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隣国の王子ではないけれど ~没落貧乏貴族、フローレンティア伯爵の美しき御令嬢の婚活状況~

作者: ru

 学園の中庭には温室がある。


 ガラスでできた建物の中に、いつも美しい花が咲いている。

 その建物自体が花瓶のように見えるからか、中に入ってくる生徒はあまりいない。


 その奥の方、育ちすぎて生垣のようになっているポインセチアの間を抜けると小さな空間があって、忘れられたようにガーデンテーブルとチェアがあることに気が付く人はもっといない。

 魔法の効果なのか、いつも過ごしやすい温度で、居心地もいい。

 マリアンヌがこの場所を見つけた時は、まるでおとぎ話に出てくる精霊の住処のようだと思ったものだ。精霊が、私にこっそり授けてくれた秘密の持ち物。それ以来、時間があればこの場所に来て、一人で教科書を広げている。誰にも邪魔されないこの場所では、堂々と勉強ができる。


 エルドリア=ロイヤル=アカデミーは、エルドリア王国唯一の王立学校だ。将来この国を支える人材を育てる場所として、身分や性別を問わず入学することができる。

 優秀な国民に平等に機会を与えるという理念があるのだが、残念ながら実際の生徒はほとんどが貴族で平民はほんの一部。しかも家の期待を背負って通う生徒は、勉強より将来のためのコネ作りに夢中なものも多い。特に女生徒は、平等の建前のもとに素顔で活動できるので、社交場では得られない出会いを求めて容姿や愛らしさを競っている。そのため、授業を真面目に受けているだけで、後ろ指をさされる始末だ。

 そのような中、伝統あるフローレンティア伯爵家の御令嬢、マリアンヌ・フローレンティアはめげずに真面目に授業を受けている。それどころか成績優秀者上位10位に入っている、大変優秀な学生なのである。そのためこの学園、いや、社交界でもちょっとした有名人だ。

 しかし、残念なことに有名な理由はこの優秀な成績ではない。

 以前、成績優秀者として発表されたと聞いたとき、母はため息をついた。


「マリアンヌ、大変真面目に授業を受けているようですけれど、あまりそのような目立つことはしないように。殿方を立てるのが淑女でしょう。それより、良いお友達はできた?」


 母の言う良いお友達は、金持ちのご子息という意味だ。

 今日も授業の終わりに、教師に少しつっこんだ質問をしたら、困った顔をされてしまった。


「フローレンティア嬢、あなたは由緒正しき伯爵家のご令嬢でしょう。あなたはそのようなことを考えなくてもよろしいのですよ、お家の方からもそのように伺っております」


 もしかすると、今日質問したことも家に伝われば怒られてしまうかも。マリアンヌは憂鬱だ。先生、どうか我が家には伝えないでくださいますように。


「真面目に授業を受けてはいけない学校生活……」


 悲しくなってつぶやいてしまう。

 フローレンティア伯爵家は、歴史ある由緒正しき伯爵家なのだが、先々代の浪費がたたり、経済状態が最悪なのだ。マリアンヌの父である現伯爵は一生懸命立て直そうとしているのだが、なかなかうまくいかず、借金が膨れ上がっているのが現状だ。

 そんなわけで、マリアンヌが家から期待されている事は、資産家と結婚して、家を助けることなのだ。

 この学園も、金持ちとの出会いを期待して入学となった。マリアンヌは幼いころから勉強が好きだったので内心うれしく思っているが、スポンサーである父の目的は婚活。そのため、「私は勉強するために学校へ通っているのですわ」と正論を言ったところで、誰も取り合ってはくれない。

 マリアンヌが有名なのはこの婚活のせいだ。家同士のつながりで結婚が決まることが多い貴族は、幼いころから婚約者がいることも多いが、父であるフローレンティア伯爵は、美しいわが娘をいいところに嫁がせようと厳選に厳選を重ねていたため、気がついたらめぼしい貴族の御子息はみんな婚約済みになってしまっていた。伯爵は家の価値を高く考えすぎていて、どんなに困窮していても、伝統あるフローレンティア家が声をかければ王様公爵様でも夢ではないと本気で思っていたらしい。

 そして、娘の価値を高めようと、あまり外に出すこともなかった。また、マリアンヌ自身も一人で本を読んだり勉強したりする方が好きだったので、同性の友達と呼べる人すらいない。

 そのような状況が積み重なって、美しき名門伯爵家の御令嬢だというのに、婚約者どころか恋人候補もいない。16歳となった今、伯爵はようやく現実を見始めて見合い話を進めるのに必死だし、娘自身にも学園で良い人を探すように言いつけている。そんな姿は「没落貧乏貴族、フローレンティア伯爵の美しき御令嬢の婚活状況」として、社交界で大変楽しい見世物、話題の種となっているのだ。


 学園でもそれは同じで、婚活中であるから無下にできないことがわかっているのだろう、マリアンヌを見かけるとからかってくる男子生徒も多い。いやらしい目で見られたり、侮られたりするのはとても嫌なことだ。そして後ろからひそひそと聞こえる女子生徒の声。男子も女子もマリアンヌに言う内容は同じ、「いくら美しくても、やはり女はかわいげがないと」。言われなくてもわかっている。

 ちなみにマリアンヌは、家を助けてくれるなら、結婚相手はだれでもいいと思っている。貴族にとっての恋と結婚は別物だし、恋もしたことがないのでよくわからない。なのでどのように接してこられても、伯爵令嬢として骨身にしみ込んだ教養の高さと美しさであいまいにほほ笑みながら、相手の資産状況を考えている。しかし、どうやって自分からアプローチしてよいのかはわからない。どうしてほかの御令嬢は、意中の方に平気で近づいたりできるのかしら。そのようなことははしたないと、物心ついた時から厳しくしつけられているはずなのに。


 今日も、マリアンヌは心のよりどころである温室にむかう。

 勉強のためには図書館にも行きたいのだけれど、先日見合いを打診した貴族の御子息が、「マリアンヌ様はとても優秀でいらっしゃる。私もよく図書館でお会いしますが、お気づきになられないのですよ」などと言ったらしく、父から図書館禁止令が出されてしまった。


 仕方がないわ。マリアンヌは思う。教科書だけでも、そこから学べることはたくさんある。何度も読み返して、自分なりに考えて、知識を深めるのだ。

 木々の葉に隠れるようにある温室の入り口を開けると、足元には青いベルのような形のカンパニュラの花がとてもかわいらしく広がっていた。小さいころ、このお花は妖精のドレスなのだと思っていた。あの頃はいろいろ考えて発言しても、マリアンヌは利発だとほめてもらえたのに。どこからが「(さか)しい」になるのだろう。

 温室の小道を進み、広場に出る。小ぶりのガーデンテーブルとそれに合わせたガーデンチェアが二脚、ぽつんと置かれている。

 早速教科書とノートを取り出す。今日はどうしても授業でわからないところがあった。一番苦手な経済学だ。そして質問して苦い顔をされたのも経済学だ。先生が教えてくれなくても、何回も教科書を読めばきっと理解できる。マリアンヌはそう思って勉強に取り組む。


 わからないところをノートに書き出し、まとめ、しばらく教科書に没頭する。何度読んでもわからず顔を上げる。困ったわ、やっぱりわからない。この内容を理解するには知っていて当たり前の知識があって、それを知らないのだと思う。教えてもらいたいけど、だれにどう聞けばいいかしら。途方に暮れていると、突然、ポインセチアの茂みから人影が現れた。


「きゃ!?」


「ああ、驚かせてしまったみたいですみません。先客がいるとは思わず」


 そこには、緑の髪を無造作に後ろになでつけた、とび色の目をした青年がいた。

 マリアンヌは今までこの場所で人に会ったことはなかったし、考え事をしていたので、本当に驚いた。伯爵令嬢としていつも冷静にいるよう心掛けているので、人前でこんな驚き方をしたのは初めかもしれない。恥ずかしくなって、顔が赤くなった。


「いえ……わたくしこそ驚いてしまいまして失礼でしたわ。ここは学び舎の一角ですもの、ご自由にお過ごしくださいませ。」


 慌てて取り繕って、優雅にお辞儀をして見せた。

 青年も驚いたのか、きょとんとした顔でこちらをじっと見て動かない。

 さて、困ったわ。このように二人きりになるなんて。この方はどう対応したらよいのかしら。マリアンヌは思案する。


「良いお友達」候補なのかしら、違うかしら。制服だと服装で判断できないから、こういう時に困るわ。


 緑の髪はこの国では平民に多いが、貴族にもいないわけではない。最近は貴族の間でもいろいろな髪色が流行っているので、あえて魔法で緑にしている者もいる。

 見覚えのない顔なので、知り合いでないことは確かだ。しかし、フローレンティア家と接点がない貴族の可能性もある。フローレンティア伯爵は伝統を重んじるので、最近台頭してきた家や、活動が派手な家とはあまりつながりがない。それも今、マリアンヌが苦労している一因なのだが。


 もしも……この方が貴族で、お父様がまたお見合いを組もうとしたときに「マリアンヌ様とは温室でお会いしましたが、お勉強の邪魔をしてしまったようでそそくさと帰られました」とでも言われてしまったら。ここにも来られなくなってしまう。そうしたら唯一の楽しみもなくなってしまうわ。逆に、お見合い相手にならないような方だったら良いかしら。いいえ……男性と二人きりで温室にいたことが噂になってしまったら、それはそれでおしまいだわ。


 マリアンヌは、何とか外見から判断しようと観察する。

 装飾品の類はつけていない。でも、制服は清潔そうできちんと手入れをされているように見える。立ち振る舞いは自然で堂々としたものだけれど、紳士となるべく教育を受けた貴族のようには見えない。騎士たちのような鍛えた体ではないけれど、バランスの良い自然な立ち姿。痩せてもないし、太ってもいない。顔立ちは気品がある、とまでは言えないけど、青年らしいすっきりしたお顔立ち。


 ……どっちだろう……? 我が家としては範囲内なのか範囲外なのか。


 内心そんなことを考えながら、優雅に淑女を気取る。失礼にならないようにというのももちろんだが、由緒正しき伯爵令嬢の隙のなさは、身分が低ければ手を出せないだろう。

 気合を入れて優美にほほ笑むマリアンヌを見て、青年はちょっと目を丸くすると、スッと居住まいをただし、優雅にほほ笑んだ。


「おお、このような聖なる場所で、かくも麗しきお方に出会えるとは! 運命の女神が微笑み給うたこの奇跡に、我が幸運のすべてをここで使い果たしてしまったかもしれません」


 雰囲気がガラッと変わって、貴族、という雰囲気を醸し出す。……となると、お見合い相手になる可能性が高くなってきた。マリアンヌは内心気合を入れ直す。


……この方、資産はどのくらいあって、爵位はどうなのかしら。もう決まったお相手はいるのかしら。ああ、お金持ちで貴族で婚約者がいない、こんな条件の「良いお友達」って、見ただけでどう判断したらよいのですかお母様!


「お許しを頂けますならば、お尋ね申し上げます。あなた様こそ、フローレンティア伯爵家の高貴なる令嬢にあらせられますか?」


 名乗りもせずに突然聞くのはマナー違反なような気もするが、今話題の、(さか)しくて可愛げのない婚活中貧乏伯爵令嬢だ。このようなことは慣れている。


「ええ……マリアンヌ・フローレンティアと申しますわ」


 優雅にお辞儀をする。どう思われていようと、マリアンヌは美しくふるまうと決めている。


「おお、かの才媛と名高いフローレンティア伯爵の御令嬢に、かくも麗しき場で偶然にもお目にかかれるとは、何たる僥倖。いやはや、この花園の主役たるにふさわしいお美しさ」


 青年は大げさに一礼して見せる。

 ……何だろう、なんかこの人、大げさなのよね。わざとらしいというか。ちょっと小バカにされている気がしてきたわ。

 馬鹿にされているのは慣れている。最近はそういう人が多すぎて、貴族の殿方はみんなこんな感じ、と思うようになっていた。……馬鹿にされても、貴族は貴族。とにかく名前を確かめなければ……


「私のことばかりでなく、あなたのこともお話しくださいな」


「おお、我が如き者にまでご関心を賜るとは、まるで花の女神のごときお優しさ。私は取るに足らぬ存在にございます。しかし、もしもご記憶にとどめていただける栄誉にあずかるならば、……ただの、ヒューイと」


 まるで演劇のように大げさに跪いて深々と頭を下げる。

 あまりの仰々しさに、もしかしたらこの方、貴族ではないのかしら?? と、マリアンヌは疑い始めた。ここまで行くと、貴族そのものというよりは貴族慣れした使用人というか商人というかそういう感じがする。あと、言葉のチョイスが古くておかしくてオーバーリアクションが目にうるさい。


 そうだとすると……。うまく切り抜けないと、ここでの対応が噂になってしまう可能性が高い。「後がない貧乏伯爵家フローレンティア家のご令嬢にお目にかかりましたが、いやはやはお家のことを棚に上げて、大変高潔ではありますがいささか傲慢とも言えましょうな……」そんなイメージだ。なんだかイラっとする。


「ねえ、ヒューイさん、今日私に会ったことはどうか秘密にしてくださらないかしら」


 どうかな、と思いながら、お願いしてみる。弱みを見せれば、哀れに思って味方してくれるのではないか。


「秘密……でございますか、お嬢様と、私の?」


「ええ、わたくし、この場所が気に入っているの。……ええと、ほら、この薔薇の蕾、これが開くのが今とても楽しみで……誰かにこの場所を知られたくないのよ」


 咄嗟に絞り出した言い訳が薔薇の蕾とは、何か引っ張られている気がする。


「それはそれは、まことに甘美なるお話しでございますね」


 ヒューイと目が合う。跪いたまま見上げるとび色の瞳がマリアンヌをとらえた。男の人の視線を感じる時は、いつも馬鹿にされているようで苦手なのだが、ヒューイのまっすぐな目は、立ち振る舞いに反して侮りの色がなく、いつもと違い嫌な感じがしない。


「では一つだけ条件を……お嬢様がここで何をされていたのか、私にも教えていただけますか?」


 勉強していた……と素直に言ったら、ここではうわべだけのおべっかを並べるかもしれない。でも、ここで会った事は言わなくても、社交界でフローレンティア嬢が隠れるように勉強をしていると噂になるのだろう。「おいたわしや、家は火の車なのに、娘は賢しらで可愛げのないフローレンティア伯爵家!」


「……ええと……」


 どう答えてよいか戸惑っていると、ヒューイはマリアンヌににっこりと微笑みかけ立ち上がり、ガーデンテーブルに広げたノートを手に取る。


「フローレンティア嬢は経済学を学習中でございましたか」


 弱みを握ったからか、先ほどよりも少し態度が大きい気がする。


 ああ、これでまた社交界で「女の身にありながら経済学とは、紳士からのプレゼントも経済の一環としてお受け取りになりたいのでしょうな」とか、面白おかしく取り上げられるのだわ。それはもういいのだけど、経済学禁止令も出されそうだわ


 あわあわと、マリアンヌの頭は真っ白になっていく。


「おや、合理的期待理論ですか。さすが才媛と名高いフローレンティア嬢。このような分野にまでご興味を持たれているとは。……しかし、確かにこれは、ご令嬢にはなじみのない世界でしょう。少々わかりづらいかもしれませんね」


 真っ白になっていた頭の中に、『ご令嬢には』という言葉がそこだけ大きく聞こえた気がして、カッ、と、顔が熱くなる。


「……学び舎の中で、令嬢は関係ないわ」


 声が震える。怒りなのか虚しさなのか。そういうことは、噂されるのは仕方がないにしても、この温室の中では言われたくはなかったのだ。


「……失礼。そんなつもりで言ったわけでは。……では、令嬢が関係ないのであれば……身分も、関係ないですかね?」


「あたりまえよ。ここはそのような学び舎のはずよ。私が勉強するのは当たり前のことのはずよ」


 マリアンヌは涙目でヒューイをにらむ。


「……そうか」


 ヒューイはマリアンヌから目をそらし、向かい側のガーデンチェアを引く。テーブルからから少し距離をとるように、チェアに身を投げるように腰掛け、長い足を窮屈そうに組んだ。

 胸ポケットから出した眼鏡をかける。ヒューイの雰囲気がまた変わった。真剣なまなざしでノートに目を通し、「ふうん」とつぶやき、ノートを私の前に戻した。


「俺、この科目得意なんだよね。よかったら教えようか」


 突然調子が変わった声に、きょとんとしてしまう。

 眼鏡越しの鳶色の瞳が真っすぐにマリアンヌを見る。そして、貴族感ゼロの自然な態度でにやっと笑って見せた。


「ほら、すわって。ここまでわかってるなら後は少しだ。」


 そして、教師のように、それはそれは丁寧にわかりやすく、教えてくれたのだ。


 +++


 それは、入学して初めての大規模な試験の時だ。


 くそ……


 ヒューイは、掲示された優秀者に自分の名前がないことを確認し、顔をしかめた。

 いままでも見習いではあるが仕事はできる方だったし、入学してからは仕事の間を縫って勉強していたので、生まれて以来、やれ教養だ礼儀作法だと、思考停止で生きてきた貴族たちに負けるとは思っていなかった。

 総合成績が悪かったのは、教養やらが大切な科目が軒並み悪かったのが原因なのはわかっているのだが、いまだにその科目がなぜ必要なのか心の底で理解できていない。時間をかけてもまったく頭に入ってこない。

 掲示された優秀者の名前は、貴族の名前ばかりだ。まったく面白くない。しかし次こそは何とかしないと、両親や、優秀だからと学園に入れてくれた恩人に面目が立たない。

 次は覚えてろよ……と、心の中で呟きながら、優秀者の名前を見ると、なんとも雰囲気の違う名前がある。“マリアンヌ・フローレンティア”。女生徒の名前はそれ一つだけだ。


 フローレンティア。確か古臭くてお高く留まっている伯爵家だと聞いたことがある。令嬢を学園に通わせ、なおかつ成績優秀者となるほど勉強させるとは、意外と先進的な考え方も持っているのかもしれない。この学園でちゃんと勉強している伯爵令嬢、どんな奴なのか、興味がわいた。


「なあ、見ろよ、フローレンティア嬢の名前があるぜ」後ろから馬鹿にしたような声が聞こえた。「こんなところにまで名前を出すとは、必死の婚活も明後日の方向に進んでいるよな」「まったく、誰か、淑女にとっての“勉強”の意味を教えてやれよ」「ほら噂をすれば……」


 つい、つられて振り向くと、彼女はまるで宮廷の庭を散策しているような優雅な足取りでこちらに向かってくるところだった。古くからこの国に住まう貴族特有の、銀に光るほど薄い色の金色の髪がふわふわと細かくカールし風に揺れているている。制服なのにコルセットをしているのだろうか、細い腰にすっきり伸びた背筋。その上に小さな顔がバランスよく乗っている。

 何を考えているかわからない表情がない表情で、ざわざわと噂されているのも全く意に介さず、滑るように歩いてくる。そしてヒューイの隣で足を止めた。

 輝くように大きく見えたが、彼女の頭はヒューイの肩の高さほどしかない。

 彼女は、大きな蒼い瞳で掲示板を見上げると、一つ瞬いた。そして何事もなかったように踵を返し、校舎へ戻っていったのだ。


「はー、どんなに美しくても、ああも(さか)しらで可愛げがないとな」


 そんな声が聞こえ、あたりにどっと嘲笑がわいた。


 ヒューイはその中でひとり、彼女が消えた方を見つめる。

 それ以来、学園で彼女を見かけると、目で追うようになっていた。


 ++


 温室で出会った日から、たまにヒューイも勉強しに来るようになった。顔を合わせれば話しをする。得意教科が違うので、お互いに勉強を教えあうこともある。

 マリアンヌは、苦手な科目でも教えてもらえるのはうれしい。わからないことがわかると、気分がいいのだ。

 しかし、ヒューイは苦手科目はやりたくないらしい。乗り気でないのが態度ににじみ出ているので、マリアンヌも教えても楽しくない。結果的に、ヒューイが先生役をやることが多くなる。


 ヒューイの正体はいまだにわからない。そのうち、わからないまま、気にならなくなってしまった。

 最初は突き止めようと思ったが、違うクラスなので接点もないし、聞けるような友達もいない。全生徒の名簿を見ても、「ヒューイ」は何人かいたが、みな違った。ニックネームか偽名かもしれない。これ以上詮索したら良くない噂になる。

 彼はやはり婚活のお相手ではないのだろう。学園の貴族のご子息達は、将来のためにコネ作りに一生懸命だ。そのために頑張って目立っている者が多いが、ヒューイは、できる限り存在感を消している感じがする。まるで外出中の使用人のようだ。優秀な使用人なら、雇い主が将来のために学校に通わせることがある。ヒューイもどこかの使用人、執事候補とかそういうのではないか、と、思っている。

 もし執事候補なら、あの胡散臭い貴族仕草を何とかした方がいい。機会があればマリアンヌが指導してあげてもいいと思う。


 一緒にいる時間が多くなるにつれ、お互いがお互いを憎からず思っていることは何となくわかっている。フローレンティア伯爵令嬢の婚活は相変わらず社交界の話の種になっているようだが、温室の話は出ていないようだ。ヒューイも秘密を守ってくれているのだろう。


 こういう気持ちになるのが恋というのなら、確かに夢中になる御令嬢が多いのも理解できる。一緒にいるとなんだかくすぐったく、温かい気持ちになる。ノートを示す大きな手や長い指、やさしいまなざしにドキッとしてしまったりもする。マリアンヌもかなりわかりやすく赤くなったりしている自覚はあるので、ヒューイが気が付いていないということはないだろう。

 しかしヒューイは、マリアンヌと常に一定の距離を保ち、手にも絶対触れない。たまにはエスコートしてくれてもいいのに……と、つい思ってしまう。


 ヒューイもマリアンヌの立場を知っているのだから、本気で想ってくれているなら何かしら動いてくれると思う。もしも、ヒューイが伯爵家と縁を結べるような立場なら家の方からでも話が進んでいると思うのだが、今のところそれもない。

 そうなると、マリアンヌの思い込みか、縁談にはならないか。

 思い込みなら、もう少しだけ、この気持ちを味わっていたい。どちらにしろヒューイとは温室のみの付き合いになるのだろう。


 これが物語なら、ヒューイは身分を隠した隣国の王子様だったりするのかしら。


 マリアンヌは本が好きだ。おとぎ話やラブロマンス、何でも読む。なので恋と言えばそういった知識をもとに考えてしまう。


 ……卒業式で秘密が明かされて求婚されるの。「隠していて済まない、あきらめようと思ったができなかった、私とともに来てくれないか」なんて。そうしたら素敵ね。王子様なら勉強したことも活かせそうだし、我が家の財政くらい何とかしてくれるでしょう。……でもあんな王子様は無いわね。生まれた時からの品のようなものがないもの。あ、けして下品ではないのよ、ヒューイの品は頑張って後から身に着けた品、というか。努力が垣間見えるのよ。だからこそ、話しやすくて気安いというのもあるのだけど。


 隣国の王子、公爵家の隠し子、大富豪の跡取り、この国を狙っている海賊、魔法使いの弟子……ありえないような恋の物語を空想していても、なぜか気が付くとヒューイそのものの事を考えている。


 こんなことをしている場合でないことは、十分わかっている。

 毎日勉強したりかなわない恋をしたり、そんなことのために学校に来ているのではない。

 でも、どうしていいかわからないのだ。こんなに賢しらで可愛げがないと評判が悪く、しかも貧乏な家がもれなくついてくる令嬢が、どうやって動けばよいのだろう。


 それでも、家のことを考えれば、温室に行くのはやめるべきだと思う。でもそれなら、そもそも勉強もやめるべきだろう。勉強もできず、もう少し隙があって可愛げがあれば、まともに声をかけてくれる人もいるかもしれない。でもそれではマリアンヌにとっての学園に来ている意味がなくなってしまう。

 秘密の温室。学園で勉強する事。それはマリアンヌがひっそりと抱えている最後の自分の心なのだ。

 ヒューイはマリアンヌが苦手な経済学と算術が得意で、とても上手に教えてくれる。それに、わからないことがわかるようになると、「すごいじゃないかマリアンヌ」と、褒めてくれるのだ。

 マリアンヌはどうしても、この居心地の良さを手放す勇気が持てない。


 ヒューイとこの温室にいるこの時だけは、ただのマリアンヌという学生になれる気がするのだ。


 +++


「この手の問題は深く考えずに公式を暗記するんだ。そうすればテストの点は取れる」


 その日は、温室で算術を教えてもらっていた。

 公式を当てはめるだけの問題は、解けてもなんだかすっきりしない。


「あー……、勉強は楽しいけれど、テスト勉強は嫌ね」


「そうか? テストが無かったら、俺は勉強しないぞ」


 ヒューイは何を言っているのか心底わからないという顔をした。


「テストでいい点を取り順位を上げる、仕事に使える知識を身に着ける。勉強はそのためのものだろう」


 ヒューイは、勉強とはなにか目的があって、その手段の一つだと言うのだ。

 マリアンヌが勉強していても、順位を上げても、役に立つどころか疎まれている。何かの役に立つから勉強する。目標を持つ。こんなことを当然のように言うヒューイを、マリアンヌはうらやましく思った。


「そうかしら。私は何の役にも立たない事でも、知らないことを知って、理解すること自体が楽しいわ。この勉強が何かの役に立つかは……私にはわからないもの。」


「……そうか」


「少なくとも、我が家の目的には役に立たないことは確かね」


 困ったようなヒューイに、つい意地悪な気持ちになってしまう。

 そんなマリアンヌに、ヒューイは口を尖らせて言った。


「だから、俺は君に勝てないんだな」


「え?」


 私に、勝てない? 何が? 思ってもいない言葉だった。


「試験だよ。発表される上位10名。女子生徒はいつも君だけだろう」


「知っていたの?」


「ああ。それで名前を知ったんだよ。それから、まあ、変な噂みたいなのも聞いて、この空気の中でそこまでやれるなんて根性あるなって思ってさ。……つまり、……こうやって話せるようになる前から気になっていたっ……ていうか……あーーー」


 なんだか心がムズムズするような事を、恥ずかしそうに言い出したが、言うつもりもなかったのか慌てて話題を変える。


「そんなことはいいんだよ。俺はいまだに10位に入れない。一応、頑張ってるんだけどな。苦手科目の点数が悪すぎたんだよ。」


 ちなみに一番悪いのは詩文な、とヒューイはため息をつく。マリアンヌを元気づけたいのか、大げさに手を広げて見せる。


 ふふ、私、詩文は実はトップなのよね。


 マリアンヌは気分が良くなった。


「詩文なら教えてあげるのに。いつも嫌そうにしているけど、無理やり詰め込んで差し上げましょうか?」


「やめてくれよ……あれはいまだにやる意味が分からないんだよ……」


 成績発表で名前を知った、と言うことは、噂話から知っていたわけではない……と言うことだ。そんなことに気が付き、胸が暖かくなる。

 ヒューイの苦い顔をみて、マリアンヌは可笑しくなってくすくすと笑う。そんなマリアンヌをヒューイはじっと見つめた。


「……もったいないよなあ……な、マリアンヌ」


「?」


「あのさ……」


 突然の沈黙。揺れていた鳶色の瞳が、何かを決心したように私をまっすぐ見つめる。


「ただの、マリアンヌ、には、なれないのか? そうしたら、能力を活かして生きていけるよ。そりゃ、君は美しいと思うし、立派なご令嬢だ。でも、そうでなくたって、君ならなんにでもなれるだろう。なれないと諦めているのは、もったいないじゃないか。なあ、もし君がよければ……」


「だめよ」


 ヒューイの言葉を途中で遮る。


 それ以上は、つらい。

 言いたい事は、わかるつもりだ。空気を読むのは令嬢の必須能力だ。

 小さいころから勉強が好きだった。自分の力で何かを成し遂げる大人になれると思っていた。でも、フローレンティア家の令嬢である以上はそれはかなわないと、もうあきらめている。

 最後まで言わせてはだめ。ここにこれなくなってしまう。


 私はマリアンヌ・フローレンティア伯爵令嬢だもの。


 それ以外にはなれない。


 もし、「ただのマリアンヌ」だったら、そもそも学園にも通えなかっただろう。今まで「フローレンティア伯爵令嬢」だったから、ここにいるのだ。


 だからこれからも、ただのマリアンヌには決してなれない。


 マリアンヌは、「フローレンティア伯爵令嬢」として、非の打ちどころのないほほえみをヒューイに向けた。

 何を考えているか読めないように作られた、貴族令嬢の美しい微笑み。……ごめんなさいね、貴方は範囲外なの。という意味を込めて。


「……すまん。忘れてくれ。ならば……学園を卒業しても、君とこんな時間が過ごせたらいいなと思っている。ただのヒューイとマリアンヌでなくても。……それは、どうだ?」


 つまり、結婚はできなくても、たまに会ってお茶くらいはしようということか。


「ええ、いいわ。私もそうしたいわね」


 マリアンヌの嫁ぎ先によっては、学友との交流を許してくれるかもしれない。ヒューイがどこかに仕えているのなら、家同士のつながりがあれば、お茶をするくらいはできるだろう。

 そう思ってヒューイを見れば、いつにもなく真剣な表情でじっとマリアンヌを見つめている。何か言いたそうな、どう言えばよいか考えている、そんな表情をしている。

 ヒューイのことだ、どこに私が嫁げばそういう未来の可能性が高まるか考えているのだろうか。マリアンヌはそう思って、


「ヒューイも、我が家の事情はお判りでしょう?いい方がいたら、ご紹介願えますかしら」


 と、気取って伝える。


「えっ」


 すると、ヒューイは突然水を掛けられたように青くなった。


「えっ、ちがった?」


 思っていた反応と違ったので、マリアンヌも驚く。


「あ、いいや……」


 いつもの余裕の顔が、今度は真っ赤になる。


「……いや、……わきまえるよ、うん……」


 誤魔化すようにゴニョゴニョと呟いている。

 マリアンヌはクスクス笑って


「どうしたの? 実はヒューイは身分を隠した隣国の王子様で、私を王妃に迎える算段を考えていたりするのかしら?」


 と、ちゃかしてみたりした。


「いや……そこまで大それたことではないよ……いや、うん……そうか、求めているのは王子レベルか……」


 まだ真っ赤なヒューイの顔が可愛く思えてきて、マリアンヌは笑う。

 ヒューイもそのうちあきらめたように笑い出した。

 こんなやりとりができるだけで、私は幸せだな、と、マリアンヌは思った。


 できればこの時間が、少しでも長く続きますように。


 ++


「どうした?ヒューイ。珍しく心ここに在らずじゃないか。」


 アドリアン・グランヴェル侯爵は、自分の補佐をさせているヒューイの様子がいつもと違う事に気がついた。

 ヒューイは、まだ若いが優秀。今後の為に支援して、王立学園に通わせている。勉強を優先しているが、時間を見つけては積極的にアドリアンの仕事の手伝いをしようとする。アドリアンも可愛く思い、最近は大事な仕事も手伝わせるようになっていた。

 ヒューイに仕事を手伝わせるようになったのは2年前だが、ヒューイは侯爵家の使用人というわけではない。出会ったのは10年も前になる。かわいがっている弟分だ。


 10年前、商人ジョージ・アーヴィングが、新しい魔鉱石の加工法を見つけた。それは国へも大きな利益をもたらし、その褒賞として、一代限りの男爵位を賜った。もともと大商家ではあったが、平民、しかも特定の貴族の後ろ盾もなく実力のみで身を立てるということは前代未聞の話で、多くの伝統を重んじる貴族は眉をひそめ、一部のもの好き貴族は取り立てた。

 当時のグランヴェル侯爵、アドリアンの父、コンスタンティン・グランヴェルは、一部の物好きだった。とくに儲かる事業に対するアンテナが鋭く、ジョージ・アーヴィングに莫大な財を投資して取り込み、家同士の付き合いを始めた。

 ジョージ・アーヴィングの息子、ハーバート・アーヴィング――皆からヒューイと呼ばれる幼い少年は、突然の貴族社会におろおろしていたが、素直で明るい子供らしい気性でかわいがられた。だんだんやんちゃな本性が出てくると、侯爵嫡男であるアドリアンに対しても生意気な物言いをするようになり、そんなところも新鮮で気に入って、そのころからアドリアンはヒューイを歳の離れた弟のようにかわいがっている。


 2年前、アーヴィング男爵は、グランヴェル家の後押しもあり、新たな産業を興した功績で一代限りでない世襲男爵となった。それまでは商会のみを継いで商人になるつもりだったヒューイは15歳で次期男爵となり、アドリアンが教育を買って出た。

 もともと貴族の家に出入りしていたこともあり、何とか貴族っぽい立ち振る舞いもできなくはない。ただ、本人がどうも乗り気でないのか商人時代の影響か、頑張れば頑張るほどわざとらしく、何とも胡散臭くなってしまう。

 それでも、わざとらしさも初々しさと受け取ってもらえることが多く、目をかけてくれる人も増えている。


 アドリアンから見てヒューイは確かに優秀だが、少々自信家なところもあるように見える。常に自分に自信があるのだろう。苦手な事はやりたがらないのもその裏返しかもしれない。

 そんな、いつもは生意気なくらい堂々としているヒューイが、今日はあからさまに消沈している。


「いえ……アドリアン様に言うことでは……」


 珍しく歯切れが悪い物言いに、からかってやりたくなる。


「なんだ、好きな子でもいるのか?」


「え、あ、いや」


 なんだと! アドリアンは目を輝かせた。

 出会って10年、ヒューイから恋の話は聞いた事がない。出会ったばかりのころ、従姉妹のジュリアをお姫様と勘違いし、のぼせ上っていたのは知っているがそれ以来だ。


「お、これは話を聞かなければならないな! そうだ、ビビアンを射止めた私の話も参考にさせてやらねばならないかな!?」


「いや、その話はもう結構です100回は聞いたので!!」


「そうだったか? ……では、話してみなさい! ほら! ほら!」


 ヒューイはものすごく話しにくそうに、顔を歪める。が、そんなことでは絶対に逃してはやらない。アドリアンは期待に満ちた目を向ける。

 しばらくすると、ヒューイは渋々、と言った感じで口を開いた。


「……ちょっと、気になってた子と仲良くなって……その、両想い……かなと、思い込んで……想いを伝えようとしたら……」


「うんうん、それでそれで??」


 辛い事を思い出したのか、ヒューイの目が死んだ魚のように色を失った。


「結婚相手の紹介を頼まれました……」


「ええ!? ……その子、王子でも狙っているのかい?」


 ぐっ……と、ヒューイはまた顔を歪める。これは何か隠しているぞ! と、アドリアンはわくわくする。


「お前は隣国の王子かと言われました……」


「ぶはっ! 本当に王子狙いなのか!」


 つい吹き出すアドリアン。若い子の話は美味しい楽しい。アドリアンもまだ若いが、10代の話は格別だ。

 それにしても、その彼女はヒューイの何が不満なのか。こんなに良い子はなかなかいないと思う。顔はそこそこでも、長身で手足は長く見栄えは良い。仕事中にかけている眼鏡が真面目さを引き立てていて、一部のメイドには眼鏡最高と噂されているようだ。見た目だけではない、真面目で一生懸命、粗雑に見えることもあるが根は優しいし、仕事もできるし浮気もしなさそうなのに。家柄は男爵でも、大商会を抱えてかなり裕福だし、グランヴェル侯爵家が後見についているから影響力も高い。ヒューイがもし高位貴族の令嬢を妻に迎えるなりして地盤を固めれば、陞爵だって十分あり得る。

 グランヴェル侯爵家もいい歳の娘がいればぜひ婚約者にしたかったが、めぼしい血筋の娘はすでに2年前までに結婚や婚約をしていて、あいにく現在3歳のアドリアンの愛娘が一番歳が近い。娘はなついていて、「ひゅーいおにいちゃまとけっこんするの♡」と言っているが絶対認めない。そんなわけもあってアドリアンとしては、ヒューイにすぐにでも身を固めてほしい。

 グランヴェル侯爵家と敵対している家柄であれば問題はあるが、義理堅いヒューイがそこを無視するとは思えない。アドリアンに相談もなしに想いを伝えようとするということは、そのあたりは問題ないと考えていいだろう。


 今一番勢いのある新興貴族の跡取り息子。容姿端麗、博学多才。これ以上の優良物件を見つけるのはなかなか難しいだろう。うちの娘はやらんがな!!


「……本名を名乗ってないんですよ……名乗ったら絶対態度変わるじゃないですか……だから、こう、俺自身を好きになってもらってからにしようと思って……」


 こんなに弱々しいヒューイは珍しい。隠していた詩文のテストを母親に見つかって雷を落とされていた時以来だ。あれ、結構最近じゃないか。ともあれ、ヒューイがどうでもいいことで弱っているのはかわいいし面白い。


「あっはっはっは! すごい自信だな!」


「笑いすぎですよ!アドリアン様だって、ビビアン様に、家は関係なくただのアドリアンを好きになってもらいたいって頑張ってたじゃないですか!」


「いやいや、ごめん!そうだね!私にもあった!そんなこともあった!だからごめん!」


 むきになるヒューイに涙を流して笑い転げながら謝るアドリアン。


「だいたい! 家名で寄ってくるような頭の軽い女に引っかかるなよ、とか、名も知らずとも運命を感じることもあるのだ、とか言ってたのアドリアン様じゃないですか! ……あ、考えたら俺の失恋、アドリアン様のせいじゃないですか!?」


 いつもビビアンとの惚気話は聞き流していると思っていたが、意外とちゃんと聞いていたようだ。また後でしっかり話して聞かせてやらねば。と、アドリアンは思った。


「悪かったって! まだ嫌いとは言われてないんだろ!? 諦めて名乗って、ちゃんと話をしなさい。 あ、ちなみにどのくらい仲が良いんだい? あと、念のため聞くけど、あちらの家柄は大丈夫なんだね?」


「仲は……良いと、俺は思ってますけど……相手は、フローレンティア伯爵家のご令嬢ですよ。……よく、一緒に勉強したり……してます」


 ヒューイは顔を赤くしてごにょごにょと言う。

 それにしても、フローレンティア伯爵令嬢ときたか。さすがヒューイ。相手もアーヴィング男爵家にとっては良縁だ。フローレンティア伯爵とはアドリアン自身は面識がないが、以前、父コンスタンティンの「恩を売りつけた人間リスト」に入っていたのを見たことがある。敵対しているということはないだろう。

 伝統を重んじるフローレンティア伯爵としては、新興貴族はあまり好ましくないかもしれないが、今の優先順位は財政難のはずだ。こういう奇跡の出会いを信じて娘を学園に送り込んだのだろうし、アーヴィング家は歴史はないが裕福だ。嫌とは言わないだろう。

 社交界では、フローレンティア伯爵家の御令嬢は賢しくて可愛げがないと聞いていた。確かに、社交の場でたまに見かける彼女は、見事な美しい立ち振る舞いで、つんと取り澄ましているようにも見えた。しかし、このヒューイの顔を見ると、かわいげがないというのは嘘なのだろう。……まあ、ヒューイにとっては、なのかもしれないが。


「噂の婚活令嬢か。いいじゃないか。ふうん……さしずめ、没落伯爵家の令嬢を成金男爵のボンボンが札束で殴って落とすっていう構図だね」


「そう見えるから! どうしようかと! 悩んでたんです俺は!」


 真っ赤なヒューイがあまりにも可愛くて、どうしても顔が緩んでしまう。


「考えすぎだよ! 君もたいがい想像力豊かだな。……わかった! じゃあこうしよう」


 アドリアンはヒューイのために一肌脱いでやることにした。


「社交界で出会い直すんだ。今度当家主催のダンスパーティーがある。そこにフローレンティア伯爵令嬢をご招待しよう。私は面識がないが、父が伯爵と繋がりを持っていたはずだ。あいつ顔は広いからな。誘われれば婚活中の彼女はきっと参加するよ。そこで私から君を紹介しよう。侯爵家当主からの紹介であればあちらの面子も立つし、ふふっ……隣国の王子ではないにしろ、なかなかロマンチックな出会いだろう?」


 アドリアンは考える。可愛らしいご令嬢に、可愛いヒューイを紹介する。「お美しいお嬢様、私と踊っていただけますか」「まあ、貴方は……!」そして2人は幸せになりましたとさ、めでたしめでたし。着飾ったヒューイと美しいフローレンティア伯爵令嬢は絵になるだろう。せっかくだ、ヒューイを乙女がときめく王子様のように仕立ててやろう。今までは胡散臭い仕草がちょっと面白かったので甘くしてやっていたが、伯爵令嬢と並んでもおかしくないように、貴族としての立ち振る舞いを徹底的に叩き込んでやろう。……うん、考えただけでわくわくする。


「ダンスパーティー……ですか」


 しかし、ヒューイはわかりやすく、嫌そうな顔をする。ヒューイはダンスがはっきり言って下手だ。1人で動いている時は長い手足もあって見栄えがいいのだが、ペアになるとスムーズに行かない。リードしようとしても思ったように動いてくれないと、どうして良いかわからないのだと言っていた。


「お姫様と踊るんだ。目標があればできるだろう?」


 そういうと、ヒューイは踊るお姫様を想像したのか、まんざらでもない顔になった。


「まあ、頑張ってみます」


 アドリアンは楽しくなってきた。かわいい弟分の幸せのために、ダンスも厳しくしごいてやろうと心に決めた。


 +++


 マリアンヌは、何となく、今日の温室は明るいな、と、思っていた。マリーゴールドの黄色い花があちらこちらに咲いているからかもしれない。

 今日も二人で、温室で勉強したり本を読んだりして過ごした。ヒューイは、図書館に行けないマリアンヌの代わりに、面白そうな本を見繕って持ってきてくれる。


 さあ、そろそろ帰りましょう、という時間になって、ヒューイは眼鏡を外す。眼鏡はなくても支障はないが、勉強や仕事に集中するアイテムになっているらしい。


「マリアンヌは、ダンスも得意なのか?」


 最近、ヒューイは機嫌がいい。勉強を終えてから話す時間が増えた。あと普段から、意識して背筋を伸ばしている気がする。そして目が合う事が増えた気がする。


「そうね……そこそこかしら。普通よ。伯爵令嬢くらいの腕前よ」


「そうか。それは……美しいのだろうなぁ」


「え? 突然なに?」


「いや、薔薇が、咲いたな、と思って」


 赤い薔薇に手を伸ばしてつついてみたりしている。

 明らかに浮かれている。……これはきっと、何かがうまいこと行ったのでしょう。

 マリアンヌに関する事だったら、何か良い縁談の伝手があったのかもしれない


「マリアンヌ」


 ヒューイが眩しそうに目を細め、何とも嬉しそうな声で呼んだ。


「なあに、ヒューイ」


「近々、さる侯爵家から誘いがあるだろう。どうか、乗って欲しいんだ。」


 マリアンヌはドキリとした。ヒューイが本当に、紹介先を探していたなんて。マリアンヌが知る限り、侯爵家でパートナーを探している話は聞かない。となると、侯爵をつないで誰か他の方を紹介してくれるという事だろうか。その人がヒューイと関係がある人なのだろうか。


「ええ、わかったわ。何かしら」


 ヒューイは、笑って答えなかった。


 結婚相手を紹介して欲しいと言ったのは確かに私なのだけど……上機嫌なヒューイを見て、この温室での時間も終わりなのかな、と、マリアンヌはちょっと複雑な気分になったのだった。


 +++


「マリアンヌ、グランヴェル侯爵家と縁談の話がある」


 その話が持ち上がったのは、ヒューイから話を聞いた直後だった。


 これなのね。ヒューイ。マリアンヌは息をのむ。


「前グランヴェル侯爵のコンスタンティン様には昔世話になった事があってな。……お前を、後妻にどうだという話が来ている」


 コンスタンティン・グランヴェル前侯爵。魔鉱石の輸出事業で莫大な資産を築いたやり手の有名人だ。確かすでに隠居していて、孫もいたはずだ。


「当家の財政についてもご理解いただいていて、すべて面倒を見ようとの申し出だ。」


 ……まあ、すごい。

 さすがヒューイ、完璧な条件じゃない。勉強だけでなく仕事もできるのね。


「謹んでお受けいたしますわ。お父様」


「うむ……マリアンヌならそう言ってくれると思っていたよ。コンスタンティン様は、昨年家督を息子に譲って、今は侯爵領にいらっしゃる。そちらに別邸を用意するので、お前はそこでゆるりとすごすようにとのことだ。とりあえず明日からは忙しくなるぞ、学園はひとまず休学としておこう。支度が整い次第、出立するように。」


 話が頭に入ってこない。でも、理解は、できた。マリアンヌは震えそうになる体を押さえて何とか微笑んでいた。


 お父様より年上の方と結婚するなんて、あまりにも実感がわかないけれど、我が家の状況を考えれば、貧乏伯爵家のご令嬢にはちょうどいいお話しではないかしら。

 それにきっと、これはヒューイの采配。きっとこれからも、ヒューイと繋がりを待てるわ。だから……


 ……私は、そんなに、悲しくなる必要はないのよ。


「承知いたしました」


 マリアンヌはにっこりと笑って、美しくお辞儀をして見せた。


 +++


 最近、温室に行ってもマリアンヌに会えないな……


 と、ヒューイはグランヴェル邸で仕事をしながらぼんやりと思っていた。今までも数日すれ違う日はあったが、今回は少し長い気がする。


「ヒューイ、落ち着いて聞いてくれ。失敗した」


 そこへ、コンスタンティンと話をしに領地に出向いていたアドリアンが、顔を青くして帰ってきた。


「父に、フローレンティア伯爵令嬢の話をして、今度のダンスパーティーに招待したいので手紙を出してほしいと言ったんだ。とくに問題なく承諾したから、油断した。あの親父、確かに手紙は出したが、ダンスパーティーではなく、自分の後妻にどうかと伝えたらしい」


「!?」


 アドリアンの父、コンスタンティン・グランヴェルは今年で60歳のはずだ。数年前に奥方を亡くしている。昨年家督をアドリアンに譲った後は、愛妾を何人もつれてグランヴェル侯爵領で悠々自適の生活を送っている。


「まさか孫でもおかしくない歳の娘に正妻の話を持っていくとは思わなかった……本当にすまない」


 アドリアンは苦々しい顔をしている。


「それで、伯爵家からの返事は……?」


 さすがに孫もいる男に娘を嫁がせることはないだろうと、ヒューイは思った。


「すぐに承諾の返事が来たそうだ。フローレンティア家の借金、領地運営の赤字の補填、すべて面倒見るとまで言ったらしいからな。マリアンヌ嬢は婚姻のため自宅で準備しているらしい。学園も休学しているそうだ」


 ヒューイは目の前が真っ暗になった。確かにコンスタンティンは個人でもとんでもなく裕福な男だ。困窮しているフローレンティア家には良い話なのかもしれない。


「私には言わずに進めて、決定してから報告だけよこした。侯爵家ではなくただのコンスタンティンとして、人生の最後にマリアンヌ嬢と真実の愛を育みたいとか言っている。大ごとにはせず、ひっそりと領地で挙式し暮らすつもりだと……クッソ、僕にばれないようにやりやがった」


 ……それは、今から割って入る事は出来るのか?

 ヒューイは真っ黒な頭で考える。


 必要なのは、フローレンティア伯爵家を支援することなのか。もしマリアンヌと結婚が許されたら、自分とマリアンヌで財政を立て直せる自信があった。はたから見ても伯爵領運営については改善できる点が多い。しがらみのないものが一気に改革すれば、十分立て直せると踏んでいた。なのでお金を積んで、というのはできればあまりやりたくないと思っていた。しかし父に頼み込めばある程度の一時金は用意できるだろう。ただ、さすがに、伯爵家の借金全ての肩代わりをするというのは無茶な話だ。アドリアンならなんとかできるかもしれないが、これ以上頼ると今後恩義だけでは済まなくなる。それでなくても、アーヴィング家はコンスタンティン・グランヴェルが後見についたおかげでここまで来たのだ。関係を考えるとコンスタンティンの物となったマリアンヌを奪い取ることは無理だろう。……マリアンヌ自身が固辞すれば……いや、この条件では、マリアンヌ自身が最良の縁談だと考えている可能性が高い。たとえマリアンヌに直接連絡できたとしても無駄だろう。


「すまない、私が親父のクズっぷりを甘くみていた」


 アドリアンも顔色が悪い。

 ヒューイはなんとか声を絞り出す。


「……いえ、アドリアン様のせいではありません」


 視界が元に戻らない。マリアンヌの姿が脳裏に浮かぶ。その姿はいつも通り清楚で美しい。そして悲しそうにほほ笑んだ。


「これは私の招いた事です。なんとか、します」


 そうだ。格好つけないで、最初から、きちんと挨拶すればよかったのだ。

 最初は貴族然として美しい彼女に気後れした。彼女が当然のように伯爵家を背負っているのに自分は未だに男爵の後を継ぐ覚悟がない。それでただのヒューイと名乗った。

 次は関係が壊れることを恐れた。箔が欲しい成金男爵が伯爵令嬢と対等になれるか? マリアンヌがヒューイの正体を知れば、“ヒューイ”より“アーヴィング男爵家”に魅かれるのではないか?

 そして、一番よくなかったのは……全部、アドリアンがうまくやってくれると思い、のぼせ上がって、ただ浮かれていた事だ。


「ヒューイ」


 顔色をなくしたヒューイにアドリアンが呼びかける。少しの沈黙。それから、ゆっくりとアドリアンに向けられた瞳には、静かに決意の炎が宿っているようだった。


「アドリアン様にはご迷惑はおかけしません。なので……できる限り頑張ってみてもいいですか」


 これは俺の、貴族としての初めての戦いだ。ヒューイは覚悟を決めた。


「もちろんだ。私も出来る限り君の味方になろう。……ああ、あのクソ親父、金さえ与えておけば黙っていると思ったのに……!!」


 アドリアンがせわしなく部屋を動き回り激しく憤っている。自分の代わりに怒ってくれているように感じて、反対にヒューイの頭はひどく静かになった。


 絶対にマリアンヌを取り返す。


 ヒューイは心の中でそう呟いた。


 +++


 よく考えると、おかしい。ヒューイは思った。


 コンスタンティン・グランヴェルは、確かに絵に描いたような強欲ジジイだ。若く美しい令嬢を、金の力で自分のものにした、という話にあまり違和感はないように思えるが、何かおかしい気がする。幼い頃からグランヴェル家に出入りし、コンスタンティンのやることを近くで見ていたからこそ感じる違和感だ。それから、商人としての勘だ。


 あの男が、ただ若い令嬢を囲いたいのなら、正妻にはしないだろうと思うのだ。女のために大金を使うなんて、そんな面倒な事をするとは思えない。それにマリアンヌは社交界での評判があまり良くない。お高く留まった女を金で買ったことを自慢したいクズもいるだろうが、コンスタンティンはそういう方向のクズではない。となると、フローレンティア伯爵家自体が欲しいという事か。しかもグランヴェル家としてではなくコンスタンティン本人が。

 コンスタンティンが大金を使うのは、必ず安定した収益が見込まれる時だ。大きな投資をできるだけ楽に、低リスクでやる。リスクが高い、面倒くさいと深追いせずに撤退するのがコンスタンティンのスタイルだ。フローレンティア伯爵家には、なにか金になる可能性が高いものがあるのだ。おそらく。


 であれば、ヒントがあるのはグランヴェル侯爵家ではない。コンスタンティンの事業は、ここ10年はアーヴィング商会を使っている。


「アドリアン様、しばらく商会の方に行ってきます。数日は戻らないと思いますがよろしいでしょうか?」


「もちろんだ。こちらは気にするな。私はしばらく屋敷にいるからな。必要な事があればいつでもいいなさい」


 アドリアンとコンスタンティンの関係は悪い。表面上は、優秀な息子に任せる英断をしたと言われているし、二人ともそのように演じているが、コンスタンティンは侯爵としての仕事より自分の財産を築くことを重要視しており、その行動に問題を感じたアドリアンが何とか説得、交渉して爵位を譲らせたのだ。コンスタンティンも侯爵でいるより自由に動ける方が自分の利になると判断していたようだが、あの手この手で交渉された結果、多くの財産、安定した事業をコンスタンティン個人に渡してしまった。


 さすがにお家騒動には深くかかわらなかったので、世間の噂以上のことで知っているのはこのくらいだ。あとはアドリアンが心の底からコンスタンティンを軽蔑している、というのが本当であるという事くらい。


 それと……


 ヒューイは考える。ヒューイの父ジョージは、コンスタンティンのおかげで立身出世したため、コンスタンティンには頭が上がらない。しかし、当主がアドリアンになってほっとした顔をしていた。侯爵家お家騒動の時期は忙しそうだったし……おそらく、自分の家にもヒントがある。


 フローレンティア家への投資の価値。入り込む価値。


 コンスタンティンに財を成した、ジョージ・アーヴィングの事業。


 二年前の男爵家の褒章。一年前の侯爵家のお家騒動と代替わり。


 思いつく限りの資料を集めるのだ。何かしら、ホコリが出てくるはずだ。


 ……必ず、婚約解消させてやる。


 +++


 マリアンヌは自室から窓の外を見る。

 雨粒が枯れた花壇にぽつぽつと落ち、薄暗い空気が漂う。石畳は苔に覆われ、雨を吸って濃い色を見せている。雨の音だけが部屋に響いていた。


 それを見て、学園の温室を思う。

 雨の日の温室はガラスの外壁を伝う雨粒が外をあいまいにし、サラサラと雨音が響く。湿った土の匂い、花の甘い香り。

 今は何の花が咲いているかしら。晴れの日も雨の日も、温室のことを思い出す。


 学園に休学して、もう3か月だ。勉強したのに、試験も受けられなかった。ヒューイに挨拶もできなかった。


 今までありがとう、ただのマリアンヌのことを覚えていてねと、伝えたかったのに。


 3カ月前に来たコンスタンティン・グランヴェルとの婚約話は粛々と進んでいる。コンスタンティンは数年前に奥方を亡くし、今は隠居していて、領地経営や家の切り盛りは、すべて息子が行っているらしい。マリアンヌには小さな別邸を与えるので、そこで穏やかに過ごしてほしい、そんなことを伝えられた。一度挨拶したが、マリアンヌが覚悟していたよりもずっと紳士的な対応で、無理なことはしないと約束してくれた。コンスタンティンはマリアンヌが嫁ぐ代わりに、伯爵家の今、そして未来に不安がないようにすると約束してくれたらしい。


 マリアンヌはせめて学園を卒業させてくれないかと両親に頼んでみたが、家族にしてみれば婚活のためだったのだし、なぜ勉強したいのか理解してもらえなかった。


 婚約中は休学し、結婚を機に退学。それが今の決定事項だった。


「しかたないわ……しかたない……」


 コンスタンティンはお金持ちだ。あまり気にせずに本をたくさん買ってもらえるかも。

 それにこの話には、ヒューイがきっと絡んでいる。また会えるかもしれないと、それだけが楽しみだ。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」


 メイドがあわただしい様子で呼びに来た。連れられて執務室に入ると伯爵は真っ青な顔で一通の書状を手にしていた。


「マリアンヌ……いったい何をしたんだ……コンスタンティン様から婚約解消の申し出だ。」


「!?」


「書状には、お前に非があったわけではないと書かれているが、何か心当たりはないか?」


「ございませんわ……」


 困惑する二人に、執事が口をはさんだ。


「旦那様、侯爵家の使いの方が、今この場で早急にお返事をいただくようにと申し使っているとのこと。お待ちいただいておりますが、いかがいたしましょうか」


「……ああ、否ということなどできないとわかっているだろうに! ……わかった!! ここへ通せ。仕方がない。こうなったらしっかりと慰謝料請求してやろうではないか!!」


 伯爵が半ば自棄になって書状をしたためていると、使用人に連れられ、侯爵の使者がやってきた。


「アドリアン・グランヴェル侯爵の代理として参上仕りました。フローレンティア伯爵そしてお嬢様にお目通りかないまして恐悦至極に存じます」


 使者の男は、財力を見せつけるようにギラギラと着飾っている。よく言えば伝統的、悪く言えば古臭い、あまり色のないフローレンティア邸で、そこだけが異質に輝いていた。そして男は大仰な身振りで一礼した。


「……!!」


 それは見間違えることはない、ヒューイ本人だった。


 侯爵家の使用人だったのか。マリアンヌは衝撃を受けた。……もしかして、それで、前侯爵に我が家を紹介したのだろうか。つまり私は好意を寄せていた人から、父より年上の方を紹介されたのか、と思うと、途端に悲しくなった。


 でも。それではどうして、早く顔を見せてくれなかったのかしら。ちゃんと説明してくれなかったのかしら。そうしたら、少しは楽しみにできたかもしれないのに。

 ヒューイの口利きだと思って、先方と交流する時には、使用人にそれとなく目を光らせていたが、今まで見かけたことはなかった。


 ヒューイは、伯爵が嫌々サインした書状を恭しく受け取る。一向にマリアンヌの方を見ない。わざと見ないようにしているように見える。


「フローレンティア伯爵、確かにお預かりいたしました」


「慰謝料については別途であること、必ずお伝えしろよ」


「もちろんでございます。今回の事、当代当主アドリアン・グランヴェルとしては大変に遺憾であり、必ず伯爵のご満足行くように取り計らうとお伝えするように、強く申しつけられております。そしてお嬢様のことでございますが、侯爵も大変案じておりまして。……その件で実はもう一通、別のお宅から、書状を預かっております。どうか今お目通しを」


 ヒューイはもう一通封書を取り出した。

 伯爵は差出人を見て眉を顰める。


「なに? アーヴィングだと? 成り上がりの男爵家じゃないか。うちは何のつながりもないだろう、なんだ?」


「アドリアン・グランヴェル侯爵からも是非目を通していただくよう申しつかっております。フローレンティア伯爵にとってもよいお話しかと存じます。どうか、ご一読を」


 伯爵の眉間にしわが寄っている。伝統を重んじる伯爵は、平民から成り上がった新興貴族をよく思っていない。しかし侯爵からの紹介があれば読まないわけにはいかない。しぶしぶといった感じで開封する。


「……マリアンヌ。お前が学園でアーヴィング男爵家の嫡男、ハーバート・アーヴィングと親しくし、我が家に婚約の打診をするところまで話が進んでいた……が、連絡が取れなくなっていて困惑している……ということになっているのだが……どういうことだ……?」


「!!?」


 アーヴィング家は大きな商会を運営する家だ。たしか、数年前に男爵位を賜ったと聞いている。


 ……そういえばヒューイが得意なのは、商売に向いている科目だった。

 ハーバート……ヒューイという呼び方もあり得る。ああ、だからこっそり名簿を見てもわからなかった!


 思わずヒューイを見るが、ヒューイは素知らぬ顔をしている。


「マリアンヌ、心当たりは?」


「……ええ、ええと、そのようなお話があったのですが、侯爵家とのお話しがございましたのでなくなったものかと……」


 なんだか胸がいっぱいになって苦しい。慌ててごまかす。


「……侯爵家の話が先では仕方がなかったか。まあいい。それに貴族とはいえ、商人の家だろう。受けられる条件かどうか、確認が必要だが……この手紙には、婚約の条件として学園の卒業とある。とりあえず休学は取り消し、できるだけ早く復学しなさい。それから、家同士のはなしも……」


 伯爵は混乱している様子でぶつぶつとつぶやく。ヒューイがちらりとマリアンヌに視線を投げ、にやっと笑って見せた。


 着飾ったヒューイは、胡散臭さが増していて、王子に扮装した怪盗のようだな、と、マリアンヌは思った。


 +++


 侯爵家の自室で、アドリアンは弟分の成長をかみしめていた。

 自分で行くと言ってきかないので、侯爵家の使者として伯爵家がドン引きするほど飾り立ててやった。見栄えのいい男性使用人は裕福さの証でもある。この結婚、侯爵家は本気で支援するつもりで、金にはなる、というメッセージは伯爵に通じただろうか。


 一生懸命考えたんだろう。まとめられた資料から、その努力が見える。

 ヒューイは徹底的に、伯爵領の価値を探った。それから商会の資料を調べ、徹底的にこれまでのコンスタンティンへの金の流れを洗った。脱税や着服などの悪事は実はすぐに出てきたらしい。しかし、それでは、今の侯爵家や男爵家にも影響が出てしまう。


 ヒューイはもう一歩踏み込んだ。今後、コンスタンティンになんの利益をもたらす可能性があるかを考えた。

 近い将来、伯爵領に莫大な利益がもたらされ、その多くがコンスタンティンの懐に流れる……伯爵領を運営しても、さらに利益が出るような。そんなものがあるのではないかと探したようだ。そこに、国や侯爵家への裏切りが含まれていれば、アドリアンが侯爵家のために動くことができる。


 そしてヒューイはそれを見つけた。魔鉱石の加工を違法に行おうとしているのではないか、という事だった。この加工技術はアーヴィング商会の機密事項にあったらしい。伯爵領には条件が整った広大な土地があった。この技術に関してはアドリアンも知らない事だった。おそらくコンスタンティンが公表を止めていたのではないかと思う。

 その内容をもとに、思い通りにはならない事を伝え、何とか婚約解消の書面を書かせた。

 アドリアンが説得に成功した時、ヒューイは生意気に、「これで許してあげますんで、ダンスパーティー企画してください」と言った。


 盛大なパーティを企画してやろう。出会いのシーンは演出できなかったけれど、堂々とエスコートするヒューイも見たいものだ。


 +++


 マリアンヌは急いであの場所に向かっていた。

 久しぶりの温室はきらきらと輝いていた。紫のグラジオラスがガラス越しに差し込む日の光を受けて暖かく光っている。育ちすぎのポインセチアがまるでお城の門のように感じられる。いつもよりすべてがまぶしく感じるのは気持ちの問題だろうか。


 以前は誰にも温室に入るのを見られないように気を付けていたが、今日はそれも気にならない。授業が終わり、淑女に許されるギリギリの小走りで急いできたのに、ガーデンテーブルにはもう先客がいた。


「やっと来てくれたか! 隣国の王子でなくて残念だったな!」


 ヒューイが晴れやかな顔でマリアンヌを迎えた。


「ヒューイ!! 言いたいことは山ほどあるわ! 一つ目よ!自分で来るとはどういうこと!??」


「あははは!! 家でのご令嬢を見てみたかったんでね」


「二つ目よ、何なの、あの絵本の王子様みたいな恰好は! 噴き出すのをこらえるのが大変だったのよ!」


 晴れやかな顔で大笑いしているヒューイは、貴族の御令息とは到底思えない。


「侯爵が、あのくらいインパクトが必要だって、ご自分の昔の服を貸してくださったんだ。俺もさすがにあれは恥ずかしかったよ」


「三つ目! 一番重要なことを確認するわよ、あなたの本名はなに!? フルネームで!」


「“ハーバート・アーヴィング”だ。親しい人は皆ヒューイって呼ぶ。マリアンヌもかわらずヒューイって呼んでくれ。ちょっと前まで商人だったが、今はアーヴィング男爵家の跡取り息子だよ。あと、グランヴェル侯爵の使用人というのも嘘ではない。グランヴェル侯爵家は後見についてくれているからね。当主の側仕えみたいなもので勉強させてもらっているんだ」


 それを聞いてマリアンヌは呆れた顔で天井を見上げる


「成金男爵家のボンボン? 没落伯爵令嬢としては絶対結婚したい対象じゃない」


「……そうだろう? そう思うだろ?? あとついでに、伝統ある伯爵家の美しき御令嬢は、成り上がりの新興貴族の跡継ぎとしては絶対結婚したい対象だと思わないか? ……そう思われたらどうしようかって、言い出せなかったんだよ」


 ヒューイはマリアンヌに、自分の状況を説明する。

 アーヴィング家は二年前に世襲貴族となり、ヒューイは跡継ぎとなった。ヒューイの父はそれまでも侯爵家に目を掛けられていたので、ヒューイも子供のころから侯爵家に出入りしていた。しかし、貴族特有の空気が苦手で、将来は大商人になろうと考えていた。

 男爵位も次ぐことになり、貴族の教養を詰め込まれた。学園も教養と勉強の一環、そして今後のためのコネづくり、そしてできれば、将来の伴侶を探してこいということで入学した。

 ところが、今最も波に乗っているアーヴィング家の嫡男は、微妙な立場の貴族にまとわりつかれたり、財産目当てにすり寄ってこられたりと大人気で、辟易していた。

 勉強で成績を上げたところで、「さすがアーヴィング男爵のご子息だ」などと言われる。家の力が自分の努力や才能を上回っていくのは、むなしかった。2年前までは単純に、「すごいな、ヒューイ!」と、言われていたのに。しかも貴族的な科目が原因で成績が振るわないので、それも自信を失う一因になっていた。


 そんな時、成績優秀者の中にマリアンヌの名前を見た。何を言われても動じないマリアンヌを見て、気になっていた。


「温室で出会ったのは本当に偶然なんだ。俺も、一人になれそうな場所を探したから。どこかでただのヒューイに戻りたかった。……そんなきっかけだったけど、ただのヒューイとして、マリアンヌと話せるのは本当に楽しかった。でも、伯爵令嬢と男爵令息じゃ、お互い結婚の対象になってしまうだろ。……だからつい、もう少しこのままでいたいなって……」


「まあ、それは私とは結婚はしたくないという事かしら」


 むくれるマリアンヌにヒューイは慌てる。


「いや、そうじゃなくて…… 俺も今まで、こ……恋とかそういうのなかったし、あと、君は高貴で美しく、高嶺の花、という感じだろ。俺なんかが手を出していいものかと」


「だからと言って、いくら何でも隠居された方にあてがうのはひどいと思うわ」


「それは誤解だ! 本当は、侯爵が出会いの場を用意してくれようとしたんだよ!」


 ヒューイは丁寧に、何があったのかマリアンヌに語った。少しでも自分の気持ちを信じてほしいと、包み隠さず教えてくれた。

 アドリアンにマリアンヌとの事を相談したこと、アドリアンが出会いの場を用意してくれようとしたこと、そこから手違いがあって、コンスタンティンとの婚約の話が進んでしまったこと。何とかいろいろ手を尽くし婚約解消させたこと。できることはすべてやろうと、自分で自分を紹介する手紙を書いて持参したこと。


「わかったわ。……それでも、本当に悲しかったし怖かったのよ」


「……すまなかった。本当に、後悔している。最初から名乗っていれば、こんなことにはならなかっただろうし、男爵になる覚悟が決まっていればもっと早く求婚できたと思う。……次期男爵の肩書に勝てる自信がなかったんだ。ただのヒューイはもう次期男爵なのに」


 一生懸命説明してくれる姿に、ほっとしたのか、涙がこみあげてくる。


「ちゃんと言わせてくれ。……マリアンヌ・フローレンティア嬢に、ハーバート・アーヴィングは婚約を申し込む」


 そしてヒューイは、スマートに跪き、自然な態度で手を差し伸べた。

 胡散臭い仕草が見違えるように美しくなっている。まじめな瞳に努力の跡が見られた。


「ダンスパーティーでの運命の再会ができなくて、残念だったわ……」


「それは、また、そのうちにな。」


 マリアンヌは差し伸べられた大きな手に、華奢な美しい手を添える。


「ハーバート・アーヴィング様、マリアンヌ・フローレンティアはそのお申し出を承諾いたしますわ」


 ヒューイは少し笑って、恭しく手の甲に口付けしたのだった。


読んでいただいて、ありがとうございました。

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恋愛小説にハマって、好きなタイプの眼鏡が活躍する話が見たくて自分で書いてみました。

書いているうちにこのあとの話やアドリアンの話など思い浮かびました。また書いてみたいと思います。

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