徒桜
今から400年くらい前、私が千夜と呼ばれていたとき。
その夜は何故か寝付けなかった。
多分それはまばゆい程の月明かりのせい。格子戸を開けると青白い満月がぽっかりと漆黒の中に浮かんでいた。
思わず月に手が届きそうな気がして、私だけが知っている抜け道を使い外に出た。
春の夜はまだ肌寒く感じたが、それを忘れさせるほどに狂い咲く桜が青い月を背景に散っている。
「まるで雪ね。冬みたい」
そう。月光に照らされた花びらは色を失い雪のようだった。手に舞い降りた雪は当然溶けないし、冷たくもない。
手を伸ばして笑っていると、反響するように雪の中からクスクスと声が聞こえた。
「左様でございますな」
城を囲む桜の中でも一番大きな「千桜」と呼ばれる桜に寄り掛かる影。聞いたことのない声だった。
「そこに誰かいるの?」
「はい」
歳もわからない。透き通るような声が桜吹雪の中聞こえてくる。姿は見えない。
「貴方は誰?」
「誰と言われましても……。俺は名前がないのでお答えできませぬ」
「……珍しいお方ね」
それから二人で黙って桜を眺めていると、青年は何者かの気配がするから振り向かずに帰りなさい、とだけ言って雪の中へと姿を消した。
「どこのお方なのかしら。あんなに風流があるなんてこの城にいないわよねぇ」
不思議な出会いだった。彼が誰なのか気になって仕方がない。床についてからも頭からあの青年の声が離れない。
城の敷地内にいたということは城の者なのだろうか。しかしあのような美声は今まで耳にしたことがない。
「ってことは敵だったかも。……いや、ないかぁー」
こんな小国潰すだけの価値もないと諸国に思われているだろうし。
悩みに悩み、考えたが結局しっくりくる答えはでるはずもなく、私は深い夢の世界へと堕ちていった。
***
「千夜姫様、今日はご機嫌がよろしいようで。何かあったのですか?」
「あら、わかる? でも秘密よ」
朝餉を取り終え、意気揚々と歩いていると女中からそう声をかけられた。
楽しみに決まってる。今夜もあの桜を見に行くのだから。
だが浮かんでいた気分は沈むことになる。
「さしずめ今朝愛しの叔父上と目が合ってしまったとかだろう」
細い廊下で道も譲らずに行く手を阻むのは叔父上。歳は15上くらいとそんなに離れているわけではないが、隙あらば私と婚姻の契りを結び、この国を乗っ取ろうと企むこの人が大嫌いだ。
父上は残念ながら叔父上の陰険さには気づいていない。逆に家督を継いでほしいと思っているようで。
「笑えない冗談ね。勘違いも甚だしいわ」
「なんで君はそんなに照れ隠しをするのかな。いっそ僕が付き人になって世話をしてあげようか? 着替えとか湯浴みのときとか添い寝とか」
「貴方に世話なんか頼んだら私の身が危ないわ!」
意識的なのか無意識なのか、私の髪に触れようと伸ばしてきた手をすかさず叩き落とす。
「ですが私共は明日から長期休暇を頂いておりまして、新しい付き人を決めねばならないのは事実でございます」
「あら、そうなの? でも私一人でも出来るから平気よ。叔父上、貴方には頼むことはから安心して頂戴」
肩を竦めた叔父上は「強情な子だ」とだけ。鈍感すぎて嫌みが効かない。そのまま意味深な笑みを浮かべてふらっと消えた。
本当に気味悪い人。あの人と結婚なんて考えられない。
***
今宵も昨夜同様に月が明るい。心を踊らせてまだまだ見ごろな千桜の木の下に行くと、案の定人の気配があった。
「またいらっしゃったのですね」
あの青年かわからず恐る恐る近付くと、自分を酔わせたあの声がして安堵する。顔が見たいと思ったがやはり影の中から声がするだけだった。
そのまま木の根本に腰を降ろすと月の傍らで負けじと輝く星たちを見上げた。
「……貴方に会いたくて。何故か昨日から貴方の声が頭から離れなくて」
「……俺もここに来ればまた貴女に会えるかと思いました」
恋とか愛とかそういう類のものかはまだわからない。ただ気になって、頭から離れなくて、会いたいだけで。
昨夜初めて会ったのに相手のことをもっと知りたいと思ってしまう。
「ねえ、貴方名前ないのよね? 呼びやすいように私がつけてもいいかしら?」
「はい」
透き通ってて風流のあるこの人をなんと名付ければ良いのだろうか。ちっぽけな名前でこの人を括ることはしたくない。
子供でさえ名付けたことがない故にどうしたものかと考えていると、ある言葉が脳裏を過ぎる。
「風雅、風雅がいいわ! どう?」
「風雅、いい名前だ。俺には些か勿体ない気も致しますが、大切にします」
姿が見えなくても嬉しさが伝わってきてこっちまで嬉しくなってしまう。
「では貴女のことは『桜の君』とお呼びしても?」
「ええ、構わないわ」
それからたわいもない話をした。
風雅には仕えている姫がいて、その姫は美しいらしく、そのうえ身分問わず家臣や民に優しいらしい。
「素晴らしい方なのね」
「それはもう! 俺みたいな兵士が御目通り出来る相手ではございませぬが、姫様のためならこの命惜しくはありませぬ……」
「……その姫様は貴方みたいに慕ってくれる家臣がいて幸せね」
思わず家臣、というより風雅に慕われているその姫が羨ましいと思ってしまった。
私はいつも篭の中の鳥。叔父上が父上に何か余計なことを進言してから城下町に出るお許しさえ貰えなくなった。
全ては叔父上の策略。毎日部屋に会いにくる頻度は叔父上が断トツ多いからだ。
もうなんだか情けない。
「い、いかがなされた!? 何か気に障ることを申し上げてしまいましたか!?」
「あ、いえ、……なんでもない」
「では何故桜の君様はお泣きになっておられるのですか? やはり俺が――」
「なんでもないって言ってるでしょ! 馬鹿ッ!」
「も、申し訳ございませぬ……。女子に不慣れな故、なんとお慰めしてよいのか皆目わからぬのです」
風雅は子供のように真っ白で正直で純粋で。
その心に慕う姫がいると思うと何かどす黒く醜い感情がふつふつと生まれるのがわかる。そんな自分に嫌気がさす。
自分をこんなにも狂わせるこの感情は何なのだろう。
この日は泣きじゃくる私を風雅がオロオロしながら慰めてくれてお開きとなった。
一瞬月の光に照らされて見えた風雅の髪の毛は綺麗な茶色だった。
それから一週間。私たちは毎日欠かさず千桜の木の下で会い続けた。
会うたびに風雅に対する正体不明な感情が溢れていくようで、姫の話を聞くたびに心が締め付けられる。
私と風雅の不思議な関係に居心地の良さを感じながらも、ずっと一緒にいたいと思ってしまう。
自分が自分じゃないようで怖い。
「千夜姫様。ちょっといいですか」
今日の天気は雨。じめじめと湿った空気のような叔父上がまた私の了承も得ずに勝手に部屋に入ってくる。
「何か用?」
「付き人をつけないのをいいことに毎晩どこへ行かれているのですか?」
「何言ってるの? どこにも行ってないわよ」
「嘘おっしゃい。では、今宵あの桜の下に私が行ってきましょう」
言葉が出ない。どうして叔父上がそれを知っているのかわからない。だがおそらく思慮深い叔父上のことだから見張っていたのだろう。
この糞ジジイ!! と心の中でしか罵倒できない。
もしこのまま風雅の元に行かせたら、風雅は無事では済まないだろう。傷付けられるどころか、下手したら殺されてしまうかもしれない。
だがここで認めてしまったら、もう二度と風雅に会えなくなってしまう。
「これからは付き人をつけて、私と同衾なさい。今回だけは見逃してあげましょう。あくまでも行ってないと言い張るのなら、今宵あの男を殺してきます」
「なんてことを……! 付き人をつけるのは仕方ないけど、何故貴方と寝なければならないの!?」
「私も焦っているのですよ。兄上の気が変わらないうちに、早く貴女を手に入れたいのです。さあ、どうします?」
どうする。どうしたらいいの? 嫌な汗が背筋を這うように流れるのがわかる。
叔父上は伊達にこの小国を守ってきたわけじゃない。やはり腕がたつのだ。風雅がただの兵士に過ぎないのなら勝てるわけがない。
結局私は風雅を助けるには叔父上に従うしかないのだ。
「……わかったわ。貴方に従いましょう。ただし今夜だけ会わせて」
「わかりました。邪魔はしませんから、精々今生の別れを悔やんできてくださいね」
甲高い笑いと共に無理矢理壁に押さえ付けられて、唇を重ねられる。
頭を押さえ付けられ、離れない唇に激しい嫌悪感と非力な自分が情けなくて泣きたくなった。
「や……だっ、離して!」
「失礼ですね。近い将来の夫に向かって何てこと言うんですか。そのうち私の言いなりですからね」
勝ち誇った顔を私に向け叔父上は部屋を出ていった。
もう今日を境に風雅には会えなくなる。
せっかく仲良くなったのに。色んなことを知れたのに。
「風雅……」
会いたい。ずっと近くにいてほしい。
きっとこれは恋。私は好きなんだ。風雅のことが。
いてもたっても居られず、土砂降りの雨の中城を飛び出した。駆け出す私の背中を見つめる叔父上の嘲笑うような視線には気付かずに。
曇天のせいでわからないが、時刻はまだ夕暮れ頃。いつもの時間にはあと5時間くらい間があった。
千桜の木突き刺さるような雨が裾を濡らし寒さに凍える。足先が冷え、泣く気さえ失せる。
だが大地を打ち付ける雨の音が心地好い。雨は空が代わりに泣いてくれているのではないかと疑うくらい降りしきっていた。
風雅は来るのだろうか。雨が降っている今日、風雅が来るという保証はない。
それに風雅には大切な姫がいる。私が入り込める隙間なんてないのだ。ただの戯れ。今までと少し違う感情に戸惑っているだけ。
そう言い聞かせていると、いつの間にか心が冷えているような気がした。心を閉ざしかけるのを合図に激しいまどろみに襲われる。
それから何時間眠ったのかわからない。もう朝なのか、まだ夕方なのか、それとも1日過ぎたのか。耳を澄ませると雨の音はしない。通り雨だったようだ。
瞼は重くなかなか開かないまま、意識は朦朧としている。きつく身体が締め付けられるような感覚。びしょびしょに濡れた着物は気持ち悪いが不思議と寒くはなく、むしろ暖かい。
そこで初めて私は誰かに抱きしめられていると認識した。
この何かの花のような匂いは――。
「風雅……? 風雅なの?」
「はい、桜の君様。本当に良かった。雨の中で倒れていた貴女を見つけたときは心臓が止まりましたよ……」
そう言う風雅は私の肩に顔を埋めて声をあげずに泣いていた。
刹那、曇天の隙間から橙色の夕日が一直線に私たちを照らす。
「本当に会いたかったわ。いつもは逢うのは夜中なのに……」
「今日は何故か貴女がいると思ったのです。申し上げございませぬ……。寒かったでしょう……」
肩から顔を離し、風雅は冷たい両手で私の頬を包みこんだ。
夕日が照らす風雅の顔。鳶色のふわふわとした髪に精悍な黒い猫目。あどけなさを感じさせる部分もあったが、とても凛々しい。
風雅は涙を拭ってふわりと笑う。
「今日初めて貴女の顔を拝見しましたが、思った通りお可愛らしいお方だ」
嬉しいのに。嬉しいのに寂しくてたまらない。この笑顔を見れるのが今日で最初で最後だと思うと返事が出来なくなる。
それほど私は風雅のことが――。
だからこそ別れを告げなければ。
「桜の君様? いかがなされましたか?」
「……明日からもう貴方に会えないの」
「え?」
「貴方が好き。好きなのよ、風雅」
目の前の若者はまず目を丸くし、それから頬を赤らめ決まり悪いように俯いた。
「俺は……――」
「なに?」
意を決したように顔をあげ、何かを言おうとした風雅の視界にはある男の姿があった。
黙った風雅が怪訝な顔をするのを見逃さない。何かあったのかと振り向くとそこには今一番会いたくない男――叔父上が自慢の愛剣を片手に嘲笑するように立っている。
「貴方は……将軍様?」
「やっと来たか、このこそ泥め。私の千夜姫から離れてもらおうか」
「ちょっと叔父上!? 貴方邪魔しないって言ったじゃない! このおおほら吹き!」
「私と結ばれても未練を残されたら困るからな。ここで断ち切ってやる。来な、小僧。その身体切り刻んでくれるッ!」
風雅は私がもう会えないと告げた理由を瞬時に理解したらしいが、驚いた様子で私を見ている。そして近くにいることすら恐れ多いとでもいうように一歩下がってひざまずいた。
「桜の君様……、千夜姫様とは知らず、今までの大変なご無礼どうかお許しください……っ」
「貴方まで……」
「所詮は一介の民。ここで私に斬られるか、姫が私に抱かれるところを見てから死ぬか選ばせてやろう」
叔父上の刀はほんの目の先。突き付けられている風雅は丸腰で避けられる可能性もないが、全く表情を変えずに叔父上を睨んでいる。
「私を睨み殺すつもりか? さあ早く姫を寄越せ」
「姫様は物ではない……でしょうが」
ひざまずいたままの風雅の握りこぶしがふるふると震えていて、思わずゾッとする。
たまにこういう人種がいるのだ。普段は温厚で柔和だが、ごく稀に怒ると人間が変わったように暴れまくる人種が。そして怒
りが頂点に達したときは人を屠ることすら躊躇わないのだ。
「姫様を愛しているのなら何故雨の中黙って見ていたんだ!!」
「愛してる? ……ははっ、聞いて呆れるわ! 姫など出世道具に過ぎん」
「お前……骨の芯まで腐ってやがる。いいだろう、お前の挑戦受けてやる。この国の一番の剣豪とかなんとか言われて驕ってやがる将軍様の腕前見せてもらおうか!」
やはり人が変わった。私が口を挟む余地もない。別に叔父上にどう思われていても構わないが、風雅が傷つくのだけ嫌なのだ。ここは戦わず逃げて欲しい。既に聞く耳を持たない風雅に何を言っても無駄だが。
風雅は着流しだけを羽織った丸腰の姿だったのが次見たときには黒い忍び装束を身にまとう正真正銘の武人になっていた。
「将軍様、残念ながら俺は一介の民でも兵士でもない。甘くみてると殺しますよ?」
懐から取り出した短剣を構え、風雅は不敵にニヤリと叔父上を挑発するように笑う。明らかに叔父上が持っている長い刀には不利なのは事実なのに。それなのに決して負け惜しみから言っていることではないとわかる。本当に腕に自信があるのだ。
と、いうことは風雅の心配ではなく、叔父上の死体処理の心配をした方がいいのかもしれない。
今まで風雅を見てきて、こんな表情をするのは初めてだ。人を躊躇いもなく殺せるような冷酷な一面を見たのは。
「ふん、寝言は寝て言え!」
流れていた風が一瞬とまる。
それを合図に風雅と叔父上の刀はぶつかり合い、キィンと金属音が響き渡った。
しかし風雅が圧倒的である。叔父上が刀を振り下ろす前に風雅はもう別の場所にいて、ただ叔父上が体力を消耗しているだけなのだ。
「ちょこまかと小賢しい! 男なら正々堂々と戦わんか!」
真正面で視線が痛いほどにぶつかる。風が止まった瞬間に風雅は短剣を構えなおし駆け出した。
再び刀が交じり合う。風雅の舞うような太刀筋はまさに風のように雅やかだった。