b
足元の水たまりに映る自分の顔は、空の青や雲の白とは裏腹に、どんよりとした影を帯びていた。昨夜から降り続いた雨がやみ、朝の空には太陽が照りつけている。だが、それがありがたいとは思えなかった。
むしろ、熱が身体にまとわりつくような湿気に変わっていて、皮膚と服が汗でぴったり貼りつき、息をするのもしんどい。
そんな中、一本道の路地を歩いていると、自販機が目に入った。白地に文字部分は黒色で「comeback」とラッピングされたもの。だが、よく見ると、文字の「b」だけが妙にかすれていた。他の文字はくっきりしているのに、「b」だけが、少しだけ薄い。
「なんでbだけ…?」
そう思いながら、スマホをかざしてミネラルウォーターを購入した。落ちてきたペットボトルは冷たくて、喉を潤す感触に一息ついた。
再び歩き出す。空には太陽が居座り、まるで「逃げられないぞ」とでも言っているかのようだった。前方には陽炎が揺れ、地面が歪んで見える。
しばらくして、また自販機が現れた。今度も「comeback」のラッピング。だが――その「b」は、先ほどよりもさらに薄れていた。色が抜けて灰色のように、輪郭が曖昧になっている。
「……え?」
でもそんなわけない。一本道をまっすぐ歩いてきたはずなのに。念のため前後を見渡すと、どちらも似たような道がずっと続いている。道の両サイドは民家の塀で囲まれ、変わった様子はない。なのに、なぜか周囲の音がまったくしないことに気づいた。
不安がこみあげてきた。早足でその場を離れるが、なぜか車通りのある大通りに出ない。いつもならとっくに出ているはずなのに。
そして、また――自販機があった。
今度の「comeback」の文字は、もう明らかにおかしい。「b」は、ほとんど消えかけていた。印刷ミスでは説明がつかない。bのあったはずの場所は、ぼんやりと空白のようで、そこに違和感だけが残っている。
「……」
喉の渇きを感じ、残りの水を一気に飲み干す。そしてもう一本買おうとスマホをかざすが、反応しない。ボタンを押しても無反応。何度試しても結果は変わらず、焦燥だけが胸を占めていく。
助けを求めようと民家の玄関へ向かい、チャイムを押す。だが音は鳴らない。ドアを開けようとすれば、まるで透明な壁にぶつかる。見えない壁のようなものが、確かにそこにある。塀を登ろうとしても同じだった。何かに遮られて進めない。
「なんなんだよ……!」
混乱しながら、逆方向へと歩き出す。今度こそこの夢のような世界から抜け出したい。ただそれだけを願いながら。
しかし、しばらく歩くと――また、あの自販機があった。
もはや「comeback」の「b」は、完全に消えていた。
c o m e a c k
あったはずの文字が、そこにない。けれども、それが“自然”に思えてしまうほど、違和感がなじんでいる。けれど確かに知っている。「b」があった。消えていった。それを、自分は三度見てきた。
喉が渇く。汗が目に入り、何もかもが焦げつくように熱い。
スマホをかざしても、ボタンを押しても、もう何も起こらない。
「夢だ……これは夢に違いない……!」
現実でこんなことが起こるはずがない。そう言い聞かせながらも、暑さと渇きと恐怖に、意識がじりじりと焦げていくようだった。
早く……早く夢から覚めてくれ。
⸻
夕方のニュースが、淡々と告げる。
「本日は全国的に猛暑となり、熱中症による死者が1名確認されています。
外出時は、こまめな水分補給と涼しい場所での休息を心がけてください」