まだ書けなくて
「はい、すいませんが……よろしくお願いします。」電話を切ってから、はあ。とわざとらしく息を吐き出した。また、サボっちゃったな。と落ち込みそうな気持ちを振り払うように、布団から体を起こした。
長編小説が書きたかった。自身の実体験を色濃く反映させ、そしてそれを物語に昇華させたような。でも、書けなかった。これからする話は、要するにただそれだけのことだ。
窓を開いて雨戸を戸袋に収納する間、冷え冷えとした空気が室内に吹き込んでくる。3月に入っても朝夕の冷え込みは厳しく、しかし日中はそれなりに暖かいから体温調節に難儀する。天気予報でも羽織ものを欠かさないよう注意喚起をしていたことを思い出した。
作業机に腰掛け、pcを起動させてから、手元のノートを開いて、構想メモや日常について記した日記などに目を通す。
そうだ、2章はもっと同級生同士の他愛のないやり取りが欲しかったんだったな。げ、1章の直し終わってないじゃん。なんて思いが浮かんで、萎えそうになる自分を感じ取る。まだ始まってもいないのに不貞腐れるな、サボったんだぞ今日は。と気持ちを鼓舞した。
ノートの新しいページに今日の日付と「今日やる事」を手早く書き込んでいく。”昨日の直しを最優先する””2章の登場人物整理・人物造形に注力””2章全体の完成”今日はこんなところか。
ノートを閉じて顔を上げると、文書作成用ソフトの真っ白な画面が目の前に広がる。保存されたデータを開くと、殺風景で味気ない雪景色の中央に、無数の文字たちが横並びの轍を作っていた。
無心でキーボードを叩き続け、1時間ほどが経った。1章の直しは終わり、2章の追加要素について考える時間に入ろうという所だったが、少し休憩を取りたかった。コーヒーを淹れようと席を立ち、台所に移動する。
最低限の間取りと安さだけが決め手の木造アパートだ。手狭なシンクの上にケトルを置いてお湯が沸くのを待つ間、上の階の住人が今日の活動を始めたであろう生活音を聞かされていた。
カップを手にリビングに戻る際「ちょっとだけ息抜きするか」なんて思いを抱いたのが間違いだったんだろう。別タブでSNSを開くと、そこにはつい最近起こった「アニメコンテンツの違法視聴に関する論争」と思しきやり取りが数多く表示された。
この件に関しては自身なりの答えが出ていたし、おそらく世の中も同様の意見に帰結するーー。そんな思いを抱いていた。しかしいざ英語圏のコメントが、自身のそれとは反対意見で占められている事に気付くと、驚きより先に怒りに駆られてしまっていた。そしてその怒りは、一つの作業が終わった達成感と、次の作業に取り組む前の生煮えの決意との間にしっかりと収まってしまっていた。
気づけば私はさらに別タブでメモアプリを開いて、そこに反論を書き込んでいた。キーボードの上を10本の怒れる指が凄まじい剣幕で断罪する。“何言ってんだよばかやろうが”“常識ってもんを知らねえのか”独り言をブツブツつぶやくのを、自分でも嫌だと感じながらもやめられなかった。
ーー小説はいいのかい?多分、そういった問いかけが何度か頭の中を通ってはいたんだろう。でも、そこからは淹れたコーヒーが冷え切るまで一気呵成に書いた。自身のアカウントでそれを投稿した頃には、もはや心身ともに疲れ切り、とてもじゃないが小説執筆に取り組むなんてできない有り様だった。
またやっちゃった。もう何度こんなバカげたことをしてしまっているんだろう。自分自身に失望せざるを得なかった。投稿してすぐに、いいねや賛同のコメントが集まってくる。小説を書いている時の、長く孤独な一人旅の気分はここには微塵もなかった。
15分もしないうちに、「長編の練習になるから」と過去に投稿した短編小説を全て合わせても、到底敵わないような閲覧数に達していた。私は気付けば、全てのタブを閉じていた。
ディスプレイ画面の時刻は昼過ぎ、まだ軌道修正はできる。いったん仮眠をとってからまた再開しよう。”2章の登場人物整理・人物造形に注力””2章全体の完成”ね、大丈夫だから、絶対できるから。机の上に突っ伏して目を閉じても、小説の具体的な構想や文章なんて全然浮かばないまま眠りに落ちていった。
目を覚まして時刻を確認するより先に、リビングの暗さや冷え切った身体が何より絶望を訴えていた。18時を過ぎていた。5時間近く寝ていたことになる。呆れというより、自分がもうわからなかった。
ぼんやりした頭のまま書きかけの文章を立ち上げる。やらなきゃ。そんな思いで何か言葉を打ち込んでみようとするが、それぞれのキーの真上で指は影を落とすばかり。陪審員は私が眠っている間にとっくに帰ってしまったのかもしれない。
ようやっと指が動き始めても、頭の中では後悔が書くことを凌駕していた。絡まった思考のまま、同じような文言を書いては消すを繰り返していたら、既に21時になっている。空腹すら通り越して飢餓を訴えているように、腹から痛みのような感覚が襲ってくる。
なんだか笑えてきた。ひとまず立ち上がって雨戸を閉め、コーヒーの残ったカップを台所に持っていく。真っ暗闇のシンクに黒の液体を流しても目にはほとんど確認できない。
私は、蛇口から流れる水と共に排水管を通るコーヒーのことを考えた。自身の中に広がってしまった黒い後悔も同じようにできるかどうか。リビングに戻っても、作業机にはなかなか腰掛けられなかった。“大丈夫だから。今からでもできる事やろう。2章を……”立ち尽くして頭の中でめぐる考えは、しかし一向に作業に向かう決意を促進してはくれなかった。




