90話「教示」
竜神達を祀るストリクト教。
亜人の国家の中で最も大規模な国家であるセジェスでは、主神ルナブラムを信奉するアプリカーレという宗派が主流となっている。
その背景には、彼女が主神であるが故の人気もあったが、ベルナールの存在が非常に大きかった。
彼女から授けられた聖剣を手にし、戦場を自在に駆ける様は正に英雄であり、聖剣によって竜人の姿を模すことさえ出来た。
彼は名実共に神の使いだと崇められ、セジェスの慈悲深き盾として、そして人間を裁く影の剣として、絶対的な立場を手にしていた。
そして今、ベルナールはアプリカーレの聖堂内で登壇していた。
ナパルク邸に匹敵する程の威容を誇るその場所は、黒色の大理石で作られた石壁に、白黒のモザイク模様の床が敷かれていた。
壁や天井に貼られたステンドグラスには、陰竜ルナブラムの蛇にも似た姿が描かれていた。
石像、柱にも蛇の彫刻が彫り込まれており、住む芸術品とでも評すべき場所だった。
「……皆様。良く集まって下さいました」
日が暮れ始めているにも関わらず、聖堂内には、溢れんばかりの人が押し寄せ、席の最前列には、教皇やストリクトの重鎮が集まっていた。
その誰もが、黒の英雄の言葉に耳を傾けに来ていた。
ベルナールは深く息を吸い、考えていた言葉を、喉の奥に装填した。
「皆様もすでにご承知のことと存じますが、先日、セジェス市内においてアウレア人によって混乱が生じました」
ベルナールは笑顔を張り付け、クリフと応対した時とは別人かと疑うような口調で喋り始めた。
「その者はクリフ・シェパードと申します。彼はヴィリングからの賓客を名乗り、果てには……ルナブラム様の弟君を自称していました」
その場の空気がざわつき、聴衆から怒りにも似た眼差しを彼は感じ取った。
「皆様のご憤慨、至極ごもっともでしょう。彼はいまだナパルク邸に潜み、我々に害をなそうと機を窺っている状態です」
ベルナールは、話し方に少し熱を入れ、聴衆達の怒りを焚きつける。
「我々が決して彼を赦すべきではない理由は、明白でございます」
天井のステンドグラスを見上げ、竜人の姿をした彼女の絵を眺める。
細部に違いこそあれど、彼女の姿は彼の記憶の中で、今も変わらず焼き付いていた。
「なぜなら、あの日、ルナブラム様は私に天命を賜りました」
目を輝かせ、かつての記憶を想起する。
神との出会いは、彼の心に今も尚情熱を与え続けていた。
「すなわち、人類を打ち破り__」
「__親愛なる者を守れ。だったかな?」
ベルナールの言葉を、金髪の男が遮った。
それに聴衆が一斉に振り返った。
青い瞳を持ったその姿はアウレア人に相違なく、彼がベルナールの話していたクリフという存在である事は疑いようが無かった。
「裁きを受けに来たのですか」
ベルナールは、沸き立つ怒りを必死に堪え、言葉を取り繕う。
しかし、クリフの瞳には暗い失意が宿っていた。
「ベル。あなたは誰に祈っているの?」
次に男から発せられたのは、透き通った声だった。
至上の楽器から奏でられる音色が人の心を震わせ、言葉を奪うように、今すぐに怒声を飛ばそうとしていた人々は押し黙った。
「……何だと」
ベルナールは、言葉にできない不安感を覚え、冷や汗が滴った。
雫が床に落ちた瞬間、陽が沈んだ。
蝋燭が消え、周囲が暗闇に包まれる。
僅かな間を置いて、蝋燭が一斉に点灯した。
聴衆達は光に照らされたクリフの姿を見た瞬間、即座に席を立ち、躊躇いなく平伏した。
その様は、砂浜を押す波に似ていて、彼女に道を譲るその様は、海が割れたようだった。
聖堂の入り口には、クリフと入れ替わったかのように、竜人の姿をしたルナブラムが立っていた。
彼女は尻尾を揺らしながら、開けられた道を進む。
その硬質な足音が響く度に、人々は恐怖で身体を震わせた。
「没収だよ。ベルナール」
彼女が演説台の前に立ち、指を弾いた瞬間、ベルナールの聖剣が砕け、黒い霧となって霧散した。
「……はっ」
ベルナールは僅かに動揺し、霧に手を伸ばすも我に返り、即座に平伏した。
「あなたは……あたしに仕えていない。あたしの拵えた鉄屑と、それが持つ権力に仕えている」
彼女の言葉の端には怒気が込められており、道を譲った聖職者達は、小刻みに震えていた。
「申し訳ございません……主よ」
彼は喉奥から絞り出したような声で呟いた。
その声は弱々しく、今にも泣き出してしまいそうだった。
「ベル。私の夫はね、神の思惑で始まった下らない戦争を終わらせたかったんだ」
彼女は、謝罪に言葉を返す事はなかった。
その身体から黒色の魔力が滲み出し、白黒の石で作られていた床が、黒一色に染まった。
聖堂の中の空気は鉛のように重く、その場にいた人々の肺を押し潰し、心臓を破裂させてしまいそうな程だった。
事実、気の弱い聴衆の幾人かは、平伏したまま失神してしまった。
「あなたは何をしてるの?過去のアウレア人みたいに人を殺して、炙って……果てには護れと命じた同胞を殺して……私の言葉すらも曲解して……何がしたいの?」
僅かに顔を上げたベルナールは、翡翠のように輝く彼女の瞳を見て、精神の限界を迎えてしまった。
「あ……あぁ……」
彼の黒髪が凄まじい勢いで白く染まり、歯を鳴らしていた。
「挙句にさ。ヴィリングから来たあたしの弟を殺そうとしたよね?ねぇベル、どうして?」
他でもない神がクリフが弟であると証言した瞬間、彼に悪感情を向けていた聴衆の幾人かが叫び、聖堂から走って逃げてしまった。
しかし、ルナブラムはそれに関心を示す事はなく、品定めするかのようにベルナールを凝視していた。
「あっ、あ、申し訳、申し訳ございません。この命を以って……お詫びを……」
ベルナールの目尻には涙が浮かんでおり、彼女を凝視する事を拒み続けた瞳が目を剥き始めていた。
『そう、やってごらんなさい』
ルナブラムの言葉に抑揚は無かった。
「は……」
次の瞬間、ベルナールは口を噤み、目を見開いた。
そして、苦悶の表情を浮かべたまま、何度も喉を鳴らしていた。
その光景に、思わず顔を上げた聴衆が顔を青くして見ていた。
「素晴らしいわベル。あたしを汚さないよう口を閉じて、血を飲んでるんだ」
彼女は、動物の見世物を見るような淡白さで、僅かに微笑んだ。
「……」
ベルナールもまた、主人が満足した事に微笑んだ後、その場で倒れた。
口から噛み切った舌がこぼれ落ち、口元から滴った僅かな血が、演説台から流れ落ちた。
「あなたの行いに免じましょうか」
彼女はそう言って人差し指を立てると、指先に漆黒の魔力が集まり始めた。
米粒程の大きさまで凝縮されたそれは、妖しい輝きを放ち、その場に居た全員の目線を奪った。
そして、彼女の指先から魔力が滴った。
夜をかき集めて作ったような雫が、ベルナールの亡骸に落ち、弾けた。
「起きなさい」
次の瞬間、壇上から滴っていた血が宙に浮き始め、まるで時間が巻き戻されるかのように彼の口元へと収められていった。
そしてまた、千切れた舌も彼の口の中に収められ、ベルナールの身体が糸で引っ張られるかのように起き上がった。
死んだ筈のベルナールの血色が元に戻り、何事も無かったかのように目を瞬かせた。
「……っ!?ルナブラム様!何を!!?」
彼もまた、その状況に困惑し、動揺していた。
「安息を奪ったのよ」
彼女は変わらず冷え切った眼差しでそう言った。
死は休息だと告げる彼女に、ベルナールは戦慄し、しかし覚悟を固めた。
「これは慈悲ではないわ。ただ、あなたの行動を見て、贖罪の機会を用意しただけ。良いかしら?」
「……はっ」
ベルナールは片膝を着いて目を伏せ、啓示を待った。
「この都市の近郊にある全ての村を、己が身と鍬一つで豊かにして見せなさい。贖罪の間、村人からの施し以外のものを口にする事は許しません」
聴衆達は耳を疑う。
彼女は、飢餓に苦しみ、食人にさえ手を出す彼らの元に、護身具ひとつ持たずに行けと言ったのだ。
それは、事実上の死刑宣告に等しいものだった。
「……今度こそ、必ずや御身の御心のままに」
ベルナールは片手を上げ、手の平を彼女に向けた。
その様は、騎士の宣誓にも似ていた。
ルナブラムが彼の手の平に触れると、小さな黒い光が弾けた。
宗教画の一枚を切り抜いたかのような場面を目にした聴衆は、気が付けば涙を流していた。
「行きなさい。あなたの旅路の果てに、安息と救いがあらんことを」
ルナブラムは薄く微笑み、慈愛に満ちた眼差しでベルナールを見下ろした。
その光景を前に、ベルナールは一筋の涙を流した。
◆
フランドラ邸は、厚い石壁に覆われている。
セジェスの評議員には敵が多く、不慮の事故は珍しくない。
その為、多くの評議員を招くフランドラ家では、彼らを安心させる為の壁と警備が必要だった。
虫一匹すら通さない程の厳重な警備が敷かれており、正門には20を越える憲兵が待機していた。
そして今、城壁としても使える程の厚みを持った扉がへし曲がり、大きな孔が空いていた。
待機していた筈の憲兵達は皆、地面に倒れ、意識を刈り取られていた。
そんな最中、フランドラ家の庭をアンセルムは歩いていた。
戦闘の跡さえ残す事なく、身に付けた衣服にはシワ一つ無かった。
彼はゆったりとした歩調で庭を抜け、評議員達が宴を開いている、フランドラ邸の正面に立った。
つい先程まで飲んで騒いでいた筈の評議員達は、アンセルムに気が付くと、水を打ったように静まった。
「急な来訪、すまないね。セザール殿を尋ねに来たのだが、彼は今何処に居るかな?」
アンセルムは作り笑いを浮かべながら、評議員達に尋ねる。
彼らは仲間同士で耳打ちをし始め、憲兵達が来ない事に文句を言い始めた。
そんな彼らの態度に、アンセルムがため息を吐いた時、評議員の中から一人の男が割って出てきた。
「フランシス。元気だったかな」
アンセルムは、目の前の男を見た瞬間に笑みが消え、氷のように冷え切った眼差しを送った。
「エレネアは何処だ?」
フランシスは、血走った目でアンセルムを睨んでいた。
「家族でもない君に、大切な孫の居場所は教えられないね。セザールは何処かな?」
「彼女は私の娘だ!!!」
彼は突然叫び、右手に水色の魔力を纏わせながら飛び掛かった。
だが次の瞬間、アンセルムは目を見開き、フランシスの頬を思い切り殴った。
彼の身体は地面に勢いよく倒れ、激突した頭が石畳を砕いた。
「貴様のような男が親を騙るな!!」
アンセルムは怒声を上げ、怒りの形相で我が子を見下ろした。
彼の指先から魔力が滲み、その瞳には殺意が宿っていた。
しかし、ため息を吐いて首を振ると、再びいつもの作り笑いを浮かべ直した。
「さて……セザール殿は何処ですかな?」
評議員達はその光景にたじろぎ、後退りした。
責任を擦り合うように互いの顔を見合わせては、返事を出来ずに居た。
「ここに。お久しいですな、アンセルム殿」
人混みをかき分け、小太りのエルフが片手を挙げて前に出た。
続いて現れた憲兵達が、アンセルムをゆっくりと取り囲んだ。
しかし、彼の表情に焦りの色はなく、とても落ち着いた面持ちだった。
それは彼が楽天家だからではない。
ひとえに、その程度の戦力ならば単独で制圧できるという絶対的な自負から来るものだった。
「これはセザール殿。そちらから出迎えて頂けるとは、感謝いたします」
対するセザールは、冷や汗を流していた。
彼がひと声掛ければ来る筈の、ナトが居なかったからだ。
主の心境を察してか、憲兵達もまた力み、腰に提げたボルトガンに手が掛かっていた。
「アンセルム殿もご壮健なようで何よりです。本日は如何用でしょうか?」
セザールは白々しく返事をすると、アンセルムは空を指差した。
「少し話をと思いましてな」
次の瞬間、二人の足元に円状の亀裂が入った。
憲兵達がボルトガンを引き抜き、躊躇いなくアンセルムに発砲した。
彼は、それらを目で追い、咄嗟に両腕を広げた。
〈__作糸〉
指先から多数の糸が弾き出され、繭を作るかのように二人を取り囲む。
忙しなく蠢く糸が、無数の矢を絡め取り、その勢いを完全に殺した。
亀裂が拡大し、二人を持ち上げる形で、巨大な樹が地面を割りながら出現した。
憲兵や評議員達を押し退けながら成長した樹は、屋敷を軽々と追い越し、街を一望できる高さにまで伸びた。
「さて、これで邪魔は来ないね。セザール」
アンセルムは肩の力を抜き、地面と一緒に持ち上げられた椅子に腰掛けた。
「敵いませんね……しかし、ご心配なく。もうこれ以上あなたを襲う事はありませんよ」
セザールは苦笑し、向かい側にあった椅子に腰掛けた。
「断念するのならば、最初から諦めて欲しかったね」
アンセルムもまた、少し砕けた口調で、掠れた笑いをこぼした。
それは、敵対する二つの名家の家長としてではなく、古い友人との会話だった。
「彼から協力を切られたのですよ。事実、精鋭はみなやられてしまいましたから。我々は不採用ですな」
セザールは掠れた笑いをこぼし、空を見上げた。
暫くの沈黙が続いた後、彼はアンセルムに向き直った。
「まだ……戦われるおつもりなのですか?」
それは、懇願にも近しいものだった。
眉を落とし、相手に慈悲を願うかのようなその面持ちは、政治家が、ましてや一族の当主がすべきものではなかった。
「私は変わらず頑固でね。効率が悪いと分かっていても、仮に実現が困難なのだとしても……立ち止まる事なんて出来ないんだ」
アンセルムは目を逸らすことなく、真っ直ぐな眼差しで彼を見つめた。
セザールは堪らず目を逸らし、視線を落とした。
「ええ……存じています。だからこそ私は、そんなあなたを敬い、惹かれたのです……はは、矛盾している」
「だがそれは、人の美徳だよ……なあセザール、私はじき死ぬ気がするんだ」
アンセルムは、感傷的に呟いた。
「らしくありませんね。根拠はあるのですか?」
「軍人時代に身に付いた、勘だよ」
彼は冗談めかして笑う。
しかし、目は笑っていなかった。それは、死地へと向かう軍人の眼差しと似ていた。
「エレネアはどうするので?いざとなれば、私が直接引き取りますが」
アンセルムは首を振った。
「彼女にナパルク家を引き渡そうと思う。君達が預かっているフランシスと、その正室の子が、ナパルク家に戻る事を引き留めて欲しい」
「手間は掛かりますが……良いでしょう。あなたの家を、その思想を腐らせるのは忍びない」
「そういった意味では、彼女は君の期待には添えないだろうね」
アンセルムは手を組む。
「意志を継ぐわけではないと?」
「……彼女は、滅びゆくこの国が産み出した安全弁だよ」
アンセルムは重々しく告げ、セザールは息を飲んだ。
「私が死んだ直後に、彼女はこの国を立て直す為に動くだろう。多くの者を拾い、そして粛清し、瞬く間に国を作り直す筈だ。そう、父祖キャブジョットのように」
「彼女が、救国の英傑だと?」
アンセルムは瞑目し、足を組んだ。
「強いて言うなら、庭師だよ。彼女に愛国心は無い。だからこそ、誰よりも確実に成し遂げてくれる筈だ」
「……信じて良いので?」
「多くの血は流れるがね。農奴階級は消え、最終的には多くの人が救われるだろう。なに、有能な者は君たちの派閥からでも引き抜かれる筈だ。不安ならば、彼女から取り合ってみると良い」
淡々と話すアンセルムを見て、セザールの表情が引き締まった。
「ええ……その時が来ればですが」
彼はそう呟いて、青空を見上げた。




