93話「チペワ?」
「毎度あり」
多数の本を小脇に抱えながら、本屋を出た。
これから目を通すであろう文章に心を躍らせながら、軽い足取りで公園に向かう。
『アキム、最近変な本ばっか読んでる』
街路を進んでいると、突然チペワに話しかけられた。
『変な本じゃない。法律の本と、善悪論とか……あと、人についての本かな』
『アキムは人だったのに?』
純粋な質問を投げられた。
『人だから分からないんだ。多くの人は、チペワよりも辛い現実を願ってる。こないだ捕まえた家族だって、そうだったろ?』
以前セジェスの村落に立ち寄り、飢えていた村人達を苦しみから解放した。
俺も可能な限り言葉を尽くして説得してみたが、結局最後まで拒絶されてしまった。
『でも今は喜んでるよ。ね?』
チペワが誰かに尋ねると、俺の頭の中から無数の感謝の声が響いた。
ありがとう、信じれば良かった、命の恩人だ……そんな事を言っている気がするが、脳裏に同じ声量で響く為、聞き取れなかった。
「……っ!混線させないでくれ!!」
軽い頭痛を感じ、側頭部を軽く叩きながら文句を言う。
しかし、声を荒げた事で僅かに衆目を集めた。
「……っと、ごめんなさい」
軽くそう呟いて小走りで公園に向かう。
『ごめんねアキム、今はチペワだけ』
『良いよ。ちょっとびっくりしたんだ』
『でも、どうしてチペワが嫌なんだろう。怖いのかな』
『ああ、一度竜人の真似したら簡単に受け入れてくれたっけ。でも、そんな問題じゃない気がするんだ。元人間の俺からしても、こう……ちょっと違和感があるんだ』
『むー……アキムが気になるなら良いよ。アルバが居るから、しばらくチペワも増えれないし……アキムが勉強してチペワ達も賢くなってるから』
渋々、といった語気でチペワは了承してくれた。
話している内に公園に辿り着いた。
恐ろしい程の税金を無駄にして作られたこの場所は、入念な手入れが行き届いており、植栽された広葉樹が、秋の紅葉で色とりどりに染まっていた。
ベンチに腰掛け、買ってきた本を手に取る。
人通りが多く、程よく開けているため、下手な室内よりも窃盗の心配がなく、何よりも風が心地よかった。
手に取った本に意識を向けたその時、近くで足を止めた二人組の男の話し声が少し耳についた。
「なぁ、あれマレーナじゃないか?」
「馬鹿言え、あの狂犬があんな可愛らしい格好する筈がないだろ」
「それより。あの隣の男……彼女の奴隷かな」
奴隷。その単語が聞こえ、思わず眉間に皺が寄る。
『そうだよ、奴隷があるし、やっぱチペワの方が良いよ』
と、チペワがまた話しかけて来た。
しかし、今は読書に集中したかった。
『その話は後で__』
「馬鹿っ!お前な、聞かなかった事にしてやるからな!!」
突然男が怒声を浴びせ、意識がそちらに向いた。
「何だよ……いきなり」
「あのお方はな、はるばるヴィリングから来た、ルナブラム様の弟なんだぞ!!」
その言葉に電撃が奔り、咄嗟に本を閉じた。
顔を上げると、少し離れた場所にクリフが居た。
「クリフ……!」
彼の隣には、青い髪のエルフと手を繋いでいた。
白いドレープドレスに、空色の生地を腰に巻いており、髪には青い花が添えられていた。
思わず息を呑む程、綺麗な人だった。
彼に声を掛けたい衝動に駆られる。
ベンチから立ち上がり、声を出そうとするも、喉に言葉がつかえて出て来なかった。
「行かないのかな?」
「うわっ!?」
突然真隣で声を掛けられ、思わず身体が跳ねた。
横に振り向くと、奇妙な姿をした女性が立っていた。
白く輝く髪。雪のように白い肌。宝石のように白く澄んだ瞳。そして、真っ白なズボンとシャツを着ており、胸に|Have a good Life!!《よい人生を!!》はと、プリントされていた。
その高度な衣装から見て、古代人のように思えた。
「……あんた誰だ」
どう見ても一般人には思えない彼女を前に、警戒と緊張が高まる。
「私かな?うーむ、そうだね。あまり名乗るべき名を持ち合わせて居ないんだ。事実、他の子達も呼び方に困っているみたいだよ」
主観性のないあやふやな回答に、思わず肩の力が抜ける。
『チペワ、どう思う?』
彼らに連絡を取る。
しかし、返答は無かった。
「アキム君。私は貴方と話をしに来たんだ。友人と論議を交わすのも結構だけれど、今は私に時間を割いてはくれないかな?」
その瞬間、警戒心が極限まで高まり、死を覚悟した。
この女性は、何らかの手段でチペワとの接触を絶った。
以前ケルスに能力を封じられていた時でさえ、起こらなかった現象が訪れていた。
「あんた、神か何かか?」
「然り、貴方達が願うそれとは隔たりがあるのだけれど。能力という側面で観ているのならば、間違ってはいないさ」
彼女は、自身についての言及を意図して避けているようだった。
それに加えて、魔神、大神の中にも彼女と特徴が合致する人物は居なかった。
自称神か、或いは新たな神がやって来たのか。どちらにせよ、自分が抵抗出来ることは少ないように思えた。
「しかし名が無いというのも不便だ。私の事はグランマとでも呼んではくれないだろうか」
「グランマ?ああ、分かった」
グランマという奇妙な呼び名に戸惑いながらも、彼女と話を続けた。
「どうして、クリフ君と会わないのかな?」
強引に本題へ引き戻され、言葉に詰まってしまう。
僅かに目を逸らすも、変わらず彼女は俺を凝視し続けていた。
声の抑揚はあるにも関わらず、その表情は人形のように硬く、まるで生きていないかのようだった。
「それは……仕方ないだろ。クリフはチペワを否定したんだ。もし会いに行っても、戦うことになるだけだろ?」
何故か、彼女が経緯を知っているかのように話してしまった。
俺の正体ですら知られてはならない筈なのに。
「どうだろうね。私の知る彼は、貴方の歩み寄る意思を見れば、それを無碍にはしないと思うんだ」
的確で、言い返しにくい言葉だった。
「どこまで行っても、貴方の意思でしかないさ。結句、相手に変化を望むよりも、自身が変わる事の方が確実なんだよ」
彼女は、何処までも俺の意図を理解し、その上で尋ねて来ていた。
恐らく、彼女は俺に質問しているのではなく、悩みを聞き出そうとしてくれているのだ。
「だからこそ、こうやって情報を取り入れて、考えてるんだ。あんたは、答えを持ってるのか……?」
「整然とした答えに価値なんて無いんだよ。千差万別、玉石混交。各々が違った人生を経て、答えを持つからこそ、それら一つ一つに価値が、愛が生まれるのさ」
彼女の思想は、チペワとは対極的なものだった。ただ、それと同時に嫌な記憶が目覚め始めた。
「……っ、なら!セジェスで飢えてる人達はどうなんだ!?ジレーザでソルクスに焼き殺された人は!!?俺の……村にいた頃に価値があるのかよ……!」
グランマは、ここに来て初めて微笑んだ。
「然りだ。その過程を得なかった貴方は、果たして貴方と言えるのかな?もしかすれば、クリフ君とも馴染めなかったも知れないんだよ」
その言葉が引き金に、チペワに取り込まれた時の事を思い出していた。
自分が上書きされるような、心地よさの中にあった根源的な恐怖を。
そしてクリフの言葉を思い出した。
__痛みも俺の一部だと。
「……っ」
やはり、この人は俺の苦悩を、痛みを受け止めてくれている。
チペワで濁していたそれらが膿のように絞り出され、喉の奥から込み上げていた。
「君がチペワに疑問を持っているのならば、一つ例えをしようじゃないか。私の趣向が混じるけれど、構わないかな?」
「お願いだ……話して、欲しい」
「あなたが望むのは本当に、角の落ちたクリフ君かな?」
随分と切り込んだ内容だった。
「ああ……チペワと一つになれば、あの人の痛みだって、消してあげられる」
「……確かに、一つになればあの子は変わるだろうね」
彼女はクリフの姿を眺める。
まだ散歩を続けており、徐々にこちらに近づいて来ていた。
「些細な事で罵詈雑言を飛ばさないだろう。カード遊びで不正を働くことも無い、強い酒をあおり、大きな声で笑って惰眠を貪る事も無いだろう」
そう呟く彼女の眼差しは、何処か寂しげだった。
「……そして、眠るシルヴィアちゃんに内緒で、涙するあなたに、甘いハチミツを溶かした湯をくれないかな」
洞窟での記憶が蘇り、頬には一筋の涙が滴っていた。
確かにあの時俺はチペワで家族を失った事を嘆き、涙していた。
そして、彼からの温もりを、確かに感じていた。
「結論は出たかな?そも、君の答えは最初から決まっているんじゃないかな」
彼女の顔から表情が失せる。
しかしその語気はどこまでも優しかった。
「……ああ、そうだったのかも」
「他者の言葉で揺らぐ程、貴方の心は脆くはないさ」
彼女は俺の胸を軽く押した。
「従うと良い、君の心の思うままに」
軽くよろめき、一歩下がった瞬間、グランマの姿が突然消えた。
「ああ……分かったよ」
遠くに見えるクリフの背を眺め、呟いた。




