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理乃は慌ててカウンターの中から立ち上がり、いらっしゃいませと笑顔を浮かべる。
「――こんにちは。少し見させてもらってもいいですか?」
そう言いながら入ってきたのは若い客だった。理乃たちとそう変わらない年齢だろう。この辺りではまず見ない淡い紫の髪は長く、ウェーブのかかった毛先がゆらゆらと揺れてまるで花のように美しい。丈の短い黒い外套に白いシャツと青いズボンという服装もこの国のものではなく、旅人だろうと思われた。
こんなに若くて綺麗な子が一人旅なんて危ないな、と理乃は内心密かに心配する。
「……あの?」
気が付くと、若い客は理乃のすぐ目の前までやってきていた。近くで見てもその造作は綺麗で、北国の住人と比べてもなお色白で滑らかな肌や、優しげなはしばみ色の瞳を縁取る睫毛の長さだとかが理乃に感銘に近い衝撃を与える。横で同じくぼぅっと突っ立っていたルヴァがはっと気付いて理乃の肩をつついた。
「おい、理乃」
「……え? あ、はい、何でしたっけ!?」
思わず見とれて接客を放棄していた。慌てて姿勢を正した理乃に対して、若い客は気を悪くした様子もなくフワリと柔らかく微笑んで言う。
「少し見させてもらってもいいですか? 外から見て、面白そうな物がたくさんあったので」
「はい。どうぞごゆっくり見ていってください」
若い客の丁寧な態度に理乃も調子を取り戻す。ルヴァはそれを見て、じゃあ俺はそろそろ、と動き出しかけた。しかしそこを理乃に引き止められる。上着のフードをぐいと引っ張られ、ルヴァはぐえっと呻いた。
「何するんだよ」
「頼むからもうちょっといてくれ。この場にはツッコミが必要だ」
「あのなぁ……しっかりしろよ、店長代理」
「だって何かすごい綺麗な子だよ? き、緊張する!!」
「客見て態度を変えるなよ」
「無理だってば~!」
やり取りは小声だったが、若い客の耳にもしっかり届いていたらしい。2人を見てクスクスと笑う若い客に理乃は少々引きつった営業スマイルを送った。その隙にルヴァは彼女の手から逃れる。
「ほら、ちゃんと仕事しなって」
「うう……分かったよ。まぁまた気が向いたら寄ってって」
「ああ、そうする。じゃあ」
ルヴァはそう言うと、若い客に会釈をしてから店を出て行った。と思ったら直後に再びドアが開く。
「忘れ物! ゴメン、そこの槍取ってもらっていい?」
「あ、うっかりしてた」
カウンター横の壁に立てかけられたまますっかり忘れられていたルヴァの槍。穂先のみを丈夫な革の袋でくるんであるそれを理乃が手に取り、持ち主に渡す。ところが2人は共に焦っていたのか槍を床に落としてしまった。
ガランガランと激しい音が、さほど広くない店内に響き渡る。
「大丈夫ですか?」
若い客が驚いた様子で駆け寄ってくる。理乃は驚きと情けなさと恥ずかしさの入り混じった表情で大丈夫ですと答え、ルヴァはすまなそうに槍を拾った。若い客の視線が、その軌跡を追うように動いて。
「……綺麗ですね」
白い指先が、槍の刃元に取り付けられた淡い青色の飾り石を指し示す。落としたときに留め具が外れたのだろう。革袋から覗くその石はよく澄んで、確かに美しかった。ルヴァは僅かにしまったという顔をしつつ、仕方なさそうに解説する。
「母方の祖父から継いだ物で、うちの家宝なんです」
「……ただの飾り石には見えないですね。何か魔法のかかった物ではないですか?」
「……。よく分かりますね」
ルヴァは目を見開き、感心した様子で頷いた。理乃もこの槍の秘密についてはよく知っており、ふむぅと息をつきながら若い客を見やる。若い客は2人の視線を受けながら曖昧に笑った。
「何となくそんな気がしたんです。失礼ですが、年若い兵士の持ち物にしては高級過ぎるように思えて」
「高級ではないんですけど」
ルヴァもまた曖昧に首を傾げつつちらりと理乃に目をやった。何を隠そう、この槍の鑑定を行なったのは彼女の父親なのである。それまでこの槍はあくまでただの年代ものであり、どのような価値があるかは伝わっていなかった。そこでルヴァが理乃を通じてその父親に依頼し、ついに飾り石の魔法が明らかになったのである。しかしその力はさしたる物ではなく、魔具としての価値はそれほど高くない。だからこそこうして普段から持ち歩いて使っているのだが。
「銘はあるんですか?」
若い客はよほど興味を引かれたのか重ねて尋ねる。ルヴァは少しだけ迷った後で答えた。
「“魔槍サイレント・ビート”です」
「……なるほど。いい名前ですね」
本音ともお世辞ともつかない口調でそう言った若い客だったが、その後はすぐに槍から視線を外してルヴァに向かって笑顔を作る。
「引き止めちゃって、すみませんでした」
「ああ、いや。それじゃ」
ルヴァは理乃と若い客に向かってそれぞれ軽く頭を下げると、今度こそ家路につくべく槍を手に店から出て行った。どことなく中途半端な空気の中、理乃は客にかける言葉を探す。
「えーと、その……」
「……リノさん、というんですか?」
緩やかに斬り込むように、若い客が尋ねた。理乃は一瞬何のことだか分からず、間の抜けた表情を返してしまう。そんな彼女の反応が可笑しかったのか、若い客はクスクスと笑った。
「さっきの人がそう呼んでいたと思うんですけど、違いましたか?」
「あぁ、名前……ですか。いえ、合ってます。理乃っていいます」
理屈の理に乃は乃至の乃……と理乃は宙に文字を書く。若い客はそれを見てへぇと小さく声を上げた。先程ルヴァの槍を見ていたときよりも更に興味を持った様子で理乃の目を見る。
「龍語ですか? その発音は緋河国ですよね」
「あ、はい。祖父が緋河の出で」
緋河国はここアイ・クーフ王国から見ると南東に位置する小さな島国である。古くは“龍の島”の名で呼ばれたその国では龍語という独自の言語が使われており、大陸にある隣国和龍にもそれが伝わっている。ただ長い歴史の中で島と大陸の龍語はそれぞれ異なる発展をしたため、今ではまるで別の言語のようになっていた。そういうわけで現在は文字のみが共通しているのだが、その文字が少し特別である。
アイ・クーフ王国などで使われる文字はそれ自体では意味を持たず、音のみを表す。それに対して龍語文字はひとつひとつが意味を持ち、一種の魔法陣のような役割を果たすこともあるのだった。そのため魔法使いの中には好んで龍語文字を学ぶ者も多いらしい。あいにく理乃は魔法にはあまり縁がないのだが。
「理乃さん、ですね。僕はシュルス=フェーメといいます。よろしく」
何がそんなに嬉しいのか、にこにこと笑いながら右手を差し出す若い客……シュルス。理乃は訝しむよりもその笑顔に釣られてつい手を握り返してしまった。その感触が思いの外硬くゴツゴツしていることに気付き、彼女はそこで初めてある事実に思い当たる。
シュルス、という名は男物だ。この辺りの名ではないので断言はできないのだが、握る手の強さは少女のそれとは思えない。とは言えまだ納得できず、理乃は改めてシュルスの顔を見つめた。
サラサラの前髪、細く整った眉、紫色の長い睫毛にくっきりとした二重まぶた、澄んだ大きな瞳。鼻筋の通った小さな鼻、やはり小さな口に花弁のような唇。柔らかそうな頬と少し細い顎、白い肌。綺麗でありながら可愛らしくもある。まるで人形のようだ、と理乃は再び感心した。
「……(いるんだなぁ、こういう子。眼福?)」
せっかくだからよく見ておこうと理乃が目に力を込めると、シュルスは楽しそうに微笑んで言う。
「僕の顔に何かついていますか?」
「うわ、すみません!」
理乃は弾かれたように視線を外し、シュルスはそれを見てまたクスクスと笑った。なんだか情けない気分になって理乃はこっそりと溜め息をつく。シュルスはその間に店の陳列棚へと目を移していた。
執筆日2011/03/15