断罪された悪役令嬢は、死に際に『優しい嘘』を笑う ~処刑台から死に戻った二度目の人生、冷徹な氷の公爵様が私を離してくれません~
【あらすじ】 義妹の自作自演に嵌められ、嫉妬に狂った悪役令嬢として処刑されたエレノア。死の間際、一言も嘘を吐かず黙って罪を被ったのは、愛する父と義妹を守るための「最期の嘘」だった。 しかし目を覚ますと、そこは断罪劇が始まる一年前の病室。すべての愛を諦め、ただ静かに去ろうとするエレノアだったが、前世では敵対していたはずの「氷の冷血公爵」アルベルトが、なぜか激しい執着と涙を叩きつけてきて……?
冷たい冬の雨が、王都の処刑広場を容赦なく叩いていた。重く垂れ込めた鉛色の雲は、まるでこの国の未来を暗示しているかのようだった。
「これより、王太子殿下への不敬罪、ならびに男爵令嬢マリア様への毒殺未遂の罪により、エレノア・ヴァルハイトの処刑を執り行う!」
地を這うような厳めしい断罪の宣告が、広場全体に響き渡る。
冷たく濡れた石畳の上に無慈悲に膝をつかされた私の首元には、ずっしりと重い鉄の首輪がはめられていた。肌に触れる冷気よりも、首輪の凍るような冷たさが、間もなく訪れる死を実感させる。
集まった群衆からは、罵詈雑言の嵐が容赦なく降り注いでいた。
「この悪女め! ヴァルハイト公爵家の恥晒しが!」
「聖女のようなマリア様を殺そうとしたバチが当たったんだ! さっさと首を刎ねろ!」
石や泥が投げつけられ、私の白い囚人服を汚していく。しかし、私の心は不思議なほどに静かだった。
一段高い場所に設えられた、雨をしのげる贅沢な観覧席。そこには、私の元婚約者である第一王子・カイル様が座っていた。彼は、可憐に怯える私の義妹・マリアの細い肩を愛おしげに抱き寄せながら、虫ケラでも見るかのような蔑みの視線を私に向けている。
「エレノア、最後まで見苦しく見栄を張るか。お前が己の嫉妬に狂い、マリアに毒を盛ったことを認め、涙を流して謝罪すれば、少しは楽に死ねるよう取り計らってやったものを」
カイル様の冷ややかな声が広場に響くと、彼の腕に抱きすくめられたマリアが、くすくすと鈴の鳴るような声で可愛らしく笑った。怯えたふりをして私の実父に縋り付きながら、その瞳の奥にある、私に対する歪んだ優越感と嘲笑を、私はただ冷ややかに見つめ返していた。
(……本当に、反吐が出るほど下手くそな演技)
すべては茶番だ。マリアが劇薬を煽って生死を彷徨ったのは、完全に彼女の自作自演、狂言劇だった。私を稀代の悪女へと陥れ、ヴァルハイト公爵家の唯一の正統なる令嬢という立場と、王太子妃の座を合法的に奪い取るための罠。
私が毒など一切盛っていないという鉄壁の潔白の証拠も、それどころかマリアが裏で王都を蝕む不法な麻薬組織と繋がり、多額の資金を得ていたという決定的な証拠も、私はすべて事前に把握し、この手に握っていた。
今この場で、声を大にして真相を叫べば、私は助かっただろう。マリアの化けの皮を剥ぎ、その醜悪な真相をぶちまけて、カイル王子の愚行を告発することもできたはずだ。
けれど、私は最期まで口を閉ざすことを選んだ。
理由は哀しいほどに簡単だった。きらびやかな観覧席の隅で、生気を完全に失った顔で、ガタガタと震えている私の実の父親――ヴァルハイト公爵の姿がそこにあったからだ。
父親は、亡き先妻の子である私を無視し、後妻の連れ子であるマリアを狂おしいほどに盲愛していた。もしマリアの麻薬組織との繋がりや狂言大逆の罪が公になれば、ヴァルハイト公爵家は国家叛逆の連座により、一族諸共ギロチンにかけられて完全に潰れる。生まれつき病弱で、精神的にも脆い父にとって、マリアの笑顔だけが生きがいそのものだったのだ。私が真実を語れば、父は間違いなく絶望と失意のうちに命を落とす。
『お父様、マリアを大切にしてあげてくださいね』
それが、私が幽閉先から父へ残した最後の遺言の手紙だった。私がすべての罪を一人で被って死ねば、ヴァルハイト家は「悪女を輩出してしまった悲劇の被害者」として世間から同情を受け、取り潰しを免れて存続できる。マリアも計画通り王太子妃の座に収まり、父の愛する『幸せな家族』は守られる。
これは、私が大好きな、そして私を一度も見つめてくれなかった父親へ贈る、最初で最期の「優しい嘘」。
私は嫉妬に狂った醜い身代わりの悪女として死ぬ。それでいい。私一人の身体が引き裂かれ、傷つくだけで、大好きな人たちが幸せになれるのなら。
「……言い残すことはないか、悪女エレノア」
執刑官の冷酷な問いに、私は冷たい雨が滴る天を見上げ、ふっと静かに、この世のものとは思えないほど美しく微笑んだ。
「いいえ。何もございません。……どうぞ、お早く」
私のその潔すぎる微笑み、死を恐れぬ瞳に、カイル王子が一瞬だけ恐怖に怯んだような顔をした。だが、命令は下る。引き揚げられた鈍色のギロチンの刃が、自重のままに躊躇なく落ちてくる。
――ザンッ――!
不自然に世界の視界が傾き、次の瞬間、世界が強烈な白い閃光に包まれた。首元を襲う凄まじい激痛と、急速に遠のいていく意識。溢れ出るあたたかい血の海の中で、私は最期に思った。
(ああ、これで私の十九年の短い人生も終わり……。お父様、どうかお達者で――)
悲しみも、裏切りも、不条理も、もう何も感じない。私はただ、果てのない静かな暗闇の底へと落ちていった。
◇
「――エレノア! エレノア、頼むから目を覚ましてくれ……!」
(……誰? 私を呼ぶ、この泣きそうな声は……)
首元を骨ごと断ち切られたあの凄まじい激痛が、嘘のように消え去っていた。代わりに感じたのは、喉の猛烈な渇きと、身体を優しく包み込む最高級の羽毛布団の温もりだった。
重い瞼をうっすらと開けると、そこにあったのは血生臭い殺風景な処刑場でも、罪人が落ちる地獄の底でもなかった。
眩しいほどの純白の陽光が差し込む、見覚えのある自分の部屋の天井。
そして、私の右手を、骨が軋むほど強く握りしめ、青ざめた顔で私を見下ろしている一人の男の姿だった。
「アルベルト……様……?」
掠れた声でその名を呼ぶ。
そこにいたのは、我が国の第一騎士団長にして、社交界では冷酷無比、感情を持たない「氷の冷血公爵」と恐れられているアルベルト・ライオネル公爵その人だった。
絹のように美しい銀髪に、吸い込まれそうなほどに澄んだアイスブルーの瞳。前世の私にとっては、公式の夜会で数回儀礼的な挨拶を交わした程度の間柄であり、むしろカイル王子の最大のライバル、あるいは政敵として警戒すべき対象だったはずの男だ。
なぜ、そんな彼が、その美しい瞳に大粒の涙を浮かべて私の手を握りしめているのだろうか。
「よかった……! 呼吸が戻った、本当によかった……。医者! 早く来い、エレノアが目を覚ました!」
部屋の外に向かって、地響きのような怒号を上げるアルベルト。私は混乱に震える頭を抱えながら、自分の両手を見た。白く細く、しかし血色の悪い、まだ生きている人間の手。恐る恐る自分の首元に触れてみても、あのギロチンによって刻まれたはずの無惨な傷跡など、どこにも存在しなかった。
ふと壁の豪奢なカレンダーに目をやった私は、そこに刻まれていた日付を見て、あまりの衝撃に息をのんだ。
(……聖暦412年、11月10日……!?)
カイル王子によるあの断罪劇が行われたのは、聖暦413年の冬だった。つまりここは、私が処刑台で首を落とされる、ちょうど一年前の世界。
私は、過去へ戻ってきたのだ。
「エレノア、気分はどうだ? 高熱を出して丸三日間も意識不明の重体だったんだぞ。……あの男、ヴァルハイト公爵は、実の娘が命の危機にあるというのに、相変わらずマリアの社交界デビューの付き添いだと言って出かけていった。だが安心しろ、俺がずっと君の傍についていた」
アルベルトは、壊れやすいガラス細工を扱うような、痛々しいものを見る目つきで私を見つめ、そっと私の額に大きな手を当てて熱を測った。その手は、驚くほど温かかった。
「……どうして、アルベルト様が我が家の私の寝室にいるのですか? 私たちのヴァルハイト家は、ライオネル公爵家とは政務において敵対関係のはずでは……」
「敵対だと?」
私の問いかけに、アルベルトは引き裂かれたような苦しげな表情で眉をひそめ、ぐっと薄い唇を噛み締めた。
「君は……本当に自分が置かれている立場が分かっていないのか。奴ら――君の父親も、あの忌々しい義妹も、愚鈍なカイル王子も! 全員が君をヴァルハイト公爵家の都合のいい道具として扱い、陰でどれほど虐げているか分かっているのか! なぜそんな奴らの前で、平気な顔をして笑っていられる!?」
「え……?」
「君がどれほど夜、一人で誰にも見られずに涙を流してきたか、この俺が知らないとでも思っていたのか!?」
感情を一切表に出さず、鉄の仮面を被っていることで有名な「氷の公爵」が、まるで魂をかきむしるように感情を爆発させて私に迫る。そのアイスブルーの瞳には、溢れんばかりの切なさと、凄まじい苛立ち、そして——逃がさないという狂気的なまでの強い執着が宿っていた。
◇
それからの数日間、私のヴァルハイト公爵邸にある自室は、およそ現実とは思えない奇妙な状況に包まれることとなった。
実の父親であるヴァルハイト公爵は、マリアが「お姉様の病気が移ったら怖いから、近づかないでくださいませお父様」と甘えた声を出すと、約束通り一度たりとも私の部屋に顔を出すことはなかった。前世で私が家を守るために命を賭してギロチン台に上がったというのに、やはりこの父親は、私のことなど最初から一瞥もしていなかったのだと、冷酷な現実が胸を刺す。
だが、実父の代わりに、毎日欠かさず朝昼晩と公爵邸へ乗り込んできたのは、他でもないアルベルトだった。
「エレノア、今日のスープだ。厨房で作らせた。栄養価が非常に高い。……念のため、俺が目の前で毒味をしておいたから安心して飲んでくれ」
「あ、あの、アルベルト様……。一国の第一騎士団長であり、公爵である貴方が、自らスープの器を持って病人の部屋へ運ぶなんて、絶対におかしいです……!」
「おかしくない。今の俺にとって、君が一口でも多くの食事を摂り、体力を回復させることが、世界の何よりも優先される最優先事項だ」
アルベルトは、私がスープを一口ずつ飲み終えるまで、じっとベッドの脇で真剣な眼差しで見守り、私の口元がわずかでも汚れれば、極上のシルクのハンカチを使って、まるで羽毛で触れるかのような繊細な手つきで丁寧に拭ってくれるのだった。
(どうして……? 前世の社交界でのアルベルト様は、こんなに甘く、過保護な人ではなかったはず……)
あまりのギャップに困惑し、おろおろとする私を見かねて、アルベルトの側臣である見習い騎士の青年・ロイが、主君が席を外した隙を見計らってこっそりと耳打ちをしてくれた。
「エレノア様、驚くのも無理はありませんが、閣下はもうずっと昔から、貴女のことが狂おしいほど好きだったんですよ。ですが、貴女がカイル王子と婚約されてからは、公爵家の立場もあり、手出しをすることができず……ただ陰から見守り、耐えることしかできなかったんです。それが今回、貴女が実家で高熱を出して倒れたのに誰も看病していないと聞いて、ついに理性が消し飛んで、なりふり構わず騎士団を引き連れてヴァルハイト家に乗り込んできたんですよ」
「昔から……? ライオネル公爵様が、私を……?」
信じられなかった。前世の私は、ただ実父に認められたくて、カイル王子に振り向いてもらうために必死で、自分の周りにあった本当の優しさや、私に向けられていた熱い視線に、一切気づく余裕がなかったのだ。
しかし、アルベルトの深い愛を知ってもなお、私の心には前世の「死」の記憶が重く冷たく立ち込めていた。
(だめよ。私は一度死んだ身。歴史が繰り返されれば、どうせあと一年もすれば、マリアとカイル王子によって完璧な罠に嵌められる……。こんなに優しいアルベルト様を、私たちの家の泥沼の破滅に巻き込むわけにはいかないわ)
私はベッドの上で居住まいを正し、アルベルトに向かって静かに微笑んだ。それは前世で、あの雨の処刑台の上で世界に見せたのと同じ、すべてを諦め、自分を偽るための笑みだった。
「アルベルト様、その温かいお気持ちは本当に嬉しいです。でも、私はどこまでいってもヴァルハイト家の娘です。いずれカイル王子と結婚し、王太子妃として王家を支える身。これ以上私に関われば、お優しいライオネル公爵家にまで大罪の迷惑がかかります。……ですから、もう二度と、ここへは来ないでください」
――私の、渾身の嘘だった。だが。
「……二度と、嘘をつくな」
アルベルトの声が、部屋の空気を凍らせるほど低く、地響きのように響いた。
「え……?」
「君は今、またそうやって自分を押し殺して、俺を遠ざけるための嘘をついたな?」
アルベルトは私の両肩を掴むと、力強く、しかし決して私を傷つけないよう、折れやすい壊れ物を扱うように優しく、己の胸へと引き寄せた。彼の鍛え上げられた広い胸から、早鐘のように打つ激しい鼓動が、ダイレクトに私の身体へと伝わってくる。
「俺にはすべて分かるんだ、エレノア。君のその綺麗な笑顔は、己の絶望を隠すための『演技』だ。カイルなどこれっぽっちも愛していないことも、あの腐りきった家族に完全に絶望していることも、全部その美しい瞳に書いてある!」
「ち、違います! 私は本当に――」
「逃がさないと言ったはずだ、エレノア。二度目はない。今度こそ……絶対に、君をあの無惨な死の運命になど渡してたまるか!」
(二度目……? 今、アルベルト様は確かに『二度目』と言ったの……!?)
驚愕で目を見開く私を見て、アルベルトはハッと我に返り、息を呑んで、苦しそうに自らの顔を美しい手で覆った。
◇
「君も……覚えているんだろう? あの冷たい雨の日の、血塗られた処刑場を」
静まり返った寝室に、アルベルトの震える声が響き渡った。その言葉は、私の魂を激しく揺さぶる。
「アルベルト様……あなた、まさか……私と同じように、死に戻ったのですか……?」
「そうだ」
彼のアイスブルーの瞳から、一筋の透明な涙がこぼれ落ち、私の手の甲を濡らした。あの冷徹無比と謳われた公爵が、私の目の前で、子供のように涙を流して泣いている。
「あの日、君がマリアの罠によって断罪されたと聞いて、俺は我が第一騎士団の全戦力を率いて、王命に背いてまで処刑場へ駆けつけた。だが……間に合わなかった。城門での抵抗に時間を取られ、俺が広場に辿り着いたときには……君の首が落ちる瞬間を、俺はただ、遠くから絶望の中で見届けることしかできなかったんだ!」
アルベルトの大きな手が、私の首元へと伸びる。今は何の傷もない滑らかな皮膚を、まるでそこに確かにあったギロチンの傷跡を確認するように、愛おしそうに、そして狂おしげになぞった。
「君が死んだ後、俺は狂ったように裏のすべてを調べ上げた。マリアの自作自演も、君が毒など一切盛っていなかったことも、すべての真実を暴き出した。……そして、君がなぜ、証拠を持っていながら黙って死を受け入れたのかもな」
「っ…………!」
「君は、あの救いようのない愚かな父親とヴァルハイト家を守るために、自分がすべての泥を被って悪女になるという『優しい嘘』をついたんだろ!? 自分の命を、未来をすべて捨ててまで、自分を一度も愛してくれなかったあの家族を守ったんだ!」
すべて、知られていた。私が誰にも言わず、墓場まで持っていこうとした胸の奥の「最期の嘘」を、彼は血を吐くような調査の果てに、すべて知っていたのだ。
「だがな、エレノア! なぜ君ばかりがそんな理不尽に傷つかなければならなかったんだ!? 君が命を捨ててまで守ったあの父親は、君の死後、どうなったか知っているか? 君という抑え役を失ったヴァルハイト家で、マリアとカイルは王家の公金と公爵家の財産を湯水のように使い果たし、贅沢の限りを尽くした。父親はマリアに騙され続け、最終的には全財産を失って破産し、最後は冷たい路地裏で野垂れ死んだんだぞ! 君の払った犠牲なんて、何一つ、誰一人として救わなかったし、報われなかったんだ!」
絶叫に近いアルベルトの告白が、私の胸を鋭く、激しく穿った。
(お父様が……破産して、野垂れ死んだ……? 私が命を賭けてついた嘘は、何も、誰も救えなかったの……?)
前世の私の「優しい嘘」は、誰の幸せにもならなかった。ただ私が勝手に自己満足で死に、遺された人々をさらなる崩壊へと導いただけの、独りよがりの愚行だったのだ。
気づけば、ボロボロと溢れ出す涙を止められず、私はベッドの上で声を上げて泣きじゃくっていた。
「ああぁ……つ、うわああぁん……! 私は、私はただ……みんなに笑っていてほしかっただけなのに……っ!」
「知っている。君が世界中の誰よりも優しく、誰よりも愚かで、そして誰よりも愛おしい女性だということは、俺が一番よく知っている」
アルベルトは泣き崩れる私を、これ以上ないほど強く、強く抱きしめた。首筋に感じる彼の熱い肌の温もりと、壊れそうなほど激しい心臓の音。あの冷たいギロチンの刃とは違う、生きた人間の圧倒的なまでの純粋な愛が、私の凍りついていた心をドロドロと溶かしていく。
「もう嘘をつく必要はない。自分を偽るな、エレノア。二度目の人生は……俺のために、いや、君自身の好きに生きろ。君を脅かし、利用しようとする全ての不条理から、この俺が命に代えても君を守ってみせる」
その言葉に、私はようやく、悪女の仮面を脱ぎ捨てる覚悟を決めたのだった。
◇
それからの展開は、恐ろしいほどに速かった。
一度目の人生でカイルとマリアが仕掛けてくる罠の全貌、そして凄惨な結末を知っているアルベルトと私は、裏で着々と、しかし完璧な網を張るように手を打っていった。私は「実父の愛を求める健気で大人しい被害者」の振りを完全にやめ、自分の人生をその手に取り戻すために動き始めたのだ。
まず、アルベルトが直属の部下である第一騎士団の精鋭を動かし、マリアが裏ルートで手を染めていた不法な麻薬取引の現行犯を押さえさせ、その取引帳簿を押収した。そこにはマリアの署名だけでなく、カイル王子が彼女に貢ぐために王家の公金を横領し、高価な宝石を買い与えていたという決定的な証拠、さらにはマネーロンダリングのルートまでが、完璧な書類としてまとめられた。
そして、運命の11月。王城の大広間で開かれた、全貴族が集まる大規模な夜会にて、その事件は起きた。
「エレノア・ヴァルハイト! 貴様のような嫉妬深く醜悪な悪女との婚約は、今この場をもって破棄する! 貴様が私の愛するマリアに毒を盛ったという決定的な証拠は、すでに挙がっているのだ!」
広場の中央で、前世と全く同じ、カイル王子の愚かな断罪宣言が響き渡る。
舞台の中央では、マリアが「お姉様、どうしてこんな酷いことを……私はただ、お姉様と仲良くしたかっただけなのに……」と、涙をハラハラと流して悲劇のヒロインを完璧に演じていた。周囲の貴族たちは、私に対して冷ややかで軽蔑に満ちた視線を向けてくる。
前世の私なら、ここで絶望に俯き、実父のために黙って罪を受け入れていただろう。
「さあ、言い訳があるなら聞いてやろう! 警備兵、この悪女をただちに捕らえよ!」
カイル王子が勝ち誇った顔で叫び、マリアが裏でほくそ笑んだその瞬間。
私は身にまとった、淡い桜色の美しいドレスの裾を優雅に広げ、凛とした完璧な笑みを浮かべて首を跳ね上げた。
「カイル殿下。私がマリア様に毒を盛ったとおっしゃいますが……その『毒』とは、そちらの衛兵が持っている、こちらの美しいガラス瓶の液体のことでしょうか?」
私は懐から、ある透明な小瓶を取り出してみせた。カイル王子が顔を顰める。
「ふん、往生際が悪いぞ! それこそがお前が毒を隠し持っていた証拠――」
「いいえ、殿下。私がパチン、と指を鳴らすと、会場の重厚な扉が勢いよく左右に開け放たれた。
入ってきたのは、漆黒の式典服に身を包み、圧倒的な威圧感を放つアルベルト・ライオネル公爵率いる、第一騎士団の一隊だった。その手には、抜身の剣と、大量の書類が握られている。
「なっ……ライオネル公爵!? なぜ貴様が騎士団を率いてここに乱入してくる!?」
動揺し声を荒げるカイル王子を完全に無視し、アルベルトは軍靴の音を響かせてまっすぐに私のもとへと歩み寄った。そして、当然の権利であるかのように、私の細い腰に逞しい手を回し、その身体を己のほうへと引き寄せたのだ。会場全体に、驚きの大歓声が広がる。
「カイル殿下。貴方が今『毒』と呼んだものは、そこのマリア男爵令嬢が、闇ルートを通じて自ら買い付けた高揚剤――すなわち、我が国において所持だけでも極刑に値する違法麻薬です」
アルベルトの冷徹な声が、大広間に響き渡る。
「彼女はエレノア嬢を陥れ、王太子妃の座を奪うため、自らその薬物を服用して毒殺未遂を自作自演しました。その事実は、すでに捕らえた薬種の売人の詳細な証言、ならびにこちらの売買領収書によって完全に立証されています」
「な、なんだと……!? マリア、本当なのか!?」
顔をみるみる土気色にするカイル王子に、マリアは「ち、違います! 私は何も知りません! これはエレノアお姉様の陰謀です!」と狂ったように叫んだが、アルベルトの手下が彼女の目の前に突きつけた証拠書類――マリア自身の直筆の署名と、ヴァルハイト公爵家の裏金から支払われた金の流れが記録された領収書の前に、完全に言葉を失ってへたり込んだ。
「さらに、カイル殿下。貴方がマリア嬢に貢ぐために、国家の防衛費を含む公金を数年にわたり横領していた証拠も、すべてここに揃っております。すでに国王陛下には事前にこの書類を提出しており、たった今、陛下の御前において、貴方の立太子籍の剥奪、ならびに大逆罪での幽閉および国家反逆罪としての処罰が決定いたしました」
「そんな……まさか、父上が……!? 嘘だ、嘘だ!!」
カイル王子とマリアは、騎士団の手によってその場で無惨に引きずられていき、二度と日の目を見ることのない最下層の地下牢へと幽閉処分されることが決定した。
静まり返る会場の片隅で、呆然と立ち尽くしている我が父・ヴァルハイト公爵に対し、私は最後に、氷のように冷ややかに言い放った。
「お父様。これまで私をヴァルハイト家の便利な道具として扱い、私の心を踏みにじり、マリアばかりを盲愛してくださり、本当にありがとうございました。本日をもちまして、私はヴァルハイト公爵家との親族関係を完全に絶縁、法律的にも他人の関係とさせていただきます」
「えっ……エレノア、待ってくれ! 嘘だろ、私を見捨てるのか!? 家はどうなるんだ!?」
取り乱し、私のドレスの裾に縋り付こうと這い寄ってくる父の手を、アルベルトがその長い足で冷酷に踏みつけ、遮った。
「汚い手でエレノアに触るな。これ以上彼女に近づく不敬を働くならば、ヴァルハイト公爵家を今この瞬間をもって、国家叛逆の罪で完全に叩き潰すが、どうする?」
アルベルトから放たれる、本物の戦場をくぐり抜けてきた凄まじい殺気と威圧感に、父は完全に腰を抜かして、その場にガタガタと震えながらへたり込んだ。私は一度も、その哀れな姿を振り返ることなく、アルベルトの温かい手を取って、きらびやかな夜会の会場を堂々とあとにしたのだった。
◇
それから、ちょうど一年後。
柔らかな春の陽光が暖かく降り注ぐ、ライオネル公爵家の広大な、美しい庭園。
満開に咲き誇る、美しい桜色の花々の下で、私は純白のウエディングドレスに身を包んでいた。
「エレノア、本当に綺麗だ。……世界中のどの宝石も、今日の君の美しさには敵わない」
黒い最高級のタキシードを完璧に着付けたアルベルトが、熱っぽく、そして狂おしいほどの深い視線で私を見つめてくる。前世の、あの冷酷無比と言われた「氷の公爵」の面影は、今の彼のどこを探しても見当たらなかった。
今の彼は、私を世界一甘やかすことしか考えていない、極上の愛妻家へと変貌を遂げていた。
「ふふ、ありがとうございます、アルベルト様。……でも、少し腰を抱きしめる力が強すぎますわ。ドレスが崩れてしまいます」
「ダメだ、絶対に離さない。一瞬でも君から目を離したら、また俺の知らないところで、誰かのためにその身を投げ出して、消えてしまいそうで……俺は、まだ怖いんだ」
アルベルトはそう言って、私の首元にその美しい顔をうずめ、深く愛おしげに息を吐き出した。前世のあの雨の処刑場で、私の首が落ちるのを目撃してしまった彼のトラウマは、一年が経った今でも完全には消え去っていないのだろう。
そんな彼の不器用で、けれど海より深い愛が愛おしくて、私は優しく彼の美しい銀髪を撫でた。
「もう、どこにも行きませんわ。私はこれから一生、アルベルト様の可愛い奥様ですもの」
「……ああ。一生、俺の傍で、俺の愛に溺れていてくれ」
彼がゆっくりと顔を上げ、私の唇に、慈しむように優しく、けれど確かな独占欲を込めて重ねるようなキスを落とした。
庭園の澄み切った青空の下、あたたかな春の風が、私たちの頬を優しく撫でて通り抜けていく。
前世の私は、誰かのために「優しい嘘」をついて、一人で寂しく、静かに死んでいった。けれど、二度目の人生で、私はアルベルトに愛されることで本当の真実を知ったのだ。
自分の幸せをすべて投げ捨ててまでつく嘘なんて、結果として誰も、何も幸せにはしないということを。
本当の愛とは、相手と一緒に傷つき、一緒に笑い合い、どんなに泥臭く不条理な世界であっても、共に向き合って手を取り合い、自分たちの手で未来を掴み取ることなのだと。
「行きましょう、エレノア。みんなが私たちの結婚を、待ち望んでいる」
「はい、私の愛しいアルベルト様!」
私は彼の力強い手をぎゅっと握り返し、一歩、軽やかに前へと踏み出した。
二人で紡ぐ、もう誰にも邪魔されることのない、終わることのない幸福な輪舞曲の、輝かしい第一歩を ──。
◇
ライオネル公爵家の朝は、およそ社交界の人々が耳にすれば卒倒するほどの、甘やかで奇妙な光景から始まる。
「エレノア、今日も世界で一番愛らしい。……頼むから、あと一刻だけこのまま俺の腕の中にいてくれ。君がベッドから出てしまうと、それだけで部屋の空気が凍りつく気がするんだ」
「アルベルト様、もう三回も同じセリフをおっしゃっていますわ。第一騎士団長としての朝の朝礼に遅れてしまいます。ほら、起きてくださいませ」
眩しい朝の陽光が差し込む天蓋付きのベッドの中。
私の腰を、折れんばかりの力で抱きしめて離さないのは、私の最愛の夫であり、世間からは感情を持たない冷徹無比の「氷の冷血公爵」と恐れられているアルベルト・ライオネル公爵その人だった。
前世の社交界での彼を知る者が見れば、間違いなく偽物だと疑うだろう。今の彼は、私の前でだけはすべての鉄の仮面を脱ぎ捨て、狂おしいほどの情熱と、どこか壊れ物をもてあそぶような過保護さを見せる「極上の愛妻家」だった。
私がクスリと笑って彼の美しい銀髪に触れると、アルベルトはアイスブルーの瞳を微かに揺らし、私の首元へと愛おしげに顔をうずめた。
「……アルベルト様、くすぐったいですわ」
「嘘ではない。君のこの滑らかな首筋に触れているときだけが、俺の魂が本当に安らぐ瞬間なんだ。あの日、あの雨の処刑場で……君の首が落ちたあの悪夢が、今でも時折、俺の脳裏を掠めて俺を狂わせそうになる」
アルベルトの低い声が、切なげに鼓膜を揺らす。
彼の手指が、私の首元をそっとなぞった。前世でギロチンの刃によって無惨に断ち切られたはずのその場所には、今や何の傷跡もない。けれど、彼にとっては、私を一度失ったという絶望のトラウマは、一年が経ち、こうして正式に婚姻を結んだ今でも、完全に拭い去ることはできない生々しい傷なのだ。
(アルベルト様……。あなたはどれほどの地獄を彷徨って、私を追いかけてきてくださったの……?)
前世の私がギロチンにかけられた後、アルベルトは狂ったように真相を調べ上げ、私の「優しい嘘」のせいでヴァルハイト家が破滅した未来を知った。そして、どういうわけか私と同じように時を遡り、二度目の人生で私を完璧に救い出してくれた。
なぜ、私たちは「死に戻り」を果たすことができたのか。その明確な理由は、未だに分かっていない。ただ分かっているのは、私たちが魂の底で強く結ばれており、彼が私を二度と離さないと誓っていることだけだった。
「もう、どこにも行きませんわ。私は貴方の妻。貴方が命を賭けて繋ぎ止めてくださった、エレノア・ライオネルです」
私は彼の広い胸に顔を埋め、力強くその背中に手を回した。アルベルトは満足げに喉を鳴らし、私の唇に甘く、深い口づけを落とす。
しかし、そんな私たちの蜜月のような平和は、前世からの因縁という醜悪な影によって、突如として破られることとなる。
◇
事件が起きたのは、私たちが結婚して三ヶ月が過ぎた、うららかな初夏の午後だった。
アルベルトが騎士団の公務で王城へと出かけている間、私はライオネル公爵邸の図書室で、領地の経営書類や歴史書を読み進めていた。二度目の人生では、身代わりの悪女として死ぬ必要はない。アルベルトを支える完璧な公爵夫人となるため、私は日々、知識を蓄えることに没頭していたのだ。
そこへ、アルベルトの側臣である見習い騎士の青年・ロイが、ただごとではない青ざめた顔で駆け込んできた。
「エレノア様! 大変失礼いたします……っ! 至急、お耳に入れたい不穏な報告がございます!」
「ロイ? 落ち着きなさい。一体何があったのですか?」
私は本を置き、ロイを見つめた。彼は額の汗を拭いながら、声を潜めて言った。
「王城の最下層にある、魔力封じの地下牢に幽閉されていた……あのカイル元王子と、マリア男爵令嬢のことです。先ほど、王城の警備兵から我が騎士団に緊急の伝令が入りました。――マリアが、地下牢の看守を『謎の秘薬』で魅了し、牢から脱走したとのことです!」
「なっ……! マリアが脱走……!?」
心臓がドクリ、と嫌な音を立てた。
前世で私を陥れ、麻薬密売や公金横領の罪で幽閉されたはずの義妹・マリア。彼女は一度目の人生でも、底知れない執念と狡猾さで私を追い詰めた女だ。そんな彼女が、国の最高機密であるはずの地下牢から抜け出したという。
「カイル元王子は魔力を奪われ、精神を病んで牢に残されたままですが、マリアは何者かの手引きを受け、すでに王都の地下水道を通じて逃亡した模様です。しかも、現場に残されていた看守の死体には、不自然な黒い斑点が浮かび上がっており……これは、前世でマリアが扱っていた違法麻薬よりもさらに強力な、禁忌の『呪毒』の痕跡だと判明しました」
「禁忌の呪毒……」
私は自分の首筋に自然と手が伸びるのを感じた。マリアはまだ諦めていないのだ。自分から全てを奪い取り、冷徹な公爵の愛を一身に受けている私への復讐の炎を、地下牢の暗闇の中で絶やさずに燃やし続けていたのだろう。
「閣下にはすでに伝令が飛び、ただちに王都全域に非常警戒態勢を敷いてマリアの捜索に当たっています。エレノア様、どうか本日は一歩も邸の外へ出ず、俺たちの護衛の指示に従ってください!」
「分かりました。ロイ、ありがとう。……でも、嫌な予感がするわ。マリアの標的は、間違いなく私。それも、ただ私を殺すだけでなく、アルベルト様を最も絶望させる方法を選んでくるはずよ」
マリアの歪んだ自己顕示欲と、私に対する異常なまでの劣等感。彼女は私がただ死ぬだけでは満足しない。私が築き上げた幸福を、アルベルトの愛を、文字通り徹底的に破壊し尽くすことが目的のはずだ。
その日の夜、急報を聞いて血相を変えて戻ってきたアルベルトは、私を一秒でも早く確認するように、痛いほど強く抱きしめた。
「エレノア……! 無事か!? 傷はないか!?」
「ええ、アルベルト様。私は見ての通り、何ともありませんわ。邸の結界も強化されていますし、騎士の方々が完璧に守ってくださっています」
アルベルトの瞳は、普段の冷静さを完全に失い、底なしの狂気と怒りで煮えくり返っていた。
「あの這い虫め……。一度目の人生で君の首を撥ね、二度目の人生でもなお、俺の唯一の光である君の髪一筋にでも触れようとするとは。今度こそ、ただの幽閉では済まさない。五体を引き裂き、その魂ごと肉片にして家畜の餌にしてくれる……!」
「アルベルト様、落ち着いてください。マリアが脱走した裏には、おそらくヴァルハイト公爵家の残党か、あるいは隣国の工作員が絡んでいる可能性があります。彼女一人の力で王城の地下牢を破るなど不可能ですわ」
私は彼の激しい呼吸を宥めるように、その大きな胸を手で撫でた。アルベルトは私の手に己の手を重ね、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「分かっている。すでに王都の出入国は完全に封鎖した。ネズミ一匹逃がさない。だが、エレノア。マリアが逃亡の直前、牢の壁に『血の文字』で君へのメッセージを残していったんだ」
「メッセージ……?」
アルベルトは忌々しげに顔を歪め、その内容を口にした。
『お姉様。貴女が奪った私の幸せ、私の公爵様。一年前のあの雨の日に戻してあげる。運命の針は、私が巻き戻すわ』
運命の針を巻き戻す。その不気味な言葉に、私は直感した。マリアは、私たちが「死に戻り」をしていること、あるいはそれに類する時を操る術の存在に、気づいているのかもしれない。
◇
マリアが脱走してから三日後の夜。王都は奇妙な静寂に包まれていた。
ライオネル公爵邸の厳重な警戒を抜けて、私の寝室の机の上に、一通の小さな手紙が「忽然と」現れた。結界も、周囲を見張っていた第一騎士団の目もすり抜けて届けられたその手紙には、ただ一言、美しい文字でこう書かれていた。
『今宵二更、王都の中央大劇場へお越しください、お姉様。一人で来なければ、ヴァルハイト公爵領の罪なき領民一千人の命が、私の『呪毒』によって一瞬で腐り果てることになるわ。これは、私を捨てたお父様への復讐でもあるの』
「……領民を人質に取るなんて、どこまで卑劣な女なの……!」
手紙の紙面からは、微かにあのロイが言っていた「不自然な黒い斑点」を引き起こす、邪悪な魔力の残滓が感じられた。マリアが本気で呪毒の魔法を発動させれば、元ヴァルハイト領の罪のない人々が一夜にして全滅する。それは、かつて私が命を捨ててまで守ろうとした領地の人々だった。
私はただちにアルベルトに知らせようとした。しかし、手紙の裏面には恐ろしい呪印が刻まれており、私がこの手紙の内容を第三者に口頭や文字で伝えようとした瞬間、呪毒が自動的に発動する仕組みになっていたのだ。
(マリア……私と一対一で決着をつけるつもりね。けれど、今の私は前世の「黙って犠牲になる悪女」ではないわ!)
私は口を閉ざしたまま、ドレスの奥にアルベルトから贈られた「最高位の防御魔導具」と、一本の鋭利な短剣を仕込んだ。そして、ロイたち護衛の目を巧みに盗み(元公爵令嬢としての邸の隠し通路の知識を総動員し)、夜の闇へと滑り出した。
深夜の中央大劇場。
かつては王公貴族たちが華やかなオペラを楽しんだその場所は、今は完全に閉鎖され、不気味な静寂とカビ臭い空気に満ちていた。
重い扉を押し開けて観客席へと進むと、月光が差し込む誰もいないステージの中央に、ボロボロの囚人服を着た、しかし怨念に満ちた美しい笑みを浮かべたマリアが立っていた。
「あら、本当にお一人で来てくださるなんて。さすがは、自己犠牲が大好きな偽善者のお姉様だわ」
マリアの声が、無人の劇場に不気味に響き渡る。彼女の手には、どす黒く脈打つ不気味な水晶玉が握られていた。それが領民たちの命を繋ぐ、呪毒の核なのだろう。
「マリア。看守を殺し、罪なき領民の命を脅かしてまで、私を呼び出して何をするつもり? あなたの罪はもう言い逃れできないわ。おとなしく投降しなさい」
私が凛とした声で言い放つと、マリアは顔を醜く歪め、狂ったように笑い出した。
「投降? 笑わせないで! 貴女さえいなければ、私は王太子妃になり、いずれはこの国の王妃として君臨するはずだったのよ! それを貴女が、あの冷徹なアルベルト公爵と手を組んで、完璧な証拠なんてものを揃えて私をハメた! 貴女のせいで、お父様も破産して発狂し、私は汚物まみれの地下牢に落とされたのよ!」
「因果応報よ、マリア。あなたが裏で麻薬を売り捌き、私に罪をなすりつけようとしたからよ。私はただ、自分の人生を取り戻しただけだわ」
「黙れ!!」
マリアが水晶玉を掲げると、彼女の周囲から黒い霧のような呪毒が立ち上り、ステージの床をまたたく間に腐食させていく。
「貴女、気づいているんでしょう? 私たちが、一度死んだ世界から『戻ってきた』大罪人だってことにさ!」
マリアの口から飛び出したその言葉に、私は目を見開いた。やはり、彼女も気づいていたのだ。
「地下牢の暗闇の中で、私は思い出したのよ……! 一度目の人生の記憶をね! 私はあの雨の日、貴女の首がギロチンで落ちるのを高笑いしながら見ていた。貴女はヴァルハイト家を守るために黙って死んだ、間抜けな身代わり悪女だった! なのに、なぜ二度目の人生では、貴女がアルベルト公爵に愛され、幸せの絶頂にいるのよ!? おかしいじゃない! 歴史が変わったのは、貴女があの公爵と『死に戻り』の術を使ったからでしょう!?」
マリアの瞳には、血走るような嫉妬と狂気が宿っていた。
「だから、私はこの『禁忌の水晶』を使って、もう一度時間を巻き戻すのよ! 貴女の肉体をこの呪毒で生きながら溶かし、その苦痛の魔力を生贄にして、歴史を『私が勝ち、貴女が死ぬあの雨の日』へ無理やり巻き戻してあげるわ!!」
マリアが叫ぶと同時に、黒い呪毒の蛇が一斉に私に向かって牙を剥き、襲いかかってきた。
◇
「終わりよ、エレノア! 貴女の肉体も、その生意気なプライドも、すべてドロドロに溶けて消えなさい!」
マリアの狂気の叫びと共に、視界を埋め尽くすほどの黒い毒蛇が私に迫る。
私は仕込んでいた防御魔導具を発動させようと手を伸ばした――その、寸前だった。
――ドゴォンッ――!!
劇場の巨大な天井が、凄まじい衝撃波と共に木端微塵に破壊された。
降り注ぐ瓦礫と凄まじい魔力の嵐の中、上空から彗星のごとく舞い降りた一人の影が、私の前に立ちはだかる。
まばゆいばかりの青白い闘気を全身に纏い、手にした白銀の長剣を一振りするだけで、迫り来ていた黒い呪毒の蛇を一瞬で霧散させたその男。
「……アルベルト様……!」
「エレノア、遅くなってすまない。……恐怖に震えさせてしまったな」
振り返ったアルベルトのアイスブルーの瞳は、怒りと狂気で完全に「極夜」のごとき冷徹な輝きを放っていた。その圧倒的な覇気に、劇場の空気そのものが凍りつき、マリアは息を詰まらせて一歩後退りした。
「な、なぜ……なぜここが分かったのよ!? エレノアには強力な秘匿の呪印をかけ、誰にもこの場所を教えられないようにしていたはずなのに……っ!」
マリアが戦慄の声を上げる。
アルベルトは、壊れた人形を見るような冷酷な視線をマリアに投げ、冷笑した。
「そんな子供騙しの呪印が、この俺に通じると思ったのか? 俺とエレノアの魂は、一度死の淵を共に潜り抜け、時を遡ってまで繋がっているんだ。彼女の魂が微かでも恐怖や危機を感じれば、その居場所など、世界の果てであっても俺には手に取るように分かる」
アルベルトはゆっくりと剣を構え、マリアへと一歩ずつ歩を進めた。その軍靴の音が、劇場に死のカウントダウンのように響く。
「それに、ロイ。例の『物』は回収したか?」
アルベルトが合図を送ると、劇場の破壊された天井から、ロイ率いる第一騎士団の精鋭たちが次々とロープで舞い降りてきた。ロイの手には、マリアが持っているものと対になる、もう一つの輝く水晶玉が握られていた。
「はっ! 閣下のご命令通り、マリアの逃亡ルートを逆探知し、ヴァルハイト領の源流に仕掛けられていた『呪毒の拡散装置』を完全に破壊・無力化いたしました! 領民たちは全員無事、かすり傷一つ負っていません!」
「な、何ですって……!? 私の計画が、最初からすべて見抜かれていたというの……!?」
マリアの顔が、絶望で真っ白に染まっていく。
アルベルトは私の腰を左手で優しく、しかし絶対に離さないという強固な意志で抱き寄せ、マリアに向かって残忍な笑みを浮かべた。
「マリア・ヴァルハイト。君は一つ、決定的な勘違いをしている。時間を巻き戻すだと? 一度目の人生に戻すだと? ――そんなことを、この俺が許すとでも思ったか」
アルベルトの纏う青白い魔力が、劇場のステージ全体を完全に氷結させていく。マリアの足元がまたたく間に氷に囚われ、彼女は身動きが取れなくなった。
「一度目の人生で、俺は君たちの醜悪な罠のせいで、エレノアを失った。あの雨の日、彼女の首が落ちた瞬間の絶望を、俺は一秒たりとも忘れたことはない。俺はあの後、君たちへの復讐のためだけに生き、君たちの肉体を一人ずつ拷問にかけて引き裂いた後、自らの心臓を捧げて禁忌の時遡り魔術を発動させたんだ。すべては、エレノアが生きているこの二度目の世界を創り出すためだけに、な」
アルベルトの口から語られた壮絶な「真実」に、私は胸が締め付けられるような衝撃を受けた。
彼が時を遡るために支払った代償は、彼自身の命と、狂気的なまでの復讐の日々だったのだ。
「俺が命に代えて、地獄の底から這い上がって手に入れた『エレノアと共にある未来』だ。それを、君のような這い虫が再び汚し、巻き戻そうなどと……片腹痛い。二度目の人生で、俺はエレノアの願い通り、君たちをただの幽閉で済ませてやった。それが彼女の望む平和だと思ったからだ。だが、それを自らドブに捨て、再び彼女の命を狙った。――ならば、もう慈悲など一滴も残っていない」
「ひ、ひぃっ……! 助けて、カイル様、お父様……! 誰か助けて!!」
マリアは氷に足を縛られたまま、恐怖のあまり失禁し、涙と鼻水で顔を汚しながら絶叫した。かつての「可憐な聖女」の面影などどこにもない、ただの哀れな犯罪者の姿がそこにあった。
「誰も来ない。君の愛したカイルは牢で完全に精神が崩壊し、君を溺愛した父親は路地裏で骨になった。そして君も今、この場で人間としての生を終える」
アルベルトが静かに剣を振り下ろした。
激しい白銀の閃光が劇場を包み込み、マリアが持っていた呪毒の水晶玉は粉々に粉砕され、彼女の身体はアルベルトの放った極大の氷結魔術によって、声を上げる間もなく、一瞬で「物言わぬ氷の彫像」へと変えられた。
「ロイ。この氷像を、王都で最も深い、決して光の届かない万年床の氷穴の底へ沈めろ。永久に溶けることのない、暗闇の檻だ」
「はっ! ただちに!」
マリアの肉体と魂は、生きながらにして永遠に凍りつき、二度と歴史を変えることも、誰かを傷つけることもできない完全な無へと没落したのだった。
◇
激しい闘いが終わり、大劇場には再び静かな月光が降り注いでいた。
アルベルトは剣を鞘に収めると、すぐに私の方を向き、まるで子供のように怯えた瞳で私の両肩を掴んだ。
「エレノア、本当に……本当に無事だな? どこも痛まないか? 俺に黙って一人で来るなど、もし君に万が一のことがあれば、俺は今度こそ世界ごとすべてを滅ぼしていただろう……!」
彼の身体が、微かに震えている。冷徹な公爵が、私を失う恐怖のためだけに、これほどまでに脆くなる。
私は愛おしさが胸に溢れ、自ら彼の首に腕を回し、その唇にそっと、私からの深い愛を込めたキスを贈った。
「ん……っ、エレノア……」
「申し訳ありません、アルベルト様。でも、私はもう、あの頃の無力な身代わり悪女ではありませんわ。貴方が私を愛し、強くしてくださった。だから、私は貴方の信じる妻として、領民を守るために戦ったのです」
私は彼の目を見つめ、優しく微笑んだ。
「それに、貴方が地獄を潜り抜けて私に贈ってくださったこの二度目の人生ですもの。簡単に手放すはずがありませんわ。私は、貴方と共に、この温かい世界でずっと生きていきたいのです」
私の言葉を聞いたアルベルトは、張り詰めていた緊張が切れたように、深く長い息を吐き出し、私を壊れ物を抱くように優しく、けれど心の底から愛おしげに抱きしめ返した。
「……ああ、君の言う通りだ。君は強くなった、そして、世界で一番美しく聡明な俺の妻だ。これからは、どんな小さな秘密も、俺に共有してくれ。君を守るためなら、俺は何度でも神にだって背いてみせる」
「ふふ、神様に背いては罰が当たってしまいますわ。私たちはただ、二人で幸せになれば良いのです」
庭園の夜風が、大劇場の破壊された天井から優しく吹き込み、私たちの髪を揺らす。
前世の不条理な運命も、マリアの執念深い復讐も、今度こそ完全に終わりを迎えた。私たちの前にあるのは、誰も脅かすことのできない、ただ甘やかで、どこまでも続く光に満ちた未来だけだ。
「さあ、帰りましょう、アルベルト様。邸で、貴方の特製のスープを温め直さなくては」
「ああ、君が一口でも多く食べてくれるなら、俺は毎日でも厨房に立とう」
私たちは手を固く繋ぎ合い、月光に照らされた夜の街へと歩み出した。
二人で紡ぐ、終わることのない幸福の円舞曲。その足取りは、前世の重い鎖を完全に引きちぎり、どこまでも軽やかに、未来へと続いていくのだった。
◇
マリアが永遠に溶けない万年氷穴の底へと沈み、王都に真の平和が訪れてから半年。
ライオネル公爵邸の主寝室では、相変わらず世間の人間が見れば卒倒しかねない、あまりにも甘やかで過保護な光景が繰り広げられていた。
「エレノア、朝だ。……いや、まだ起きなくていい。今日の王都は微かに肌寒い。君がベッドから出たら体温が下がってしまう。俺の腕の中で、あと三刻は眠っているべきだ」
「アルベルト様、もうお日様はあんなに高いところに昇っていますわ。それに、いくらなんでも三刻(約六時間)も眠り続けたら、私はただの怠け者になってしまいます」
私は、私の腰をがっしりと抱きしめて離さない夫の胸を、ぽんぽんと軽く叩いた。
第一騎士団長にして「氷の冷血公爵」と恐れられるアルベルト・ライオネルは、私の前でだけは、甘えん坊の大型犬か、あるいは過保護が行き過ぎた守護神のようになる。二度目の人生で私を救い、さらにマリアの最後の悪あがきすらも完璧に粉砕した彼は、私の安全と健康に対して、前世のトラウマも相まって常軌を逸した執着を見せるようになっていた。
「怠け者で大いに結構だ。君が何もしなくても、このライオネル公爵家の全財産と俺の命を使って、一生これ以上ないほど贅沢に甘やかして育てる。君はただ、俺の隣で幸せそうに笑っていればそれでいいんだ」
アルベルトはアイスブルーの瞳に蕩けるような甘さを湛え、私の額や頬、そしてあの前世でギロチンにかけられた首筋へと、何度も何度も深く愛おしげな口づけを落としていく。その唇の熱さに、私の心までとろけてしまいそうになる。
「……もう、アルベルト様。そんなに甘やかされては、私がだめになってしまいますわ。今日は、新しくライオネル公爵夫人の名義で設立した『孤児院と貧困層のための支援財団』の初寄り合いがあるのです。私がしっかりと指示を出さなくては」
前世では実父に尽くすためだけに生きて死んだ私だが、この二度目の人生では、アルベルトに愛されることで「自分の意思で誰かを幸せにする喜び」を知った。元ヴァルハイト公爵領の領民や、王都の恵まれない子供たちのために、私は自分の力で動き始めていたのだ。
アルベルトは一瞬だけ、私を外に出したくないと言いたげに眉をひそめたが、私の真剣な眼差しに降伏したように、ふっと優しく微笑んだ。
「分かった、君の尊い志を邪魔するつもりはない。……ただし、俺の第一騎士団から選りすぐりの精鋭二十名を護衛に付ける。それと、ロイ。スープを持ってきたな?」
部屋の扉が静かに開くと、側臣のロイが、もはや見慣れた顔で苦笑しながら、湯気の立つ最高級の薬膳スープが乗ったトレイを運んできた。
「はい、閣下。奥様のための、体力を芯から充実させる特製薬膳スープでございます。もちろん、厨房にて閣下の厳重な監視のもとで作られたもので、毒味も完了しております」
「ありがとう、ロイ。……本当に、アルベルト様は過保護が行き過ぎていますわね」
私は呆れつつも、夫がスプーンですくって「あーん」と口元に運んでくれるスープを、大人しく一口ずつ飲み干していった。心も身体も芯から温まるその味は、私を世界で一番幸せな妻だと実感させてくれるのだった。
しかし、この温かな日常の裏で、前世から続く「時を遡る奇跡」の真実と、ヴァルハイト公爵家が遺した最後の毒牙が、静かに私たちを待ち受けていた。
◇
財団の寄り合いを無地に終えた数日後、私たちは王都の北方にある「ライオネル公爵家が古くから守護する古代神殿」を訪れていた。
目的は、私たちがなぜ「死に戻り」を果たしたのか、その真相を突き止めるためだった。前世でアルベルトが発動させたという禁忌の時遡り魔術の起源が、この神殿の地下奥深くにあるという。
松明の炎が揺れる薄暗い地下聖堂。その中央に鎮座する巨大な黒水晶の碑文の前に、私とアルベルトは立っていた。
「……アルベルト様、これは……」
碑文に刻まれた古代文字を読み解いた私は、あまりの衝撃に息を呑んだ。そこに書かれていたのは、驚くべき「世界の理」だった。
『時を遡る一滴の雫は、二つの魂の絶対的な共鳴によってのみ生じる。一方が無辜の罪で命を散らし、もう一方がその死を悼んで世界を呪うほどの狂気的な愛を抱くとき、神の天秤は傾き、時間はその始点へと巻き戻る。ただし、遡れるのは二度が限界であり、三度目の死が訪れたとき、二人の魂は永遠に虚無へと消え去る――』
「遡れるのは、二度が限界……」
私が震える声で呟くと、アルベルトは私の肩を強く抱き寄せ、碑文を睨みつけた。
「つまり、俺たちが今生きているこの『二度目の人生』が、正真正銘の最後ということだ。エレノア、やはり俺の選択は間違っていなかった。君を完璧に救い、君を脅かす全ての害悪をこの手で根絶やしにする。それ以外に、俺たちが生き残る道はなかったんだ」
アルベルトの言葉は、冷酷なまでに断固としていた。彼が一度目の人生の終わりに、自らの心臓と魂を対価にしてこの奇跡を引き起こしてくれたからこそ、今の私たちの幸せがある。この命、絶対に無駄にはできない。
その時、地下聖堂の入り口から、パチ、パチ、パチ、と不気味な拍手の音が響き渡った。
「いやあ、じつに感動的な愛の物語だね、ライオネル公爵。そして、我が公爵家を裏切り、泥を塗った稀代の悪女、エレノア」
暗闇から現れたのは、豪奢だが薄汚れた貴族服を纏った、見覚えのある男だった。
「……エドワード叔父様……!?」
私はその名を呼んで驚愕した。そこにいたのは、私の実父ヴァルハイト公爵の弟であり、かつて公爵家の shadow(裏の政務)を司っていたエドワード・ヴァルハイトだった。
カイル王子やマリアが失脚し、実父が破産して発狂した際、全財産を持って隣国へと亡命したとされていた、ヴァルハイト公爵家の最後の生き残り、亡霊である。
エドワードの背後からは、不気味な黒い仮面を被った隣国の暗殺部隊、総勢五十名ほどが音もなく現れ、私たちを完全に包囲した。
「エドワード。ヴァルハイト家の残党め、ネズミのように隣国へ逃げ延びたかと思えば、自ら進んで処刑台に上がりに来るとはな」
アルベルトは私を背後に庇い、白銀の長剣を静かに引き抜いた。その瞳には、一瞬で周囲の温度を氷点下へと叩き落とすほどの、絶対的な殺意が宿る。
「ははは! 威勢が良いね、氷の公爵。だが、今日ここで死ぬのは君たちだ。君たちが時を遡るなどという荒唐無稽な奇跡を弄んでいる間に、私は隣国の元首と手を結んだ。この神殿の地下には、王都の防衛結界の核がある。それを今から破壊し、我がヴァルハイト公爵家を崩壊させたこの愚かな王国を、隣国の軍勢と共に根底から覆してやるのだよ!」
エドワードは狂気的な笑みを浮かべ、手に持った赤い魔力結晶を掲げた。それは、結界の核を強制的に暴走させる古代の爆縮兵器だった。
「エレノア、お前が最初からマリアのように従順な道具としてカイル王子に嫁いでいれば、我が家が壊れることはなかったのだ! すべてはお前の身勝手な裏切りが原因だ! 叔父として、お前をあの世で兄上に詫びさせてやる!」
エドワードの叫びと共に、隣国の暗殺部隊が一斉に私たちへと襲いかかってきた。
◇
「エレノア、目を閉じて私の背中に掴まっていなさい。——三秒で片付ける」
アルベルトの声は、激昂すら通り越して、完全に凪いでいた。
彼にとって、エドワードの国家転覆の陰謀など、どうでもよかった。ただ一つ、彼の逆鱗に触れたのは、この男たちが私の命を狙い、私を不当に責め立てたという事実、その一点のみ。
「舐めるな、若造が! 殺せ!」
エドワードの号令と共に、特殊な魔導具で強化された暗殺者たちが、神速の踏み込みでアルベルトへと刃を突き出す。
しかし、次の瞬間。世界から全ての「音」と「熱」が消失した。
――『氷界・絶禍の円舞曲』――
アルベルトが静かに剣を水平に一閃した。
ただそれだけだった。それだけの動作で、聖堂の床から天空に向かって、巨大な氷の刃の嵐が爆発的に噴出したのだ。
刃の嵐は、襲いかかってきた暗殺者たちの肉体を、血の一滴すら流させることなく、文字通り一瞬で「完全な氷像」へと変え、粉々に砕き割っていった。
「な……っ、あ、あり得ない……! 隣国が誇る最精鋭の暗殺部隊が、一瞬で……!?」
エドワードは、自分が掲げていた赤い結晶を持つ手が、すでに手首から先ごと完全に凍りつき、感覚を失っていることに気づいて絶叫した。
「ひ、ひぃぃっ!? 腕が、私の腕が凍って……!?」
「騒ぐな、耳障りだ」
アルベルトは軍靴の音を響かせ、エドワードの前に立った。その剣先から放たれる圧倒的な魔圧だけで、エドワードは息ができずにその場に這いつくばり、激しく嘔吐した。
「お前は、エレノアがヴァルハイト家を裏切ったと言ったな。ふざけるのも大抵にしろ。一度目の人生で、彼女が一族を守るためにどれほど孤独に耐え、己の首をギロチンに差し出したか、お前たちのような強欲な豚が知るはずもない」
アルベルトは冷酷無比な瞳でエドワードを見下ろし、その凍りついた腕を容赦なく踏みつけた。バリ、ボリ、と凍った肉と骨が砕けるおぞましい音が聖堂に響く。
「ぎゃああああああっ!! 助けてくれ、エレノア! 私はお前の叔父だろ!? 兄上の血を引く唯一の親族だぞ! 助けてくれえええ!」
エドワードはプライドを全て投げ捨て、私に向かって涙と鼻水を流しながら必死に手を伸ばした。
私は、アルベルトの背中から静かに歩み出ると、這いつくばる叔父を、かつて処刑台の上からマリアを見つめた時よりも、遥かに冷ややかに見下ろした。
「エドワード叔父様。私は一度目の人生の終わりに、ヴァルハイト公爵家との親族関係も、未練も、すべてあのギロチンの刃と共に切り捨てました。今更、都合の良い時だけ血筋を口にしないでくださいませ」
私は凛とした声で、はっきりと告げた。
「貴方たちが国の公金を貪り、領民を苦しめ、私を道具として扱った因果が、今ここで巡ってきただけです。我が最愛の夫、アルベルト・ライオネルを怒らせた罪、その身をもって償いなさい」
私の言葉は、エドワードへの完全な引導だった。
アルベルトは満足げに唇を吊り上げると、エドワードの胸元を掴んで容赦なく放り投げた。
「ロイ! 控えている騎士たちを呼べ。この小悪党を、隣国の工作員たちの死体諸共、国家大逆罪の現行犯として臨時の公開裁判へと引きずり出す。ヴァルハイト公爵家の名を、歴史から完全に泥に塗まみれにして抹殺してやる」
「はっ! ただちに!」
聖堂の影から、待機していたロイと騎士たちが一斉に突入し、泣き叫ぶエドワードを犬のように引きずっていった。国家転覆を企てた亡霊の最期は、全貴族の面前でその罪状を全て暴露され、一族の悪名を永遠に歴史に刻まれるという、これ以上ない悲惨な「ざまぁ」結末となったのだった。
◇
亡霊たちの排除が終わり、古代神殿の地下聖堂には、再び静かな月光と、私たちの呼吸の音だけが残された。
黒水晶の碑文の前で、アルベルトは手にした剣を鞘へと収めると、まるで私の身体が陽炎のように消えてしまうのを恐れるかのように、後ろから激しく私を抱きしめた。
「……エレノア。碑文にあった通り、これが最後の人生だ。もう、三度目はない。俺は……俺は絶対に、君を死なせない。世界中の人間が君を害そうとするなら、俺はその全てを殺し、この世界そのものを氷の下に沈めてでも、君を守り抜く」
アルベルトの広い胸が、私の背中で激しく上下している。彼の強大な魔力とは裏腹に、その魂は、私を失う恐怖というただ一つの弱点によって、激しく震えていた。
私は彼の逞しい腕に己の手を重ね、ゆっくりと振り返って、彼の美しいアイスブルーの瞳を真っ正面から見つめた。
「アルベルト様。そんな恐ろしいお顔をしないでくださいませ。世界を滅ぼす必要なんて、どこにもありませんわ。だって、見てください」
私は自分の首筋を指差し、そして、アルベルトの左手の薬指にはめられた、お揃いの結婚指輪を優しく撫でた。
「マリアも、エドワード叔父様も、私たちを脅かす亡霊はもうどこにもいません。この二度目の人生で、貴方が私に戦う強さを、生きる喜びを教えてくださった。だから、私は絶対に死にません。貴方を置いて、一人で逝くような不実な真似は、二度といたしませんわ」
私は彼の頬にそっと手を当て、微笑んだ。
「三度目の約束をしましょう、アルベルト様。――私たちは、この平和な世界で、お互いを世界一溺愛し、甘やかし合いながら、共に白髪の老人になるまで、天寿を全うして生き抜くのです。それこそが、神様が私たちにくださった奇跡への、本当の答えですわ」
私の「永遠の誓い」を聞いたアルベルトは、一瞬、呆然と目を見開いた。
そして、彼の瞳から、一筋の美しい涙が静かにこぼれ落ちた。それは前世の絶望の涙でも、復讐の血の涙でもない、心からの救済と幸福の涙だった。
「……ああ、君の言う通りだ、エレノア。俺の負けだ。君のそのあまりにも美しく、力強い言葉に、俺の魂は今、完全に救われた」
アルベルトは愛おしさが爆発したように、私の唇へと、これまでで最も深く、狂おしいほどの情熱を込めた口づけを落とした。
地下聖堂の冷たい空気が、二人の熱い抱擁によって、まるで春の陽だまりのように温かく変化していく。
碑文に刻まれた古代の奇跡は、破滅の運命を変えるためのものだった。そして私たちは、自分たちの手でその運命を完全にねじ伏せ、至上の幸福へと書き換えたのだ。
「帰りましょう、我が愛しい公爵夫人。邸に戻ったら、今日の夜は君を片時も離さず、俺の愛の全てで満たしてあげる」
「ふふ、アルベルト様の過保護には、一生付き合っていく覚悟を決めておりますわ」
私たちはしっかりと手を繋ぎ合い、亡霊の消え去った神殿を後にし、眩しい光に満ちた王都の我が家へと歩み出した。
二人で紡ぐ、終わることのない幸福の神聖譚。
時を超え、宿命を超えた二人の絶対的な愛の円舞曲は、これからも永遠に、美しく鳴り響き続けるのだった。




