おかえりなさい。愛しい夫の骨
「御愁傷様です」
騎士の暗い声が、雨雲みたいに胸に広がっていく。
ついさっきまで、今日はいいお天気だなと、鼻歌を歌いながら洗濯物を干していたのに。
空になった籠をぶんぶん回して、おやつでも食べようかな~とご機嫌で家へ入ろうとした時に、まさかこんな知らせを受けるとは思わなかった。
「部隊長は、怪我をした部下を庇い魔獣の標的となり……」
「ご自身を守る防御魔法よりも、部下たちを転移魔法で一気に逃がす判断をされ……」
「魔力の消耗が激しかったために、お身体が弱っていたところを……」
そんな言葉が、遠くで断片的に聞こえている。
要約すると、夫は魔獣に食べられて命を落としたということらしい。
「そうですか」と一言だけ返す私に、二人の騎士はなんとも言えない顔で目配せし合う。
やがて肩に下げていた鞄から、長細い包みを取り出し、私へ差し出した。
「部隊長の骨だと思われます。翌日現場に戻ったところ、部隊長の甲冑と、こちらの骨が一本だけ落ちていました」
紺の絹地を開くと、太くて長い骨が一本現れた。
大腿骨……かな?
雪みたいに真っ白なのは、夫の魔力を含んでいるからなのだろう。『俺だよ! ただいま!』と元気な声が聞こえた気がした。
「なぜ一本だけなのでしょう? 他の骨は、全部魔獣が食べてしまったのですか?」
「……そうだと思われます」
「甲冑は吐き出したのに?」
「魔獣は魔力が強い人間を好みますから。骨まで全て美味しく平らげたのでしょう」
「丈夫な牙なんですね。あの人の骨、こんなに太いのに。噛み砕いたりしたら、顎が疲れちゃいそう」
「大丈夫だと思います。あの魔獣は、丸飲みして徐々に胃で溶かすタイプなので。……あっ」
私の質問に答えてくれていた騎士は、もう一人の騎士に「おい」とつつかれ、気まずそうに口をつぐむ。
二人の気遣いに、私はくすりと笑った。
「こんな田舎まで、夫を送り届けてくださりありがとうございます。突然だったので大したおもてなしはできませんが、どうぞお身体を休めていってくださいな」
私はささっとパンケーキを焼き、皿に載せると、戸棚から茶色の小瓶を取る。
小瓶の中身は、夫の大好物のメープルシロップ。夫がいつ帰ってきてもいいようにと、今日まで一度も切らしたことはなかった。
優しい琥珀色をスプーンで掬い、ほかほかのパンケーキにとろりとかける。騎士たちの疲れが癒えますようにと、願いを込めて。けれど、最後の一匙だけは取っておき、あの骨の上にそっとかけた。
『美味い! やっぱ、リヨのパンケーキは最高だな!』
『パンケーキじゃなくて、メープルシロップがお好きなんでしょう?』
『いや、違う。リヨのパンケーキとメープルシロップ。これ以上の組み合わせはないし、これ以上に美味いものはない!』
夫にパンケーキを作るたびに交わしていた、そんなやり取りが甦る。艶々と嬉しそうに輝く骨を見て、これは本当にあの人なんだろうか、本当の本当は違うかもしれないと、心がせめぎ合っていた。
どこからか、愛犬のハンスが飛んできて、琥珀色の骨をペロペロと舐める。シロップがなくなり白に戻っても、まだ離さずにじゃれ合っているのを見ると、やっぱりこれはあの人なんだという気持ちが強くなった。だって、ハンスは誰よりあの人に懐いていたもの。
騎士たちもパンケーキを喜び、お客様用ではない安い紅茶まで、美味しいと言って何杯もお代わりしてくれた。時折鼻を啜りながら、夫との思い出を語る彼らに、私の胸は熱くなる。
夫は、どんな想いで部下たちを守ったのだろう。義務感だけではなく、きっと彼らを家族のように愛していたから──
そんな最期に触れられた気がした。
◇
夫は、王国騎士団の魔法部隊に所属する騎士である。
剣術はさほど得意ではなかったが、結界を張ったり、怪我人を転移で避難させたりする防御系の魔法が評価され、三カ月前に部隊長に昇格したばかりだった。
部隊長になってわずかひと月後、魔力持ちの人間を襲う魔獣が五十年ぶりに姿を現したとの報告があり、夫は急遽編成された討伐隊に加わることになった。巨大な翼を持つこの魔獣は非常に凶暴で、五十年前にも多くの死者や怪我人を出しているため、今回も危険な戦いになるのは明らかだった。
不安がないわけではないが、騎士の妻たるもの、常に覚悟はできている。いつもと変わらぬ普通の日々を過ごし、出立するその日も気丈に夫と向かい合った。
「大丈夫。もし俺に何かあっても、国から弔慰金がもらえるから、しばらく生活の心配は要らない。いやあ、ギリギリ昇格しておいてよかったな。おかげでゼロが一つ増えた」
そう言って陽気に笑う夫に、私は内心『部隊長に昇格しなければ、討伐隊になど選ばれなかったかもしれないのに』と愚痴る。
それでも笑顔をつくり、
「もし弔慰金をいただいたら、ハンスを宝石付きの首輪で飾って、最高級の牛肉を食べさせてあげるわ。だから私たちのことは心配せずに、お国のためにしっかりお務めを果たしてくださいな」
と明るく送り出したのだった。
◇
騎士たちが帰ってしまうと、家の中は一気に寂しくなった。テーブルを片付け、お皿を洗い終えると、酷い脱力感に襲われソファに座り込む。
このままではいけない、何かしなければと立ち上がり、私は外へ出た。
裏庭の物置小屋に入り、ちょうどいい物はないかと物色する。小屋の隅で埃を被っていた小型の飾り棚を見つけると、よいしょと居間へ運び込んだ。
ピカピカになるまで拭いた飾り棚の上に、骨を包んでいた絹の布を畳んで置いた。紺色の上等なクッションのようなそこに飾るのはもちろん──
あれ、そういえばあの人はどこかしら。
静かな居間をぐるりと見回し、「ハンス!」と呼べば、寝室からもふもふの巨体が嬉しそうにやって来た。
彼の口から、涎でベトベトになったあの人を取り上げると、不満げにワフッ! と吠えられる。代わりに固い干し肉を噛ませれば、すぐにご機嫌になり大人しく座ってくれた。
私は涎まみれの骨を綺麗に洗うと、軽くキスを落とし、飾り棚の上のクッションに置く。花を挿した花瓶も横に置いてみるが、何かが足りないと首を傾げた。
骨だけじゃ、いまいちあの人感が薄いのよね……あっ、そうだわ!
私は早速行動に移す。もう一度物置小屋へ向かうと、子どもの頃に使っていた古い画材を取り出し、真剣に紙へ向かった。
二時間後──
ああでもないこうでもないと悩みながら完成したあの人の肖像画に、私はぷっと噴き出す。
これじゃあ厳つい豚だわ。私、絵心なさすぎでしょ。
これ以上がんばってもこれ以下になる気がして、私は潔く諦める。夫もどきの豚を小さなアートフレームへ収めると、骨の横に添えた。
ようやく祭壇らしくなってきた飾り棚の前に、私は座り込む。泣くでも祈るでもなく、ただ、ぼんやりと見上げていた。
ふと傍らの温もりに気付いた頃には、日が傾き、すっかり部屋は薄暗くなっていた。
「ごめんなさい、ハンス。お腹空いたわよね」
もふもふにギュッとしがみつけば、ハッハッと可愛い返事をくれた。
その夜、私は骨と一緒にベッドに入った。
大腿骨……つまりあの人の腿を抱き締めているのだと思うと可笑しくなるが、これしかないのだから仕方ない。
あーあ、生きているうちに抱き締めておけばよかったな。あの人の腿の筋肉、むちっと逞しくて、色っぽくて素晴らしかったのに。場所が場所なだけに、遠慮して触ることしかできなかった自分が悔やまれるわ。
あなたがこれを遺してくれたんですからね。もう遠慮はしませんよと、固い骨に好きなだけ頬ずりをした。
夫の死を告げられたその日の夜、私とハンスは、愛しい骨を真ん中にしてぐっすりと眠った。
それから私は、骨になったあの人と普通に暮らした。
朝起きて、自分の顔と一緒に、私とハンスの涎まみれの骨を洗う。
綺麗になった骨をテーブルにのせて、朝食を一緒に摂った後は、一旦祭壇に戻して家事を済ませる。
朝の家事を一通り終えると、ハンスと庭へ出て、骨で遊ぶ。
また綺麗に洗って、一緒に昼食を摂った後は、祭壇には戻さず、抱き締めてゴロゴロする。
その後は隣に置いて繕い物の仕事をしたり、リボンで飾った骨を連れて買い物に出掛けたり。
せっかく祭壇を作ったのに、祭壇にいる時間の方が短くて申し訳なくなる。けれど、じっとしているよりも、身体を動かすことの方が好きな人だったから。きっと許してくれるわよね。
夫は形を変えただけ。
肉から骨になっただけで、いつも傍にいる。
だから悲しいとは思わなかった。
……思わなかったのに。
いつものように骨を真ん中にして眠っていたある晩、ハンスが急に嘔吐し、痙攣し出した。子犬の時から健康優良児だったハンスが、こんなふうになるのは初めてだ。
私は四十キロ近くもあるハンスを抱え、夜着のまま家を飛び出す。どうか、どうかハンスだけは助けてくださいと、必死に祈りながら。
町の親切なお医者さんに診てもらった結果、ストレスから来る消化不良だと言われた。ハンスのストレス。思い当たることは……一つしかない。
手当てしてもらい、ハンスの容態が落ち着いた頃には、夜が明けようとしていた。私はお医者さんに何度も頭を下げ、ありったけのお金をお支払いし、診療所を後にした。
行きと同じく、ハンスを抱いて、朝焼けの一本道を歩き続ける。
ペロリと舐めてくれて、肉があって、ハッハと息をしている。その重みに、私の心は押し潰されそうになっていた。
家へ帰り、ハンスをベッドに寝かせた私は、あることに気付く。
──あの人がいない。
這いつくばって床を探せば、白い骨が、ベッドの下に無言で転がっていた。
「ごめんなさいあなた。ハンスに必死で、蹴飛ばしちゃったかも。今すぐ拾……」
骨へと伸ばした手が、途中でパタリと落ちる。
私は床の上にうつ伏せになったまま、声を押し殺して泣いた。
そうか。これが『死』なんだ。
何も言わない、動かない。ずっと同じ場所に止まっているだけ。
よく喋って、元気に動いて、ともに新しい朝を迎えたあの人は、もうどこにもいないのだ。
私は骨を置き去りにして、すやすやと眠るハンスの隣に身を横たえる。
今日は何もせず、何も考えず、こうしていたい。
ハンスの身体を撫でているうちに、瞼が重くなってきて、気を失ったように眠ってしまった。
──どのくらい経ったのだろうか。ワワワンッと、弾むような鳴き声が聞こえる。
この声、懐かしいな。
ハンスが夫に甘える時だけの、特別な鳴き声。
もう二度と聞けないと思っていたのに。
まだ夢の中かしらと、隣に手を伸ばせば、そこにもふもふはいなかった。
「ハンス……?」
目を開け、上半身をのそりと起こすと、居間から懐かしい声が聞こえた。
「おいハンス! あはは! やめろ、苦しいよ」
……ハンスだけじゃ……ない?
もう一つの懐かしい声に、私はベッドから飛び降り居間へと走る。
主不在の祭壇の前には、床に倒れた全裸の夫と──
その夫にのし掛かり、髭が伸びた顔をペロペロと舐め回すハンスの姿があった。
私は夫に抱きつき、泣き叫び、顔中を舐め回す勢いでキスする。
ベトベトになった夫を綺麗に洗い、服を着させてから、やっと生還した理由を聴くことができた。
騎士たちの証言通り、夫は部下を逃がそうと魔力を限界まで使ったために、身体が弱り魔獣に丸ごと飲み込まれてしまった。
胃の中でじわじわと魔力を吸収され続けたが、防御魔法のおかげで身体は溶かされなかったし、魔獣の胃の中という特殊な環境故か、飲まず食わずでも何とかひと月生き延びたと言う。
「服と靴は全部溶かされちまって、あの通りさ」
と笑う夫にしがみつけば、よしよしとあやしながら話を続けてくれた。
さて、奇妙な胃暮らしを続けるうちに、魔力を通して、魔獣と意思の疎通ができるようになったらしい夫。
魔獣が言うには……
しつこい魔力を何十年も摂取していたら、あっさりした魔力をつまみたくなった。試しに弱そうな夫を飲み込んでみたが、やはり防御系の魔力は淡白すぎて物足りない。和平交渉も済んだし、お喋りにも飽きたので、そろそろ吐き出していいか? と問われ、それなら家の前で降ろしてほしいと頼んだところ、親切に送り届けてくれたそうだ。
「全裸で町に放り出されなくてよかった!」
と爆笑する夫に、私はまたギュウとしがみついた。
「……じゃああの骨は?」
そこでやっと気付いた私は、ベッドの下からあの骨を拾い、ざっくりと経緯を説明する。夫はそれをまじまじと見て、あっと声を上げた。
「そういえば、魔獣が俺を飲み込む直前に、白い何かを吐き出したな。もしかしたらこれが、魔獣が何十年も摂取してたっていう、しつこい魔力の持ち主なのかもしれない。何十年経っても溶かしきれなかったなんて、俺なんか比べ物にならないほどの、強い魔力持ちだったんだろうな」
夫は、防御魔法に長けていた自分は好運だったと言い、誰かのその骨をしみじみと祭壇へ置く。
夫が目を閉じ合掌している間に、私は不細工な肖像画をさっと片付け、夫とともに心から手を合わせた。
◇
国に調査を依頼したところ、あの骨は、五十年前に魔獣に飲み込まれた騎士団長のものだとわかった。
当時の騎士団長の奥様がまだご存命だと知り、骨をお返しするために、夫と二人でお宅へ訪問することにした。
今年で八十歳になるという奥様は、旦那様の骨を見るなり、「おかえりなさい」と抱き締める。骨にキスしたり頬擦りしたりする姿は、ほんの数カ月前の私と重なり切なくなった。
奥様は、皺だらけの顔を涙で濡らしては何度もお礼を言い、私の夫が無事に帰ってきたことも、よかったよかったと喜んでくださった。
さらに魔獣との和平に協力してもらえることになり、旦那様と同様、強い魔力を譲り受けた息子さんとお孫さんの毛髪や爪を、魔獣へ定期的に寄付すると申し出てくださった。
旦那様を殺めた魔獣に対し、長年憎しみを抱いてきたという奥様。こうして旦那様が帰ってきたことで、やっと穏やかな気持ちになれる、一緒に棺へ入れるわと微笑んでいた。
一方夫はというと──
魔獣の胃から奇跡的に生還してしまったわけだが、国から支払われた弔慰金は返さなくていいと言われ、おまけに魔獣との和平交渉を成立させたとして、恩賞まで与えられた。
夫の魔力はほとんど魔獣に吸い取られてしまい、騎士団を辞めざるを得なかったため、正直大金をいただけるのはありがたかった。
しばらく働かなくても暮らせるのに、すぐに働きたがるのが夫の素敵なところ。やはり騎士の仕事に携わりたいと、騎士養成学校の講師として再出発することになった。
よく晴れた、穏やかな休日の午後。
一時は祭壇だった飾り棚を、今日もハンスは寂しそうに見上げている。
「そんなに好きだったの? 騎士団長様の骨」
私がそう尋ねただけで、ワフンと開いた口からは、どんどん涎が溢れてくる。
「これじゃダメか?」と、夫が最高級の牛骨を差し出せば、ハンスはワフフンッ! とご機嫌で噛みついた。
幸せそうに骨を噛むハンスを、ソファに腰掛け優しい眼差しで眺める夫。私はペタリと床に座り、そんな夫の腿に頬擦りする。
むちっと逞しくて、色っぽくて……温かい。いつかは必ず失くなる幸せを、私は噛みしめていた。
夫は、はあと息を吐き、困ったように言う。
「……リヨ、少し離れてくれないか? 昼間から、なんだかいけない気分になる」
「嫌。もう我慢しないって決めたの」
「他の場所じゃダメか? たとえば……ほら! 胸とか」
シャツのボタンを外し、素肌の胸板をチラリと見せてくる夫に、私は首を振る。
「ダメじゃないけど、今は腿を堪能させて」
「……リヨは魔獣より残酷だな」
「そんなこと言うなら、おやつにパンケーキ作ってあげない。せっかく最高級のメープルシロップを買ってきたのに」
夫はごくんと唾を飲み、「我慢します」と呟いた。
カーテンを揺らす心地よい風に、私は目を閉じ、これからのことを考える。
シロップたっぷりのパンケーキを食べたら、みんなでお散歩しよう。
お散歩から帰ったら、最高級の牛肉でシチューを作ろう。
シチューを食べたら、温かいお風呂に入って、二人でハーブティーを飲もう。
ハーブティーを飲んだら、夫を抱き締めて眠ろう。
ぐっすり眠って、また目が覚めたら──
新しい朝が、新しい私たちを迎えてくれるはずだ。
ありがとうございました。




