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店を閉めた後で、理乃は厳重に戸締まりをしてから外に出た。今朝ルヴァと話した折に言ったとおり、情報収集の得意な友人の元へと出向くことにしたのである。父親の消息もさることながら、シュルスという奇妙な客についても話してみようと思っていた。変わった出来事があればとりあえず彼に知らせるに限る。それはもう彼女達にとっては暗黙のルールのようなものだった。
夕刻の大通りを北に少し歩くと右手に一際大きな構えの建物がある。バドゲット商会、と看板のかかったそこの前を素通りして、理乃は脇道に入った。建物の裏手にある住宅用玄関のベルを鳴らししばらく待つと、目的の人物が自らドアを開けてくれる。
「いらっしゃい。そろそろ来ると思ってたよ」
そう言って軽く肩をすくめてみせた少年が、ネビ=ファス=バドゲット。理乃達より1つ年上の17歳であるが、見た目にはあまり年の差を感じない。小柄で細身の体躯に柔らかくて長めの焦茶色の髪と大き目のオリーブグリーンの瞳を持つその容姿は中性的で、学生時代にはよくそれをからかわれたりしていたものだ。人当たりが良く様々な事情に通じていることから交友も広く、昔から人の輪に巻かれることの多い少年だった。それが今になっても役に立っているようで、彼は実家であるこの商会で情報収集部門を統括しているのだった。通称をC-Netという、大陸規模の高速情報網である。
ネビの案内で彼の自室に通された理乃は、3階にあるその部屋の窓から街並みを眺めて小さく息をついた。出たきり戻ってこない父親は、一体どこで何をしているやら。
「……そういや、なんで“そろそろ”なの?」
飲み物を運んできたネビに問い掛けると、彼はああと頷きながら西の方角を指差す。ここからその方角にあるのは、ルヴァの家だ。理乃は納得してこくこくと頷いた。
「わざわざ知らせてったの?」
「いや、さっき通りでたまたま会ったから。ところで、あいつと何かあった?」
「へ?」
「なんだかちょっとイラついてたみたいだったけど」
そう言われても、理乃には特に思い当たる節はない。正直にそう話すとネビはふぅんと面白くなさそうに話を打ち切った。
「まぁいいや。それで、お父さんの安否でしょ」
「あ、うん。何か情報入ってるかい?」
「ルヴァに聞いてからざっと調べたけど、特に何も。2ヶ月前にメニィゲールのクルー・アークバザールで商売していたのが目撃されてるけど、それ以降は分からなかったよ」
メニィゲールはアイ・クーフの南方に隣接する小規模国だが、宗教国家であるためか巡礼者が多くまた観光も盛んである。そのため昔から旅人の多く立ち寄る国だった。少し前まで政治的にごたごたしていたようだが、今はそれも落ち着いてきたという。
理乃はうー、と小さく唸った。父親が目撃されたというその町からここクーフまでは最短でも1ヵ月半程度かかるはずだ。冬山を越えるとなるともっとかかるだろうし、まだ戻っていなくとも不思議はない。しかしだからといって安心できるかといえばそうでもなく、彼女ははぁと溜め息をついて天井を仰いだ。
「3月にクルー・アークって、大体にして遠すぎるよそれ……」
「メニィゲール政変のせいじゃないの?」
「だったら一度帰ってくればいいものを」
「商売だから、そういうわけにもいかなかったんでしょ。理乃も商人なんだからそこのところは分かってやりなよ」
「知った風な口利くねぇ」
「俺も商売してるから。……何か分かったらこっちから知らせるよ。そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」
「……うん。それは、ありがたいけど」
言いながら、理乃はテーブルに置かれたカップに手を伸ばす。ネビが用意したのは温かい紅茶で、少しだけ花の香りがした。
「またなんかオシャレな味のお茶を……」
「流行ってるんだよ、アワルの香花茶」
「高いんじゃないの~?」
「それなりにはね。でも美味しいでしょ」
「いい香りだとは思うよ。でもこう、庶民の私にはオシャレすぎて何か……落ち着かない」
「リラックス効果のあるお茶なんだけどなぁ」
一息ついたところで、理乃はもうひとつの用件を切り出すことにした。シュルスという妙な旅人についてでる。ネビは彼の名を聞いても特に思い当たることはないようだったが、理乃が説明した彼の容姿を聞いたところでふと表情を変えた。
「薄紫の長い髪をしたやたらと綺麗な男の子、ね。それ、ここのとこ少し噂になってるよ」
「え、そうなの? 有名人?」
「そういうんじゃなくて。今年に入ってから何回か魔物事件があったじゃん? 新年のアワルとか3月の和龍とか。それで魔物退治に協力した流浪の剣士っていうのが、小柄で薄紫の髪をした女の子みたいな少年だってことでちょっと騒がれたりしたんだよ。もっとも、本人はすぐに町を離れて行方をくらましたらしいけど」
「流浪の剣士……ねぇ。剣なんて持ってなかったけど」
「宿に置いてきたかも知れないし。今聞いた話じゃ、背格好とかもそれっぽくない?」
ネビの話を聞いて、理乃は改めて昼間見たシュルスのことを思い返してみる。確かにあの髪はこの辺りでは珍しいので特徴になるだろう。握手した手の平の硬さも、剣士だとすれば納得できないこともない。ただそれにしては体格が華奢すぎる気もするが。
考え込む理乃を見てネビは軽く笑う。
「そんなに印象に残る相手だったんだ?」
「まぁねー。というか……変な人だった」
「買い物していったんでしょ。しかも翠琥珀。すごいじゃん」
「だから気持ち悪いんだって。普通私らと同じくらいの年の子がそんな買い物できるかい? できないでしょ。そりゃあお客なんだから売れといわれれば売りますよ。けど……」
「まぁそれは分かるけどね。実家が裕福だとかじゃないの」
ネビの言うことは現実的で、理乃も分からないではない。しかしシュルスという相手から受けた印象は今ひとつ非現実的で、その説明で納得できるものではないのだった。
「……まぁその人が噂の剣士かどうかはともかくとして」
不意にネビが声音を変える。顔を上げた理乃の目の前には、どことなく楽しそうな彼の笑顔。
「え、何?」
「ルヴァもその場にいたんだ? その、シュルスっていうのが来店したとき」
確かにそう話したが、それが何だと言うのか。理乃は戸惑いながらも頷く。するとネビは得心がいったという様子でふぅんと小さく唸った。
「なるほどそれでかー」
「……だから何が。なんか想像つく気もするけど、君の喜ぶような話はないですよ」
「まぁそういうことでもいいけどね? ……旅人なんだから、もう会うこともないだろうし」
そうだね、と頷いて理乃はまた窓の外を見やった。暮れかけの蒼い空の下、見えるのは街並みとその向こうにある王城の尖塔。色を失い影へと同化しつつあるそれらを眺めていると、ようやっと現実に戻ったような心地がした。今日のことはこうして日常に埋もれていくのだろう。そのうちに父親も帰ってきて、変な心配をすることもなくまた毎日が続いていく。そういうものだ、と自分に言い聞かせてから理乃はすっくと立ち上がった。
「じゃあまぁ用事も済んだし、そろそろ帰るよ」
「ああ。また何かあったら教えてよ。こっちもお父さんのことは気に掛けておくから」
「ありがとう、そういう点では頼りにしてるよー、C-Net会長ネビ殿」
軽く挨拶をしてネビの家を後にする。通りに出ると、春とはいえまだまだ冷たい夜風が理乃の身体を僅かに震わせていった。早く帰って食事にしよう、と理乃は家路を急いだ。
執筆日2011/03/29