86話「銀の弾丸」
姉の手を引きながら、日が暮れ始めた森の中を進んでいた。
細く尖った枝葉によって、脚には多くの生傷ができ、ぬかるんだ地面を踏み締める度に、穴の空いた皮靴に泥が侵入し、足枷のように足取りを重くしていた。
「マリィ……」
姉が弱々しく私の名前を呼ぶ。
顔色はとても悪く、彼女が休みたがっている事は分かっていた。
「だめ。立ち止まったら……助からない」
そう言って強く姉の手を引く。
ぬるく湿った空気は鉛のように重く、吸い込む度に身体が重くなっていく気がした。
そんな折、草木が揺れた。
姉がひきつった悲鳴を上げた。
その時、茂みから一頭の狼が現れた。
狼もまた痩せ細っており、腹部には軽い裂創があった。
血走った目からは、彼にはもう後が無い事を表していた。
多量の涎を滴らせながら、瞳孔が縮んでいた。
両親を殺した時に使った手斧を握り締め、私もまた狼を睨んだ。
「お前が……死ね」
互いに飛び掛かろうとしたその時、姉が大声を上げて泣き喚き始めた。
「……っ!??」
一瞬気が揺らぐも、それは狼も同じだった。
狼の牙よりも先に、斧の刃が彼の首に突き刺さる。
気持ち悪い手応えを感じたのも束の間、狼の勢いは止まらず、私を押し倒した。
迫る顎を両手で受け止め、押し合いになる。
涎と血の混ざったものが降り掛かり、目に侵入した。
視界が赤くなり、目が染みる。
しかし、抑えた手だけは絶対に離さなかった。
割れそうな程に歯を食い縛り、渾身の力で押し返す。
しかし、獣の力に勝てる筈が無かった。
「あ……」
手が滑り、狼の牙が勢い良く喉元に迫る。
思わず目を瞑り、これまでの記憶が走馬灯として流れる。
暴力を振るわれた記憶。耐え難い空腹に苦しんだ記憶。寒い倉庫の中で、姉と肌を寄せ合って耐え忍んだ記憶。
そのどれも、碌なものでは無かった。
「嫌だぁっ……!!」
思わず、情けない声がこぼれた。
それと同時に乾いた炸裂音が響き、顔に液体が降り注いだ。
「……え?」
瞼を開くと、狼の側頭部に深々と矢が突き刺さっていた。
体を痙攣させた後に狼が倒れ、のし掛かった。
「なに……?」
狼の遺体を押しのけ、上体を起こす。
眼前には、ボルトガンを握り締めた大男が立っていた。
「何処から来た」
軽蔑し、汚物を見るような眼差しで私達を見下ろしていた。
「えっと……」
家から滅多に出されなかった私には、彼が満足する答えを用意できる程の語彙がなかった
「ベルクレールから来ました」
男が顔を顰め、ボルトガンが僅かに持ち上がったその時、姉が口を開いた。
「ふむ」
男は意外そうに片眉を上げ、姉を値踏みするように眺めていた。
「私達は……ハイエルフみたいです……それで、お父さんとお母さんに叩かれて……逃げてきました」
そう言って姉は両手を前に出し、手のひらから水色の魔力を滲ませた。
それを見た男は目の色を変え、ボルトガンを腰に提げ、片膝を付いた。
「……乱暴な態度を取ってすまなかったな」
彼は柔和に微笑むと、立ち上がり東を指差した。
「歩けるか?近くに私の家がある。そこでひと晩休んだら、街に行けるよう手配しよう」
一転した態度に戸惑っていた所を、姉に手を引かれた。
「うん……行きます」
「両親には私が話を付けておこう。もう、怯える事はない」
彼は姉の手を取り、優しげにそう言った。
しかし、私は言葉に詰まった。
「……二人は、私がっ、私が殺したんだ。殺されそうになったから……ウェンディは関係ないんだ……」
男は少し名目した後、しゃがみ込み、私に手を伸ばした。
言葉にできない恐怖を感じ、震えながら目を瞑った。
しかし、彼の手はそっと私の肩に置かれた。
「そうか……姉を守ったんだな。よくやった……!」
彼が送った言葉は、非難ではなく賞賛だった。笑みを浮かべる彼を見て、私の情緒がぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。
「……え?」
「君たちハイエルフの身に万が一の事があれば、祖国にとって大きな損失になってしまう……君達が無事で、本当に良かった……」
彼は、心の底から安堵したように、声を震わせて言った。
「……良い機会だ。苗字を貰うついでに、名前も変えよう。農村から来ただけで、差別する者も居るからね」
この日から、私はマレーナになった。殺人を咎められず、名前すら変わった事で、マリィという人物が、削り取られてしまった気がした。
◆
「……はっ……あ」
再び人を殺した。
目の前で横たわるアウレア人の頭には斧が深々と突き刺さり、事切れていた。
今度は狭い家屋の中ではなく、広大な戦場の中でだ。
ボルトガンの風切り音が消え、勝利を知らせるラッパの音が響き渡った。
私は殺した相手の胸を踏み、斧を引き抜いた。
強敵だった。そして何よりも、恐ろしかった。
こんな事はやめにしよう。そう考えた矢先に、仲間たちが私の元に駆け寄って来た。
「マレーナ!!生きてたか!」
先頭を走っていた男は、裏表のない笑みを浮かべ、私の生存を喜んでくれていた。
「ああ……なんとかな」
震える手を隠すように後ろに手を組み、作り笑いを浮かべる。
「私っ……こんな事は」
仲間の一人が横切り、私が殺した相手を見て驚いた。
「マレーナ!あなた勇者を倒したの!?」
女性の兵士がそう声に出すと、他の戦友達も私を横切っては、死体を確かめに向かった。
「本当だ、マジかよ……!」
「大手柄だぞ、英雄だな!!」
次々と称賛の言葉を投げられ続けられた。
私は、人を殺した筈なのに。
その時、私の中で何かが壊れた。
両親を手に掛けたあの日の記憶が濁り、眩しい程の肯定と称賛がそれを覆い隠した。
誰にも褒められて来なかった筈の私が、褒めて貰えた。
だからこそだった。
だからこそ、それを否定されるのは嫌だった。
「やり過ぎだよ、マレーナ」
冒険者を始めて間もない頃の最初の相棒は、すぐに私を非難した。
「盗賊の捕縛が依頼だろ!?何してる?」
その次のパートナーは、私の行いを否定した。
「悪いけど、もうお前とは組めない。ギルドにはもう話はつけてある」
そして……もう何人目かも分からない相棒にも、愛想を尽かされて逃げられた。
意識が劇場へと戻り、目の前に立つクリフを鋭く睨む。
「お前も、私を否定するのか……!!」
彼は瞑目し、大きく息を吐いた。
「ああ……殺す事を目的にしてるような奴を、俺は絶対に認めない」
心臓の鼓動が早まり、呼吸が乱れる。
信じていたのに。
私の根っこを知っても、側に居てくれると信じていたのに。
クリフだけは……私を否定した奴らとは、違うと思っていたのに。
「ならっ、だったらお前だって殺す相手にしてやるっ!!」
大剣を彼に向けた。
支離滅裂な事を言っている自覚はあった。
だがもう引き下がれなかった。私は、脅してでも肯定が欲しかった。
しかし、彼は眉ひとつ動かしていなかった。
「そんなに殺してえならやってみせろよ!ビビりのてめぇに出来るならな!!」
次の瞬間、彼は怒りの形相を浮かべた。
私は、それに気押されて剣を振り上げた。
「……後悔するなよ」
攻撃の軌道を変え、彼の横腹目掛けて薙ぎ払う。
しかし、彼は一切回避することなく、そのまま身体で受け止めていた。
クリフを両断する光景を思い浮かべ、私は手を止めてしまった。
しかし、慣性そのものを止める事が出来ず、彼の左腕を切断し、脇腹に浅く大剣が刺さってしまう。
「あ……っ」
彼の腕が床に落ち、噴水のように多量の血が溢れ出した。
しかし、彼は汗一つ流す事なく、冷ややかな眼差しで私を見つめていた。
「どうした?笑えよ。楽しいだろ?」
情緒の失せた、凍りつくような声音で彼は言った。
手が激しく震え始め、呼吸が激しく乱れ始める。涙腺が綻び、今にも涙が溢れ出そうだった。
思わず一歩引き下がった時に、あの声が聞こえた。
『お願い、やめて。マリィ……!!』
真っ白になった頭の中で、母を殺した時の記憶が蘇る。
「うわっ、わああぁぁっ!!」
目眩がする中、あの日をなぞるように武器を振り上げ、クリフに振り下ろした。
クリフは、やはり避けなかった。
彼の肩から腰に掛けて大剣が通過し、その身体を寸断した。
彼の上半身が滑り落ち、床に飛び散る。
その光景に、ポチが慌てて駆け寄るも、何も出来ずにうなだれていた。
「あ……あぁっ……」
大剣を床に落とし、掻きむしるかのように自身の頬に触れ、その場にへたり込む。
息が出来ない。
そうだ私は、殺したかったんじゃない。
褒めて欲しかった訳でもない。
そう、最初は……
「止めて……欲しかったんだ……」
その場で倒れ、大粒の涙が溢れ出た。
クリフとの思い出にヒビが入り、親しかった者たちの記憶に穴が空き始めた。
生きる気力が、欠けた気がした。
「……」
腰に常備していたナイフに手を伸ばしかけたその時、視界に金色の魔力が漂っていた。
「え」
砂金のようなそれに目を奪われた時、近くで気配を感じた。
「……だったら最初からそう言えよ」
聞き慣れた声に顔を上げ、身体を起こすと、殺した筈のクリフが立っていた。
切断した筈の腹部は痕すら残さず治癒しており、真っ黒だった彼の黒髪が黄金の光を帯び、瞳は澄んだ湖面の如き輝きを放っていた。
意味が分からなかった。
とても、理解の及ばない状況だった。
「ほら、剣を取れよ。スッキリするまでやり合おう」
震える手で大剣を取り、立ち上がる。
「殺すかもしれないんだぞ……」
「そうなったら絶対に止めてやるよ」
彼は得意げに微笑み、剣を構えた。
あの日ぐちゃぐちゃになったままの心が、少しずつ解け、形を取り戻している気がした。
きっと、これは夢だ。過ちを悔いた私が現実から逃げる為に見た、都合の良い現実逃避なのだろう。
「ありがとうクリフ」
だからどうか、夢から醒めないで。




