑む。鋭い目つきも少しだけ緩んだ。
「すまないが、正式な釈放じゃない。俺と来てほしい」
「あの、えっと、あなたは……?」
「ナシェ=ザップ=アレス=ラルニュイス」
名乗ってすぐに歩き出す、その背中を見ている内に理乃は思い出した。「ナシェ」から始まるやたらと長いその名前は2年前に親子揃って崩御した先代のクーフ王の息子……王子のものだということを。新聞などでも見かけた覚えがあるが、一番最近耳にしたのはネビからの情報だ。
「えっと、本物……ですか?」
まさか「死んだんじゃなかったんですか」とは聞けない。しかし理乃が実際に発した問い掛けも失礼の度合いで言えば大差ない。「本物」と先を歩くナシェはごく短く肯定した。怒っている様子はないが焦っているように見える。地下牢から1階へと上がる階段が見えてきた。見張りはいない。牢屋の見張りがいないとは一体どういうことだろうか? まさかこのナシェがどうにかしたわけではないだろうが。
「あの、ナシェさん……様?」
「呼び捨てでいい。……何だ?」
「いやその、どこに行くんですか?」
さすがに王子というだけあってか、ナシェは勝手知ったる様子で自由に城内を歩いていく。しかし理乃は生憎これが初めての登城である。彼がどこへ向かっているのかまるで分からない。ナシェは理乃の質問には答えず、ある曲がり角で立ち止まった。理乃も真似をして立ち止まり、息を詰める。やがて向こうから近付く足音がし、1人の兵士が角を曲がって姿を現した。
瞬間、ナシェの貫手が兵士の喉を突く。声も出せずに崩れ落ちた兵士を見てようやく理乃は自分が脱獄という罪を犯しつつあることに気付いた。王子を名乗る目つきの鋭いこの男も、信用できるとは限らない。そう思うと途端に怖くなって足がすくむ。ナシェが再び歩き出したが、理乃はついていくことができなかった。
「……どうした?」
振り返ったナシェが尋ねる。理乃は怯えた目で彼を見上げ、気付いたナシェはふと眼差しを緩めた。
「怖かったか……すまない」
「え……と、その」
「外に出たらどこか落ち着ける場所に案内するから、今は黙ってついてきてほしい」
厳しさと優しさと、そして誠実さと少しの申し訳なさ、必死さ。静かな声音の中にそれだけのものを滲ませてナシェは理乃に向かって軽く頭を下げる。頼む、とその口が動いて理乃は慌てて頷いた。そのように一生懸命頼まれてしまっては、たとえ彼が王子でなくとも言うことを聞かなければならない気にさせられてしまう。
それからナシェは人目を避けながら早足で城内を通り抜けた。理乃には分からなかったが、彼の通った道筋には王家の者の緊急脱出用に作られた秘密の通路なども含まれていた。そして彼は爆発のあった東棟には極力近づかないようにしながら外へと繋がる隠し扉を開けたのだった。
まだ東寄りの日の光が眩しく、理乃は思わず目をつぶる。そろそろと目を開けるとそこには短い銀色の髪をキラキラと輝かせたナシェがいた。これまで薄暗い中にいたために分からなかったが、濃い緑色をした鋭い瞳も以前新聞の肖像写真で見た通りだ。本当に本物なのかと、思わず溜め息が漏れる。
「どうした?」
ナシェは怪訝そうに尋ねる。理乃は「いえ何も!」と首を振り、その必死さで不審さに拍車を掛けた。まぁいい、とナシェは流して話を先へ進める。
「ここもまだ危ないから離れるぞ。少し急ぐが、ついてこられるか?」
「えっと、頑張ります」
自分の身の安全のためなら、と理乃は素直に頷いた。体力にはあまり自信がないが、ここは火事場の何とやらに期待しよう。理乃の答えにナシェはほんの少しだけ苦笑して、それから「じゃあ行くぞ」と歩き出した。
執筆日2011/04/25